天海照子は明治三十九年、関西のとある名家の長女として生を受けた。
何不自由ない環境で育つも、女学校を出て数年で実家から独立。自ら働き稼いだ僅かな資金を元に事業を興し、弱冠三十歳にして男兄弟の誰にも引けを取らない財を成した女傑である。
彼女はそうして手にした財を用いて孤児院を開き、多くの恵まれない子供を救おうと考えていた。
照子は大の子供好きであったが――幼い頃の大病が原因で、一生子の望めない身体であった。
彼女は一生出逢うことのない我が子の代わりに、天涯孤独の子供たちに愛情を注ぎ、立派に育て上げることを自らの使命と思い、それを成そうとした。血縁・地縁から孤立し、物盗りか身売りになるしかない子供たちを一人でも多く日の当たる道へと戻そうとした。
だが彼女の志は激化した戦争の時代に文字通り燃え尽きた。やっと建てた孤児院も、彼女自身すらも燃やし尽くして。
それが丁丙が一月半で調べた天海照子という人物の一生である。無論記録に残らないドラマも多々あったことであろうが、客観的に見た彼女の物語は六十年以上前に終わりを迎えている。
しかし、である。
その記録に残らないドラマの中に、彼は居たのだ。
曲月嘉乃。彼と照子が出会ったのは、彼女が孤児院を開いたばかりの昭和十二年、世間が当時で云うところの『日華事変』にざわついていた時分である。
当時まだ人の世の草の根の中で暮らしていた嘉乃は、とある都市の駅の近くで傘直しや汚物処理などの日雇いをして暮らしていたが、その暮らし向きは決して良いとは言えなかった。
そのような境遇の者は決して嘉乃一人ではなかったが、嘉乃の周囲の、極めて貧しいものの未だ戸籍制の内に在る少年たちは、世間の気風を見ていよいよ功名出世の機会が来るのではと湧き立っていた。
そんな周囲との考え方のすれ違いを日に日に強く覚えるようになった頃、嘉乃と照子は出会った。
はじめはただの孤児と思われて孤児院まで連れてこられた嘉乃は、様々な施しと汚れ仕事ではない日課仕事を与えられたことに感激するが、次第に己の出自を隠してこの暮らしを享受することへの罪悪感を覚え始める。
――成長しないことは年月が経てばやがて気づかれるだろう。そうでなくとも、以前の自分を知る者が現れれば、子や孫という言い訳では誤魔化しきれないときが必ず来る。人でないとわかったら拒絶されるのではないか? 仮に誤魔化し通せたとしても、人間と同じ時間を生きて老い死ぬことの出来ない自分ではまともに恩返しができないかもしれない。恩恵を受けるだけ受けてなにも返せないのは騙していることにはならないのか?
どうしよう。どうしよう――嘉乃の葛藤は半年続いた。そしてその半年の末に、彼は己の秘密を照子に打ち明けたのである。
拒絶し突き放されるのは苦手であったが、今ならまだあの汚泥を啜るような暮らしに戻って行ける。そう思っての告白だった。
しかし照子は嘉乃の秘密を受け止め、改めて嘉乃を受け入れた。
「長い時間を生きていると言うのなら、その知恵で私を助けてくださいな。どんなに苦労を重ねて来たとしても、所詮私も名家のお嬢。子供たちが見て来た辛い現実を理解しようとはできるけれど、本当の意味では理解できていないかもしれない。だからどうか、私の力になってくださいまし」
照子は関西訛りの入った言葉でそう言って笑って、嘉乃はそのときから施されるだけのお客様ではなくなった。背筋を伸ばして、堂々として、自分はそういうものだと胸を張って、照子の人生の終わりのときまで、彼女の夢を支え守って行こうと決意した。
だが、それは短い夢だった。
彼らの夢の外側で始まった無謀な戦争で国防圏は崩壊し、孤児院のある街も空襲を受けて炎に飲まれた。
燃え盛る炎の音、大勢の悲鳴と逃げ場を求めて右往左往する足音、鳴り響く警報、半鐘、崩壊する木造建築物。
炎上する建物の中に孤児院はあった。戦局と連動するように孤児院経営も逼迫したものとなっていたが、「まだ売りに出せば足しになるかもしれないものが隠してある」と、照子は子供たちを逃がした後で孤児院の中へと駆け戻って行ったのだ。
建物が助からないのは目に見えていた。けれども彼女は孤児院の未来を諦めていなかった。
「駄目だ、今戻ったら……行かないでくれ!」
引き留める嘉乃に照子は一度だけ立ち止まって言う。
「私が戻らなかったら、そのときは嘉乃が子供たちを守ってなあ」
ニコリと笑って走り出す彼女を嘉乃は追うが、彼女が廊下に入った所で玄関の崩壊が始まり、嘉乃の行く手を塞いだ。
嘉乃は燃え落ちる瓦礫に走り寄り、傷付き火傷しながらもそれを除けようとした。そんな彼を通りすがりの男が羽交い絞めにして、「何してるんだ」と止める。
「中に人がいるんだ、助けないと!」
「なんだと? ……だめだ、この建物はもう持たねえ、あんたまで死んじまう!」
「かまうものか行かせてくれ! 照子がまだ中にいるんだ!」
そうしている間にも延焼が広がり、嘉乃の行く手を瓦礫以上に炎が阻む。
お人好しな男に抱え上げられ建物から離されながら、嘉乃は照子の名を叫び続けた。
建物から逃れた孤児院の子供たちや雇われの大人たちは、その様子を呆然としながらずっと見つめていた。
天海照子は終ぞ戻ってくることはなかった。
孤児院は見るも無残に焼け落ち、何日かしてその燃え滓のような残骸の下から『かつて人間であったであろうもの』が掘り起こされた。
多くの者が目を背けたそれを抱き、嘉乃は泣いた。意味のある言葉は咽喉に詰まって出てこなかった。引き攣った、なにかの発作のような呻き声を上げて。彼は涙が枯れるまで泣き続けた。
天海照子は死んだのだ。終戦の僅か数ヶ月前のことだった。
だが、崩壊の始まりは寧ろその後にあった。
葬式すらまともに上げることのできない崩壊した街で、彼女の遺体をとりあえず骨にしてやりあり合わせのような壺に納めた頃。孤児院の雇われの大人や子供たちは、照子が持ち出そうとしていた、供出の対象とならなかった宝石類を焼け跡から掘り起こしては、醜い奪い合いをするようになっていた。
――今でこそ。宝石を持っていても腹の足しになりはしないし、まともに買い取ってくれるところもないだろう。けれども生き残ることができれば。この戦争に勝っても負けても、生き残ることができたなら。この小さな石が生きる為の礎となってくれるはず。照子はそう信じて宝石類をずっと手放さず、盗まれないようあちこちに隠して守っていた。
……だから。彼女が護ろうとしていた彼らの手にそれが渡ることは、決して間違いではないのだろう。
だが。この光景はなんだ。
嘉乃は骨壺を抱え、目の前に広がる光景を呆然と見つめた。
いい大人が子供相手にむきになって、殴る蹴るをして痛めつけ、小さな石ころを奪う。子供たちも子供たちで、少しでも体が大きく強い者が小さく弱い者から奪い取り、踏み躙る。
それは嘉乃もよく知っているはずの光景だった。汚泥を啜るような生活をしていた頃は、似たようなものはいくらでも目にしてきたはずだった。
――けれども。ついこの間まで手を取り合って生きていこうとしていたはずの者たちのそんな姿を見て、嘉乃は思う。
優しさも。思いやりも。教えも。結局は奪い争ってでも生きようとする本能の前にはちっとも意味を成さないものじゃないか。
「……やめろよ! 誰も照子を救わなかったじゃないか! 救おうともしなかったじゃないか! それが仕方なかったのなら、せめて彼女の教えた通り、醜くないよう生きるべきじゃないのか!? ……そうでなければヒトもケダモノも、結局は同じじゃないか! そうだろう!?」
嘉乃は叫ぶも、誰も彼の言葉を聞き入れやしない。
彼はいよいよ落胆する他なかった。一人ふらり震えるぎこちない足取りで歩き出し、照子に頼まれた子供らを見捨てて街を去った。行く宛てなど知らず歩き続け――そうしてあの日あの街で、あの破滅的な光を見た。
ああ、この国の中であろうが外であろうが。自分たちがよければなんでもいいんだな。
こんな、どうでもいいものだったんだ。僕たち一人一人の暮らしや命は。
人間も結局故郷の姉たちや山神と一緒で、その上辺り一面一瞬で焼き滅ぼす力まで持ってる。……本当にどうしようもない。
嘉乃の心はそのときはっきり決まっていた。後は迷っていただけだ。自分になにがどこまで出来るか、それを知らなかったということもある。
一年後、草萼火遠に出会って、語り合い、傷を舐めあい、失望した後で。嘉乃は己に何が出来るかを知ろうとした。人間としてなら不十分な自分が、妖怪として何ができるのか知ろうとした。
すべては――失われた"彼女"の夢に報いる為。彼女に出来なかったことを成すため。全てを持ちながら何もしない草萼火遠に代わって、いつか自分がそれを成す為に。
そうして新たに歩き出した旅路で、彼は失った"彼女"に代わる新たな【彼女】と出会った。
闇の魚。"影の魔"。ずっと誰もの一番側にいて、けれども誰もその存在を大して気にもしない、寂しい存在。寂しさを埋めるように、光以外のなんにでもなれる存在に――
「――なんで天海照子がここに。……いや。"影の魔"が天海照子の形を創り出したのか?」
"影の魔"の中心地でそれと邂逅した火遠は、暫くどうしてという疑問を浮かべた後で、自らその解を導き出しつつあった。
彼には夢の記憶がある。そこに丙の情報を加えれば、真相らしきものを推理することくらいはできる。嘉乃がしようとしていることの真の意味を想像することくらいは。
嘉乃は失った照子が成せなかった願いを本気で叶える気でいる。歪な形になっているが、子を成せなかった照子の代わりに世界中の全てを照子の形をしたものの子へと変え、今度こそ格差もなく思いやりのある世界を創り出すために……そのためになら鬼にでも悪魔にでももなる覚悟でここに居る。
火遠がそれを悟った時、遥か下方で何かが爆ぜる音がした。そして火遠がその音の正体や意味を考え出すより早く、彼目がけて怨嗟の声が響き渡るのだった。
「人の過去にぃッ! 土足で踏み入ったなぁッ!!」
「嘉乃……!」
怒りに歪んだ表情で飛び向かってくる嘉乃を見て、火遠は漸く結界が破られたのだと気付く。
影の魔の一部を纏っていた嘉乃は、あの結界の中で火遠が"影の魔"の中の【彼女】に接触したことに気付き、同時に簡単に他者に踏み入られてはならない過去に触れられたことを悟ったのだろう。そしてその怒りのままに結界を破壊し、美術部らに目もくれぬままにここまで飛んできたのだ。
(きっと、恐らくは)
火遠は己の中に生きている乙瓜との契約と、【星】の力による感知を信じた。自分が不在のままに嘉乃が結界を抜け出す可能性については危惧していたが、封印の要である美術部ではなく真っ直ぐ自分の方へ向かって来たなら都合がいい。
火遠は嘉乃に迎え撃つために崩魔刀と護符を構え――――一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、躊躇した。
嘉乃の過去を夢に見たが為に。
推測できてしまったが為に。
もしかしたら、まだこの期に及んで説得は可能なのではないか。そう思ってしまったが為に。
一秒に満たないその時間。火遠が攻撃と防御、全ての行動に後れを出した、その躊躇いの隙を突いて。
曲月嘉乃の葬魔槍は。火遠の左胸を無情に容赦なく躊躇いなく、勢いのままに貫いた。
「死ね。死に滅びろ。無神経な勝利者め……!」
嘉乃が憎しみを込めて刺し貫いた火遠の向こうで、天海照子の形をしたものが閉じた瞳を静かに開かせた。
同じ頃、美術部の戦いは劣勢を極めていた。
数では圧倒的に勝っているはずなのに、体術・武術に秀で、且つ忍術のようなものまで駆使する仮面の二人組を前に、美術部ははっきりと追い詰められていた。
大霊道の底の者を抑えねばならない深世も戦闘に加わる羽目になり、結界・壁役の二人が戦闘に集中しなければならなかったことで嘉乃を抑えていた結界もまた破られてしまった。
「なんで空の上だってのに自在に動いてられるのさ! もっとあっち行けし!」
長期の接近戦ではっきり不利になる杏虎は雨月張弓をボウガンの形に変えて辛うじて応戦しつつ、けれども攻撃の全く当たらない相手に対してはっきりと焦りを感じていた。
もう皆既食までの時間がない、嘉乃に結界を脱された、追いかけて再び捕縛しようにもこの二人をどうにかしない限り近づけない。
(こっちは後衛だっての!)
杏虎は殆ど瞬間移動のようにあっちへ出ては消えこっちへ出ては消えと翻弄する相手に舌打ちした。対する『ヒ』の字の仮面の男もまた弓、その上短弓よりも接近戦に不利な長弓を持っているというのに、前衛後衛なんて役割をかなぐり捨てて接近戦を挑んでくるなんて反則もいいところだと、そう思っていた。
けれども『ヒ』の字の仮面の男・『左の御方』はそんな杏虎の気持ちなど汲んではくれないし、一切手加減する様子もない。
「杏虎!」
救援とばかりに割って入ってくる深世の攻撃をあっさりと避け、次の攻撃が来る前に接近し、鳩尾に掌底を叩きこむ。
「ッ」
「……さしもの鎧もこの辺りが強度の限界のようだな」
『左の御方』は何の感慨もなさそうにそう言って、今度こそ気絶した深世から離れた。
直後、彼の居なくなった空間を青い矢が虚しく駆け抜ける。矢を放った杏虎は再び躍起になって『左の御方』を捜すが、彼女の目が次に捉えた先で、彼は深世の救援に向かった眞虚を、深世と同じく落してしまっている。
「なッ…………んで」
「眞虚ちゃん!! ……くそが!」
唯一の回復役である眞虚が崩れ落ちるのを見て、遊嬉は、しかし今己に迫りつつある『ミ』の字の男から目を離すわけにはいかない。
紅蓮赫灼と事割剣で彼の杖剣を受け止め、しかしここから動けないなら、せめて、ならばと声を上げる。
「魔鬼! 乙瓜! 今ァ!」
遊嬉がそう叫ぶと同時、『ミ』の字、即ち右の御方の左右後方からボロボロになった乙瓜と魔鬼が飛び出す。
「逆巻く竜巻!」
「退魔護符乱射・流星!」
「「合わさり巻き込み抑えつけろ! 流星改・大暴風」」
二人の護符と魔法の技がぴたりと重なり、気流を大きく渦巻かせて『ミ』の字の男・『右の御方』と、それを捕える遊嬉へと向かう。
遊嬉は地を踏む必要のない脚で男の体に絡み付くも、『右の御方』はその拘束をあっさりと逃れ、結果として護符の暴風は遊嬉一人へと向かう。
「「遊嬉!」」
魔鬼と乙瓜は同時に声を上げた。けれども全ては後の祭りで、やはり呪術的拘束を当てなければ相手の動きは封じられないのだと悟る。しかし悟った直後、魔鬼の後方に現れた『右の御方』が彼女の後頭部に当て身を喰らわせる。
そうしてあっさりと落ちた魔鬼を一瞥もせず、『右の御方』の仮面の向こうの目は乙瓜を捕えた。
「残り二人…………いや、一人か」
「は……? えっ」
乙瓜が間抜けな声を上げて辺りを見回すと、杏虎が『左の御方』に制圧される場面が見えた。……つまりそういうことだった。
「……呆気ないものだな。貴様らの覚悟はそんなものか」
『右の御方』が冷徹に言う。乙瓜は殆ど反射的に「黙れ」と叫び、けれども仲間もいない以上、そして相手が規格外の戦士である以上、もう索がないことに気付いていた。
それでもまだ彼女の中には希望があった。火遠が戻ればという希望が。……しかし。
「草萼火遠は戻らない。見よ」
と、いつの間にか『右の御方』の傍らに立っていた『左の御方』が放った言葉に現実に引き戻された。
彼の指し示す方には、影の触手の中から無傷のままに戻り降りる曲月嘉乃の姿がある。
「嘉乃様が草萼火遠に勝利なされた。もう諦められよ。さすれば楽になれる」
「嘘だろ……そんな、嘘だろ……?」
「嘘ではない。現実だ。認められぬなら……それでも抵抗する意思あるならば……、ここで我々が仲間と共に終わらせてやろう。敵ながらの健闘を称えるせめてもの情けである」
『左の御方』は隠された表情の欠片すら覗かせる気のない声でそう言って、『右の御方』に静かになにかを指示した。
『右の御方』はそれを受けて杖剣を構え、乙瓜に向けて斬りかかり――
けれどもそれは成されなかった。
乙瓜が、もう駄目だと目を閉じたその瞬間。
彼女の鎧――衣装の、スカートのポケットの中から。何かが勢いよく飛び出して、乙瓜の身代わりとなって刃に飛び向かったからだ。
「…………やれやれ、影が薄いことがこんなところで役に立つとはね」
それが零した言葉に、乙瓜はやっと自分が斬られていないことに気付き、再び目を開いた。
その視界に、紫色が映る。彼女の相方とは違う紫色の服と、黒髪。長い間その大きさで見ていなかったので見慣れないが……けれど決して知らないわけではないその人物。人間大に戻った魅玄の姿が、後姿が、そこにあった。
「今の今まで勘付かれないようなクソザコ下っ端でよかったよ。……まあ君にもポケットにしまわれたきり忘れられてただろうけど、この際どうでもいいやぁ……」
と。元【月喰の影】の刺客・魅玄は乙瓜を振り返る。その頬には血液が付着し、それは間違いなく彼の血で。
それを見た乙瓜は震える声で言った。
「わ、忘れるわけないだろ……」
本当は「大丈夫か」と言うはずだった。けれども口から出た言葉はそれだった。
忘れるはずはなかったのだ。あの煙の中の戦いで、乙瓜の耳は随分駄目になっていたが、それでも薄っすらと聞こえていた。
ポケットに隠した魅玄が、感知とはやや違う鏡の能力で、あっちだ、こっちだと安全な方向や敵の来る方向を叫んでいるのが聞こえていた。そう遠くない過去だ。忘れるわけがなかった。
故にか、思わず口を突いたその気持ちを受けて、魅玄は「そうか」と笑い、そのまま力が抜けたように崩れ落ち、地上目がけて――大霊道の深い穴目がけて降下を始めた。
その手から、恐らく刀を受け止めきれずに真っ二つに両断された鏡が――彼が封じられていた、花子さんの玩具の手鏡が零れる。
それを見て、乙瓜の理解がやっと追いついた。魅玄が自分を庇って身代わりになったと、そのときになって漸く思考が感情に追い付いたのだ。
そしてその追い付いた思考を、再び感情が追い越していくのだ。
(……は? なに俺のことなんか庇ってんだよ? そんな庇われるようなつながりとか深い交流ないだろ俺ら?)
思い、思い返す。乙瓜が魅玄と一緒に居た時間は火遠のそれよりも遥かに短い。そもそも初めはどうしようもなく敵で。まさに今戦っている【月喰の影】の、乙瓜にとっては第一の刺客で。かと思えば次に会ったときにはもう学校妖怪の側についていて。その後一緒に行動することも少なくて。一応味方同士にはなったが友達かどうかと聞かれればよくわからない、ほどほどの付き合いだったはずだ。
けれど。思い、思い返す。時間や交流の深さは全てではない。【月喰の影】を倒すために今日この場に集まってくれた妖怪たちだって、一部を除いて為人など知らない者たちが多数だったが、同じ目的の為に命を懸けてくれた。煙に包まれた戦場の、一瞬のすれ違いで助けられもしたし、また乙瓜ら美術部から助けもした。深い仲の友達ではないが、彼らは皆仲間だった。
単なる利害の一致だと言われればそうだろう。利用し利用される関係と言うならばそれも正解だろう。……だが。無残に傷付いた仲間の妖怪を見たときに感じた気持ち、数字の上では多くはないが、もう二度と動けなくなってしまった妖怪たちを見てしまったときに感じた気持ちは…………決して打算から来る嘘ではない。……嘘ではないはずなのだ。乙瓜はそう信じたかった。
だから疑問の次に来たのは、皆そうだったのだという理解。魅玄もそうだったのだという理解と、感謝と――後悔。
「魅玄ッ!!!」
乙瓜は大霊道へと真っ逆さまに落ちて行く魅玄に手を伸ばしたが、全てはもう遅いこと。追うために伸ばした翼は仮面の二人に掴まれ止められ、もうどこにも飛び立つことの出来ない乙瓜の背中に嘉乃の高笑いが降り注ぐ。
「あっはははははは! 勝った、これで! これでもう僕の夢を止められる者は誰も居ない!」
心底勝利を確信した笑みの下で、『左の御方』が乙瓜に言う。「あの者は愚かだったのだ」と。言い聞かせるように。
「もう貴様を守る者は一人も居ない。仲間は斃れ、草萼火遠は死に、……他にここまで到達できる者など居よう者か。諦めるのだ、烏貝乙瓜。曲がりなりにも貴様は嘉乃様の娘、せめて苦しむことなく逝かせて進ぜようぞ」
『左の御方』はそう言って、再び『右の御方』に目配せした。仮面越しであったが、『右の御方』には『左の御方』の意図ははっきりと伝わっていた。
彼は今度こそ諦めたであろう乙瓜に向けて杖剣を振りかざし、その首を一思いに切り捨てようとした。
……通常。奇跡なんてものは二度も三度も起るものではない。
上手い廻り合わせがあって、一度くらいならあるものだろうが、そんなものは易々起りはしないのだ。
だが、しかし。だが、しかし!
「お生憎様、もうこれ以上誰も死なせはしないのさ!」
突として上がった何某かの声に、『右の御方』の手はぴたりと止まったのである。
黙したまま動作を止めた彼に代わり、曲月嘉乃が不愉快そうに呟く。「……どうやって来た。いや。今更何をしに?」と。
その苛立つ視線の向く先で。彼ら――嘉乃らがはじめそうしたように、黒い雲に……否。空に突として開く黒い穴から身を出して、緑の影は、草萼嶽木は! 変化した古木の腕に落ちたはずの魅玄を抱き留め、こう叫び、言い切る!
「決まってるだろう! おれたちは! 美術部を助け、お前の野望を倒すためにここに来たんだ!」