怪事廻話
第十環・エクストリーム⑥

 嶽木の堂々とした宣言に続き、その周囲には彼女が現れたのと同じ黒穴が続々と開き始めた
 そう、それこそ闇子さんのもぐら穴モール・ホール。時空の隙間を掘って繋げるトンネルの能力。
 もぐら穴は嘉乃と仮面たちを包囲するように六つほど展開すると、それぞれその内側から幾つかの影を飛び出させた。

 そして――次の瞬間。

「……なっ!?」
 乙瓜に斬りかかる寸前の体勢で止まっていた『右の御方』が初めて動揺した声を上げたかと思うと、突然その仮面を抑えた。
「どうした」と言わんばかりに反応した『左の御方』と反応した『左の御方』も数秒後には同様に仮面を抑え、どうも悶え苦しんでいるかパニックに陥っているようだ。
 そしてそんな彼らの周囲で、雀に似た鳴き声がチチチと響き、次いで嬉し気な声が跳ねる。
「おお、久々に上手く行ったな三郎平!」
「"伊勢の神風"さえなければ楽勝よ、次郎太の兄貴!」
 それは夜雀兄弟・次郎太と三郎平の声だった。
 夜山を行く人間に付き纏い、不吉を呼び、下手に捕まえれば夜盲を呼ぶという妖怪の兄弟は、それぞれ左右の仮面の男の肩に停まり、彼らの視力を一時的に奪い取ったのだ。
 そうして先の煙の意趣返しとばかりに五感の一部を掠め盗られた左右の『御方』に、更に高速で飛翔する影が迫る。
「ほら! 捕まえたわよ!」
 ほとりだった。風のように素早く速く接近した彼女は、手にした縄を左右にざっくりと巻き付ける。
 それはアマメハギの小鈴となまはげの電八の、戦闘の中で壊れつつあったみのを解いて縄にあざない直したものだ。勿論たった二人の蓑の藁では『長縄』とまでは行かないので、ヘンゼリーゼの魔法で十メートルほどまで延長してある。
 長縄はずっしりと湿っていた。プールの水はもうないので、伸ばす前に神社姫の水槽に浸したのだ。
 ほとりが巻き付けた長縄の端は河童ら力自慢の妖怪がしっかりと握っていて、その付近には雪童子の天華が控えていた。
 湿った縄と氷雪の怪異。この二つが揃ったなら、もうやることは一つである。
「えい!」
 天華が縄の片端に触れるや否や、彼女の冷気が湿った縄を伝播し走る。
 校舎を丸ごと凍らせるほどの力を持つ彼女にとっては数メートル先まで冷気を届けるなどわけないことで、凍結の波は瞬く間に左右の『御方』へと到達し、巻き込まれる寸前のところで夜雀兄弟が離脱する。彼らが離れたことで『御方』たちは視力を取り戻すが、その瞬間には全てがもう遅い。
 さしもの彼らもこれには焦りを感じた。嶽木の出現からここまで、全てがあっという間だったのだ。なんなら十秒と少ししか経過していない。
 ――何故。一体なにが。……彼らは思考し、それから取り戻した視力で元いた足元を、烏貝乙瓜が居たはずの場所を見る。
 必然として雪童子の冷気に巻き込まれたであろうその場所には、けれど既に乙瓜の姿はない。
 あの天狗の娘か――『左の御方』は即座にその理由に気がついた。あの状況で即座に乙瓜を移動させられたのは彼女しかいない。事実その通りだった。
 ほとりは『御方』たちの近くでまだ固まっていた乙瓜を回収していた。そして他の五人の美術部員たちもまた、それぞれ穴を通じてやって来た妖怪らに回収され、もぐら穴の上で介抱されていた。

「起き上がりなさい歩深世! まだ倒れるには早いでしょう!? 今日のためにあんなに頑張ってきたじゃないのッ!」
「嬢ちゃん助けに来たぜ!」
「今の内だ、起きてくんろ!」
 乙瓜の後で回収した歩深世を揺さぶり、天狗のほとりが、雷獣が、夜雀兄弟の次郎太と三郎平が言う。
「遊嬉ちゃーん! わらし来たよ、お母ちゃんは手当てされたから心配ないよ! だから目ぇ覚まして、起き上がってー!!」
「おれたちがついてるから。大丈夫。遊嬉ちゃんはまだ立ち上がれる」
 戮飢遊嬉に縋りつき、雪童子の天華が、草萼嶽木言う。
「さっきはアタシが不甲斐ないところを見せちまったけれど、今度はあんたさんが不甲斐ないようだねえ杏虎。……ちょいと力を貸してあげようか?」
 一度は閃光に掻き消された青行灯の椿が、白薙杏虎に囁きかけて言う。
「魔鬼殿、魔鬼殿! あとひと踏ん張りでござりまする、だからどうか今一度だけ立ち上がってくだされ!」
「まったくよぉ、こんな高高度まで繋ぐのは初めてだっての。……あーもうくっそしんどい! だからいつまでも寝てんじゃねえぞ!? 起きろやコラ魔法使い!」
 "トイレの太郎さん"が、"トイレの闇子さん"が。黒梅魔鬼を抱え起こすようにして言う
「……ほんっとうにしょうがない子。目を覚ませ小鳥眞虚ッ! 今を逃したら死んだ後でも許してあげないんだからねッ!」
 草萼水祢が小鳥眞虚の肩を揺さぶって言う。そして、
「ほら、大丈夫だよ元気出しな。あとひと踏ん張りで全部終わる、あとひと踏ん張りで未来あしたが開く!」
 烏山蜜香が。未だ呆然とする乙瓜を揺さぶり、そして気付かせる。
 まだ終わりじゃない。全然終わりじゃない――と。
(……そうだよ。俺たちがやらないと。……例え曲月嘉乃が本当に火遠を倒してしまったのだとしても、なら猶更なおさら俺たちが、今ここで【月喰の影こいつら】を封じ込めてみんなを、未来を、守らねえと……! 魅玄だってまだ死んじゃいないんだから、このまま終わらせはしない、……したくない!!)
 乙瓜は思い、再び翼を広げて。時同じくして、倒れ伏していた他五人の美術部員たちもまたピクリと動き出す。

 このまま倒れちゃ居られないと。このまま負けるわけにはいかないと。

 ――歩深世は思う。あと一度だけ立ち上がりたいと。
(そうだ、まだ戦える。まだ終わってない。ここで諦めたらいけない)
 自分たちは託されたのだから。逆転の希望を叶えるために。あと少しだけの力を、立ち向かう為の勇気を。
 深世が願い、目覚めに向かう。そんな中で頼りの護衛を一時的に封じられた嘉乃は吠える。

「ふん、弱い者が今更何人集まっても無駄だよ! 追い込んだつもりだろうが君たちの神である草萼火遠は僕が仕留めた! 【彼女】も間もなく必要な力を蓄え終える! それともここで封印の秘術を発動させるかい!? やってみるがいいさ、消すことのできない"影の魔"が、大霊道の瘴気を抱いたまま世界に拡散してもいいのならッ!」
 しかし彼は主張とは裏腹に髪を伸ばして攻撃を仕掛けて来る。毛先を古木の腕に変え、それを同じ古木の腕を持つ嶽木と水祢が受け止め、蜜香の金剛三鈷銛が辛うじて払いのける。他の妖怪たちも、美術部全員が復活するまでの守りとばかりにそれに続く。
 両手を封じられた嶽木と水祢が上手く術式を発動できない中で、先に復帰した乙瓜が結界を開き皆を護り始める。
 現在行動可能な結界術者はごくわずかで、丙とヘンゼリーゼは引き続き校舎とその中の負傷者たちを守り続けている。増援分の人数を守り切るには、とてもでないが人手が足りない。

 そんな状況下で、小鳥眞虚は思う。自分も皆を守らなければと。
(そう、乙瓜ちゃんも頑張ってる。だから私も、もう一度。また)
 自分の力は護り癒す力。消耗して行く皆を助けるために、今こそ目覚め起き上がらなくては。
 眞虚は願い、目覚めに向かう。時同じくして杏虎、遊嬉もまた。
(みんなめっちゃ頑張ってるじゃん。……いつまでもかっこ悪く寝てるわけにはいかないじゃんか)
(まだみんなやられてない、まだ"影の魔"の塗りつぶしは発動してない。チャンスがあるなら、今が最後)
 打ちのめされた身体に力を入れて。彼女らも立ち上がりはじめていた。
 けれども嘉乃も諦めない。

「小癪な結界なんて! 例え亜璃紗の腕が潰れても、僕の腕がある限り! 急々……如律令ッ!」

 亜璃紗の護符を発動させ、増援の結界を再び機能停止に追い込む。妨げるものがなくなった髪手は好機とばかりに一束にまとまり、掌の面積を拡大した巨大な腕となって目下指揮官的立場である嶽木に襲い掛かるが……その瞬間もぐら穴の中からサッと現れた者が嶽木らと髪手の間に立ち塞がった。
「…………」
 物言わず、物言えず。嶽木らを振り返ったその正体はてけてけだった。その、人間の半分以下の大きさしかない彼女の体を巨大髪手が勢いのままに容赦なく弾き飛ばす。
 それは嶽木らにとって完全に予想外のことで、嶽木は思わず「なにを馬鹿なことを」と言いかけて、それから彼女の名を大きく叫んだ。

「な、ば、――――てけてけッ!!」と。

「てけてけ殿!」「てけ子!」同じ学校妖怪として、たろさんと闇子さんが嶽木の悲鳴に続く。
 一方で嘉乃はといえば、なにかは知らないが敵陣の妖怪を一体倒したという事実に少しだけ満足していた。そしてこの調子で全ての歯向かう者たちを黙らせ、清々しい気分で世界侵食の発動宣言をしようとしていた。
 ……この瞬間までは。そう、髪手が動かなくなっていることに気付くまでは。
「――なんだと……!? 何故ッ! 何故動かない!?」
 嘉乃が焦り声を上げた、その中で、吹き飛ばされたてけてけは、表情の変わらない顔の裏で思う。

(……ああ、まだ、そこにいらっしゃるのですね。ごしゅじん……)

 攫われ取り込まれ消えた異怨。彼女と交わした、もう学校の誰も食べないし襲わないという約束。

『いい、よ。おそう、ない』

 もう姿も形もないけれど、おそらくもう分離できないけれど。その約束は奪われ使われる異怨の腕の中に生きている。それを確信して、てけてけは笑った・・・。元より笑顔の張り付いた顔で、けれども、異怨を失って以来初めて心から笑った。
 そうして投げ飛ばされた彼女の身体を嶽木とたろさん、闇子さんが追う。大霊道まで落とさないように、あらたなもぐら穴を開きながら。
 けれども最終的にそれの身体を受け止めたのは彼らではなく――紫の光!

「……てけてけにまで体張られたら、のうのうと倒れてるわけにいかないじゃんか……!」
 黒梅魔鬼の魔法捕縛! もぐら穴の上で再び立ち上がった彼女は、魔法を用いててけてけを救ったのだった。丁度二年前のあのときのように。
「なんで動かないかって、わからないかよ……!」
 まだ少しだけよろめく彼女の目には、けれども強い意志の光がはっきりと宿っていた。その目でしっかり嘉乃を見上げ、十五センチ定規を握り直し、魔鬼は言葉を続ける。
「異怨はまだ完全にお前に食われてなんかいない! てけてけとの約束が、まだその腕の中に生きている!」
「なにを馬鹿な! 草萼異怨にそんな意思があってたまるか! あれには本能しかない、人格のように見えるものはそれに従う現象でしかない! ましてや約束に従う意思なんてッ!」
「あるわけないって?」
 そこで第三者の声が割り込んだ。それは戮飢遊嬉の声だった。
 魔鬼と同じく立ち上がった遊嬉は、「それがあるんだな」とニッと笑う。「だってあたしたちが今までどうにか無事にやってこられたのがその証明だから」と。
「易々見縊みくびってくれるんじゃないよ。ていうかあんたがああまで恐れた草萼火遠の、そして嶽木の、水祢の。姉さんだよ? 理性低めに生きてたって、一筋縄で行くと思っちゃ大間違いだって!」
 遊嬉は言って、再び刀を、紅蓮赫灼と事割剣を両手にしっかりと握り構えた。
 嘉乃はその勇敢な姿を憎々しそうに見つめ返し、奥歯を噛みしめる。だが美術部の巻き返しは止まらない。
「お前にはわかんないよ。それがお前が軽視した繋がり・・・の力。人と人との、妖怪と妖怪との、人と妖怪との繋がり……絆の力!」
 と、歩深世が。
「あれだけ集めて使い潰して、そもそも思う通りにいかないから作り直してとか、……あんたは自分以外の殆どの他者を軽く見てるっていうか。ナメてんだよ。だからみっともないことばかりして、だから今まで火遠に勝てなかったんだ。そして今回も!」
 と、白薙杏虎が。
「……そのわがまま・・・・の為に傷つく人がいる、滅びなければいけない人たちがいる! ……今だって! だから私たちはもう一度立ち上がる!」
 ――と。最後に眞虚が立ち上がり、各々獲物を構え直した。
 既に復帰していた乙瓜はその様を見て一瞬表情を歓喜に緩ませ、それからまた真面目に締め直して、嘉乃に向けて叫んだ。
「待ってろ! 今すぐ終わらせてやる!」
 だがしかし、嘉乃は再起した美術部らを見て「まあいいさ」と鼻で笑う。
「君らが復活したところでどうなる? 僕の【彼女】の準備はほぼ整ってしまっているよ? 穴を塞ぐのも僕をどうにかするのも勝手だけれど、あれをどうにかしないといけないんじゃないかな?」
 得意げに。影の魔の触手を指さしながら。
「もう三十秒もいらない。僕が一声かければすべてが始まりすべてが終わる。それまでに封印が終わらなければ君たちの負けだ」
 勝ち誇った顔で嘉乃は言う。――が。

「「嘉乃様!」」
「お父様! 危ない!」

 その瞬間。動きを封じられた『御方』たちが、嘉乃の衣装に潜んだ亜璃紗が声を上げ。

「は?」

 嘉乃が間抜けな声を上げ。
 ……直後、その腹を何か、細長いものが。勢いよく貫き。血が溢れ。
(は? は? なんだこれ。なんだよこれ。これ、……これ、は)
 嘉乃は脳裏に浮かんだ幾つもの疑問符の中で、おもむろに己の腹を貫くものに目を向けた。
 それには見覚えがあった。噴水のように噴き出た血液で赤く赤く染まってはいるものの、それは確かに己の得物――草萼火遠にとどめをさしたはずの葬魔槍で。
 彼がそれを理解した瞬間、その頭上で声が響いた。これでもう二度と聞くことはないと思った声が。強く憧れ、強く憎んだ者の声が。即ち――

「君に返品するよ。嘉乃」

 ――草萼火遠の声が!
(何故、何故!? 生きていただと!?)
 嘉乃は疑問し、困惑し、しかしそれを上回る、出し抜かれたという怒りから頭上に頭を向けた。或いは間違いであれという願いから。
 だがそこには無情にも・・・・火遠の姿がある。それも傷一つない。確かに貫いたはずの左胸にさえ。
「馬鹿なッ!!」
 まず驚愕にそう叫んだ嘉乃を無視して、火遠は美術部らに向けて叫んだ。
「影の魔の核に光を宛ててきた! 今なら再生はしない、すぐに触手を断ち切れ!」と。
「ほいきた!」
 遊嬉が調子のいい返事をし、気合を入れるように息を吸ってもぐら穴の上から飛び立った。その剣が触手を発つのに数秒とかからない。断ち切られた触手の断面から血に似た赤黒い、けれども液体とも違う大霊道の瘴気が、地上の大穴にむけて逆流していく。
 それを見て、深世が思い出したように鏡を向け、霊道から覗く者たちを牽制する。杏虎もそれを支援する。
 その間火遠は乙瓜と魔鬼の間に降り立ち、「遅くなってごめん」と謝った。
「奴の隙を作るため、少しだけやられたふりでもしてようかと思って」
「してようかと思ってじゃねえよ! 本当にやられたと思ってヒヤヒヤしたじゃねえか!」
「時間ギリギリだったのわかってんのか!?」
「でも乙瓜にはギリギリ念が届いてただろー? 間にあったからいいじゃあないか」
 交互に怒る乙瓜と魔鬼に、火遠はちょっぴりうんざりしたように言って、それからふと、付近に立つ嶽木に目を向けた。
「姉さん。ありがとう」
「礼なら闇子さんにしなよ」
 言って、嶽木はたろさんらと共にてけてけを介抱する闇子さんを目で示した。そしてその短く奇妙な受け答えこそが、火遠が無事で戻って来たカラクリだった。
 火遠が刺し抜かれる直前。既に上空に迫っていた嶽木は、闇子さんの能力で火遠の胸から背中に続く、最小限のもぐら穴を開けさせたのだ。激情に任せて向かって来た嘉乃はその穴の存在に気付かず、まんまと火遠の心臓を刺し貫いた気でいた、と。
「後でみんな思いっきり労ってやらないとだなあ」
「そういうことは終わらせてから考えなよ」
「そうだぞ」「そういうとこな」
 やれやれと言わんばかりに腰に手を当てる嶽木に乙瓜・魔鬼が追従し、その後で駆け寄って来た水祢に「あまり火遠を悪く言わないでくれる?」と睨まれる。
「……考えあってそうしたんだから。あまり悪くいわないで」
「嘘つけ絶対突発的な思い付きだったぞ」
 ジトリと睨みを効かせる水祢に乙瓜はうんざりした様子で返した。けれどもこう続ける。「無事だったからよかったけどな」と。
 その様をやや離れた場所から見て、眞虚がクスリと笑う。【灯火】は――というか美術部は、すっかり平時の気力を取り戻しつつあった。

 そんな中に、突として、ベベンと琵琶の音色が鳴り響く。
 その音はすっかり自分の計画が水泡に帰そうとする様に呆然とする嘉乃の耳にも届いていた。同時に彼が放った亜璃紗の護符がボロボロに劣化して消え失せる。
 こんな芸当が出来るのは――嘉乃が知る限りあの二人・・・・しかいない。あの煙の支配下で動き回っていたあの二人、そしてその主たる彼。
「……やはりお前を野放しにしておくべきではなかったか。今になって痛感するよ。……慈乃」
 呟き見下ろす眼下のもぐら穴の上に。嘉乃は自分に似た髪色の少年を見た。
「嘉乃兄さん。……終わりにしましょう」
 曲月慈乃、同じ道を歩むことのなかった弟の顔を。
 その左右に控える琵琶持ちの女形と探偵助手風の男装の麗人、暦と歴は、先に凍結捕縛されている仮面の『御方』たちを見つめ、そして呼びかけた。
いぐささま、あじか兄さん」――と。【月喰の影】の幹部さえも知り得なかった、『右の御方』『左の御方』、それぞれの名を口にして、歴は叫ぶ。
「もう終わりにしましょう。……我々は今日に至るまでの嘉乃様の絶望を推量することしかできませぬし、ましてや癒せるとも思いません。けれど今ならまだ立ち止まれます。諸国諸妖怪への数々の行いを省みてやり直せるのではないでしょうか!? 篠兄さん!」
 暦は必死に訴えた。けれども篠・『左の御方』はそんな弟を仮面越しに見ながら言う。
「……やり直す、か。……全て今更のことである。なあ、莞よ」
 と、篠は一度莞・『右の御方』を見てから言葉を続けた。
「我らはお前たちと違い、守れなかったのだ。嘉乃様を不運から救えず、それどころか嘉乃様と慈乃様を外界へと逃れさせた罰を受けた後は二人のうのうと暮らしていた。……まったく愚かなことだった。傷つき変わり果てた嘉乃様と再会したとき、我らは自らの愚かさに気付いたのだ。故に最期まで嘉乃様を護り、嘉乃様の心のままにさせると誓った」
 ――その気持ちがわかるか。そう言うと、篠は自分たちを縛り封じる縄と氷に力を込めた。氷にはキキキと高い音を立てて少しずつひび割れ始める。
 彼らはまだ戦う気だった。きっと嘉乃が斃れるまで。
 けれどもそれはもう望めないことだった。
「……あい・・ですか。それが篠兄さんと莞さまの覚悟ですか。残念です」
 暦がそう呟いた瞬間、その一瞬手前。そのときにはもう乙瓜の封縛結界が発動していて、『御方』改め篠・莞、そして槍に貫かれる嘉乃の周囲を包囲する。
 亜璃紗の護符が破られたことで、護符使いが再び動き出したのだ。封縛結界の裏では眞虚の回復結界が動き、ふらつく美術部は活力を完全に取り戻していた。それぞれ円を描くように飛び立ち、その手には改めて手にした六つの勾玉が、それぞれ橙・紫・紅・桃・水色・緑の色に輝いている。
 封印の秘術が発動しようとしていた。そのタイミングで、慈乃は兄に言う。最後通告のように言う。

「嘉乃兄さん。解りあえないならばせめて最後に。せめて……今まで蹂躙してきた妖怪たちに、人々に。一言謝っていただけないでしょうか」と。
 それはきっと、慈乃が弟として与えた最後の慈悲であり、嘉乃にとっての最後のチャンスだった。
 もしかしたら。本意でなくとも謝罪さえすれば、霊道封印から逃れられるかもしれない。生き残りさえすればまた計画再始動の機会は廻って来るかもしれない。
 けれども。その機会は今より遥か遠くになるだろう。監視の目が消え、再び月と地球ほしと太陽が丁度の頃に重なり合い、大霊道の封印が緩むまで。それまで自分を誤魔化して生きるなんて――まっぴらごめんだ。……そう、嘉乃は思った。故に。
「お断りだよ。やるならやれよ」
 嘉乃は言った。煽るように。
 慈乃はその言葉を受けて、残念そうに「そうですか」と呟くと、俯いて一歩下がって、そして火遠に告げた。
「……お願いします。火遠の兄さん」
 火遠はコクリと頷いて、美術部皆に、深世に、杏虎に、遊嬉に、眞虚に、魔鬼に、乙瓜に目を向けた。
 皆コクリと頷いた。集まって来ていた妖怪らはもぐら穴に乗ってそれぞれ彼女らの背後に移動し、その背後を支えるように手を伸ばした。

 そして。
「始点! 木行橙! "花橘はなたちばな"!」
 乙瓜が叫ぶ。封印の秘術の始まりの言葉を。
 封印術式は五行結界、勾玉に与えられた"名前"は五行色を隠す伝統色の"かさね色"の名。太古の日本には五行の思想はなかったが、薄雪媛神の施した最初の封印が破られ、大穴の厄災として再び顕現した平安期以降に神の御業を人が行使する手段として取り入れられた。
 五つに分担すれば本来余る一つの余りが出るのだが、他と重複する行を敢えて宛がって結界を走らせる始点と終点とした。即ち、現在では烏貝乙瓜と歩深世が持つ木行が始点と終点を担い結界を結ぶ。
  「次点! 土行どぎょうくれない! "朽葉くちば"!」
「三点! 水行すいぎょう紫! "薔薇そうび"!」
「四点! 火行かぎょう虹! "紅躑躅くれないつつじ"!」
「五点! 金行ごんぎょう白藍! "花薄はなすすき"!」
 遊嬉、魔鬼、眞虚、杏虎の順に結び、最後に深世が終点を唱え、閉める。
「終点! 木行もくぎょうみどり! "若苗わかなえ"! ……囲い封じ、閉じ塞げ! 霊道結界!」

 唱え終わったその瞬間、六人の間を鮮烈な光が駆け抜けた。
 空気がびりびりと震え、地は唸り、美術部六人の囲う内に生じた力のようなものが嘉乃と篠・莞を下へ下へと引き込み、そして美術部らを外へ外へと弾き飛ばすように作用する。
 ここで弾かれたら封印の力場が崩れる。美術部は皆あと少しだからと自分に言い聞かせ、宙に居ながらその場に踏みとどまろうとした。
 その肩を、背中を、先に待機していた妖怪たちが支える。
 深世の後ろにはほとりがつき、微力ながらも雷獣と夜雀兄弟も支えを後押しする。
 遊嬉の後ろには天華と嶽木がつき、「あと少しもう少し」と励まし力を込める。
 杏虎の後ろには椿がつき、更に光に弱い椿を更に支えるためにと出て来た小鈴と電八がサポートする。
 眞虚には水祢一人が付いたが、途中で経過を見て出て来たらしい丙が支えに加わった。
 魔鬼にはたろさんと闇子さんがつき、乙瓜には蜜香と火遠がつく。
 皆が踏ん張るその下で大地が唸り、大霊道が開いた地面が崩落の逆再生のように修復されて行く。そして嘉乃らは塞がれて行く地面の底へと吸い込まれるように落ちて行くのだ。
 あと少し。……けれども封印の力の反動もまた容赦なく美術部らに襲い掛かり続ける。
 このままでは封印が完了する前に散り散りになって術が解けてしまう。薄雪らが限界まで蓄積した一発限りの力を無駄にすれば、嘉乃に形成逆転の好機を与えてしまう。
(それだけは駄目だ、それだけは……!)
 乙瓜は思う。だが力が、踏ん張る力が足りない。
 皆そうだった。回復して尚、あと一歩踏みとどまる力が僅かに足りなかった。気力はあるのに、このままでは封印の反動に圧し負ける。
「おい火遠! お前の【星】の力分散して皆に渡すとか、そういうことは出来ないのか?」
「出来るならとっくにしてるよ。今のところは契約関係にある君にだけ、それでもごく一部を貸し借りするのが精一杯!」
「……だよなあ。……ったく」
 乙瓜は苦い表情を浮かべた。彼女を支えるもう一方の人物である蜜香も、「もうやだ腕痛いやだー!」と、この期に及んで緊張感のないことを口走っている。言うなよもっと辛くなる……というのは乙瓜だけでなく、彼女の声が聞こえる範囲全員の思いだっただろう。
 状況的には未だ有利であるのに、兎にも角にもピンチであった。――けれども。

「やっほーい助けに来たよー!」
 そんな彼女らの前に、まさに助けは現れた。
 場に響き渡る明るい声。その主である栗毛と黒いつのクリーム色の大きなリボンを頭に付けた少女型のモノ――夢想の悪魔――エーンリッヒ!
 先に【月喰の影】の本拠地に向かい、罠に嵌められ戻る手段がなかったはずと知る丙はその姿を見て驚愕に目を見開き、次に思う。――あいつ何か策があったな、と。
 言うまでもなくあいつとはヘンゼリーゼのことだ。そして実際その通りだった。
 六勾玉に蓄積されていたのは古霊町の神々の力だけではない。異教徒の神に属する、ヘンゼリーゼの十悪魔の力も混ざっている。
 故に! 封印の発動でその力が放出されたのに乗じて、ヘンゼリーゼは戻って来られない二柱の悪魔を再召喚したのだ。すっかり戻り口を失っていても、縁ある力が広がった今なら呼び戻せるとそう計算して!
 その召喚に乗じ、彼女らと共に発った十名近くの天狗たちと、石神三咲とアルミレーナの使い魔と、大鴉の悪魔が舞い戻る!
「よくわからんが背を押し支えればいいのだな!?」
「力を貸そう!」
 天狗らは状況を見て押され気味の箇所に加勢し、使い魔の鴉や猫たちもそれにならう。
「ちょぉーっとお背中失礼するッスよ~」
 大鴉の悪魔・トーニカがうきうきした様子で魔鬼の背後に加わり、それから「お~」と歌うような歓声を上げて辺りを見る。
「遅いッスよ、序列上位」
 彼女の視線の先には珍奇な恰好をした少女が更に八人浮かんでいる。まさにヘンゼリーゼの十悪魔・・・、その残り八柱が。

「信用序列第一位。無想の悪魔、デリエ・ランフォルセ」
「信用序列第三位! 空想のイリゼ・リーベスリートよ!」
「信用序列第四位。楽想、アルディ・アルモニ・アンタンス」
「序列五位~。狂想の~、エーデル・フェルトロイムト~」
「序列六位。瞑想の悪魔、モル・プレジール」
「信用七位ー? 黙想~、ブラーチェ・ブラウトリートで~す」
「信用序列第八位! 奇想のクローネ・クヴァルテト!」
「九位ー! 妄想・牧羊犬! クロイツ・ニーダーシュラークぅ!」

 皆が皆、それこそ変身ヒロインアニメのキャラクターのように色鮮やかで独特のシルエットを纏った、少女の姿をしたモノ・・・・・・・・・たちが次々と名乗りを上げる。

 無想にして木菟ミミズクの悪魔、デリエは幼くも冷徹な瞳を持つ少女の姿で。
 空想にして蛇の悪魔、イリゼは細身で自信に満ちた表情の、淡く桃色髪の少女の姿で。
 楽想にして大蜥蜴トカゲの悪魔、アルディは大陸の格闘家のような衣装を纏う、活発そうな姿で。
 狂想にして大蛙の悪魔、エーデルはややふくよかで、おっとりとしたタレ目の少女の姿で。
 瞑想にして魔蛾の悪魔、モルは目を閉じ落ち着いた、思慮深そうな少女の姿で。
 黙想にして誘死蝶の悪魔、ブラーチェは気の抜けたように話しながら、鮮やかな赤薔薇をモチーフにしたバレエのチュチュを纏う踊り子の姿で。
 奇想にして蝙蝠の悪魔、クローネは左右非対称の衣装を纏った真っ赤な髪の少女の姿で。
 妄想にして牧羊犬の悪魔、クロイツは華やかならざるも活動的な作業着めいた衣装を纏う純朴そうな姿で。

「知らない奴がすっげえわらわら出て来た!?」
 突如出現した彼女らを見て、魔鬼は思わずそう言わずには言われなかった。
「新キャラいっぱいいすぎてわけわかんねえ!!」
「言い方ぁ。失礼ッスよ。まあまあいいじゃあないッスか、ヘンゼリーゼが私ら全員投入して物事解決してくれようなんて、よっぽど珍しいことッスよ? それにあの人力仕事だけは絶対したがらないッスからね!」
「本人来ないのかよ! いや来なくてもいいけど強い味方出せるならもっと前からしてって話ぃ!!」
「まーまーまー。私ら全員最初から出しても勝機があるかどうかは別問題ッスし。気にせず行きましょ気にせず!」
「気にするうううううううううう!! 気にするけどおおおおおおおおおお!!」
 軽いノリで言うトーニカに魔鬼は叫ぶが……だがこの際増援なら誰でもいいと思い直す。
「この際どうでもいいいいいいいいいい!!!」
 事態が事態なのだ。一人でも多く加勢してくれるならこれ以上にありがたいことはない、と。誰でもいいから手を貸してくれるなら貸してくれ! と。
 そんな願いに応えるように、増援の波は止まらない。
 十悪魔の加勢後に、校舎の方角から突如として何か巨大な黒っぽいものが伸びてくる。それには絵にかいたような真ん丸の目玉が二つあって、皆それが海坊主であると気付く。海坊主は大きくて狙われやすいだろうからと、特に煙が蔓延してからはずっと隠れていたのだった。
 彼(?)も最後の最後で何かの役に立ちたいと思ったのだろう。そしてその彼(たぶん)の上で、ずっと小さな黒っぽい生き物が甲高い声で主張する。
「小鈴ちゃーん! 電ぱっちゃーん! ほとりーん!」
 海禿だった。彼女は海坊主伝いにもぐら穴の上に降りると、ほとりの後ろに立ち上がり、「協力するよ~」と鰭脚を背に添えた。
「疲れちゃった花子ちゃんたちや篤風あっくんも頑張ってーって言ってたよぉー! あとちょっと! そぉーれー!」
 海禿の言葉に続き、海坊主が封印陣の周囲を抑え込むように支える。彼らの力によって美術部の立ち位置は随分安定したものになった。
 否、きっとその時の美術部を支えていたのは増援の力だけではない。
 校舎に残る負傷した者たちの。北中の外で美術部を信じる者たちの。数多の祈りと願いが、今の美術部らを支えていた!

「……ッ、行ける! 今なら! 押し切れる!!」
 眞虚が確信めいて叫ぶ。勾玉を握る手に力を込めながら。それを受けて遊嬉、深世、杏虎も、最後のひと踏ん張りとばかりに叫ぶ。
「うおおおおおおおおお! いっけえええええええええ!!」
「あといっちょおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
「閉じろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
 そんな仲間たちに続き、魔鬼、乙瓜も叫ぶ。力を出し切るように叫ぶ。
「あしたをおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
「未来をおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
 もう彼女らは自分たちがなにを言っているのかなんて考えてはいなかった。ただ腹の底から湧き上がる気持ちを、祈りを、願いを、なりふりかまわずそのままの形で叫んでいた。
 まさしく必死の形相の彼女らの姿を、曲月嘉乃は封印の光の中から見つめていた。
 己が今光に包まれているからか、それとも心情的なものなのか。請わずとも多くの者たちに囲まれ支えられる彼女らの姿が、閉じつつある大霊道の底へ落ちつつある嘉乃にはどこか眩しく見えた。
(――負けたのか。僕はこの光に)
 嘉乃は思い、彼女らよりずっとずっと高い天を仰いだ。
 遠ざかってくその場所に、皆既食の闇を越して光に転じつつある太陽が見える。己に縋るように触手を伸ばしては封印の光に掻き消される"影の魔"の塊も。
 それを見て、嘉乃は呟く。
「……なあ亜璃紗。母さん・・・は本当に心から、僕を愛してくれただろうか」
 そこに居たはずの娘へと。けれども……もう誰も答えない。火遠が投げ戻した葬魔槍は、服の中に潜む彼女ごと貫いてしまったらしい。
 嘉乃はその静寂に沈黙し、それから自分よりも先に地の底に墜ちるであろう左右の――篠と莞を見た。
「……今までの忠義ご苦労だった。君たちはもう、自由に生きたまえよ」
 小さくそう言って、嘉乃は封縛されて動けない身体の代わりに、己を貫いたままの葬魔槍に意識を集中する。その穂先に力を込めて、そこから最後の衝撃波を放つ。
 衝撃波は篠と莞を縛った縄と氷を打ち砕き、同時に彼らを封印光の外側へと弾き飛ばした。
 嘉乃はそれを見届けてニヤリとし、それから再び天を、美術部を、草萼火遠を見て声を張った。

「完敗ということにしておいてあげようか! ……けれども、君たちには負け惜しみのように聞こえるだろうけれども。僕を倒してもこの世界の危機ははなくならない。いつかどこかで誰か大きな力を持ったものが非情になったとき、君たちの守った日常なんかは呆気なく破壊されるだろう。君達の理屈なんか及ばない力をもってね。……遠い未来で大霊道の封印が解け、僕がもう一度目覚めたとき……。精々この世界の未来が今以上に暗い絶望に塗り潰されていないことを願ってるよ。……本当に! 心からねッ……!」

 当人が負け惜しみのようにと言ったそれは、まさしく負け惜しみそのものだった。
 火遠はそんなかつての友の姿を見て、残念そうに眉を下げる。
 その表情を見て、嘉乃は対照的にムッと眉を上げる。
「辛気臭い顔で僕をみるな。……笑えよ。君は僕の理想を見事台無しにしてみせた、勝利者なんだから。……今更僕を哀れに思わないでくれないか。同情したような顔をしないでくれないか。……腹立たしくて仕方ない」
「嘉乃……」
「君のそういう善人ぶったところ。……僕は最初っから大嫌いだったよ。草萼火遠!」

 嘉乃は嫌味にそう言って、それからニコリと笑った。浄化されたというよりは、どこかまだ野望を抱いたままの表情で。彼は塞がりつつある地面の底へと飲まれて行った。
 直後、ゴゴゴと大きな音を立てて大地は完全に塞がった。大霊道は封印されたのだ。曲月嘉乃を飲み込んだまま。
 ……けれどいつか必ず復活する。何百年か何千年か、あるいは何万年か。長い長い時間の後で、再び世に恐れが満ちたとき。その封印は再び緩み、開くのだろう。死ねずに生き続ける嘉乃と共に。
 美術部と妖怪たちは暫くの間呆然としたまま宙にあり続け、ややあってから乙瓜が呟いた「終わった」の言葉に、やっとすべてが終わったことを実感した。

 全部、終わったのだ。
【灯火】と【月喰の影】の――草萼火遠と曲月嘉乃の因縁も。ここに一旦決着を迎えたのだ。

 それを理解して、やっと彼らは歓喜に包まれる。天には皆既食を抜けた太陽光が差し込みはじめ、それもやがては本来古霊町の上空にあるべきの、元通りの空と天気へと戻るだろう。
 太陽の復活と霊道の封印の影響で、古霊町を闊歩していた雑霊たちは姿を消しつつあった。雑霊たちから古霊町を守る為に奔走したアルミレーナと三咲もその様に一安心の表情を浮かべ、同様に幸福ヶ森幸呼とその家を守っていた七瓜も大きく息を吐いて膝を落とした。
 八尾異も鬼伐山斬子もそれを見ていた。古虎渓明菜ら、二年生以下の美術部員たちも。
 全部全部終わったのだ。彼女らはそう実感した。

 穴の塞がったグラウンドの上に降り立って、美術部六人は辺り一面にキラキラと弾け散った封印の光を見ていた。
「……本当にやっちまったな。私ら。とんでもないことを」
「ああ」
 ぼんやりと呟く魔鬼にそう答えた後で、乙瓜はふと、校庭の隅に黒い靄のようなものを見つけた。
 それはたちまち人の形となって、乙瓜らに恨めし気な視線をぶつけた。
「敵の残党か……?」
 乙瓜はハッとして護符を再び構える。既に変身は解除されていたし、封印の反動を受け止めたことで随分ヘトヘトだったが、まだ少しくらいは戦えると踏んでいたし、何よりここにはまだ味方が大勢いる。
 故に咄嗟に戦闘態勢に入る乙瓜の背後で、火遠が言う。思わずと言った調子で。
「……天海照子?」と。
 そう、その人影は火遠が"影の魔"の奥で見た、天海照子の写し身そのものだった。
 けれどその言葉を受けて、それ・・は、【彼女】はさも不思議そうに、そしてか細い声でたどたどしく言う。
「あま、がい、てるこ? ……いいえ。わたしは。曲月まがつき常世とこよ。あの人が、そう、名付けてくれた」
「……曲月……? 常世だと? だとすると君は……"影の魔"の自我か!?」
「ええ」
 驚き問い返す火遠にあっさりとそう答え、曲月常世は改めて乙瓜を見た。
「わたしは、"かげのま"。ずっと、ぼんやりと……この世界のすべてを……見ていた。そしてわたしをはっきり見つけてくれた、あの人を。あいして、いたわ。だけど……あなたは。あなたはわたしとおなじものなのに。わたしがうんだのに。……あの人を、わたしからあの人を奪ってしまった。どうして?」
「"どうして"? どうしてもこうしてもあるかよ」
 乙瓜は常世の言葉を繰り返し、それから彼女を睨み返した。
「確かに俺はお前から産まれたかもしれないが、俺はお前じゃねえ! だからだ!」
「………………そう。……そう、なのね」
 常世は今にも消えそうな声でそう言って、虚ろな瞳で、けれども確かに乙瓜の事をじっとりと睨み、そして言った。

「ならわたしは、あの人を消してしまったあなたのことを。あの人がもどるまで恨み呪いつづけましょう。世界のかげはわたしの身体、せかいの影はわたしの目。どこへ行っても逃げ場はない。恨まれ呪われつづけなさい。おやふこうものの鬼子、『いつか』」

 呪いの言葉を残し、"影の魔"常世は地面に溶けるように姿を消した。乙瓜はそれを怪訝な顔で見送り、そんな乙瓜に魔鬼が言う。
「なんだ今の? 不穏だな」
「ああ。……けど文句あるならかかってこいってんだ!」
 はっきりそう言い切って、乙瓜はフンと腕組みした。

 それ以上、誰も何も言わなかった。
 そしてその日はそれっきり、大きな騒動が起こることはなかった。
 破壊された体育館や、グラウンド各地や、植木、前庭……あちこちの修繕の手配と手伝いをしている内に、本来の予報通りに雨が降り出して。
 まるで全てが洗い流されて行くようだった。まるで泣いているようだった。
 嬉し泣きか、悔し泣きか。一通り降り頻った雨の後で。

 美術部らはいつも通りの明日・・を迎えた。



(第十環・エクストリーム・完)

HOME