怪事廻話
第十環・エクストリーム③

「…………ここは」
 が意識を取り戻したとき、そこは己が最後に記憶する場所ではなかった。
 やや湿り埃舞う地面の感触とは異なる固い地面。それがワックス剥げかけのフローリング材であると彼が判断するのにそう時間はかからなかった。
(建物の中……? 何故……)
 彼が疑問に思うと同時、一つの声が降り注いだ。
「目が覚めた?」
 と。彼のよく知る者の声が。
 その声に彼は己の現状を悟り、そして言った。
「何故。何故助けた。……水月スイゲツの」
 呟くように言って、彼は、十五夜音月は見えない視界の中で身体を起こした。
「舐められたものだな。拘束すらされていない」
「身体はね。でも寝てる間に"能力拘束"を打ち込んだから。……妙な気は起こさないで」
「…………」
 彼らが未だ"水月"と呼ぶ水祢の言葉の後で、音月は手を突いたままの床を指先で静かに二度叩いた。彼は生まれつき"光"を見ること叶わなかった代わりに物体の位置や温度を精密に捉える感知能力を持っていたが、煙の気配が消え去った今この場所でも、彼に判るのは音が響く範囲のみ。
 自らを見下ろすように水祢が立っていて、周囲には椅子や机があることくらい。やや離れた場所、恐らく壁を隔てたどこか別室に人の気配がいくらか感じるが、能力が充分に発揮されていればわかるそこまでの距離はわからない。そして……普段ならば黙っていても感じられる、兄・杳月の感覚がそこにない。
「……杳月は死んだのか」
 絞り出すように音月は言った。けれども言葉を受けた水祢は小さく息を吐くと、「まだ気絶しているだけ」とそう答えた。
「厄介な腕を飛ばしたから連れて来た。お前と同じように"能力拘束"の処置をしたけど、一緒に置いておくとなにするかわからないから離してある」
「…………。何故助けた。恩を売ったつもりか」
「まさか。全部終わった後で【月】側に責任を取る奴が一人も居なくなったら困るから連れて来るだけ。……お前らは比較的話が通じると思ってるから。元・同期として」
 水祢は淡々と告げて、それから靴を鳴らして窓辺へ移動した。その音を耳で追って、音月は問う。
「マガツキ様を倒せるとでも?」
「兄さんと美術部は負けはしない」
 水祢は即答し、更に言葉を続けた。
「お前らは結局、曲月嘉乃の夢物語に乗っかって、自分たちの好き勝手にしようとしていただけの烏合の衆。曲月様曲月様って言いながら、結局自分のことしか考えてないから……他者を雑に使い捨てるし使い捨てられていく。……今この瞬間曲月嘉乃の頭の中に、お前のことが僅かでもあると思う?」
「…………。お前こそどうなんだ水月の。お前こそ兄の理想に乗っているだけではないか。一時いっとき我らに加わったのも、偶々たまたま兄と衝突し、傷付いた心を埋める為の憂さ晴らしができれば、なんでもよかったのだろう? そしてそれを更に兄の為と離反した。お前こそ自分勝手で他者のことなど考えていないではないか。そのお前にどうこう言われる筋合いはない」
「そうかもね」
 水祢は一緒にしないで、とは言わなかった。静かにそう答え、そして再び窓の外に目を向けた。
 そこから視える、遥か上空の決戦の舞台へと。

 その時窓の外を見つめていたのは水祢だけではない。
 校舎に退避した多くの妖怪たちが、逆転の希望を託され飛び立った美術部の居る空を見つめ見守り願っていた。丁度北中の外で、大きな異変に飲まれた古霊町の子供たちがそう願っていたように。彼らもまた願っていた。
 勿論、美術部に関わり深かった者たちも。
 三階のとある空き教室から空を見つめ、天狗少女のほとりは扇を握り締めていた。
 元々人間を少し見くびっていた彼女は、あの六月初めの戦いから美術部を、特に単身封印された退魔宝具の開放に向かった深世のことを認めていた。
 封印領域へ向かう前の深世の言葉、「今度は互いをちゃんと知るために話でもしようよ」。それを律儀に守った深世と互いのことを話し合い、どちらもはっきりそうとは言わないが、既にすっかり友達と言えるような間柄になったのではないかと感じていた。
 元々プライドだけで故郷の山を飛び出して来た彼女は、一族の為と理由づけながら、本当は故郷で最も年若く侮られがちな自分というものを誇示したかったのだ。単純に言ってしまえば、自分のことしか考えていなかったのだ。……だが、歩深世は違った。歩深世は口では愚痴っぽく言ったりするが、"誰かの為に""行動できる"人間だった。それは話せば話すほど明らかで、故に深世は勾玉に認められ、危険しかない封印領域から二つの退魔宝具を持ち出すに至れたのだ。
 ほとりは己を恥じ、そして何故彼女の家系に丙への恩が語り継がれているのか、その意味をやっと理解した。
 丁丙もまた"誰かの為に""行動できる"者だったのだ。思えば丙がほとりの血族に対して何かを要求してきたことなんて、それこそ今年になって助力を請う書状が届いたくらいだ。一族も丙への恩義を語り継げど、だからといって掟として丙に仕えるようなことは強いなかった。恐らく始まりの先祖との間にそうした約束が成されたのだろう。"一時の感謝"が"代々の義務"になってしまわぬように。"押し付けられた義務"が"不満"になり、になってしまわぬように。
 感謝は忘れない。けれど強制はしない。大義は自分を正当化するものではない。損得ではなく、困っている誰かを助けられる者になれ。――きっかけとなった先祖がほとりら子孫に伝えたかったのは、きっとそういうことだったのだろう、と。
 それは小さな子供にも理解できる道徳であり、美徳であり、理想である。理想であるが、実行は難しい。そもそもだれもがそんな美徳で生きているならば、そんなことをわざわざ伝え教える必要はないのだ。
 ……だが、歩深世はそれができる人間だった。彼女だって誰かと口論になったりするし、時には苦し紛れの嘘も吐くし、決して理想のそのままの綺麗な人間ではない。けれども、友人が危機に陥ったとき、迷っても悩んでも助けに行くという判断が出来る人間性は――だいぶ美しい。丙が彼女に目を付け、薄雪媛神が大事な勾玉を与えたのは必然だったのだ。
 ほとりはそんな深世の人間性に触れて、なら自分は誰の為に何が出来るのかを考えた。沢山考えて、幾つもの昼と夜が過ぎて――そして迎えた今日、彼女は思った。深世の助けになりたい、と。
 けれども。彼女が敵の大将・曲月嘉乃との戦いに飛び立った今、ほとりは思う。自分は本当に深世の助けになれただろうか、と。
 対して交流のあるわけでない篤風天狗が深世を庇って煙の中に落ちて行った直後、合流したほとりに対して深世はこう言った。「助けに行こう」と。
 ほとりは深世を思ってわざわざ危険な煙の中に入って行かない方がいいと止めたが、深世の意志を変えることはできなかった。そしてその危険な勇気の果てに、彼女は篤風天狗を救出して見せたのだ。
 諦めるな。深世は何度もそう叫んでいた。煙の中で途中出会った狸の二人組も同じ言葉でほとりを諭して、遂にあの邪魔な煙を断ち切ることに成功した。
(……なにか得た気になっていたけど、私には勇気と諦めない心が足りなかった。こんなときになってまで、まだ教えらえてばっかりだ。私は深世の決断に乗っかっていただけ、全然助けになってない……!)
 ほとりは奥歯を食いしばり、もはや自分の助けの及ばぬ場所でチカチカと輝く六つの光をただ見つめていた。
 彼女と同じ教室の中で、得物を失った小鈴と電八、深世に大丈夫だからと地上に残された雷獣、夜雀兄弟、閃光で霧散した状態から復帰しつつある青行灯が、同じ光を見つめている。
 誰もが皆なにも言わなかったが、誰もが皆もう戦いの行く末を見守ることしかできないことを歯痒く不甲斐なく感じていた。

 そんなときである。
 黒い穴のようなものが教室の中心にぽかりと開き、その内側から緑の髪が――草萼嶽木が顔を覗かせたのは。
「ちょっといい?」
 その唐突な声掛けに、美術部らの戦いに集中して見守っていた各々は皆びくりと肩を震わせた。
 しかし彼らを驚かせた張本人である嶽木は大して気にする様子もなく、相も変わらずボロボロの姿と平然とした表情のままに言葉を続けた。

「まだ動ける子、ちょっと来てくれないかな。美術部の為に力を貸して欲しい」

 そうして謎の黒穴に手招きする嶽木を見て、妖怪たちは――ほとりは――力強く頷いた。



 嶽木が校舎内の妖怪を促し動き始めた頃、大霊道上空の戦いもまた新たな局面を迎えようとしていた。
「まあどのみち君は来るだろうなと思っていたよ」
 曲月嘉乃は因縁の草萼火遠を見つめてニヤリと笑い、盾代わりに捕まえた乙瓜をあっさりと開放し、ゴミのように投げ捨てた。
 唐突な開放とそれまでに積み重ねて来たダメージで、乙瓜は即座に飛行体勢に戻ることができなかったが――
「乙瓜ちゃん!」
「乙瓜ッ!」
 それを遊嬉と魔鬼が支え受け止め、どうにか事なきを得た。……だが、支えた二人も二度に渡る槍の衝撃波で傷付いている。
「ありがとう、大丈夫だから」
 乙瓜は彼女らに礼を言って、再び自分の力で翼を動かしなんとか空に留まった。そんな彼女らを眞虚がチラリと見て、更に嘉乃の関心が現在自分たちでなく火遠に向いていると判断すると、嘉乃に悟られぬように護符を放つ。
 封壊の回復符。戦況が厳しいとなかなか放てないその護符を飛ばし、眞虚は勾玉を握りしめた。
 禍津破の六勾玉は、元々六個一組の退魔宝具である。ひとまとまりのセット品である為に不思議な繋がりがあり、あの煙の中のような極度の感知妨害に晒されていなければ、所有者一人一人の思いを念で繋げることが出来る。

『"回復"飛ばしたから使って』
『ありがとね眞虚ちゃん。使わせてもらう』
『みんな今の内に距離取ろう』

 彼女らの中だけに伝わる交信をしながら、美術部は嘉乃から距離を保ち、それぞれの得物を構え直した。
 だが、嘉乃はそんな美術部を見計らったようにチラリと見てニヤリと笑う。
「やっと立て直したかい。それじゃあ続きと行こうか」
 言って指をパチンと鳴らすと、嘉乃の後ろ髪が変形した。幾つかの房に別れた毛の先が、水祢や嶽木、そして誰より嘉乃に吸収された異怨が持っていたような古木の腕へと形を変える。その数八本ほど。
 それを見て、一早く反応したのは火遠である。
 彼は自らの大姉から奪い取られたものであろうその能力を見て表情を更に険しくし、その上でやや対応が遅れるであろう美術部を守る為、無言のままに結界を展開した。

 退魔結界・銀星改。
 彼が最初の師匠とも呼べる高僧に教わった護符結界を、二人目の師匠・丙のインチキ陰陽術と、己の妖力で改造改良した"技"。

 名の通り銀色の輝きを放つ護符群を美術部各員の前面に配置し、自身は崩魔刀を構え直して天を睨む。
 不敵に笑う曲月嘉乃の更に上空――そこには依然として"影の魔"の触手伸びる空間があり、大霊道から世界を塗り替える為の力を搾り取り蓄えようとしている。
(アレを止めないといけない。下からちまちまやっても再生されるだけ、けれど深部に光を当てれば怯ませることくらいはできる!)
 火遠は一つの作戦を考え付いた。けれどもそれを実行する為には曲月嘉乃の意識を断続的に影の魔から逸らさなければならない。
(難しいが――やるしかない!)
 どの道、大霊道を封ずる為にはそれを阻止する理由を持つ嘉乃の動きを封じる必要がある。今この局面でそれが出来ないのならば、封印の術なんて持っていたとしても勝ち目はない。
 思い、火遠は乙瓜に念を送った。
 乙瓜はそれに気付いて頷き、それから勾玉の力で皆に作戦を共有する。
 だが、その瞬間。
 火遠の『銀星・改』が一瞬で崩壊する。纏っていた銀色の光を失ってただの紙切れと化し、地上で口を開ける大霊道に向かってひらひらと落ちてゆく。
「なっ……!?」
 驚愕する乙瓜を始め、眞虚や、なにより術者である火遠には、その様子に覚えがあった。当然だ。何しろ、つい何分か前までは皆似たようなものの影響下にあったのだから。……そう、"術式妨害"の。
 もしやと顔を上げる彼女らの耳に、嫌な笑み混じりの声が響く。

「――急々如律令きゅうきゅうにょりつりょう。対護符式攻撃符」

 その声に、誰よりも先に反応したのが乙瓜だった。忘れようもない嫌味な声に目は限界まで見開き、首はぐるりと声の方に向かう。
 次いで魔鬼が、火遠が。行く行くは美術部の皆が。それぞれ怒りや怪訝な感情を胸に顔を向けた先には――女の顔がある。
 女が居た、のではない。女の顔があったのだ。
 丁度嘉乃の背中から生えるように。女の上半身だけがそこにあった。
 その異様な姿に他の五人の美術部が驚き言葉を失う中、乙瓜だけは怒りの感情のままに彼女を睨んでいた。

「……姿を見せねえと思ったらそんなところにいたのか」
「そうですの。貴女方のお召し物のように、お父様・・・のお召し物もお母様・・・謹製の特注品ですのよ」
 女は――琴月亜璃紗はうふふと笑い。両手いっぱいに護符を持って、邪悪に目を細めた。

「貴女方の浅はかな考えなどお見通しですわ。お母様はお父様が護ります。そしてそんなお父様の死角を、このわたくしが守るのです」

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