シャリンシャリンと鈴の音響く戦場に、ベベンと鳴くは弦の音。
術式攪乱の独奏会に混入した異音に、奏者である葵月蘰は不愉快そうに顔を歪ませる。
「どちら様だか知らないけれど、妾のコンサートに変な音を混ぜないでくださるぅ?」
と、彼女が冷たく言って睨む煙の向こうで、知ったことかと再び弦が鳴いた。
ベン、ベベンと。
そしてその音に続くように、二人の声が、男女の声が響き渡った。
「「東西東西!」」
舞台芝居のように大袈裟な抑揚で。ぴたりと完璧に重なったタイミングで。
直後またベンと弦が鳴り、男の声が語る。
「かき鳴らしましたるは琵琶の音、ひとさまの認識を妨げる魔性の音。なれど全てがもくもくと立ち上る煙に妨げられている今ならば、黙々妨げられる認識の、崩しを崩す音色となりましょうや」
ベンベンと弦が鳴り、続けて女の声が語る。
「妨げを妨げれば暗き場所も明るく照らされ輝きましょう、霧も晴れれば綺麗さっぱり清々と、彼方遠く富士の御山も見渡せましょう」
ベーンと長く弦が鳴き、再び重なる二つの声が「御清聴」と繰り返す。しかし一向に姿を現さない声の主たちに、蘰は苛立ち、そのままに走り出した。
「なにを屁理屈をこねているか知らないけれどねぇ! ……姿を現しなさい、二人まとめて黙らせてあげるわ!」
怒りに叫ぶその手で鈴生りの杖を振りかざし、腕には神域で深世らを襲ったときのような硝子パイプをにょきりと生やして。
半ば異形の姿に変わって向かってくる彼女を前に、煙の中の声は変わらぬ調子でこう続けた。
「ええ、確かに屁理屈でございます。けれども私たち妖怪の理は所詮屁理屈、舎密の必然の隙間に潜り込んで世界の認識さえ騙せれば、【星】の力なんてなくともある程度の無茶は通せるのでございます。お忘れですか?」と、男の声が。
飄々と言うその声からは、蘰の撃ち込む見えざる弾丸も振り回す杖の攻撃も、まるで効いている様子がない。更に女の声も続く。
「自分たちのことすら良く知らず、人間を打ち倒すために半端に人間の真似事などしていたから忘れてしまったんじゃあないですかい? この国では『ばけもの』は『化け』『化かすもの』と字を当てて、妖怪とは即ち『怪しいもの』であり『不思議なもの』。決してヒトより強く恐ろしい存在だけを指す言葉なんかじゃあございません。つまり」
「「有ると思えばそこに在り、無しと思えばそこに亡し――ということなのです」」
そう言い切った二つの声は、煙に紛れて蘰の周囲をぐるぐると回っているようだった。まるで翻弄するように、愚弄するように。
蘰はそんな彼らへの怒りを保ったまま、けれども流石に様子がおかしいと感じ始めていた。
何故もなにもない。未だに声の主の姿が見えないのだから。
蘰の両目にはアンナの持つゴーグルと同等の機能が埋め込まれていて、故に感覚を遮る煙の中でも問題なく行動できるようになっている。神域で敗れた彼女をアンナが即で回収したのも、目の秘密を【灯火】陣営に解析されることを恐れたからだ。しかし、だからこそ、その両目をもってしても捉えられない相手がいるというのはあってはならないことなのだ。
(……一体どういうことなのかしらぁ?)
蘰は一旦攻撃を止め、冷静に状況を見直そうとした。……自分に視えないはずがない、これはなにかの間違いだ、冷静さを欠いてあらぬ方向に攻撃しているだけ、そう自分に言い聞かせながら。
葵月蘰は焦っていた。
元来、彼女は非常に非力な妖怪である。
長く大事に吊るされていた硝子の風鈴に宿った付喪神であり、しかし大事にしていた元の持ち主が亡くなると同時にあっさりと打ち捨てられた。当然自分を捨てた人間を恨みもしたが、本体が脆い硝子である故に復讐することも叶わず。恨めしくやるせなく彷徨っていた中で【月喰の影】に拾われ、人間に似て且つ人間より強靭な身体を手に入れた。
はじまりは小さなことだった。けれども彼女は身体を強くして、強くして、もう二度と誰にも捨てられない自分になろうとして、人間の都合に泣かされない自分になろうとして、実際そうなったつもりでいた。
――故に。その身体が打ち負かされるようなことは、彼女にとってあってはならないことだった。
身体は彼女の誇りそのもの。
神域での歩深世の反撃で傷つけられたその誇りに更なる補強と改良を重ね、蘰は今度こそ万全の自分を作り上げたつもりだった。
だが、その誇りは今ここで再度傷つけられようとしている。
(あってはならないのよこんなことは、妾が、この妾が……!)
蘰は強く奥歯を噛みしめて、それから杖を一旦捨て、硝子パイプの砲身飛び出す腕を水平に伸ばした。
一点で当てようとするから失敗する。ならば全方位に撃ちまくればいい、それだけの話じゃないか――と。そう考えながら。
そして。
「……この葵月蘰を見くびったこと、後悔させてあげるわぁ!!」
彼女は叫び、砲身の向くままの全方向に弾丸を発射した。
葵月蘰の見えざる弾丸の正体は圧縮された空気そのもの、この地上に空気の絶えない限り打ち出すことができ、故に今この瞬間彼女は無尽蔵の機関銃と化したのである。
勢いよく射出される空気弾は周辺の人形兵を無差別に撃ち抜き、蘰の耳元のスピーカーからは兵装車両内のアンナの悲鳴にも似た叫びが響く。だが、蘰は止まらない。
すぐ側に居るはずの二人を撃ち抜かなければ、仕留めなければ、倒さなければ。状況は依然として自分たちに有利であるはずなのだから……!
そう信じて撃ちまくる彼女の耳に届くのは、無情にも消耗すらしていなさそうな芝居がかった張り声二つ。
「だから言ったじゃないですか。妨げを妨げればそれは即ち道となる。化け物の本分ば『化け化かす』こと」
「貴女は僕らに気を囚われたばかりに大事なことを見失っているのです。それが唯一の勝機でした」
二つの声は交互に言って、それから「さあ!」と声を合わせた。
「「その勝機に! さあ!」」
瞬間、戦場のグラウンドに突風が吹き抜けた。
突風は辺り一面に広がる煙を巻き込んで天に竜巻のように昇り、蘰を、人形兵を、兵装車を、そこに潜む全ての【月喰の影】戦力を丸裸にした。
「しま――」
そこにきて、漸く、やっと、蘰は敵の狙いに気付いた。しまった、と。
(奴ら術式攪乱を――)
術式攪乱に専念していた蘰の気を逸らせること。彼らの狙いはそれだけで、自分はまんまとその挑発に乗ってしまっていたのだと。
実際、全く別の位置で戦っていた眞虚が結界を広げることが出来るようになったのはその為だった。
視界を狭める煙の中、どこからともなく響いてきた琵琶の音色を聴きつけて、彼女はその手に握った護符に力が戻るのを感じ、絶妙なタイミングでそれを放つことができたのである。
そして眞虚が術を使えたということはつまり、全ての【灯火】陣営の術式使いが力を取り戻したということで。
「残念だったね、そっちの攻撃は通っていないのさ!」
煙の吹き飛ばされた向こう側から、緑の影が、草萼嶽木がそう叫ぶ。回復する体の代わりにボロボロに汚れ破れた服を纏った彼女を中心として護符が展開し、蘰の周囲は結界壁に覆われていた。
結界は煙の中でじわじわと蘰までの距離を詰め、逃げられないように囲っていた。
その絶望的な光景を見て、蘰は思う。冗談じゃないと。
(冗談じゃないわよ、妾が、……妾がこんなところで倒されるなんてことは……、あってはならないことなのよッ!!)
銃撃の為に一度手放した杖を拾い上げ、蘰はそれを天高く掲げた。再び術式を惑わし打ち崩す為に。再び優位に立つために。
掲げる杖先が示す天の頂では、太陽は既にもう半分以上が影の中に没している。辺りはもう夕方ほどに暗く、黒雲から伸びる触手は大霊道の禍々しい力を順調に吸い上げ、【月喰の影】の悲願が達せられるまであと少し、あと少しなのだ。
(あと少し、あと少しなのよ! だから……っ!)
蘰は杖を握る手に力を籠め、それを振り下ろさんとして――それは叶わなかった。
結界越しに。どこからともなく現れた一つの影が、蘰に向けて光るなにかを掲げて見せた。
その影は――怪我だらけで満身創痍の歩深世。そして光るなにかの正体は――退魔宝具・禍津破祓魔鏡。
「――もう、これ以上……させるかぁッ!」
深世がそう叫んだと同時、手にした鏡から強烈な、【月喰】の放った閃光音響弾よりも強烈な光が奔り、息吐く間もなく蘰を飲み込んだ。
あっという間に、あっけなく。
最後に蘰が思ったのは、「嘘?」というシンプルな感想。最後に聞いたのは耳元のスピーカーが中継するアンナの叫び。
『避けて、姐さん――!!』
避けられるわけがない。逃げ場はない。葵月蘰は――――終わった。
深世が手にした禁忌の退魔宝具は無慈悲なまでの力で葵月蘰を焼却した。だがもしもそこに嶽木の結界がなかったら、被害は味方にまで及んだかもしれない。
あまりに恐ろしいその威力を前に、攻撃を放った張本人である深世はその場にぺたりと膝をついた。幹部を倒したものの、まだ戦闘は続いているというのに。けれども驚いたこと以上に、深世の体力はそこで限界だった。
彼女は今まで雷獣やほとりらと共に煙の中に突入し、自らの盾になって閃光を浴びて苦戦する篤風を救うために突き進んでいた。……とはいえ見通しの悪い戦場で祓魔鏡の力を放出することは味方までも傷つけてしまう可能性があるため、先陣を切って襲い来る人形兵と戦っていたのはほとりや雷獣らだ。
けれど深世も守られてばかりではいられない。一ヶ月余りの準備期間で遊嬉に、天狗に、来訪神らにそれとなく教えられた護身術や武器になりそうなもので戦う術を全て駆使し、彼女も彼女で随分な激闘を繰り広げていた。
そしてその激戦の最中、彼女らは例の二人組に会ったのだ。
琵琶を持った、芸妓か舞妓のような出で立ちの獣耳の男。クラシックな探偵助手めいた恰好をした獣耳の女。
深世には二人に見覚えがあった。中学一年生の終わりに遠目で見たきりで、衣装も変わっているが、……けれど確かに彼らに会った覚えがあった。
「桜の木のときの――!」
思わず声を上げた深世に、彼らは――妖怪の歴史を集める少年・慈乃の従者である暦と歴の二匹の狸はコクリと頷いた。
そして苦戦する彼女らに加勢し、一つの作戦を示したのである。自分たちが「さあ」と合図したら、天狗の扇でこの場の煙を打ち払ってくださいと。
それは天狗として何度も試した。ほとりは言うが、狸たちはなんとかするとそう言った。そしてそれは見事に実行され、彼らは本当になんとかしてしまったのだ。
けれどもそれは暦と歴がとりわけ強力な能力を持った助っ人だったからではない。
彼らがしたことは閃光音響弾の影響を受け倒れた妖怪を庇い囮を引き受けたこと、そして敵の攻撃を逃れ回復しつつある【灯火】戦力を見つけ次第『作戦』と『その合図』を伝達して回ったことくらいだ。
だがそれによって分断されていた天狗たちが一斉に扇を振るい、一人では払えなかった煙を払いのけるに至った。術式を乱す鈴の音も消え去り、【灯火】やその流れを汲む護符使い・術式使いもその能力を取り戻す。
全ての煙が取り払われたグラウンドで。
丁丙と烏山蜜香は健在だった。
小鳥眞虚、白薙杏虎、草萼水祢は健在だった。
草萼嶽木はボロボロの身形ながらもその足はしっかりと大地を踏みしめ、膝を折った歩深世はほとりと視力を取り戻しつつある篤風に支えられ、雷獣が寄り添い。
戮飢遊嬉はぼんやりと取り戻した視力で嶽木を見つけて感涙し、左腕を失った銀華は桜の木の上で健在の我が子を見つけて安堵して。
小鈴電八の来訪神二人組も、伝統装束を失い出刃包丁を刃零れさせながらも未だ健在で。烏貝乙瓜と黒梅魔鬼はそんな彼らの近くで、捜していた花子さんとエリーザの姿を見つけて。
あちこちで復帰しつつあった【灯火】の観測手はそんな彼らの姿を次々見つけて胸を撫で下ろした。指揮所で漸く閃光の衝撃から立ち直った一ツ目ミ子も、グラウンドの中にたろさんと闇子さんの姿を見つけて安堵の息を吐く。
そしてヘンゼリーゼは、散った煙の先にすっかり露わになった大霊道と上空の曲月嘉乃、ゲートから伸びる腕の触手を次々に見つめ、最後に地上に立つ一人の姿を見つけてニヤリと笑う。
草萼火遠。仲間を庇いながら小隊規模の人形兵の相手を一手に引き受け戦った彼も未だ健在であり、鮮明となった空に浮かぶ嘉乃を、触手を、昼に在りながら闇に沈む太陽を睨んでいた。
「遂にまた会えたね、曲月嘉乃」
呟く火遠の言葉が届いたのか、曲月嘉乃はふふんと笑った。そして不敵に言う。「だけど君に会うのも今日で最後だ、草萼火遠」と。
「あの煙を取り払うとは、君の駒もなかなか優秀じゃないか。けれども君ももう終わりだ。ご覧よ、この大穴を」
嘉乃は彼の直下に開いた大霊道の大穴を示し、言葉を続ける。
「"影の魔"は間もなくこの力を吸収し終え、皆既日食と共に世に解き放つだろう。全ての人間は死に絶え、彼らに代わる新たなるものがこの地上の思想を統合する。世界に――平和が訪れるんだ」
「……表向きはそうだろう。けれどもそれは箱庭の人形遊びだよ、嘉乃。他者を全て失ったその未来に可能性はない。影の魔は君の願いに添った理想の世界を演じるだけで、……君は本当に一人になる」
「構うものかよ。これから消えゆく君たちには関係のないことさ。……それとも君がやるというのかい? 今更。君が。皆を救う理想郷を作るために、【星】の力を振るってくれるとでも?」
火遠はその問いに答えなかった。けれども表情だけは変えない。戸惑うでもなく、躊躇うでもなく、……ただ怒りと憐憫を込めた瞳を嘉乃に向け続ける。
嘉乃はそんな火遠を見下ろして、ほらみたことかと鼻で笑った。
「やはり君に期待することは何もない。口だけの正論になんの意味があるだろう、なんでもできて恵まれた君の言葉になんの価値があるだろう。……だからね。そんな万能で無能な君に代わって、凡夫の僕ががそれをするのさ。どんなに犠牲を払っても、どれだけ涙を堪えても。……僕がやらなくちゃいけないんだッ!」
嘉乃の表情は次第に怒りに代わっていた。そんな彼と火遠の間に、さっと二つの影が立つ。
「「嘉乃さま!」」
暦と、歴。二匹の狸。元は嘉乃と慈乃、二人の兄弟に仕えていた者。
火遠と嘉乃の直の応報に思うところがあったのだろう、飛び出して来た彼らを見て、嘉乃は驚いた様子もなく「ああ」と言った。
「君たちがそっちについたのは随分前から知っていたよ。まあ昔のよしみで楽に死なせてやるから安心したまえよ。……どこかで見ているんだろう慈乃? 君もだ。君もすぐに影の魔の中に統合してあげよう。僕の大事な弟だからね」
「嘉乃さま……」
恐ろしいことを言い放ち、途端に無邪気な笑顔に代わった元主人の姿を見て、歴は閉口し、暦は愕然と呟いた。
そして兄にどこかで見ていると言われた慈乃は北中校舎の屋上に立ち、変わり果てた兄の姿を、決意を秘めた顔で見つめていた。
その隣には、自身にとっての加害者であり主でもある異怨を失ったてけてけが、口を結んで首を上げる。嘉乃の白く長く伸びた髪を見つめる彼女は、その姿に何を感じたのだろうか。その指はコンクリートを強く掴み、血を流す代わりに皸のようにひび割れる。
彼らの中には悲しみがあり、後悔があった。辛く、けれども失ってはならない、そんな痛みが。
そんな痛みを代弁するように、地上の誰かが大きく声を上げた。
「そんなことさせてたまるか」と。そう叫んだのは他でもない、七瓜の代替として生まれて来た烏貝乙瓜だった。
「お前の、お前らの思う通りになんて絶対にさせねえ! この世のすべてをお前の操り人形になんてさせやしねえ!」
肩で息をしながらも思い切り啖呵を切って、彼女は魔鬼に、美術部に、火遠らに、協力してくれている全ての妖怪たちに向けて、はち切れそうな声で叫んだ。激励するように叫んだ。
「負けらんねえんだよッ!! なかったことにできねえんだよッ!! 意味がないなんて、価値がないなんて決めつけんなよッ! お前が未来の希望を捨てていくなら、俺らはそれを拾ってその先に行くんだよッ!! なあッ!!?」
最後の「なあ」は問いかけだった。だからそれを聞き届けた者は――皆静かに、または短い肯定の言葉と共に頷いた。未だ傷付き動けない者も、既に出来ることの全てを尽くしてしまったものも、強くなくとも、弱々しくも、確かに頷いていた。
草萼火遠も不意打ちのような乙瓜の叫びに目を見開いて、それから「ああ」と微笑んだ。
なにが無意味で無価値であるか。それを決めるのは嘉乃ではない。そして誰か一人の一存でもない。
吐いた言葉を意味あるものにする為に、価値あるものにする為に。歩き始める意思こそが、そこに意味と価値を持たせるのだ。
(ありがとう乙瓜。君は約束通り俺に力を貸してくれた。だから俺も自分一人の意地ではなくて、君たちの未来を閉ざさない為にに。君たちに力を貸して、この世界の明日を護りたい。――だから!)
だから。火遠は乙瓜に返すように、美術部に、師に、姉に、弟に、嘉乃に、敵味方全てに。この北中の敷地に集う全てのものに届くように、大きく叫んだ。
「今こそがッ! いざという時なんだッ!!!」