怪事廻話
第九環・冥府霊道カタストロフ⑦

 校舎内の救護班と共にいた薄雪は、今にも壊れそうな窓の外を真っ直ぐに見つめ、そして視覚と感覚を遮る煙越しでもはっきりと伝わるその気配を感じていた。
 太古の昔、他ならぬ薄雪自身がこの地を支配していた邪神諸共封じ込めたもの。何百年何千年と経て復活を繰り返し、その度に強い力を持った神官や巫女と共に封印してきた黄泉に通ずる大穴。
 伝説はいつしか尾鰭が付き、現代の古霊町に伝わっている大穴の伝説は少々違った形になっている。けれども、それでも、どんな伝説に変わろうとも、薄雪がその気配を間違うはずがなかった。
 噴火のように破裂し飛び散った地面の底から流れ込む、くらく冷たい瘴気。冥府の気配。その底に落として封じた邪神の怨念、悪鬼悪霊の気配。

 それらの気配は北中を囲う結界すらも超えて町全域へと流れ出し、古霊町は太古の昔へと回帰しようとしていた。

 雑霊彷徨う大地は不気味に震動し、半分を超えて影に蝕まれる太陽を抱く空は、夕方でもないのに赤く禍々しく染まる。
 住民たちは突如町を襲った恐怖と混沌に叫び、涙し、怒り、悲しみ、今起きていることの全てが夢であれと願った。
 ……しかしそんな願いも虚しく、町はくれゆき闇に沈み行かんとしている。

 曲月嘉乃はそんな阿鼻叫喚の古霊町を眺め、それから直下の煙とそれを飲み込むように口を開いた大霊道を見て満足そうに笑った。
 大霊道を開放した幹部たちは攻勢に転じており、葵月蘰の術式攪乱が【灯火】の護符結界を破壊し、残存妖怪は次々と十五夜兄弟の狭空間破壊の餌食となった。
 自ら戦場に降りた草萼火遠や丁丙も長くは持つまい。
「いい気味だ。君はその下らないエゴの為に多くを失う。失って絶望に消えて行くがいいよ」
 呟き、嘉乃は黒雲のゲートから飛び立ち、大霊道の真上に浮遊した。

「さあお吸い。愛しき"影の魔"、愛しき【彼女】、愛しき我が妻。大霊道よりいずる世界を覆う瘴気を取り込み、その力で世界の全て、生きとし生ける者たち全てを我らが子と成そう」

 彼の語り掛けに応じて、黒雲のゲートは天に大きく口を開ける。まるで空にもう一つ大霊道が開いたかのように、雲の形を捨てて、ぽっかりとした黒穴を。
 そんな空の大穴の中から、人の腕の形をした、けれども人の腕ではない、長い触手がうぞうぞと伸びる。触手は地上の大穴に向かい、そこから何かを取り込むような動きを見せた。……まるで菓子箱の中の菓子を一つ一つ口へ放り込むような、そんな動きを。
 明らかに異様なことが起こっている。けれども地上に生き残っている【灯火】の勢力は、煙の中で未だ健在な人形兵や幹部たちの不規則な攻撃を避け耐えるのに精いっぱいで、誰も天の穴や曲月嘉乃に近づくことが出来ないでいた。美術部さえも、火遠すらも。
「……ちきしょうが、なんて的確に術式発動を妨害しやがる……!」
 自身や味方を守る為の結界を幾度となく破壊され、丙は忌々し気に周囲を睨んだ。周辺の状況は煙に阻まれて依然として把握しきれないが、野球部のバックネットが側にあることから校庭内の大まかな位置は把握できていた。
 丙の現在地は杏虎の陣地のすぐ側だった。……しかしこの混戦の中、杏虎が元通りの立ち位置に居るとも思えない。
 元々美術部の指定位置は、大霊道顕現時に即座に六点で囲えるようにと決められていたのだが……まさに今というタイミングで誰も互いの位置や安否すらも把握し切れていないのは、【灯火】陣営にとってはっきりと最悪の状況であった。
(欠員がなければいいのだがな……、いや、今は他人の心配をしていられる状況でもないか)
 陰陽術もどきの術式使いである丙にとって、葵月の術式攪乱の鈴の音が響くこの状況は盾と剣を同時に奪われ丸裸にされたも同然。過去幾百の弟子らと違ってこれといった格闘術や武器も持たない彼女にとって、これは致命的だった。
(元はお猿だ、云百歳と老いぼれても只の人間ヒトよか動ける自信はあるにしたってこの数はねェ……)
 一、二、三……煙の中から新たに躍り出る人形兵の姿を前に、丙は乾いた笑いを零した。
 初めからわかっていたことだが、敵幹部はこの煙に阻まれることなくグラウンド中の様子を把握している。恐らくは人形兵を操るアンナが後付けのカラクリを作ったのか、それとも改造手術か。定かでないが、六月の神域の戦闘で深世に敗れた葵月を急いで回収した辺り、秘密はそこにありそうだ――丙はそう推察するが、既に状況は起ってしまっており、悠長なことを考えている暇は無い。
 どうにかして生き延びなくては。
(師匠だなんて呼ばれる身として、少々みっともなくもあるが……)

 丙は背にしたバックネットを後ろ手でがしりと掴んだ。
 攻撃に転ずる為ではなく、逃げて、生き延びて、この場を生き延びるために。元々猿の身である彼女ならば、このバックネットを登って飛んで、どこかしらに逃れることは出来る。
 だが、逃れた先に敵がいない保証は無い。
 賭けだった。けれどもやるしかない。
 丙は覚悟を決めて、腕に力を込めて――

「丙さん伏せて、ぶった切ります前衛まとめて!」

 突如起こった声に、次の行動は阻まれた。
 一瞬の呆然と、一瞬後の行動。
 バックネットから手を離して身を伏せる丙の一瞬前の頭の位置を、金色の光が駆け抜ける。
封魔ほうま金剛こんごう三鈷銛さんこせん! "悪鬼裁断・一刀両断"ッ!!」
 バックネットを横一文字に駆け抜ける黄金と、遅れ続く破壊の音、破壊の気配。
 それらが丙の頭上すれすれを駆け抜けて、人形兵をすっぱりと切り裂く。身体を上下に分断された人形兵はばたりと倒れ、それでも命令に従おうとして手足をバタバタと奇怪に動かす。しかしどうあがこうと破壊された身体は元の状態には戻らない。
 人形たちが奇妙にもがく中、丙の背後で笑い声が上がった。
「……あっはっは! ざまあみろってんだ、人間様をおナメになるなよぉ!」
 声に続くのはどすんと重い何かを地面に落とす音、それに伴う軽い振動。やや遅れて切断されたバックネットがゆらりと傾き、残された下部に引っかかって丁度丙を守るような形に倒れ崩れる。
「無事だったか……!」
 丙はゆっくりと顔を上げた。しかし自らを助けた相手が何者かは確認するまでもなくわかっている。
 案の定、そこに居たのは丙の予想通りの人物だった。
「あったり前ですよ。確かに美術部じゃないけどあたしのことなんだと思ってるんですか」
 声の主、そして先程の一撃を放った張本人・烏山蜜香はニッと歯を見せ、余裕ぶって親指を立てて見せた。しかしその傷だらけの体やぼさぼさの髪の毛はとても余裕そうには見えず、彼女のここに至るまでの戦いの激しさを沈黙の内に物語っていた。
 けれども蜜香自身はどんなに大変だったかなんて苦労話は語ろうとせず、「間に合ってよかった」と息を吐き、それから彼女の黄金の退魔宝具、巨大な三叉銛の姿に開放したそれを再び振り上げた。
 そして自ら破壊・倒壊させたバックネット前に飛び出し、人形兵の残党に立ち向かいながら声を張る。
「ここに来る途中で乙瓜の友達の眞虚ちゃんて子に会いました! 傷とか結構治してもらって助かった! あの子は元気です! ……とぉッ!」
 二、三体の人形の首が中に舞い、煙の中に消える。蜜香の話は続く。
「――それと! 杏虎ちゃんって子にも会いました! 煙で全然見えないけれど、この空の上にはあの子が放ってる矢の弾幕がある! あの子も諦めてない! 少しの間耳がおかしかったけど今は平気って、伝えてって、そう! ――ッ」
 その時蜜香の左頬と左耳たぶを人形が放った弾丸が掠め、耳たぶの肉が一部吹き飛んだ。
「……やったなこの……!」
 蜜香は痛みよりも先に来た怒りを活力に三鈷銛を振るい、銃弾を放った人形とその両隣の人形をまとめて叩き壊した。耳たぶを気にしたのは、その後である。
「ああ、もう……めんどくせえなもう……! 絆創膏もガムテも今持ってねーっての!」
 触れた手にべたりと付いた血を見て口悪くそう吐く蜜香は、まるで彼女のはとこのようだった。
 しかし悪態を吐きつつもやけに静かな様子の蜜香に、丙は悪い予感を覚えた。そして漸く倒れたバックネットの隙間から這い出すと、恐る恐る蜜香を見上げた。
「……おい蜜香よ、あまり無理するなよ?」
「……………………」
 蜜香はすぐには答えなかった。けれども、少しの沈黙の後に顔を上げ、丙を振り向かずにまだ大勢居る人形兵の方を向いた。
「大丈夫丙さん、死んでないから全然平気。足も手も動くし目も鼓膜も頭も無事。くっそ痛ぇのは生きてる証拠!」
 怒りを通り越した楽し気な声で彼女は答え、それから奇声を上げた。その奇声を形容するならば、薩摩示現流に見られる猿叫に似ていたが――果たして彼女がそれを意識したのか否か、それはわからない。
 彼女は自ら人形兵の群れの真ん中に突撃すると、三鈷銛を振り回して手当たり次第に人形を攻撃しはじめた。
「てめェらいいよな!? 痛覚ねえもんな!? こちとら痛ェんだよ!! 傷とかなかなか綺麗に治んねえんだぞオラ!!? わかってんのかよおォ!!!? 返せよ耳たぶ、あたしの耳たぶぅううううぅぅぅぅ!!!!」
 まるで我を失ったように人形を斬り叩き組み敷き壊す蜜香の姿に、流石の丙も若干引くところがあった。――が、それとは別に懸念すべきことが脳裏に過り、彼女は蜜香に向かって叫ぶ。
「……気を付けろ蜜香! あまり騒ぐと空間破壊が飛んでくるぞ!」
 そう、それは大霊道開放を感じた直後からこのバックネットサイドに辿り着くまでに幾度となく目にしてきたもの――十五夜兄弟の狭範囲攻撃に対する懸念だった。
 一箇所に立ち止まればたちまち攻撃の餌食になる。そうでなくとも兄弟の弟には探知能力があるというのに、今の蜜香のように大きく怒声を上げていては猶更なおさら敵に攻撃してくれと言っているようなものだだ。一刻も早くここから離れるべきだ。
 丙はそう思って声を上げたのだが、しかし蜜香は「いや」と叫ぶ。
「問題ない! このまま押し切る!」
「……な――!?」
 何を馬鹿な、丙はそう言いかけた。けれども丙が言うより早く、蜜香は暴れながら言う。
「空間を壊す敵、あれこっちの正確な位置分かってないですよ! 多分煙はあいつらにも有効で、探知する方は大分鈍ってる。それに空間壊し続けて煙がなくなったらあいつらもヤバいから、きっとあんまり攻撃しないように言われてるんだ!」
「――にをばかな……、なんだと!? 確かなのか?」
「そんなの知るわけねーじゃないですかッ! でも時々撃ってきてるのはきっと牽制ですよ。攻撃手段を封じられてると悟られない為の! そしてわかってても、人形が密集するところは絶対攻撃しないはずなんです! なぜならばぁッ!」
 蜜香は崩れた姿勢のまま大腿に絡み付いてきた人形の額に三鈷銛の石突を振り下ろし、そして言った。
「人形兵の手数が大きく減るのも良しとしないはずだからですッ!」と。
 変態。蜜かは小さく呟いて頭の砕けた人形を蹴り飛ばして振りほどき、それから漸く丙に振り返った。
「……まあそれを差し引いても攻撃されない根拠はッ! あるんですけどねッ!?」
「根拠とは!?」
 前のめりに叫ぶ丙を見てふふんと笑い、蜜香は人形たちの攻撃を受け止めながら更に叫んだ。
 短く、簡潔に。それだけでは意味をなさず、けれども丙には十分伝わる言葉で。

「眞虚ちゃんと杏虎ちゃん!」

 そう。蜜香がここに至るまでに遭遇していた眞虚と杏虎は煙幕の中に十五夜兄弟を発見し、共にその討伐に向かっていた。
 攻撃に集中できないように杏虎が矢の雨を降らせ、術式妨害下で攻撃手段の限られている眞虚に代わり、水祢がアタッカーである杳月を追い詰める。
「……何故。何故お前たちは諦めない。残りの仲間の無事も知らず、自軍の目的が達せられる保証もなく。何故諦めない、水月スイゲツの」
 水祢の腕を避けながら、しかし表情一つ崩さず杳月は言う。そんな杳月をジトリと見つめ、水祢は言う。
「愚問ね。そんなの信じてるからに決まってるでしょ。俺は兄さんを信じてる。倒れていった奴らも居るけれど、兄さんはきっとそんな奴らの為にも最後まで諦めない。それと同じで眞虚達あいつら美術部なかまを信じてる。……信じるそんなことすらわからないで、お前は何の為に戦っているのッ!」
「何の為――」
 杳月はその時初めて微かに眉をひそめ、そして煙の中に目を遣った。
 分断されてしまった弟の居る方へ。他の何がわからなくとも、彼らは互いがどこにいるか、何を考えているのかだけは生まれた時から感じることができた。
 寧ろ、故に、そのせいで。彼らは他者を信じるということがわからなかった。彼らにとって他者は何を考えているのかわからない恐ろしい存在だ。……だからこそ。彼らは嘉乃の掲げる【月喰】の理想と計画に乗ることにした。

 皆同じになってしまえば、恐ろしいものは居なくなる。
 気持ちは共通すれど同じ視力は持てなかった自分と弟も、これで漸く兄だけが知る色付く景色を共有することができる。弟だけが知る手の触れられない先の感触を共有することができる。

 ――それをするのが、例え自分たちの"似せモノ"だったとしても。

「――……何の為だと? お前になにがわかるものか……!」
 わかるものか。杳月は思う。お前などに。
 けれども水祢は言う。
「知るか!」
 短く、率直に、はっきりと。
 しかし、きっと。例え水祢でなくとも。眞虚であろうと、杏虎であろうと。同じ言葉を返したはずだ。

(何も、何も知らないくせに――)
 杳月は忌々し気に水祢を見つめ、そして手に力を込めた。
 狭範囲攻撃の破壊の力。この距離なら――三十秒だけ集中することができたなら、音月によるロックオンは必要ない。
(消えろ。消し飛んでしまえ)
 杳月は水祢に向けて両手を翳した。あと二十五秒、その間水祢と一定の距離を保てればいい。
 破壊範囲は上下奥行三メートル、27CBM。あと二十秒。
 水祢が距離を詰める。あと十五秒。
 ――仕留めた。杳月は確信して内心ほくそ笑む。あと十秒。今からは逃れられまい。

 杳月がそう思った瞬間、つながっている音月の感覚が叫んだ。
『駄目だ、音月――』
(……なに?)

 何故止める。何故。
 杳月が思ったのと範囲破壊が発動したのはほぼ同時。けれどもその攻撃は水祢を吹き飛ばすことなく。寧ろ、反対に、吹き飛んだのは。

「ばかな……」
 呟く杳月が見たのは、肘から先が消失した自らの両腕。水祢と自身の間に立ち塞がる護符の――小鳥眞虚の防壁結界。
(――術式妨害に遮られて発動できないはず。どうして。どうして)
 驚くにしては冷静にそう思いながら、杳月が最後に見たのは自らに降り注ぐ青い矢の雨。
 そして最後に聞いたのは、鈴の音を掻き消してベーンと鳴る、そう、琵琶の音色だった――

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