怪事廻話
第九環・冥府霊道カタストロフ⑤

 古霊北中学校で世間に知られない戦いが起こっている最中、認識結界の外側にある古霊町には平穏な時間が流れていた。
 しかし9時も幾らか回った頃になると、少しずつ自分たちを取り巻く環境が妙であることに気付く住人が出始めた。
 町外に出た途端、まるで画集のページを捲ったように崩れる異様な天気。晴れている町内もどこか妙に静かで、何故かと考えた人々はやがて夏の環境音と言っていい蝉の鳴き声や、それどころか小鳥や鴉の声までもがないのだと気付く。
 異様なまでに晴れ渡って、異様なまでに静かな町、不気味な町。
 漠然とした不安に包まれた人々は空を見上げ、そして気づくのだ。
 昼の盛りに向けて天高く昇りつつある、夏の太陽の変形に。
 否、見上げた人々の大半は知っていた。その日そういった天体現象が起こることは広く報道されていて、全国的に予想される悪天候のために国内南方の島々に向けたツアーまで組まれていたことも。
 しかし。けれど。空を見上げた人々の大半は疑問に思った。
 果たして、この本州では、関東地方では、こんな時間に、こんな深さまで……欠けるという話だったか? ――と。

「……なにあれ?」
 幸福ヶ森幸呼も、そんな異変に気付いた内の一人だった。
 しかし彼女は呟いた後で、それが自身にとっては未知の原因から来る異変ではないことを思い出す。否、初めから知っていた。知っていたが、思わず口を突いた言葉は疑問の形になってしまったのだ。理解していた。予測もしていた。しかし実際に目の当たりにしたその現象は、彼女が想像していたそれよりもずっと静かで、不気味に感じられるものだった。
(始まった……ううん、もうとっくに始まっている)
 未だに強い輝きを保っている太陽光から目を放し、地上に目を向けて――幸呼は部屋の窓から身を放した。その胸の内側では心臓がこれでもかというほどに脈を打っている。
「……そっか。始まってるんだもんね」
 幸呼はそっと立ち上がると、勉強机の一番上の引き出しを開けた。そこには工作に使う大型のカッターナイフが入っている。
 その刃をカチ、カチ、カチと慎重に、そして工作用としては長すぎるほどに押し出して、幸呼は一度離れた窓の側に、息を殺しながらそろりそろりと近寄った。
 彼女が静かに睨む屋外には、人に泥を被せたような形の黒い不可解なものたちが数体彷徨さまよっている。それが異変に乗じて現れた亡霊の類なのか、人間にとって代わろうとしている"影"の素体なのか、……幸呼には知る由もないが、けれども異様な存在であることだけは間違いない。

 大きな戦いは北中で起っている。けれども、北中の外が安全だとは誰も言っていない。

 学生は夏休みだが世間は平日の真ん中、幸呼の両親は仕事に出かけている。二人いる妹の一人はまだ午前中だというのに居間の真ん中で大の字になって眠っていて、もう一人はその傍で携帯ゲーム機を弄っている。普段屋外のガレージの中に居る大型犬を、遊ぼうと思った妹たちが家の中に入れていたのは不幸中の幸いか。しかしも彼で外の異変を感じ取ったのか、すっかり愛犬弄りに飽きてしまった妹たちの横で、じぃっと屋外を見つめている。
(……もしあの黒いのが襲ってくるようなら、私がみんなを守らなきゃ。……お父さんとお母さんの職場は大丈夫かな、…………大丈夫だといいけれど)
 義務感と不安を胸に、幸呼は自分の手の届く世界を護る決意を固め、カッターナイフを握りしめた。

 明日のことは分からない。明日にはもう今の自分も、家族も、友人も、誰も影に成り変わられて、一人残らず死んでいるかもしれない。
 けれど――そうだとしても。それは、今自分が生きることを諦める理由にはならない。ならないはずなのだ。

 このとき幸呼が戦う決意をした異変・・は、古霊町全域で起っていた。
 徐々に欠け行く太陽と共に薄暗く染まっていく夏の中に、どこからともなく湧き出て来る黒いモノ。その姿は今まで霊感などなかった人々の目にも捉えられ、町は不気味な静寂から一転、あちこちから上がる悲鳴や怒声でパニックに陥りつつあった。
 結論から言ってしまうと、黒いモノの正体は町中に元々存在していた雑霊ぞうれいたちである。北中での戦いとそれに伴う古霊町の異常天候・天の座標のずれがそれまでぴたりと重なり合っていた現世と妖界の間にも影響を及ぼし、本来隠されていたはずのものが姿を見せるようになったのだ。
 やがて雑霊に留まらず、この古霊町に伝えられる様々な魑魅魍魎ちみもうりょうが町に跋扈ばっこするようになる。
 我が物顔で闊歩かっぽし始めた超常現象を前に、多くの人々は叫び、逃げ惑い、家や手近な建物に籠城し、正体不明の彼らの動向に怯えながら警戒することとなるのだ。

 古霊町はあっという間に地獄と化した。
 その様を北中のはるか上空から見下ろして、少年は――曲月嘉乃はふふんと上機嫌に笑った。
 目下、北中の敷地内の草萼火遠と【灯火】、美術部たちは力を温存しながら嘉乃らが降りて来るのを待っている。上空からのダーツ攻撃を防ぐ結界を作り上げ、凶化された先遣隊を各個撃破し、大将格が立ち上がるのをひたすらに待ち続けている。
「そんなナメた真似している余裕はないのにね。……校外は地獄だよ? 君たちが守りたいとぬかす人々は怯え隠れて悲鳴を上げている。そんな受け身の戦いでいいのい? このままじゃ、僕が何をしなくても……間に合わなくなってしまうよ?」
 ――まあ、どっちでもいいけどね。嘉乃はクスクスと笑い、グラウンドへと目を向けた。
「いい感じに古霊町界隈が歪んで来た。もうすぐ凶化先遣隊も完全撃破されてしまうだろうから、次の攻撃に切り替えるとしよう。いい加減単調で飽きてきた」
 言ってパチリと指を鳴らすと、傍らに着物の女――琴月亜璃紗がスッと現れた。
「あら良いんですのお父様? 先遣隊の降下と入れ違いに、何者かがゲートに侵入したようですけれど」
「構うことないさ。本部に入られたところで今更彼らに救える者はない。兵器プラントなら【彼女】の力でまた幾らでも作れるし、そもそもこの戦いに勝ってしまえばどうとでもなる」
「そうですわね」
 亜璃紗は頷き、しかし少し考えるように黙って、それから再び口を開き、敬愛する父に訊ねた。
「……もしも、もしもですわ。もしも負けたら?」
 もしも、という問い。ほんの少しの懸念。けれども嘉乃は鼻で笑って、愛娘にこう答える。
「愚問だね亜璃紗。負けたらなんて考えないのさ。僕たちは勝ちに来ているのだから」
 余裕にそう言い切って、それから少しだけ表情を険しくし、嘉乃は呟いた。「いいや、必ず勝つ」と。
「負けられないよ。負けてはいけない。世界を変えるその為に、犠牲になった者と犠牲にしてきた者のために、積み重ねて来た行いの為に。僕は必ず奴に打ち勝って見せる」
 嘉乃は目許に力を込めて、ある一点を真っ直ぐに見つめた。黒雲のゲートに最も近い屋上にて、未だ大きな力を振るわずこちらの出方を窺っている鮮烈な紅――草萼火遠を。
 その気になれば世界の全てをひっくり返す、それだけの異能ちからが彼にはあるという。それが彼に生来備わっているもので、彼がはじめからそういうもの・・・・・・だったのなら、嘉乃はまだ納得していただろう。……だが、火遠はその力を殆ど偶然の成り行きのようなもので手にしたのだ。嘉乃にはそれがどうにも我慢ならなかった。
 生まれついての境遇に大差はなかったはずなのだ。同じ種族の同類として生まれたはずなのに、どうして火遠ばかりが恵まれるのか。何故自分は持たざる者なのか。

 ――ずるいじゃないか。

 持った者になりたかった。恵まれた者に生まれたかった。――草萼火遠になりたかった。
 失敗すれば殺される覚悟で故郷を捨てて、やっと何者かになれると思っていた。
 けれども違った。自分は何者にもなっていなかった。凄惨な戦争を越えて、憧れの火遠その人に出会って、その秘密を知って、嘉乃は思った。
 そして彼のように恵まれた者が、全てを覆す力を持ちながらにしてそれを行使せず、恵まれぬ自分たちを救ってくれないことに絶望し、憎悪した。

(僕は今日君を越えるよ。君みたいな全能神気取りの神もどきを越えて、君に成り変わって世界を救う)
 嘉乃は一つ息を吐くと、左手を掲げて後方に控える者たちに命じた。

「第三陣攻撃用意! 機動人形部隊と特殊兵装車両ゲートへ! 降下開始!」



 黒雲の新たな動きは、すぐに【灯火】の知ることとなった。
 まだ十数体残ってい凶化先遣隊の対処にあたっていた嶽木は、敵の力任せの攻撃を刀の鞘で受け止めた所で、自身の後方に展開していた通信符から観測隊の声を聞く。
『"観測"一班より更なる警告! 敵援軍と目される部隊がゲートより降下中!』
『こちら"観測"三班、降下中の敵勢力は神楽月の人形部隊と目されます!』
『"観測"十一班、人形部隊の他に不明の物体を目視確認、新型兵器の恐れあり、"本部"指示を願います!』
 次々と入る報告を流し聞き、嶽木はチッと舌打ちした。
「いきなりペースアップしてくるんじゃねえーつうの……!」
 戦う相手を前にしている手前、即座に目視確認というわけにもいかない。敵は攻撃を阻んだ柄を挟んで嶽木の目と鼻の先まで迫っており、野生の本能のままに鋭い牙を剥き出しにして獣の唸りを上げている。
 嶽木の得物は一振りの日本刀、術式練刀じゅつしきれんとう蓮寂れんじゃく無銘、全長三尺。
 敵は既にその斬撃の間合いの中にいるが、攻撃を咄嗟に鞘で受けたのが仇になったか、上手く振るえない体勢となり、よしんば入ったとしても浅い傷しかつけられないだろう。
(仕方ない)
 嶽木はもはや理性の欠片も無いその眼を睨み返し、守りの鞘を掴む力はそのままに、踏ん張る足に少しだけ多くの力を込めて、そして刀を掴む腕から力を抜いた。
「しつっ――」
 叫ぶ。刀の握りが指をすり抜け、地面にガシャンと刀が落ちる。敵の目は一瞬そこに向いて、その間に嶽木の脚が動いた。
「――こいんだよッ!」
 腹への蹴り上げ。刀に気を取られた敵妖怪はそれをもろに食らい、ギャウと野生の鳴き声を上げてげほりと血を吐き、けれども闘志を忘れず嶽木を睨む。
 その視界に、古木のように変質していく嶽木の左腕が映る。妖怪は直感的に脅威を感じ取るも、しかし彼が宙に蹴り上げられているあとゼロコンマ秒の間、回避行動に移ることは叶わない。
「……食らいやがれ!」
 蹴り上げた足で再び地面を踏みしめ、嶽木は変化した左腕で思い切り敵を殴りつけた。
 敵妖怪は殴り抜けられた勢いで前庭のアスファルトに頭をぶつけ、完全に気絶したようだった。嶽木は動かなくなった彼に作業的に封縛符を張り、残りの数体と凶化先遣隊と味方の位置関係をチラリと確認した。
 彼女が一匹倒す内に、前庭付近の健在な先遣隊は残り八体まで数を減らしていた。
 思い出桜の下では、天狗たちと天華は連携して吹雪を起こして次々と敵兵の動きを封じることに成功している。体育館通路前では小鈴と電八が出刃包丁の峰打ちで敵を落としている。気絶させた敵は基本的には【灯火】の護符部隊、烏丸捧や烏山蜜香などが護符を貼って封縛しているが、手が回らない場所には放水隊から加勢に来た河童らが向かい、尻子玉を抜いてふぬけにしている。
 河童らの他にもプールでの任を終えた水辺の妖怪が次々とサポートに回り、負傷した味方を後方陣地に下げて治療等にあたってくれている。
(ここは大丈夫だろう。あとは第三陣戦力に備えなければ)
 嶽木はここでようやく天を睨み、自らの目で降下しつつある第三陣勢力を見据えた。
(アンナマリーの人形兵器、そしてあの箱みたいな車は何かの輸送車キャリアーか……? それとも……)
 視線の先にあるのは、マネキン型をベースとするものの今まで見たことのない型の人形たちと、これまた初めて見る黒い箱のような車両。特に後者は現時点で用途不明の投入物であり、慎重な対応が必要だろう。
(屋上に丙が居る限り、どのタイミングでも結界を展開できるけれども……)
 用心に越したことはない。嶽木は思い、それからふと、前庭・校舎付近陣地から遠く離れた杏虎・眞虚らの陣地へと意識を向けた。

 彼女たちの通信符は屋上と本部にのみ通じており、直接の契約のない嶽木からは上手く念を飛ばすことはできない。。
(ここから見える様子じゃ、今のところは無事だと思うけれど……)
 嶽木の位置から見える限りでは、大苦戦を強いられているといった様子はない。どうかこのまま上手く持ちこたえてくれと願いながら、嶽木は再び空へと意識を戻した。

 一方で、嶽木の心配を受けたグラウンド奥側二陣地では。

「いやあすごいいっぱい出てくるねえ」
 テニスコートの傍ら、屋外トイレの屋根上の杏虎は、既に出した弓を構えたままに感嘆の声を上げた。
 そんな彼女の感嘆の元・百物語の子鬼はというと、過去に聞いた怪談を元に"およそ怪異のようなもの"を即席で創り出し、雨や霰やら槍やらをどこからともなく降らせ、その弾幕で敵を牽制しているのであった。
「どうなってるのさそれ?」
 思い出したように問う杏虎に、子鬼は、――青行灯は、――灯明椿は。子供の姿とそぐわない妖艶で妖怪的な笑みを浮かべ、実に嬉しそうにこう答えた。
「お茶の子さいさいさね。怪を談ずればモノガタリが生まれ、モノガタリがアタシを作る。妾は「百物語の後に来てなにかをする」妖怪さ、なにかがなんでもいいならなにを成しても問題なかろう? なら今まで語られた百物語はなしの分だけ無茶苦茶させていただきましょうや」
「それ屁理屈じゃね~?」
「そういうものさ、妖怪ってのはね。解釈変われば姿も変わる、そうだと思えばそうなるし、違うと思えばまた違うものになる。"灯火"の坊やも言っただろうて、なあ?」
 杏虎は考える。確かにそんなことを火遠が言っていたような気がする。けれど、
「それ、あんた聞いた?」思い浮かんだ疑問を、彼女はそのまま口にした。
 対し椿はクツクツと笑う。「言うただろう」とそう答える。
「妾は百物語の妖怪、怪を談ずればどこにでも居るし、百話目が語られるのを待っている。だからこんな不毛な戦争なぞさっさと終わらせて、妾にあんたさんらの怪談語りの続きを。どうか聞かせてくだしゃんせ? なあ?」
 椿は言って、その手の中に次に降らせる毒ガエルの卵を創り出す。
「いつの昔の話だよ」
 杏虎はぼやきながらも一年のときにはよくやっていた部内の怪談会を思い浮かべて、それからまんざらでもなさそうにこう答えた。
「遊嬉のやつが良いって言えばね」と。
 駄目だと言われないことはわかりきっていた。あの遊嬉に限って、である。こんな状態でなければ語りたい話はいくらでもあるはずなのだ。
 そのときが――無事に来たら。自分も一つくらいは語ってやらねばならない話があるだろう。……否。皆にはっきりとと語っていないことが一つだけあるはずだ。
 杏虎は思い、敵新戦力の降下が始まった天の黒雲を睨んだ。

 一方その頃の眞虚はというと。
 ダーツの防御に使った結界壁を再編成・分割して作った防壁を自身の周辺数か所に迷路のように配置し、敵を適度に足止めしたところで味方の妖怪に対処させる戦法を取っていた。
 その味方の妖怪とは、眞虚にゆかりのある三人・・

「もしもし! 『今、あなたの後ろにいる』んですけど!」

 もはや二足歩行を止めて四足で大地を蹴る敵の一体に、それ・・は叫んだ。
 敵は眞虚の防壁迷宮を限界突破したパワーだけで突破しようと、己の身が削げることも厭わず走り続けるが、彼が眞虚に到達するより早く、彼の背後に現れたモノが彼の頭を蹴り上げ、動きを封じる。
 ――"メリーさん"。去年の秋、眞虚に救われた追跡者の怪異がそこに居た。
 まず一匹。しかし最も本陣から離れている眞虚を狙う敵は多く、西と東の二方向から更なる凶化妖怪が迫る。
 その東方の一体を、

「残念だったわね、速さだったら自信あるのよ。おばさん素早いから」

 防壁の内側から躍り出た赤い影が素早く現れ、手にした鎌で殴り抜ける。赤い影、その正体は夏にそぐわない赤いトレンチコートで、その口は耳元までぱっくりと裂けている。
 ――"口裂け女"。狩口梢。古霊町で人と結ばれ安寧を得て、眞虚を始めとする美術部とも縁のある、恐らく町で最強の主婦・・、兼・小説家。
 彼女が昔日のように生き生きと敵を薙ぎ倒し、残敵はあと一匹。
 西方から攻めて来る敵。けれども彼女も眞虚にその爪を届かせること敵わない。

「小鳥さんには指一本触れさせない……!」

 狩口と同じく防壁から飛び出た影が勢いよく敵の懐に滑り込み、その足をむんずと掴んでぐるりぐるりと振り回す。まるでハンマー投げ競技の動作のように、けれど相手はいつまでも投げられることなく、その場の地面にごりごりと擦りつけられている。ぐるぐると引き摺られているのだ。
 ――"ひきこさん"。森谷燈見子。大霊道の瘴気に宛てられた暴走を美術部に救われた者。眞虚と同じ鍋をつついた友人。
 メリーさん、口裂け女、ひきこさん。そんな現代都市伝説の三人が、まさに眞虚の護衛としてこの線戦に加わっていた。
「ありがとうございます!」
 防壁奥の眞虚が礼を言うと、三人は口々に「気にすることない」と返す。
「お互い様よ。私は眞虚ちゃんに友達を助けてもらったし、燈見子ちゃんのことを助けようって言ってくれたのも眞虚ちゃんなんでしょう? その恩をやっと返せるってだけ、だもの」
 狩口の声が壁越しにそう答え、他の二人が同意を返す。
「恩なんて……もう貰ってますよ。去年鍋をいただきました」
「あれは眞虚ちゃんの快気祝いよ。恩返しはまだまだこれから。ねえメリー?」
「そうよそうよ。それにぐっちゃんの恩返しが鍋パーティで済んでたとして、わたしの恩返しなんかぜんッぜん、まだまだなんだからね?」
「……わ、私も同じです」
 メリーさんに続き、燈見子がおずおずとそう言った。
(まいったなぁ。恩返しなんて、別に求めてなかったのに)
 眞虚は少し呆れたようにそう思た。けれども鬱陶しいような気持ちはない。どちらかといえばそれは、むずがゆいような、恥ずかしいような、くすぐったいような、そんな気持ち。
 いや、本当はその感情はもっと簡単な言葉で示せることを知っていた。だから眞虚は、その素直な気持ちを口に出した。

「ありがとうございます。本当に、……本当にありがとう」
「だーかーらー。いいってことなの!」

 何度伝えても物足りない、たくさんの感謝の気持ち。狩口はそれを受けて明るく笑い、他の二人もやはり同じように笑った。
 そんな彼女らを、良き隣人となれる妖怪を、彼女らの住む世界を守りきりたい。眞虚は改めてそう願う。
 両手を握り合わせて見上げる空には、降り注ぐ新たな軍勢の影。
 その瞬間、皆が同じ空を見上げていた。嶽木たちも、杏虎たちも、眞虚たちも、乙瓜と魔鬼たちも、深世たちも、遊嬉たちも――屋上の丙と火遠たちも。
 不吉な空を見上げた眞虚の背後で、「構えな」と声がする。狩口の声でも、燈見子の声でも、メリーさんの声でもない、少年の声が。
「いよいよ幹部のお出ましってわけ。少しずつだけど、そろそろお前も動かないといけない」
「わかってるよ。水祢くん」
 眞虚は彼に、水祢にそう答え、背後に数十枚の警戒符を呼び出した。

 それと時同じくして――

「おいでなすったな人形ども。いいよ、しようぜ。神域の雪辱戦だ」
「私も援護いたしますわ」
 武道館上の遊嬉が満を持してといったように紅蓮赫灼を鞘から抜き、雪女の銀華が冷たい風を一つ吹かせる。

「来るぜ来るぜ来るぜ嬢ちゃん! クソッタレの人形使いが来るぜ来るぜ!」
「何度も言うな分かってるっての」
「まず我が先行し敵の出方を見よう。雷獣よ、深世様の周囲警戒を頼む」
「おうよ任せろ!」
 体育館の屋根上で雷獣と天狗の篤風が示し合い、深世は眉を上げて祓魔鏡を構え直す。

「……観測隊の報告を統合し、敵幹部級の干渉を認めます。前庭周辺の残存戦力のみなさんはグラウンドまで前進、まずは撃破よりも敵人形の性能と未知の車両型物体の正体を探ることを優先してください。負傷者は直ちに校舎に退避、治療と回復に努めてください」
 指揮所のミ子が指示を伝え、その横でヘンゼリーゼがクスクスと笑う。
「いいのかしら。隊を前庭から動かせば校舎の警備が手薄になるわよ?」
「構いません。火遠様と丙大師匠の式鬼神と結界を信頼します」
「それでも間に合わなかったら?」
「意地悪を言いますね。……いえ。私も考え無しではありません。温存勢力を前に出します。ですのでヘンゼリーゼ、貴女にも助力を要請します」
「仕方ないわね」
 ヘンゼリーゼはじとりと睨む一つ目に歌うように答えると、何の宣言もなしに幾つかの魔法陣を生成した。
 その最中に指揮所教室の前後の引き戸が開き、そこから"トイレの太郎さん"――たろさんと、"トイレのヤミ子さん"――闇子さんが真剣な面持ちで入室してきた。
「やーっとあたしらの出番ってワケだ。かますぞたろ坊」
「……応」
 闇子さんは指をポキポキと鳴らし、たろさんはどこからか青っぽいこしらえの刀を取り出して静かに抜刀した。
 そうして二人揃ってベランダへと出ていく彼らに続くように、魔女の魔法陣から次なる異形の者たちがゆっくりと顔を覗かせ始めた。それに反応してか、神社姫が水槽からちゃぽんと飛び上がる。
「ちょっともうなにしてくれてんの魔女さん、やばいやついっぱい呼んだでしょ!?」
 叫ぶ神社姫に「いけないかしら」とさらりと答え、ヘンゼリーゼは笑顔で小首を傾げた。
「いいじゃない、最強よ?」と。

 一方部室小屋上の陣地では、そこへ向かってきていた最後の凶化先遣隊を花子さんの髪腕が捻じ伏せ、エリーザの特技がそれを切り裂いていた。
 花子さんはやっと片付いたとばかりに息を吐き、それからようやく空に目を向けた。
「いよいよ仇討ちね。けれど同じてつは踏まないように、慎重にいきましょう」
「ええ、お姉さま」
 エリーザは頷く。敵が人形部隊なら、それを操るアンナ・マリーとエリーザの間には屈辱の因縁がある。勿論その姉貴分である花子さんにだって因縁はあり、彼女らの後方で護符と定規を握り直す乙瓜と魔鬼にだって、果たさなければならない雪辱がある。
 初めて出会ったあの夜の。庇い砕かれたあの朝の。太刀打ちできなかった神域での。
 それぞれの周囲に護符と魔法陣を展開しながら、乙瓜と魔鬼はそれぞれの持つ勾玉を強く握りしめた。

 最後に。
 屋上陣地の観測手の女性の一人が丙を振り返り、「大丈夫でしょうかね」と弱音を零した。
「社長……! あれ、やばいやつですよ! 特に箱、なんだかわからないけれど本当にやばいです。視え方がおかしい・・・・・・・・……!」
「そんなこたぁわかってる」
 丙はやや乱暴に答え、更に「視える奴ならみんなわかってるさ」と続けた。
「どんな性質かは知らんが、ろくでもないモノってことは明らかだ。……まあ心配しなすんな伊勢。お前さんら職員のことは、あちきが責任を持って守ってやる。代表としてな。なあ坊?」
「一人だけいい顔しないでくださいよ。……まあ俺と師匠でこの場は必ず守るから。それでも危険だと思ったら君は逃げてくれ」
 火遠は女性に振り返り、安心させる為か笑顔を見せた。そして彼女が頷くのを見届けると、キョロキョロと辺りを見回して何か探している素振りを見せた。
「どうしたい?」
「……いや。アルミレーナと三咲の姿がないと思って」
 問う丙にそう返すと、丙は「ああ」と一つ頷いた。
「あの子らも水祢同様動き出したよ。黙って行っちまうところはお前さんと変わらんね」
 丙が困ったように笑うと同時、グラウンドに着地の轟音が響き渡り、砂埃が舞い上がる。

「ここからが正念場だな」

 パンパンと手を叩き合わせて式鬼符を動かし始めた丙の横で、火遠はいよいよ武器を持った。
 紅の退魔宝具、崩魔刀。あらゆる刃に形を変えるそれを、彼が最も慣れ親しんだ形である大鎌に変えて。



 いよいよ本格的に動き出した【灯火】の布陣を見て、戦場のどこかに潜む人形師、アンナ・マリーは大きく口角を上げ、そして叫ぶ。

「さあ動け、さあ放て! お仕置きのお返しの弔いの挽回の! 斉射斉射斉射斉射斉射斉射ァ!!!」

 ――あっという間の事だった。
 誰の覚悟も決意もまるで知らぬと言った風に。グラウンドは一瞬にして禍々しい光に包まれた。

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