【月喰の影】第二陣の攻撃は、人ではなくきらりと光る細長いものとして現れた。
天の黒雲より降り注ぐ無数の矢。――決戦兵器・ダーツの雨。
「"観測"より警告! 敵ゲートよりダーツと思われる物体の多量投下を確認!」
元よりダーツによる攻撃を警戒していることもあって、屋上の【灯火】観測手がその正体に気付くのは早かった。
感知力だけなら指揮所の神社姫の力や杏虎の虎の目が頭一つ抜けているものの、丙が念のためにと【灯火】本部より直接指名・同行させたのが彼ら観測手である。大半が最低限自衛が出来る程度の人間であり戦闘には参加しないが、それでも丙が選んだだけあって目だけは確かで、報告の速さとマメさは折り紙付きだ。
そんな選りすぐりの部隊の報告にやや遅れて、指揮所のミ子やテニスコート付近の杏虎からも連絡が入る。第一報はほぼ誤報ではないだろう。
「やはり投入してきたか。……ようやくこちらの出番というわけだ」
丙は神妙な顔ですぅと息を吸い込んで、それから先行して屋上中に配置していた式鬼札を動かした。同時、空を睨む火遠もまた静かに動き出す。
【灯火】大将格の彼らが屋上に待機していたのは単なる戦力の温存や戦況観測のためだけではない。敵の追撃をいち早く察知し、即座に対応する。そのために彼らはここに居た。
「展開! 展開!」
丙の声に合せて紙の式鬼神たちが浮かび上がって陣形を変え、火遠の腕の動きに合せて何もない空中に炎が起こり、その内から生まれた護符が式鬼神の隙間をカバーする。
「零式式鬼神空間防御結界!」
「草萼専守防御結界!」
「玖年四型大結界大符!」
「陽射!」
師弟の唱えによって急速に結界が生成され、校舎屋上を中心として味方陣地を包み込む。武道館を、プールを、体育館を、校舎から特に遠く結界の到達が遅れるであろう眞虚と杏虎の待機地点では、連絡の行った眞虚が広げた結界が杏虎方面の頭上までをフォローした。校舎からそう遠くない烏貝乙瓜と黒梅魔鬼も、丙と火遠の結界が届く前にそれぞれ護符と魔法で結界を展開している。
そうして味方全域に結界が届いた直後、大量のダーツの雨は北中の敷地に降り注いだ。
必然として、貫かれたのは結界の届ききらないグラウンドに居た【月喰】の雑兵たちである。直前に【灯火】によって開始されていた凍結戦法で身動きを封じられつつあった彼らの大部分がその直撃を受け――グラウンドは地獄と化した。
雑兵たちは理性を破壊された獣となり、自らが傷つくことを厭わず氷の呪縛を破壊し暴れ始めた。
もう彼らの中には敵も味方も無い。目に映る動くものを全て敵と捉え、つい先刻まで味方だった者にまで飛びかかっている。
先遣隊の陣形は崩壊していた。しかしその崩壊の中で前庭の【灯火】陣地に飛びかかる者の姿もあり、予測のつかない行動で負傷者を増やしつつもあった。
そもそも、元々先遣隊の中には【月喰の影】の中でも下っ端中の下っ端であるという自覚があった。使い潰されることは承知の上で、且つある程度力のある者には敵わないだろうなという劣等感があった。
頑張っても、頑張っても。どうせ勝てない。――その劣等感を、ダーツの魔力は粉々に粉砕した。
倒せるかどうかなどという遠慮や、傷つくことへの恐怖。それが失われたことで百パーセントの力を躊躇なく発揮出せるようになった彼らは、敵の新規戦力として生まれ変わったのだ。
「……これが狙いか」
屋上の火遠は地上の惨状に表情を険しくした。
「はじめから嘉乃に先遣隊を救う気なんてない。雲の内側でやっていることの時間稼ぎに、こちらが結界を展開すること込みでダーツを投下したんだろう」
「……だろうなとは思っていたがな」
丙は溜息を吐き、火遠に並んで雲を睨んだ。そんな中で同じく屋上に留まっていた嶽木が「よっ」と鉄柵を乗り越え、十センチあるかないかの不安定な足場に立った。
「姉さんどこへ」
「地上がちょっぴり劣勢だ。結界手も捧と蜜香ちゃんだけじゃ心配だから、おれも助太刀に行ってくるよ」
嶽木は火遠にそう言うが、彼女が踏み出した柵の向こうにあるのは武道館で、戮飢遊嬉を心配していることは明らかだった。
けれども火遠はそのことに敢えて触れないまま、「そうか」と一つ頷いた。
「いってらっしゃい。気を付けて」
「同じ言葉をそっくり返すよ。それじゃあ火遠。丙師匠、弟を頼みます」
返事を待たずに嶽木の消えた柵の向こうを見つめ、丙は「ああ」と頷き、そして思った。
(本当は離れたくないだろうにな)
丙は知っている。異怨が攫われた報告を受けた夜、嶽木が殆ど何も喋らなかったことを。そんな中で一言だけ呟いた言葉を知っている。
――『自分さえ離れなければ』。
誰かの前ではなんでもない風にしているが、嶽木は本当はずっと異怨が攫われたことを悔いていた。
嶽木が初めてその姿を見たときから姉はずっとあんな調子で、際限ない空腹と抑えの効かない食欲で沢山いた姉妹を喰らい、今ではたった四人になってしまった。人間も幾らか喰らったし、てけてけから人間としての未来を奪ってしまった。……もしかしたら、異怨は居なかった方がよかったのかもしれない。
けれども、そんな姉でも、てけてけとの約束を守ることができた。完全に理解できなくとも、共に在れる可能性はあるのではないか。そう思い始めた矢先のことだった。
自分が異怨を置いて行ったからあんなことになったのだ。この二ヶ月ばかり、嶽木はずっと自分を責めていた。溶かされた可能性を示されてからは猶更である。
だから、本当は火遠とも離れたくはないはずなのだ。あのとき【月喰】の考えが少しでも違えば失われていたかもしれない大事な弟。勿論水祢だってそうだ。
嶽木にとって、きょうだいは特別大切な存在だった。特に自分が異怨を解き放ったせいで多くの姉妹を失ってしまった彼女にとっては、自分のせいで残されたきょうだいが失われることはあってはならない事態だった。……それが例え異怨であっても。
異怨が失われた今、嶽木が最も懸念しているのは火遠や水祢の無事だろう。またなんでもないふりをしながらも、出来れば離れたくはないはずだ。
けれども彼女が選んだのは、自分が必要としている者の隣に居る事ではなく、自分を必要とするであろう者の下へ向かうことだった。
(成長か、信頼か。どちらにせよ託されたからには――託されなくともやり遂げるがね)
丙は口角を上げ、それからふと辺りを見て何かに気付いた。
「……似た者きょうだいか」
丙の呟く屋上には、無口ながらもつい先程までいたはずの水祢の姿はない。
きっと彼も向かったのだ。己の行くべき場所に。
「ねーねーもういーでしょー!? 斬らせてきーらーせーてーよー!」
武道館まで侵攻しつつある先遣隊だったものを屋根の上から見下ろし、遊嬉はじれったそうにそう叫んだ。
彼女と同じ屋根上の陣地には天華・銀華らと天狗たちが居て地上から飛びあがり、または樹に登って攻撃を仕掛けて来る者に応戦している。正直恐れも躊躇いも失い滅茶苦茶に仕掛けて来る敵勢にやや追い込まれているが、遊嬉は未だ抜刀出来ずにいた。
勿論自発的にではない。周囲がまだ温存しておけと止めるからだ。
故に遊嬉の中にはもどかしさが毎秒毎に蓄積されていた。
「戦っていいでしょこれ!? あたしやれば一発だよ!?? 飛ばせるよ!?」
「「駄目です!」」
「「我慢!」」
「うにゃーーー! もういいかげん降りてこいやぁまがつきよみのォー!! あたしに斬らせろ~!」
一つ言えば誰かしらが口を揃えてストップをかける状況に、遊嬉のフラストレーションは爆発寸前であった。少し遠くに目を向ければ、眞虚や魔鬼、乙瓜らは既に結界を貼るなどして少々力を使っているのが見え、それが余計に遊嬉の不満を加速させたこともあるのだが――遊嬉が戦いたがるのには、実はもう一つばかり要因があった。
紅蓮赫灼と共に彼女の手の中に在る、それ。気の遠くなる年月、力を振るうことを許されず封じられてきた退魔宝具・禍津破事割剣。
その疼きが使い手である遊嬉に少なからず影響を与えていたことは言うまでもない。寧ろ完全にその衝動に飲まれていないだけ、遊嬉はよくやっている方だ。
けれどもそれもいつまで続くか――と思われた、丁度そんな時だった。屋上から嶽木が降りて来たのは。
「やっほい遊嬉ちゃん。加勢に来たよう」
「嶽木ぃ~。丁度いいやちょっと斬らせてお願い!」
「ああもう結構限界だ」
妖刀に憑かれた武士みたいなことを言い出す遊嬉を冷静に分析し、嶽木は次に何を思ったか、左腕を巨木の腕に変化させ、遊嬉が握ったままの事割剣にチョップを喰らわせた。叩き折る気で全力というわけでもないが、確実に響く、その力加減で。
「ったぁ!?」
当然剣を握りしめたままの遊嬉にもその余波は行き、彼女は驚いた様子で嶽木を見た。
「び、びっくりしたあ……」
ぱちくりと瞬きする遊嬉の手には未だ剣が握られたままである。普通ならば弾き飛ばされていてもおかしくないが、それが妖刀が妖刀たる所以だろう。けれども、遊嬉本人には明確な変化があったようである。
「遊嬉ちゃん、まだおれのこと斬りたい?」
「そんなことしないって!」
遊嬉はぶんぶんと首を左右に振った。
「ってか、……ぶねー、めっちゃ目ぇ覚めた」
それでいてどうやら自分が相当危険なことを口走っていたことも覚えているらしく、遊嬉は焦りと安堵の入り混じった顔で溜息を吐き、それから自分でも事割剣を「てぃ」と打った。
「ありがと嶽木、助かった」
「うん」
気のない返事をした嶽木は、そのとき武道館周辺に護符の結界を広げていた。冷たく素っ気ないようにも見えるが、逆に言えばもう遊嬉が事割剣に飲まれる心配はしていないのだろう。
どこからともなく召喚した護符を一通り浮かせ終わった後で、嶽木は今まで防衛に徹していた味方の妖怪たちを「大丈夫かい」と気遣った。
「これで屋根の上はしばらく平気。けれど前庭の状況は見ての通り悪くなってきたから、消耗が少ないひとはおれについてきてくれると助かるかな」
妖怪たちの大半はそれに肯定を返した。天華もはいはいと手を上げる。
そんな彼らを見て「よし」と頷き、折角作り上げた安全地帯から去っていこうとする嶽木らを見て、遊嬉は言った。
「嶽木行っちゃうの? あたしは?」
「指示あるまで待機」
「またかー……」
あっさりと言われ、遊嬉はがくりと肩を落とした。今度は事割剣の影響ではない、純粋な本心だった。
そんな彼女の肩に、誰かの手が優しく置かれる。
銀華だった。
「焦らないで遊嬉さん。まだ戦わなくてはならない相手が控えている、それは私たちにはとても太刀打ちできない強大な相手です。彼らが姿を現したとき――そのときが遊嬉さんたちの出番です」
「わーかってるよー……」
「ならよろしいのですよ」
不満げながらも頷く遊嬉に微笑を向け、銀華は嶽木に顔を向けた。
「私は遊嬉さんと残ります。嶽木様はどうか仲間のもとへ。その子を――天華を頼みます」
と、銀華が頭を下げる一方で、天華は「だいじょうぶだよ」と強気に言う。
「お母ちゃん! わらし大丈夫だよ! みんないるもん、絶対まけない!」
屈託なく言い切って、雪童子は白い歯を覗かせた。
嶽木は尚も心配げな銀華の前でその愛娘の頭を優しく撫で、棘のない声で「そうだね」と頷き、それから再び遊嬉を見た。
「大丈夫。雲に動きがある頃にはまた戻ってくる。遊嬉ちゃんは待ってて、それまで事割剣に飲まれないように」
そう言った嶽木の顔は、先刻よりも幾らか穏やかだった。少なくとも遊嬉にはそう見えた。
「……。まかせとけ!」
遊嬉は言って、それから去っていく嶽木や天華、自分を守ってくれた妖怪たち一人一人にエールを送って手を振った。
彼らが結界の外に飛び出していくのと同時、武道館を囲っていた敵たちも雪崩のように動き出す。
その姿を見送りながら、遊嬉は嶽木らの無事を願い、そして分散している美術部の無事を願った。
一方――正気を失った【月喰】先遣隊群れの奔流に飲まれ、辛うじて意識を保っている者がいた。
京都で丙を襲撃した江月と、桂月。元仲間に踏み潰され攻撃され、濡らされ凍らされてぬかるむグラウンドの土の上に倒れ伏した彼女らは、残された力を振り絞って空を――黒雲を――太陽を見上げ、そして微かに微笑んだ。
今更自分たちが助かるとは思っていない。目的の為に故郷や同輩に手を下してきたツケが回って来たのだと考える頭くらいは残されていた。けれども今更心変わりでもしたかと言われればそうでもなく、【灯火】に降伏して寝返る気などさらさら無い。寧ろ仲間たちのようになれなかったことを惜しいとすら思っていた。
弱いという自覚と強敵を前にする恐怖、惑い。それらを失った彼らのようになれなかったことを。
なら自棄に笑ったのかと言えば、それも違う。すべての答えは彼女らの見上げた空にあった。
戦いの上空で、ゆっくりと削られつつある太陽。
その太陽が半分も欠けたとき、何かが動き出すことを彼女たちは知っていた。
「み……か……月……に、マガ……ツキさまに……栄……光あれ」
うわ言と共に弱々しく空に伸ばされた手。
その手を誰とも知れない元仲間が踏みつぶし、彼女らの意識はそこで途絶えた。