怪事廻話
第九環・冥府霊道カタストロフ①

 その朝は多くの人々にとってなんでもない一日の始まりとして迎えられた。
 古霊北中学校からそう遠くない地区の集会場では、夏休みの小学生がラジオ体操をしていたりして。予報を覆して晴れた空を見て、ベランダに布団を干し出す人たちがいて。世界のどこかで誰かが誕生日を迎え、どこかで誰かが死んでいき、どこかで誰かが笑い、泣き、怒り、歌い、どこかで新しい命が生まれる。
 昨日までがそうであったように、その日もまた誰かにとって特別な、当たり前に始まり終る一日であった。

 だからこの日起った戦いを、結末を。世の多くの人は知らないし、知らなくても特に問題はない。
 例え明日からの自分が昨日までの自分の偽物だったとしても。知りさえしなければ悩むこともないのだから。



 彼が目覚めたのは、その何気ない一日の夜明け前だった。
【月喰の影】総裁・曲月嘉乃。彼は二月ふたつき近くの間浸かっていた水槽の中で目覚め、ゆっくりとそこから這い出した。
 身体に纏わりつくのは着たままの服と異様に伸びた髪。後ろ半分だけ緑に染めていた髪は、今や膝裏まであろう髪の毛先にその名残を留めるだけとなった。
「お目覚めですわね。お父様」
 彼が這い出した水槽の外で、彼の娘・琴月亜璃紗がバスタオルを広げた。
 嘉乃はそれにくるまりながら、「草萼火遠は目覚めただろうね?」と亜璃紗に訊ねる。
「目覚めたようですわ。更には白子を攫った理由についても勘付かれたようです」
「……奴ならこれくらい勘付いても当然さ。僕たちはこれからこの世界の神になり得る男と戦うんだ。その為にこの身体を手に入れなくてはならなかった」
 嘉乃は自らのふやけた手を握り、開き、意味ありげに笑った。
 妖怪の心を壊す武装を作り上げた【月喰の影】のオカルト科学は、拉致した草萼異怨の"命"以外の部分を数日かけて溶解し、残った"命"は嘉乃の身体にそのまま注がれた。
 異怨の命は肉の一片でも残る限り何度でも復活する無限再生の命。それは神に等しい能力を秘めた草萼火遠が唯一持たざるものであり、嘉乃がどうしても手に入れたいものであった。
「定着したかどうか確かめたい。試しに斬ってみてくれないか」
「お安い御用ですわ」
 亜璃紗はニコリと微笑むと着物の袖をまさぐり、そこから一本の日本刀を取り出した。護身用の小刀でなく立派な太刀である。彼女はその着物の袖から色々なものを取り出すことができるのだ。
 取り出した刀の柄と鞘に手を掛け屈むと、亜璃紗は笑顔のままに刀を抜き放ち、自らの父に向かって切りつけた。所謂いわゆる居合である。その剣筋けんすじ躊躇ためらいはなく、袈裟切りにされた嘉乃の体からは噴水のように血が噴き出す。
 その瞬間、亜璃紗の両隣に二つの影が立った。左右で白と黒に塗り分けられた奇妙な面を被った、獣の耳を持つ二人の男。『右の御方』『左の御方』などと呼ばれている、名も顔も過去も捨て、嘉乃を守り続けている二人組が。
「心配には及びませんわ。御覧なさい」
 亜璃紗は彼らを顧みることなくそう言って、剣を鞘に納めて立ち上がった。
 直後、彼女が目をそらさずに見つめる先で、斬られた嘉乃の口が三日月型の弧を描く。鮮血は噴き出すことを止め、それどころか時が逆行するように傷口へと戻り、その傷口は元からなかったかのように繋がり消える。
「おめでとうございますお父様。実験は成功ですわ」
 亜璃紗が手を叩き、左右の人影が静かに消える。
「ありがとう。これでやっと行けそうだ」
 嘉乃は切断されたバスタオルを投げ捨て、天井に向かって手を伸ばした。
 その手に縋りつくように、天井の闇がするすると降りて来る。まるで避雷針に落ちる雷のように、けれどもそれよりももっと緩やかに、穏やかに、愛しい人を包むように。
「終わらせよう。沢山の理不尽と、それを止めるための理不尽を。全てを壊し、全てを等しく同じにして、そして新しく始めるんだ」
 闇は手を伝って腕を降り、やがて嘉乃の全身を覆い尽くして新たな服となる。
 戦いに赴くための、けれども仰々しい鎧や具足なんて今の彼には必要ない。要るのは今までよりも少しだけ強い自分になるための服と紺青の退魔宝具、そして彼を【灯火】や【青薔薇】の追走から守り続けた【彼女】の祝福。
 そう、【彼女】の。闇の海の底に佇む巨大な魚、この世界の半分の支配者、嘉乃の運命を決定付けた花嫁――"影の魔"の。
【彼女】の祝福で世界は変わり、明日から新しい歴史が始まる。
 その理想を実現するために。彼は亜璃紗に――そしてその遥か後方に控える同士たちに向けて宣言した。

「行こうか。争いに駆り立てるだけの太陽を終わらせるために。静かなる月の歴史を始めるために」

 世界を塗りつぶし、一つの歴史を終わらせる。それがいつか失った者たちに――そしてただ一人、"骨まで愛した彼女"に報いることだと信じて。



 同日、午前八時、古霊北中学校前庭。
 元美術部六人が差し出す勾玉を覗き込み、薄雪媛神はコクリと頷いた。
「うむ。今現在勾玉に蓄積された力があれば大霊道を封印するには十分じゃろう」
 彼女はそれから六人を見上げ、「みだりに利用されないよう今まで黙っておったが」と続けた。
「実はほんの少しだけ余剰分の力が溜めてある。いざという時に使うのじゃよ」
「使うってどうやってよ?」
 問う深世を真顔で見つめ返して、薄雪は言った。 「"えくすとりーむ"と叫ぶのじゃ」と。きわめて大真面目な様子で。
「横文字かよ。……そうするとどうなるのさ?」
「変身する」
 薄雪は即答した。
 深世は自分の耳を疑うような顔になって、「今なんて言った?」と再び問うが、帰ってくる答えは先程と変わらない。
「だから言ってるじゃろ、変身するんじゃ」
 腰に手を当てふんと鼻息を漏らす薄雪は、とても冗談を言っている様子ではなかった。神は大真面目だった。
「いや、前の神域襲撃の件でころものことなどを気にしておったなと思っての。折角じゃから解決したいのう……と思った結果がこれじゃ。勾玉の余剰力で一旦元の衣装を引っ込めて、新しい衣装を生成する! 力作じゃから楽しみにしとれよ! 美少女あにめ・・・・・・ばりにきらきらしよるからな! ついでじゃが服が丈夫な分防御力も少しだけ上がる!」
「キラキラて……そりゃ気にしてたけど解決法斜め上じゃないっすかね……?」
「突然変身ヒロインになるとは思ってなかったでござる」
 呆れる乙瓜と魔鬼。けれども遊嬉は魔鬼の背中に手を回し、「なに言ってんだよ」とニヤリとする。
「お前元々魔法少女だろー、今更変身魔法少女になったところで大して変わんねーって」
「……いやちげーし。魔女っ子と変身ヒロインちげーし」
「謙遜すんなよどっちも好きだろー、知ってるんだぞ~」
「……ほじくり返してくんなし」
 嫌そうにする魔鬼と弄りモードの遊嬉を見て、乙瓜はふと思い出した。そういえば、以前魔鬼の心の中で見た過去の景色は――と。
(小四の魔鬼が不貞腐れてた原因がわかった気がする。そして多分言った方にも悪気はなかったってことも)
 ――悪気はなかっただろうが、なんかイラッとする。乙瓜は遊嬉をジトリと見つめ、それから「えい」と頬を突いた。続けざまに二、三回。
「なにをするかい乙瓜ちゃん」
「なんでもないのよお遊嬉ちゃん」
「なにそのキャラ!? 突然どうした……ってかゾワゾワする! こわい!」
「こわくないわよお遊嬉ちゃん!」
 あはははは、と乙瓜がわざとらしく渇いた笑いを上げる理由を遊嬉は知らない。うざ絡みから解放された魔鬼も、何となく助け舟だったんだろうなとは感じつつも変なキャラになったことには若干引いていた。そんなものである。
 一方で、眞虚は「変身ってどんな感じになるんですか?」と薄雪に迫り、杏虎も「なんで変身で解決しようとしたんすか」と何気なく訊ねる。
「なんでというか……そうじゃの、日曜の朝に斬子が見ている番組がなかったら思いつかなんだかも知れん。彼奴あやつには感謝じゃな。あと衣装じゃがの、こんぺ・・・の結果……いやそれはなってからのお楽しみじゃ」
「……。斬子そういうの見てたんだ」
「自発的というよりはの、部活のない日曜は狐巫女がやってきて一緒に見ておる」
「狐巫女って……、八尾異そういうことするのか」
 杏虎は呟き、そして思う。斬子の家と異の家は随分離れているはずだが、まさか日曜日の度に早起きして自転車を漕いでいるとでもいうのだろうか。
(めっちゃ元気じゃん)
 別に病弱だから学校をサボっているわけではないが、面倒なので病弱と云う設定にしている……という本人の談に説得力を感じながら、杏虎は口笛でも吹きながらで自転車を漕いでいくジャージ姿の異の姿を想像した。誰もジャージだなんて言っていないが、何となく想像できてしまったイメージは覆せないし、もしかしたらそれは杏虎の持つ虎の目の力が無意識の内に視せた真実なのかもしれない。
「ついでに言えば最終的に通った衣装案は彼奴のじゃ」
「なんだよ楽しそうなことしてたんじゃん。つかそれなら着る方の意見とかも聞けし」
「それを知ったらお主ら力の無駄遣いしたがるじゃろうが。言ったろ、みだりに利用されないよう今まで黙っておったと」
「そうきたか。…………まー超絶ダサいのじゃなければあたしは別にいいけどさ」
「ダサいかどうかは感性の問題じゃな。狐巫女の若者的な感性を信じろ」
「若者的な感性とか言っても選んだのは神様たちじゃん。……どうかなー」
 杏虎が疑問を呈する傍らで、眞虚は「早く衣装デザイン見たいなー」とそわそわしていた。なんなら今すぐ見られるが、ここぞというときではないので抑えなくてはならない。ジレンマである。
 はしゃいでみたりおかしくなったり首を捻ったりそわそわしたり、つまるところまるでいつもの調子と変わらない彼女らを見て、深世が呟く。
「いや変身するとかしないとかは置いといてこれから戦うんだぞわかってんのか……?」と、呆れたように。
 けれど薄雪はカッカッカと笑い、「まあまあよかろうよかろう」と蹄の手をカンカンと叩き合わせた。
「真面目も良いがお主らの調子が崩れてはなにも出来なかろうて。お主らはこの戦いの切り札、逆転の希望なのじゃから。熱し過ぎず冷めすぎず、平常心じゃよ。平常心」
 小さな神様は元気づけるようにそう言って、そしてそれぞれの戯れや自問を終えた元美術部全員を見遣った。
「さぁて、既に出涸らしのわしに出来ることはこれくらいじゃ。後は若者たちに任せて、この年寄りは引っ込むことにしようかの」
 くるりと踵を返し、薄雪は空を――古霊北中学校の屋上を見上げた。
 前庭から見える屋上の手摺の上には、草萼火遠が、嶽木が、水祢が、丁丙が立っている。その後には花子さんら学校妖怪の姿があり、加害者でありご主人様であり友達であった異怨をなくしたてけてけの姿もそこにあった。
 そこから視線を移していくと、武道館側の常緑樹の枝の上には天狗のほとりと山の妖怪たちが、体育館の屋根の上には小鈴や電八と四足獣の妖怪たちが、プールから高く顔を出すのは海坊主で、その周りには海と水辺の妖怪がある。
 校舎三階中央付近の教室には臨時の指揮所が設けられ、一ツ目ミ子ら非戦闘要員と、機を窺って動こうとしているヘンゼリーゼら【青薔薇】の勢力がそこに詰める。
 それぞれの持ち場に立った人外の者たちは、各々言葉を酌み交わすこともなく、ただ黙して南の空を睨んでいた。
 誰もそこから来るとは言っていない。何の理屈も根拠もない、けれども彼らには確信があった。人ならざる故に鋭敏な第六感が故だろうか。彼らは一人残らず信じていた。敵は南の空から現れでると。

「皆やる気十分じゃ。後は困難にぶつかって行くだけ、ぐっどらっく・・・・・・じゃ」

 蹄の手を振って校舎に去っていく薄雪に、美術部は黙って頭を下げた。その傍らで低い男の声がする。
「【灯火】偵察隊から敵発見の報告が入りました。校舎正面より十二時の方向、間もなくです。みなさんご準備を」
 それを言ったのは黒スーツ七三分けで眼鏡の男、丙の秘書・烏丸ささぐだ。
 彼がケータイを下ろす中、元美術部は横並びになり南を見た。それに連動するように、捧の傍らで静かに様子を見守っていた烏山蜜香も動き出す。
 彼女が元美術部全員の前に現れたのはこの日が始めてだったが、目的が同じならば特にいがみ合う理由もない。
「校舎狙いの雑魚はあたしと捧さんでなんとかするから、君たちは妖怪たちと行ってよ」
 言って、蜜香が首に掛けた珍奇なペンダントに手を掛ける傍らで、小さな妖怪・雪童子の天華が「わらしもいるよ!」と小さく跳ねた。
「おかあちゃんたちとわらしでみんな氷漬けにしちゃうんだからね! お姉ちゃんたち絶対勝ってね!」
 無邪気に励ます天華を振り返り、美術部はコクリと頷いた。
 それから再び南を見て、晴れの空の中に不自然に浮かんだ黒い雲を睨む。

「……防御結界の境に不自然な黒雲一つ、目視確認。迎え入れてよろしいですね? 丙さん」
 捧がケータイで報告する声に、スピーカーの声と屋上から微かに聞こえる声が重なり答えた。
『構わん通せ』
「了解致しました。防御結界解除します」
 電話越しに彼が頭を下げると同時、黒い雲は北中校舎に向けて少しずつ接近を開始した。

『いよいよだよ。乙瓜』
 乙瓜の脳裏に声が響いた。草萼火遠のあの声が。
(わかってるさ)
 勾玉に通した紐を腕に絡め、乙瓜は両手をぐっと握った。その拳の指と指の間に、護符の束がどこからともなく発生する。
 左右を見れば、眞虚もまた乙瓜と同じように何枚かの護符を構えていて、杏虎の手の中には既に雨月張弓の蒼い輝きがある。深世は両手で祓魔鏡ハラエマノカガミを抱え、遊嬉の右手には紅蓮赫灼が、更にその左手には深世が神域から持ち出してきた古の退魔宝具、鏡と並んで呪いの刀と呼んでも差し支えないであろう事割剣コトワリノツルギが握られている。どうも使うつもりらしいが、薄雪が止めなかったのなら今更敢えて止めることもないだろう。
 思い、乙瓜は最後に魔鬼を見た。彼女の手の中にあるのは、乙瓜が彼女の秘密を知ったあの日からずっと変わらず、安い定規一本だ。皆の持つ一点物とは違っていくらでも換えの効く量産品だが、魔鬼が持てば世界で最強の定規に変わる。

「やるぞ魔鬼」
「おうよ」

 短く言葉を交わし合う先で黒雲が砕け、その内から【月喰の影】の軍勢が蜘蛛クモの子のように降り注ぐ。

 もう言葉は要らない。
 皆走り出した。

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