「本当に真夜中の学校っていつぶりだっけ」
言いながら作業机の上に仰向けに横たわる乙瓜に、「人形に追いかけられたとき以来じゃない?」と魔鬼が答えた。
彼女は乙瓜の横たわる傍らにちょこんと座り、それから「もうそんなに経ったのか」と溜息交じりに零した。
人形に追いかけられたとき――【月喰の影】のアンナ・マリー・神楽月と初めて対峙した晩。それを思い出しながら。
「あの頃は本当弱かったっけ。追いかけて来る人形にそのまま追い詰められたりさ」
「あったなあそんなこと。屋上まで来て、お前が力使い果たしたときはどうなるかと思ったよ」
「…………忘れろよそういうことは。……事実だけど」
魔鬼の少しむくれた声に、乙瓜がぷふふと意地の悪い笑いを漏らした。
「……とはいえ俺も弱かったけどな。遊嬉がいなかったらどうなるかと思ったよ。結局遊嬉には何度も助けられたわけだけど」
「そーねー。遊嬉のやつ最初からやたらめったら強くて。……本当なんなのさってね」
魔鬼はちらりと遊嬉を見た。彼女は前庭寄りの窓近くの床に腰を下ろし、杏虎・眞虚と共に手製のトランプに興じている。
呑気な奴らめ、と魔鬼は思う。けれどもこうして駄弁っている自分たちはどうなのかと自問すれば、まあ呑気だろうなと自嘲するしかないのが現状だった。
蛍光灯に照らされる壁掛け時計の指す時刻は、とうに十時を過ぎている。夏休みとはいえそんな時間に生徒たちが勝手に学校に残っていようものなら、例え教師に気付かれなくとも近隣の住人に気付かれるなり家族に心配されるなりしそうなものだが、古霊町内に前もって念入りに張り巡らされた術式がそれを許さない。
今夜から明日の夕方まで、古霊北中学校に立ち入ることができる人間は元美術部六人とその関係者しかいない。そして彼女らの不在を疑う者もまた、彼女らの戦いを知る者以外には存在しない。無意識的に、そうなるようになっている。
裏を返せばそれは、彼女らが家族や友人の与り知らぬ間に死ぬかもしれないということでもあって。真っ当な家族の気持ちや何も知らない友人の気持ちを考えれば、これほど不幸で残酷な術はないかもしれない。
けれども、六人はそうなることに同意した。……他ならぬ、親兄弟、同級生、教師、恩人、その他この世界に生きる人々を守る為に。……どの道、彼女らが敗れた先に今を生きる人々の未来などないのだから。
そんな状況だというのに、この美術室に流れる時間は修学旅行かお泊り会の夜のようで。なんなら風呂上がりの寝間着姿そのままに灯火スポット経由で移動してきたのが、余計にそれらしさを増長させている。
ちなみに明日の着替えとちょっとしたおやつは持参したスポーツバッグの中だ。遠足気分もあるかもしれない。
「緊張感ないよねぇ」
「それな。まったくだわ」
同意し合って、魔鬼と乙瓜はクスクスと笑った。
尤もその『緊張感』の掛かる先を、魔鬼は自分たちのことだと思っていて、乙瓜は遊嬉たちのことだと思っていたのだが。
「それにしてもこの一ヶ月がんばったよね」
ふと、魔鬼が言った。
「神域もぐってー、特訓してー、勉強もしてー、たまーにだけど頼まれごとの小さい怪事解決してー、あと体育祭のー――」
「そう! 体育祭の応団旗とかな! こっちもう薄雪の眷属とかと戦ってクタクタだってーのに、怪事もさ、今は丙師匠らが結界張ってるから大体勘違いだったりするのに。みんなホント容赦ねーったら……まあ、やるけど」
「うんそう。やるけどね。あとテスト前の勉強時間増えたのだけは助かった」
「ああそれはな。助かった」
ニヒヒと乙瓜は笑い、それからポツリとこう漏らした。
「……あと今年は夏祭り一緒に行けてよかった」と。花火全然遠かったけど、と付け加えて。
「流石に県南の花火じゃ遠いよ。曇ってたのに見えただけラッキーじゃね?」
「まあそうなんだけど」
どこか不満げに唇を尖らせて、少し静かになって。それから乙瓜は言う。
「来年は花火見に行こうか。異には悪いけど。都合つけば」
魔鬼はキョトンとして、やっぱり少し静かになって。それから「うん」と頷いた。
それからまた少し静かになった二人に、ぬっと黒い影が被さる。
「あんたらなに死亡フラグ立ててんだよ。明日戦だぞ戦」
深世だった。
「どうしたの深世さん戦国時代なの?」
「ちがうわ! こちとら明日に備えて寝ようと思ってるのに貴様らがしんみりと話すのが耳に入って寝れないんじゃい! それ以上わたしの前で死亡フラグめいた会話続けるんだったら美術室から退場させるかんな!」
突然のテンションに首を傾げる魔鬼にそう返し、深世は腰に両手を当てた。
と、あからさまに不機嫌を示す、そんな深世の頭の後ろから黒いものがニュッと覗き込んだ。
「まあまあいいじゃねーか嬢ちゃん」
猫とも狸とも違う動物の顔。雷獣。神域で深世を庇って瀕死の負傷を負った彼も、河童の妙薬の力ですっかり回復していた。
「大事な戦の前なんだ、積もる話もあるだろうよ」
「おだまり。私は寝たいんじゃ」
長い体を襟巻のように首回りに巻き付けた雷獣を、深世はジトリと睨む。
いつの間にか度々出て来ては相方面するようになった黒い妖怪。天狗のほとりは言霊の縁で好いているのではなどと語っていたが……深世は未だにその説に納得してはいない。夜雀兄弟や、そしてほとり自身にも度々身の回りをうろちょろされるようになってからは猶更である。
それでも敵意を向けられるよりはマシであるが、近頃は妖怪にばかり好かれてなんだかなあとは思っている。深世の心境は複雑だ。
けれどもそんな深世の気持ちなど知らず、身を起こした乙瓜が言う。
「深世さんすっかり妖怪使いが板に付いてきたよな」
「ついてねえし。そもそもなっとらんわ妖怪使い」
ケッと深世が吐き捨てたとき、「おーい」と呑気な声が更に間に割って入った。
「なーにしてんのさー。だめだぞー、こんなときに喧嘩なんてー」
と、ニヤニヤしながらやってきたのはやはりというか、遊嬉である。
「こういうのは喧嘩って言わないの。注意だし。こいつらがこっちが寝ようとしてる隣で死亡フラグ立てるから――」
「「いや立ててないし」」
不満を述べる深世と即座に反論する乙瓜と魔鬼。遊嬉はそれを見て思うところありげに「ほほう」と頷き、思いついたように手を叩いた。
「よし! どうせ死亡フラグ立てるなら豪勢に立てようぜ」
「……なんだそりゃ」
意味がわからんという視線を向ける深世に笑顔を返し、遊嬉は更にこう答える。
「乱立させれば逆に回収されない説!」と。
「そうと決まったらなんかそれっぽい話題つくらないとね! この戦争が終わったら結婚するんだとか。……まだ中学生だからそりゃ無理か」
「いや誰も決めてねえからね? あんただけだからね?」
深世がツッコむ最中、「じゃあ将来の夢とかは?」と誰かが提案する。それは眞虚の声だった。
遊嬉がトランプをやめたので、一緒に興じていた眞虚や杏虎も手透きになってしまったらしい。……乗って来なくてもいいのに。深世は頭を抱えた。
「おう将来の夢。いいね」
遊嬉は眞虚の提案に乗り気になって、当然のように「じゃああたしからー」と語りだした。
「ずーーっと前に乙瓜ちゃんには話したかな。あたしは将来的には怪事や不思議なことがまだこの世の中には沢山あるんだってことを伝えていきたいなあと思ってる」
「……えっらいフワフワしたビジョンだな。というかそれ胡散臭いやつ」
「なにを言いますかね、深世さんなんか妖怪使いのくせに」
「だから好きでやってるんじゃないったら!」
「はいはい」
遊嬉はニヒヒと笑い、深世がぐぬぬとする。
その一方で、眞虚が純粋な疑問を口にした。
「伝えるって、どうするつもりなの?」
遊嬉はそれを受けてふと何か考えるように宙を見て、それから「どうするかな」と言った。
「本書くかもしれないし、もしかしたらテレビに出たいのかもしれない。ああでも、今ならネットで自分で発信できるから、高校生になったらバイトしてお金溜めて、それで機材買って動画でも作ってみようかな」
「へえ結構具体的」杏虎が呟いた。
質問者である眞虚は遊嬉の言葉を聞きながらうんうんと頷いて、それから「いいと思うな」と明るく返した。
「本当?」
「うん」
眞虚は力強く頷いて、「だって遊嬉ちゃん、やりたいことのためになにをしたらいいかちゃんと考えてるもん」と続けた。
「それって大事なことだと思う」
肯定的に答える眞虚の目は、とても馬鹿にしているようには見えなかった。少なくとも、遊嬉には。
「ありがとう」
遊嬉はそう呟いて、それから「ばらすつもりか~」と謎の気(?)を放つ魔鬼を見て噴き出した。まあそれも仕方ない。
「おまえ~~~、今日まで隠し隠しやってきたのばらすつもりか~~~~、というか乙瓜知ってたのか~~~」
「いや知ってたっても一瞬何かのどさくさに聞かされただけだし……。ていうか怪事について発信することは別にお前の恥ずかしい秘密とか発信するわけじゃないから安心しろって……」
「う~ら~ぎ~り~も~の~」
たじろぐ乙瓜に覆い被さる勢いで襲い掛かる、手をわきわきとさせる魔鬼。見つめた先がそんな状態だったら遊嬉でなくとも笑う。
「そうだよ別に魔鬼のことピックアップするわけじゃないしー」
遊嬉は噴き出した後で二人の間に割って入るが、半笑いで「まあどっちかっていったら乙瓜ちゃんの方がUMA的な希少価値があるけどねー」などと続けてしまったが故に、モンスターは二体に増えた。
「「う~ら~ぎ~り~も~の~~~」」
邪悪なイソギンチャクもどきが二倍になった現実から目を逸らし、遊嬉は何事もなかった調子で「他はなんか夢とかないの」と話題のボールを放った。
「んじゃ、あたし行こうか?」
適当にそのボールをキャッチしたのは、意外にも杏虎だった。
「おう言ってみ」と遊嬉に促されるままに、杏虎は自分なりの「将来の夢」を語りだす。
「あたしは具体的になにになりたいっていうのはないんよ。強いて言うなら金持ちになりてーってくらいで」
「うっわ出たよ"お金が大事"」
「いいじゃん夢なんだから。お金大事だぜー?」
若干引き気味の深世をチラリと見て、杏虎はふと思い出したように言った。
「まあどうせならゲーム作る仕事とかはしたいなーって思うけどね」
「あー、杏虎ちゃん好きだもんね。ゲーム」
「うん」
眞虚の相槌にコクコクと頷き返して、杏虎は続ける。
「折角美術部だったわけだし絵も嫌いじゃないからグラフィッカーか、まあ別なのでもいいけど。何かしら関われたらいいなーとか思う。つっても三年後くらいにはまた別のこと言ってるかも知れないけどね。あたしの夢はこのくらい」
次誰話す? と杏虎が振って、それから眞虚と深世も自分の夢を話した。
別に具体的なことなんてなくてもよかったのだ。「他人が困っているときに助けになりたい」とか、「いい大学行きたい」とか、そんな二人の夢は決して否定されるものではない。続けて問われた魔鬼の夢が「悠々自適」でも、間に割り込んで来た雷獣の夢が「平穏無事」でも、もはやそれは四字熟語の発表ではないかとツッコまれても。例え一時しのぎの回答でも、それはそれで立派な夢だ。
だから最後に問われた乙瓜は、少し考えてからこう答えた。――「平和に暮らす」。
本当は、まだ何者になれるかなんてわからない。何者になりたいのかさえも。将来の夢は白紙で、そこから語る夢は狂言も同然だ。
ずっと七瓜の代替品であった彼女には、やっと確立した自分という個がどうなりたいのかまだわかっていなかった。わからないが――ここに居たい、消えたくない。だから近くて遠い将来の夢ではなく、今現在の願いをそのまま口にした。
けれども、その「願い」もまた否定されなかった。だから乙瓜は口にした後で密かに思ったのだ。
いつか、自分のなりたいものを、やりたいことを口にできるようになりたいと。
その為に。やはり明日は必要なのだ。
明日の、その先も――
語らいを終え、美術室の明かりが落ちたのは日付が変わるかという頃合いだった。
布団なんて気の利いたものはないので、明るいうちに体育館から引っ張ってきたマットの上に皆で川の字に転がっている。
「やっぱり明日は雨だってさ」
その真ん中でケータイの小さな明かりを見つめ、遊嬉が呟く。天気予報サイトが示す明日の天気は数日前から傘マークのまま、終ぞ覆ることはなさそうだ。
「雨の中の戦いか。合羽持って来ればよかったな」
乙瓜がポツリと吐いた言葉に、「それ戦い辛いだろ」と魔鬼がツッコんだ。
「天気悪いのに日食云々関係あるんかね」杏虎が呟く。
「わかんない。見えてるかどうかは関係ないかもしれないし、もしかしたら敵方には天候を操る手段とかがあるのかもしれない」
遊嬉はそう返し、既に寝息を立てている眞虚や深世を起こさないように声を潜めた。
「奴らが本気なら、明日北中に大穴が開くらしいよ。やばいよね」
どうなっちゃうんだろう。ケータイを畳んだ暗闇の中に、遊嬉の小さな溜息がやたらと大きく響く。
「……ここで弱気になんないでよ」
がさりと衣擦れの音がして、杏虎の声がした。励ましているとも、自分自身に言い聞かせているともとれる声が。
「なんないよ。やるしかない」
最後に遊嬉の声がして、美術部で声を立てる者は一人もいなくなった。
静寂。
その晩の古霊北中学校は、いつもよりもずっと静まり返っていた。
普段騒がしい学校妖怪たちも、この日ばかりは気ままに動き回るのをやめ。じっと何かを待ち身構えていた。
何かを――明日を――【月喰の影】の襲撃を。
静寂と緊張に包まれた夜はゆっくりと進み、まるで永遠に続くようにも思われた。
けれども、始まったものにはいつか必ず終わりがやってくる。"今"は決して永遠にはなり得ない。
例え雨が降ろうと雪が振ろうと、朝は東の端からやってきてしまう。
訪れた次の朝。古霊町の上空に広がる空は幾多の予想を覆して雲一つない快晴だった。近隣の町村では予想の通り雨が降っていたのに、古霊町だけが快晴。
それが吉兆であるのかないのか、この時は誰も知らなかった。
その朝の中、乙瓜は誰よりも早く眼が醒めてしまった。
とはいえ太陽は未だ地平線の彼方で、空の半分は夜空だった。
(まだ暗い。……でも晴れてる)
そっと起き上がり、カーテンを開けてそのことを確認した乙瓜は、ふと誰かに呼ばれているような気がした。
今立つ美術室より、ずっと上階から。
「なんだろう」
呟き、少し考え、乙瓜は歩き出した。少し確信めいたものを感じながら。
夕闇や夜の闇とは少し違う、暁闇に浸かる校舎内を上へ上へと移動し、気が付けば乙瓜は、屋上に至るスチール扉の前に立っていた。
通常ならば職員室にある鍵無しには開くことのない扉。けれども乙瓜は、今ばかりは鍵なんてなくても開けられるような気がしてドアノブに手を伸ばした。
今は、否、今までも。大体怪事に巻き込まれているときは、鍵が無くても扉が空いたりするし、反対に鍵があっても開けられなくなったりするものだ。
乙瓜が思った通り、扉はやや軋んだ音を立てながらすんなりと開いた。
目に飛び込むのは東の地平線を白か黄色に染める光と、西に追いやられる夏の星々。朝と夜の間の空。
その空の分かれ目に、見覚えのある――見覚えのあるなんてどころではなく見知った彼が立っていた。
「やあ、おはよう」
ドアの音で気付いたのか、それとももっと前から気付いていたのか。狙いすましたように彼は振り返る。
「火遠」
乙瓜はその名を呼んで、それから屋上に更に一歩踏み出した。同時に手を放したドアがクローザーに引かれるままにギギギと動き、バタンと閉じる。
その衝撃を感じながら、乙瓜はふと、予報を覆すこの天気は火遠の仕業ではないかと思って――すぐにそれを撤回した。
彼ならそんなことはしない。【星】の力で出来なくもないし、試しに見せたことはあるものの、きっとこんなことはしないはずだ。少なくとも、乙瓜の知る火遠ならば。
明け方の屋上にはさわさわと生温い風が吹き、乙瓜と火遠の髪や衣服を緩く揺らす。他に動くものといえばコンクリートの上にしぶとく自生する草花くらいなもので、後の無機物はしんと静まり返っている。
二人きりに、なった。
「なにしてるんだよ。眠れなかったのか?」
「その言葉そっくりそのまま返すよ。そして俺はあんまり寝なくても平気さ。君はどうだい」
「……そんなに寝てねえはずなのに不思議としんどくないし眠くもない。……俺だけ化け物だからかな」
「そんなことはないさ」
火遠は小さく首を左右に振って、それから少し申し訳なさそうに「ごめん」と言った。
「君をちゃんと人間にしてやれればよかったんだけれど」
「…………いいよ、今更」
乙瓜は火遠の隣に並び立って、それから改めて火遠を見つめた。
「そんなことしたらお前いつまでも目覚めなかったかもしれないだろう?」
火遠はその言葉に意外と言わんばかりに目を見開いて、「君に心配されるようじゃ終わりだね」と、参ったように笑った。
「なに笑ってんだよ。お前随分心配されたんだぞ。水祢にも、嶽木にも、花子さんたちや丙、アルミレーナってお前の娘にも」
「――ああ。そうだね。あちこちに心配や苦労をかけた」
「…………俺にも」
「……。うん。君にも」
心配かけた。そう言って火遠は乙瓜の頭を撫でた。てっきり以前のように小馬鹿にされるかと思っていた乙瓜はそれが少し意外で――そして少し泣きそうだった。
火遠はその零れかけの涙に気付かなかったのか、敢えて知らないふりをしたのか。静かに乙瓜から目を離すと、遠く地平線の向こうを染める色に目を遣った。
「あと四半刻もすれば太陽が昇って、辺りはすっかり明るくなる。……そして大変な戦いが始まるだろう。どうなってしまうかは見当もつかない。俺にも、八尾異にも。彼女ほどの予知能力者でも、今日のことは『混沌』としか言い表しようがないらしい」
「………………」
乙瓜は黙って火遠と同じ方角を見た。静かに昇り朝の光を運ぶ太陽が、このときだけは昇らなければいいのにと思いながら。
覚悟はとっくに。けれども戦いなんてしたくはない。それが本音だ。
「――怖いかい?」
不意に火遠がそう訊ねた。乙瓜は答えなかったが、火遠はそれに構わず言葉を続けた。
「いいんだ。それが普通だよ。できれば誰とも争いたくないし、争い無しに解決できるならそれに越したことはない。だから嘉乃の成そうとしていることはある意味では正しいのかもしれないし、俺はこれからとんでもない間違いを犯すのかもしれない。……そうだとしたら、俺はろくでもない神様だな。自分の信念の為だけに皆を徒に怖い目に遭わせた、最悪の」
それは彼の弱気だったのかもしれない。後悔の一欠片だったのかもしれない。"その気になれば世界を変えることができるけれど、好きにすればこの世界は全く違うもの変わってしまう"。そんな業を背負った彼の紛うことなき本音だったのかもしれない。
そんな本音を零す火遠に、乙瓜は言った。
「……間違ってなんかいねえよ」
肯定。それはその場限りの慰めではなくて、本心だった。
「火遠は間違ってねえよ。……例え記憶が同じだって、見た目が同じだって、誰とも衝突しない優しい世界だって。たまには自分と違うこと言って、喧嘩して、茶化して、最後には笑い合えるような友達が居ない未来なんて、俺は欲しくない。だから、今更迷うなよ。――かみさま」
「…………ありがとう」
火遠は少し寂しそうに微笑んで、それから乙瓜に向き直った。
朝の風が静かに吹き、二人の髪をさらりと揺らす。
「こんな頼りない神様だけど、最後にまた一緒に戦ってくれるかい」
「……あたり前だろ。なに言ってんだ」
乙瓜は火遠の目を見て、それからどうして自分がここに来たのかがわかったような気がした。
(ああ、そうか)
見えざるなにかに頷いて、乙瓜は火遠に右手を差し出した。
「自分で終わらせたくせに都合がいいと思われるだろうけど、もう一回俺と契約を結んでほしい。幸呼が言うに俺は弱虫みたいだから、また力を貸して欲しい」
火遠は一拍の間を置いてから「ああ」と頷いて、そして自分も右手を伸ばす。
「当たり前じゃあないか。むしろこちらからお願いするよ」
乙瓜の手を取り、けれども火遠はいつかの上から目線ではなく、自ら跪きこう続けた。
「俺にもう一度だけ力を貸して欲しい。共に行こう、烏貝乙瓜」
それを少し恥ずかしそうに見下ろして、乙瓜は「おう」と頷いた。
広がり始めた朝の光に照らされる顔が赤いのは、決して寒いからでも暑いからでもない。
暗雲すらも避けて通る、不気味に晴れた古霊町で、いよいよ決戦の夜が明ける。
見えざる混沌の嵐を前に、世界は目覚めの朝日を迎え入れた。
(第八環・嵐の前・完)