深世が二つの退魔宝具を封印領域から解き放った頃、神域を離脱した丁丙は古霊北中学校の屋上に立っていた。
去る三月に烏貝乙瓜と七瓜の存在を皆で祈った場所。草萼火遠が【星】の力の一端を振るい、行動不能に陥るまでの一部始終を見送った場所。
その因縁の場所に立ち、丁丙は彼女と対峙していた。
もう初夏だというのに頭の上から足の先まで全身黒の衣服に身を包んだその女――ヘンゼリーゼと。
「ようやく貴女の方から私を頼る気になってくれたというわけね、嬉しいわ」
微笑み一歩踏み出す魔女に対し、丙は硬い表情を崩さない。
「そんなに警戒しないで頂戴な。この件に関しては私たちの薔薇は貴方たちの味方。先に遣わせたアルミレーナや三咲たちがその証明。……それとも、ふふふ。七瓜と乙瓜のことをまだ怒っているのかしら?」
「…………。言っとくが、あちきはお前さんと雑談をしに来たわけじゃあないからな。この取引に応じる気があるか否か、それだけ問いたい」
「まあ。つれないのね」
口許を覆ってクスクスと笑い、ヘンゼリーゼは続けた。「応じるに決まってるじゃない」と。
「元々請われなくとも、私だってこうするつもりではいたのよ。西側で云う"悪魔"の多くは唯一神の教から排斥された諸族の神々、この国のヤオヨロズノカミとそう変わらないモノ。貴女はそれを知っていたからこそ私に縋り、そして私もまたそれを知っていたからこそ貴女に持ち掛ける気でいたの。私についた十柱の貴い異端の神々の力について。それが遥かな過去のことであれ、多くの人間が生きるために祈り願い崇め奉っていた神々の力は単なる異能異才の持つ力を上回る。短くとも数千年、長くて数万年。在れと望まれ在るように願われ在ると信じられてきたものが根底にあるのだから、当然よね。私のような若造や、貴女のような駆け出しの神様の力とは格も質もまるで違う。ましてや間借りしていただけの狐の力なんてね」
「……お前さんをしてそうまで言わせる力をくれると言うのか。その対価は」
「対価なんていらないわ。【月を名乗る影】を追い払えるのならば。全て終わった後であの娘さえ無事でいられるならば」
「黒梅魔鬼か」
一貫して険しい表情のままの丙に、ヘンゼリーゼは「ええ」と頷く。
「あの娘は私の将来に必要な娘。こんなところで消えられてもらっては困るわ」
「喰らうつもりか。言っておくがヘンゼリーゼよ――」
「――"この戦いが終わったら協力関係はお終い"? 承知の上よ。だから今は互いに何もしない。その後のことは、そのときが来たら考えましょう」
「思う通りにはさせんぞ」
「望むところよ」
二者が互いに譲る気のない視線を交わし合ったその瞬間、休日の北中がぐらりと揺れた。――否、揺れた、ように感じられた。少なくとも丙とヘンゼリーゼには。おそらくは学校妖怪たちにも。
屋上から見下ろすグラウンドに広がる運動部の練習風景にはまるで変わりなく、近隣の家々の様子も変わらず穏やかで、鶏小屋の中すら平和そのものだというのに。階下の人ならざるモノたちの気配だけが徐々に騒がしく広がっていくのを、屋上の二人は感じていた。
察知と、思案と、確信。二者が各々にそれらを処理した後、ヘンゼリーゼが口を開いた。
「あら、とても良い日ね」
まるで天気の話でもするかのように。
「私達のかみさまがお目覚めね。行ってあげなくていいのかしら、お師匠様?」
意外そうな様子など微塵も見せず、何なら先程までの延長戦のような態度で提案するヘンゼリーゼを顧みず、丙はこうしちゃいられんとばかりに走り出す。
背後でまた聞こえる笑い声なんて気にせずに、よそ見もせずに。
きっと今に至るまでが長い夢だったのだ。
眩い光に刺し貫かれて以来、彼はずっと虚を漂っていた。
そこには何もなかったが、その代わりに全てが視えた。
世界が今まで刻んで来た全ての時間の出来事。
遠い遠い記憶の光景。彼に炎を授けた天女の姿。天女だと思っていたモノの姿と、言葉。――この世界をどうするかもあなた次第。けれども私は無くしてほしくはないのです。
ずっと忘れられない記憶の光景。炎の海の中で息絶えた少女の姿と、言葉。――なかったことに、しないで。
いつか起ったことの光景。夜の草原で再会した"友"の姿と、敵対の言葉。――全部君のせいじゃないか。君がそれをしないから、僕が代わりにそれをするのさ。
彼の後ろに消え入りそうな影が視え、知り得ないはずの光景が視えた。――誰もテルコを救わなかったじゃないか! 救おうともしなかったじゃないか! ヒトもケダモノも、結局は同じじゃないか!
燃え落ちる見知らぬ街。慟哭する聞き覚えのある声、焼け焦げた掌、……影から覗く黒い魚。
覚えのある光景と知り得ないはずの光景が現実とも幻想ともつかず入り乱れる中を、彼の意識はずっと彷徨っていた。
彷徨う中でまた声を拾った。――自分はもう大丈夫だから。良く知る、強がりで、怖がりで、寂しがり屋な少女の声を。
声の聴こえる方に手を伸ばそうとして、彼は大事なつながりがプツリと切れてしまったのを感じた。
――大丈夫なわけあるか。
本当は自分が支えてやるべきなのに。また自分は誰かに支えられてしまう。
自分を支えきれず救えなかった人々を思い浮かべ、彼はやるせなく悔しい思いになった。
虚の中にはもう何も見えず、何も聞こえない。浮かんでいるのか沈んでいるのかもわからずに、彼はまた孤独になった。……その孤独の向こうから、新しい声が聞こえてくるまでは。
遥か遠く微かな叫びが。弱くも強く、確かな祈りが。
――……か。
――だれか!
――だれか、たすけてください。
――かみさま。
在れと望まれ在るように願われ在ると信じられ。だから彼はそれに応えようとした。深く世界の果てまで伝えるように。
「有ると思えばそこに在り、無しと思えばそこに亡し。ここに在るものが果たして本当に実体か否か。それを決めるのは君だ」
――決めるのは君だ。己の言葉で彼もまた思い出す。
ここから浮かぶも沈むも自分次第。手が届くかどうかも自分次第。……こうして叫ぶ言葉が届くかどうかも自分次第。
なら目覚められるかどうかすらもまた、自分次第であるはずなのだ。
それを思い出させてくれた彼女への感謝を込めて、彼はニッと笑った。
(まさかあの娘に助けられるとは思わなかった。暫く――本当に暫く見ない間に、君はとてもとても強くなったじゃあないか)
嬉しさ。雛鳥が巣立つのを見届けたような清々しい嬉しさを感じながら、彼はその胸の奥に勇気が芽生えるのを感じていた。
彼女が大丈夫ならば、きっとあの娘も大丈夫。
彼女が大丈夫ならば――きっと自分も大丈夫。
なら目覚めるのは今だ。
「俺の前に立ち塞がる闇よ消え去れ、闇よ砕けろ!!」
何もない代わりに全てが視える、長い長い虚の世界。それはきっと今に至るまでの長い夢だったのだ。
消え去っていく夢の終わりに、彼は最後の知り得ない光景を見た。
白い髪の少年と、髪の短い長身の女性。親子とは違う様子の二人の間には、けれども確かな笑顔があった。
その白い髪の少年の顔は――
夢が終わるということは目覚めるということ。目覚めるということは、瞼を開くということ。
久方ぶりの目覚めは彼の視界に滲んだ灰色を映し、そこから徐々に鮮やかな世界が返ってくる。
濃紺と浅緑、次いで緋色。己を覗き込む肌の色、瞳の色。
「火遠ッ、…………おはよう、兄さん」
名前を口にし涙ぐんだ顔を見られぬように胸に飛び込む濃紺。末弟の水祢。
その頭を久しぶりに動かした本物の腕で撫でながら、彼は――火遠は浅緑を、姉の嶽木を見て言うのだ。
「ただいま」と。
二つの目覚め、二つの開放。それがなされたその裏で、黒い着物の娘は「あら」と呟く。
「今ですのね。存外お早いお目覚めで」
その呟きに答える者は誰も居ない。彼女らに最も近く使えるべき者たちは大半が余興の為に出払っていて、唯一残った二つの影は、彼女相手に何かを語ることはしないだろう。
「自主性に任せる方針でしたが、話し相手がいなくなるというものも考えものですわ。いっそお母様に相手になってもらおうかしら。ねえ、お父様」
彼女の振り返る先には人影はなく、ただ淡く紫色に発光する大きな水槽だけが静かに佇んでいるのみである。
(第七環・転回禁止の分岐点に・完)