深世が封印領域に消えてからどれくらいが過ぎたろうか。
神域表面にて待ち続ける五人の美術部員はそんな考えをもう幾度となく頭に浮かべ、彼女らの部長の帰りを待っていた。
彼女ら自身の傷は、ほぼ初対面ながらに深世と似た気質を感じさせる天狗少女によってもたらされた薬によって癒えつつある。だが、最も軽傷だったとはいえつい数時間前――現世時間では十分も過ぎていないであろう頃に勾玉に選ばれたような深世が、神々すらも危険を感じ永きに渡って封じて来た退魔宝具を果たして手に入れることが出来るだろうかという目下一番の心配事は、当の深世本人が無事にこの場に戻ってくるまで消え去ることはないだろう。
「遅くない?」
鳥居の前で既に五度目か六度目となるその言葉を口に、眞虚は神域の昼も夜も天気もない白い空を見上げた。そこになにがあるわけではないが、彼女はそうでもしていないと落ち着かなかったのだ。
そんな眞虚に「大丈夫だよ、大丈夫」と返す遊嬉の言葉には、いつものような余裕の明るさはない。まるで重大な発表を前にしたかのように至極真面目な「大丈夫」の言葉は、眞虚だけでなく自分自身にもそう言い聞かせているようだった。
彼女らがやるせなく立ち尽くす一方で、魔鬼と乙瓜は他の妖怪や子狐たちと共に破壊された社の瓦礫の撤去などを手伝っていた。彼女らとて深世のことをまるで気にしていないわけではないが、暫く眞虚らのように待っていた末に、他者の仕事を手伝うことで憂鬱を紛らわすことに――無意識的にだったが――決めたのである。
とはいえ大きく厄介な瓦礫は大柄で力自慢の妖怪がてきぱきと運び去ってしまったので、彼女らがやることといえば精々飛び散った何らかの破片や埃・滓を掃き集めて捨てることくらいだ。一人間の感覚としては屋根も天井も壊れているし掃除なんぞするより建て直す算段をしたほうがいいのではないかと思いがちだが、当のこの場の主人が「社なんて綺麗にしておけば数日で直りますから」というので、まるで意味のないことでもないのだろう。
尚、乙瓜と魔鬼は掃除の最中社の隅にまるで隠すように押し込まれている新旧様々なゲームハード、ゲームソフト、携帯ゲーム機やハイビジョンテレビを発見したりしたのだが、……普段ここでなにをしているのかは敢えて問わないことにした。
「しかし今日は散々だったな。最初なんだっけ、深世さんの為に模擬戦演習しようとかそんなだったか?」
一段落と額の汗を拭い、乙瓜は魔鬼を見ながらそう言った。周囲の妖怪も一通り作業を終え、各々雑談等に入っている頃合いだった。
場所は神域社の敷地の隅、現世の神社にもあるような箒立ての前。「持って行くとき気にしてなかったけどこういうのあるってことはここも誰かが掃除してるんだよな?」なんて、箒を置いた瞬間から考えていた魔鬼はハッと我に返り、「あ、うん」と締まらない返事をした。
「なんだよぼうっとして、また深世さんの心配か?」
「いやそうじゃないけど。……でも、まあ、うん。今日は本当色々あったな。天狗のくれた薬がなかったらマジで病院行くとこだったわ」
「そうだな。つっても病院行きにならなくても服とかは誤魔化しようないんだけど。……てかどうしようなこれ」
苦い顔をして下を向く乙瓜の視線の先には、切り刻まれ破れほつれ、たった一日にしてパンクな様相を呈する私服がある。それは魔鬼もまた同じことで、当然の如く美術部の誰もがそうだ。ゴールデンウィークの合宿時の伝聞から神域の水に漬けてみたりもしたのだが、勾玉の為に神域の主の力が弱まっている現状ではその修復力も限りなく低下しているらしい。服はただ濡れただけで、裂けた穴も焼け焦げ汚れも一向に直る様子がない。
これで家に帰るのだから、何かあったと思われない方が難しい。どう誤魔化しても叱られるなり泣かれるなりするだろうなと考えると……乙瓜も魔鬼も自ずとどんよりとした気持ちになった。
「薬が服にも効けばよかったのになあ。高くはないけど私気に入ってたんだぞこれ」
「無茶いうなよ。……けど……はあ。俺もどうすっかなあこれ。めっちゃ穴開いてるし」
妙薬で消えつつある肩の傷とは裏腹に破れたままの服の穴。乙瓜はそれを気にしながら舌打ちし、溜息を吐く。
そんな相方の様子を見ながら、魔鬼はふと思いついたように声を上げる。
「よし! 思いついた! 全部終わった後で【月喰の影】の会社だか財閥だか残ってたら必ず弁償させようぜ」
「いいなそれ。全員分まとめてふっかけるか。特に眞虚ちゃんの、あれ高いだろ」
「安いも高いもないよ人様の服ぼろっぼろにしといてフォロー無しとか世界を良くするとか悪くするとか以前の問題だし。強気でいくぞ」
「だな。よし」
乙瓜は両の手をパンと叩き合わせた。もう乙瓜の表情にも魔鬼の表情にも影はなく、気分は最悪ながらに前向きだった。
事態は依然として停滞したまま、奇襲とはいえ美術部と本気の敵幹部との実力差が浮き彫りとなり、唯一【月】に打ち勝つ方法が揺らぎつつある現状は変わらない。丙にあるらしい心当たりでどうにかなるか未知数で、希望を託した深世ですら無事に戻って来られるかどうかわからない。
けれども、乙瓜も魔鬼もこの先に待ち受けている戦いに負けるなどとは考えていなかった。彼女らは強がりでもなく勝つ気でいて、冗談があるとしたら弁償云々のことだけだった。具体的な根拠はなにもない。けれども、彼女らは前を向いていた。それは本当のところでは眞虚も遊嬉もそうだったし、きっと杏虎も。
唯一美術部の誰ともつるまず、丁度の丸太に腰掛けて持ってきた菓子類をぽりぽりと齧っている杏虎は、いつの間にか隣に座る小さな影をちらりと見た。
脇目で見ただけなので細かい顔の造作はわからなかったが、それは少女の形をした――間違いなく人間ではないものだった。
「あんたさんは菓子なんか食ってていいのかね? 友人は大変な思いをしているだろうに」
杏虎が己の存在に気付いたと見たのか、彼女が問う。
「良いも悪いもなくね。待ってるだけなんて疲れるし。辛い人がいるからみんなで一緒に辛くなろうとか馬鹿だろ」
杏虎は全く普段通りの調子でそう答えた後、何かひっかかったように眉をピクリと動かした。
「なんだっけ。あんたの声知らないのに久しぶりに会ったような気がする。どこで会ったんだっけかな」
「それはきっと気のせいさね。どこかで逢っていたとしても、それは道ですれ違ったようなものだろうて」
小さな影は頭のてっぺんに掲げた大きな青いリボンを震わし、くすくすと笑った。
杏虎はそんな彼女に素っ気なく「そう」と返すと、手を付けていなかった菓子の小袋をすっと差し出した。
「かたじけないねえ」
感謝の言葉に開封音が続く。杏虎はそれらの音の方向を見ようともせず、けれど少し考えるようにしてから、何に対してか「ああ」と呟いた。
そして続ける。「この戦い終わったらさ」と。そう言いかけた言葉を、横から伸びて来た傍らのものの手が遮る。
「よしなされよ。俗世じゃあそういうものを"しぼうふらぐ"、と云うらしい」
「別にあんたと結婚しようとか言わないよ。まあ聞いてって」
杏虎は大して戸惑った様子もなく、強いて言うならば持ったままのスティックチョコレート菓子をぽきりと噛んでから、また話を続けた。
「この戦いが終わったらさ、帰るんでしょ、またあそこに」
「なんだい思い出しちまったのかえ。妾がどこへ帰るって、なにもあそこにだけ住んでいるわけじゃあない。大勢集って会を開き、大勢こぞって怪を語れば、最後に来るのがこの妾さ。そして逆に怪を語らないときにはどこにも居ないともいえる」
「ふうん」
納得したようなしかねるような、曖昧な表情を見せながら、杏虎は足を組んだ。
「なら、例えばさ。この戦いが終わった後で、人間がまた幽霊や妖怪を意識しなくなっていったら――」
「そうさの、妾はどこにも居なくなる」
「それでもいいの?」
「人間でないものが人間面して怪に怯え怪を語る、そんな滑稽な世の中に居座らされ続けるよりはずうっとましさね」
どこか自虐的に笑い、彼女はぴょんと丸太の上を飛び降りた。その背中に、杏虎は言う。
「名前さ。知らないんだけど」
「妾のことならもう解っているだろう、その眼なら」
「どんなものかは解るけど知らんもんは知らんし」
「そうかい」
彼女は相変わらず背を向けたままクスリと笑い、振り向くそぶりも見せずにこう答えた。
「灯明椿が妾の名前さ。菓子をありがとうよ白薙杏虎」
どことなく嬉しそうに言って去っていく後姿を見送り、杏虎はふうと息を吐いた。けれどそこに含まれる感情はというと、呆れというよりはどこか清々しいもので。
その清々しい溜息の後で思い出したようにチョコレート菓子を齧って、杏虎はふと呟いた。
「深世さんそろそろ帰ってこないかなあ。さもないとあたしデブになるぜ」
そうは言えども手を止めないのは、虎の目でも追い付けない数秒先より更に先の未来を信じているからに他ならない。
証拠も根拠もない。けれども理屈を超越した部分で、杏虎もまた深世の帰還を信じていた。
ある意味どっしりと構えている杏虎の視線の先には、先程から右往左往する天狗娘の姿がある。
深世が発った直後に河童の薬を別けてくれたということ以外、杏虎が彼女について知ることはない。深世となにかあったらしい気配こそあるものの、わざわざ視てまで知る気もしない。だいたい野暮と云うものだ。
だが、彼女が少なくとも深世を悪く思っておらず、心配しているということくらいは誰の目にも明らかだった。
あの子ももうちょっと落ち着けばいいのになぁ。そう思いながら、杏虎は次なる菓子の袋を開けた。
誰もが帰還を祈り、待っていた頃。歩深世は深い闇の中にあった。
行きは良い良い帰りは怖い、なら行きが怖ければ帰りが良いかと問われればそうでもなく、帰路もまた侵入者の五感と精神を惑わす仕掛けにまみれていた。
――ねえ深世さん。
――深世さんってば。
何も見えない闇の中で、聞き慣れた声が――知人友人親兄弟の声が、背後から左右から天から地から呼びかける。
――出口はこっち。こっちだってば。
背後の杏虎の声は幻想である。
――違うよ騙されないで。こっちが本物。こっちが出口だよ。
右隣の遊嬉の声は幻想である。
――よくがんばったねお疲れ様。もう大丈夫だよ、出口はここだから。
左隣の眞虚の声も、
――真っ直ぐ行っても出られはせん。本当は一度振り向かんといけんのじゃ。
薄雪の声も、
――もう足を止めていいんだよ。
乙瓜の声も、
――みーよーさーん!
魔鬼の声も、全部幻である。
そう、一々自分に言い聞かせないといけないくらい、聴こえてくる声も口調も深世の知る本人にそっくりだった。
――駄目でしょう、勝手に持って来ちゃ。戻って、返してきなさい。
諫める母の声もそっくりで、
――なんでそんな悪さをしたんだ! 神社のものは神社に返して来い!
父の声もそっくりで、
――あんたさあ、中三にもなってなにいつまでも馬鹿なことやってんの。勉強しなくていいのー?
姉の声もそっくりで、
――深世ちゃんよ、泥棒なんたおごったこったど。
――こんな盗みをするようじゃ、高校はもう駄目だな。
祖母の声もそっくりで、担任の声もそっくりで。
耳を塞いでも聞こえて来るそれらが全て幻だとわかっていても、何も思わないでいることなんて深世にはできなかった。
(止まっちゃ駄目、行かなきゃ、行くときだって耐えたんだ、最強なんだろ歩深世!)
振り切るように走り出し、行けども行けども広がっている、そもそも先に進んでいるのかすら定かでない闇に何度も心折れそうになり。それでも、深世は進み続けた。
そんな深世を言葉だけで折るのは無理と判断したのか、封印領域は遂に長く長く手を伸ばした。人の一生よりも遥かに長い年月剣と鏡を守るためだけに存在した封印空間が、そのアイデンティティの崩壊を目前に薄雪にも思い寄らない変化を遂げたのだ。
本来あり得ないはずの実体化を遂げた封印領域は深世の腕脚身体を絡め取り、次々と新たな触手を伸ばしては麻袋の中の退魔宝具を奪還しようとしてきた。
深世はそれに恐怖するが、けれども麻袋を強く握って離さない。
「渡すもんかよ、ここまで、来て……!」
粘るも、自分一人ではどうしようもない拘束を前に、深世は完全に詰んでいた。どうしようもないかに思えた。
(諦めたくない、けど諦めるしかないのか? 本当に……!?)
涙目で、いや、とっくにそんなものは通り越して涙でぐしゃぐしゃの顔で、深世は誰かに助けを願った。具体的に誰というわけではない。神に願ったかもしれないがそれは薄雪や狐らではなく、もっと概念的な、無理な状況をひっくり返してくれる超越的な何者かとしての『かみさま』への祈りだったろう。
――だれか、たすけてください。
その祈りが通じたのか。深世は以前として続く幻聴の中に、一つのはっきりとした声を聞いた気がした。
――有ると思えばそこに在り、無しと思えばそこに亡し。ここに在るものが果たして本当に実体か否か。それを決めるのは君だ、……
果たしてそれは彼女の脳が極限で作り出した幻覚だったか否か。その時の深世には知る由もないが、けれども深世はそれを頼りに動き出した。
「幻のくせに……黙ってれば本当に在るようなふりして……、人を泥棒扱いして……!」
抑えつけられていた深世の腕がゆるゆると動き出す。触手の抑えを跳ねのけて、少しずつでも動き出す。その手は麻袋に伸び、必然的にその内に放り込まれた二つの退魔宝具に向かっていた。
深世には封印領域が動揺しているように感じられた。そもそも"彼ら"の元の術者である薄雪が危険と判断した退魔宝具に、しかも一度は取り込まれそうになった上で再び触れようというのだ。動揺もやむなしだろう。
当然深世もその危険性を理解していたが、もう止まらなかった。素手で触れると同時に神経や血管を遡ってくる奇怪な感触に嫌悪しながらそれを取り出し、怯んだ触手たちに向けて翳した。
「願いを叶えてやる! 力を奮え祓魔鏡! 闇を照らし闇よ砕けろ!」
深世の手に再びしっかりと握られた禍津破祓魔鏡。それは光も無いのにきらりと輝き、光を返して闇を砕いた。
封印空間の崩壊。深世を苛む触手も幻聴もすべて消え去り、黒い闇は全て白の光へと反転した。
もしかしたら自分も消えるかもしれない。深世は光の中でそう思いながら、けれども特に後悔はなかった。
あの時、幻聴かもしれないが、確かに深世に勇気をくれた声。それは最後にこう言っていた。
それを決めるのは君だ、ホ・シンセイ。
「あゆみみよだっての。覚えろよ。……いや」
知ってるか。口を突く愚痴とは裏腹ににやりとし、深世は意識を失った。そして次に目覚めたとき――彼女の前には一面の光でも一面の闇でもなく、見知った五人と送り出した天狗少女の顔があったのだった。
各々泣いたり笑ったり忙しい顔で迎える彼女らに「ただいま」と呟き、深世は思う。
もしかしたら、あの時聞いた声は幻なんかじゃなく――と。