封印領域が『封印領域』である由縁、大勢では踏み入れぬ結界と、一人では心折れそうになる罠。
隠された入口の先に広がっていた光景は、油断すれば上も下も前も後ろもわからなくなる出鱈目な景色だった。今さっきまで歩いていた平坦な道は何歩か後には消え失せ、頭上には海が、足の下には吸い込まれそうな空が広がる。所詮まやかしと己に言い聞かせて更に進めば、今度は立体感を喪失したひたすらに絵か写真のように奥行きのない世界に、抽象画の中のような奇妙な景色、奇妙な人間のようなもの、ひたすらに一色だけが広がっている世界、何も見えない世界、得体の知れないものが己を追従しじっと見つめている世界……に次々と迷い込む。
生半可な覚悟で挑めば発狂してしまいそうな、悪夢のような光景の連続。歩深世はそんな景色の真っ只中に居た。
(見えているものはまやかし。全部まやかし)
幾度となく自分に言い聞かせてきた言葉を頭の中で繰り返しながら、深世はびっしょりと汗をかいていた。その身体にはどこからともなく降ってくる気味の悪い形の芋虫か毛虫のようなものが纏わりつき、うぞうぞと這いまわっている。
当然それはまやかしである。芋虫は存在しない。だが、這いまわる感覚だけは本物だ。
(いない。いない。本当は芋虫なんてついてない。大丈夫)
己を勇気づける思考の片隅で、深世はふと、話に聞く危険薬物の幻覚みたいだ、と思った。次に啓発ポスターの有名な惹句を思い浮かべ、説得されずとも未来永劫絶対に甘い誘いに乗せられまいと心に誓う。
(……だって、これは……地獄だ)
思い、深世は再び己を勇気づける言葉を頭の中で繰り返した。なにか考えていないとおかしくなりそうだった。その行為自体が既に危い場所に片足を突っ込んでいるのではとも考えはしたが、現状への嫌悪を叫んで暴れ出すよりは遥かにマシな行動に思えた。
そうなったらきっと、一人だけでは戻れない。彼女の中には確信があった。
……けれども深世はこうも思うのだ。仮に一人きりでなかったらなかったで、自分はきっと"みんな"に、美術部の仲間という存在に甘えてしまう。「怖い」と言ってしまう。「慣れた」という言葉で繕っただけで、恥とか外聞で強がっているだけで、責任感を鎧にしたつもりでいるだけで。本当の自分はずっと弱虫の怖がりだから。
ここで立ち止まったらみんなに笑われる、そう思って歩き続けてきたものの本物の彼女たちはずっと優しい。そんな彼女らから外れて立ち止まったら絶対に振り向くし、引き返してはいけない道を引き返してきてしまう。――だから。
(だから今、ここに一人でよかった)
頼れるもののないこの世界で、深世は最弱の人間だった。しかし他には幻影しか存在しないこの世界で、深世は同時に最強の人間でもあれるのだ。
芋虫はいつの間にか姿を消し、深世は足下に見知らぬ国の大都市を見下ろす空を歩いていた。また急に景色が切り替わるが、深世は特に動じない。突然高所に立つ幻影はもう五度目くらいで、大抵いつも何歩か進むと急降下して地面に激突する。今回もそのパターンだろうなと踏んでいた。
(また死ぬんだろうなあ。まあ、いいけどな)
なんでもない風に思いながら、深世の足は震えていた。何度目だって、疑似的だって、幻だって、まやかしだって。……死ぬのは恐怖だった。
だいたい、平凡な人間は一生に一度しか死ねないのだ。そろそろよくも何度も死ねたね、十分頑張ったよと褒めて欲しいし、本日世界で一番死んだ女としてその勇気を大々的に賞賛されてもいい頃合いではなかろうか。世界よ私を崇め奉りたまえ。
(――なんてな)
頭の中で発展しかけた馬鹿げた妄想を自嘲し、深世は大きく息を吸い込んだ。
吸って、吐いて、空を見て、地上を見て、震える己の脚を見て、語り掛けるように言った。
「ほらな私の脚。深呼吸しても、寒くないし苦しくない。見える景色はまやかしで、ここは上空何千メートルとかいう酸素のうっすい場所じゃないんだよ。お前が"歩深世"の脚ならわかるだろう?」
当然脚は答えやしない。所詮は深世の脚なので。だが応えることはできる。やはり深世の脚なので。
「いち! に! いち! に!」
張り上げる声は行進のリズムを刻み、今時運動会の小学一年生だってここまで気合は入れるかどうかという具合に大きく振られている。
それは空元気だった。けれどもその見せかけの元気に、絞り出した勇気に、脚は応えた。
「ほらな、動くじゃないかよ……!」
大きく膝を上げその場に足踏みを始めた両脚を見て、深世は泣きそうな顔で笑い、笑いそうな顔で泣いた。
「あとどのくらい前に行けばいいのかわかんないけど、もうちょっとだけ一緒に前に進んでくれよ私の脚。明日から、またみんなと生きるから」
泣き笑いのまま深世は歩みを再開し、見知らぬ空を堕ちて逝く。
(いいや違う。周りが勝手に上がって行っただけだ。私はずっと……ここに立っている!)
「前に進んでいるだけだ!」
深世は叫び、空が砕けた。
砕け散った景色の先にあるのは疑似的な死ではなく、それ以外に形容しようのない白だった。
まだ絵を描く前の、塗りつぶしたばかりのキャンバスのような白。その白の中に二つの祠が、とりあえず描いたかのように浮かんでいた。
不可解な光景だったが、幻影の中のような精神を削られ蝕まれるような感じはない。深世は拍子抜けして立ち尽くしてしまった。その頭の中に、どこからともなく誰かの声が響く。
『ニンゲン。久しぶりのニンゲン。こちらにおいで。わたしを手にとって、わたしを見て。さあ』
不思議な声が。男のようで女のようで、幼い子供のとも青年とも大人とも老人ともつかない声が。
『ニンゲン。久方ぶりのニンゲン。もっとこちらへ寄って、我を手に取り、我を見よ。さあ』
神秘的な声が。透き通るような声が。この世のものではないような、けれども不快感のない声が。
どうやら祠の方から投げかけられているようなその声を、深世は退魔宝具の声と理解した。封印されたが故に主に飢えた、強力すぎる故に危険な退魔宝具。それを理解した後で、深世はやっとここが封印地点であることを自覚する。
「辿り……着けたのか」
深世は呟き、そして薄雪の言葉を思い出す。
――最悪取り憑かれるやもしれぬ。
「……見ろって言ってるけど、確か見ちゃいけないんだよな……? ……取り憑かれたらどうなるかはまったく見当はつかないけれど、……いや」
想像くらいはつく。世に妖刀だのと言われる刀のように、持ち主を魅了して暴れ狂うつもりだろう。あるいは彼らにとっては悪気はないのかもしれない。幾万幾千の長きに渡る拘束から逃れ、その喜びをただ舞い踊りたいだけなのかもしれない。
だが、だとしても。
「悪いけど見てあげないし体もあげない。でも一緒にきてもらう。使ってあげるけど今じゃない」
もはやその手に同化してしまうのではないかというほどに握りしめていた麻袋を広げ盾の如く眼前に翳し、深世はまず右方の祠の戸を開いた。
「一つ目! 禍津破事割剣! "理に沿い理不尽を裁つ力"! 来い!」
あくまで直視しないように。布目の間から薄っすらととらえた目標物をさっと掴むと、深世はそれを素早く麻袋の口に放り込んだ。
剣の方は上手く行った。だが厄介なのは次だ。左方の祠の前に立ち、深世はゴクリと唾を飲んだ。
麻袋の盾はもう使えない。先に放り込んだ剣を直視してしまう恐れがあるからだ。
(焦らず、横目で位置を掴むんだ)
深世は息を吐き出すと、眼前の祠の戸を開け放った。
『ニンゲン。久しぶりのニンゲン。こちらにおいで。わたしを手にとって、わたしを見て。さあ』
声がした。先程脳内に響いたのと同じ声。戸を開けたからなのか、心なしか少し大きく聞こえる声。二つ目の退魔宝具の声。
その声の方向を直視しないようにして、深世はそろそろとそれに手を伸ばした。時間はまだたっぷりとある。焦るなと自分に言い聞かせる。落としたりしたら大変だ。
『怯えないで。わたしを手に取って。わたしを見て』
「……見るかよ。見てあげないって言っただろ」
あくまで反抗する意思を口にした直後、深世の手はそれに触れた。
しかし、やった、と思うのも束の間。触れた指先を得体の知れない感覚が遡り、深世の背筋は一瞬にして逆立った。安堵は消え、あのまやかしの世界の只中にいたような得も言われぬ不安が皮膚を粟立てる。
触れているのはこちらだ。けれどあちらからも触れられているような、――針のようなもので刺されているような――血管に入り込まれてしまったような――侵食されているような。
(そうだ、侵食……ッ!)
感覚の正体を言い表す丁度の言葉。深世がそれに辿り着くと同時に、頭の中に前にもまして大音量の声が響き渡った。
『見て! 見て! わたしを見て! ニンゲン! 久しぶりのニンゲン! 教えて教えて名前を教えて名前を名前を名前をわたしを見てなまえを見て見てこっちを顔をなまえを見せて見せて教えて使って照らして一緒に一緒に一緒に一緒に!!』
上から下から前から後ろから右から左から斜め上から斜め下から体の中から体の外から遠くから近くから、一斉に口々にどこからともなくいやどこからではなく!
鳴り響いた多数の声に、片手を伸ばしたままの深世は耳を塞ぐこともままならず、そのままの姿勢で固まることしかできなかった。
『使え! 使え! 使え!』
『名前を! あなたの名前を! さあ!』
『見て! 見て! わたしの姿を見て!』
このまま鼓膜が破けるんじゃないか。深世はそう思った。鼓膜を破られ――それどころか体中の柔らかい所を全て突き破られて殺されるんじゃないか、と。
……それは恐ろしく、そして到底許容できない想像だった。
(だって、私は……帰るんだ! 明日からまたみんなと生きるために、明日の先も超えていくために! 帰って、ほとりと話す為に!)
そう約束し、そうしたいと願ったから。
だから彼女は、息することすら許容されないような『叫び』の中で、ゆっくりと、ゆっくりと息を吸った。負けないように息を吸った。
肺に空気を貯める。まだ肺も横隔膜も破られていない。いける。大丈夫。
(……勝つ。相手が何者であったとしても勝つ。今この場で最強の人間は私。一人きりだから絶対に最強。だから負けない絶対に!)
屁理屈で固めた見えない鎧で負けそうな心を覆い、深世は全身全霊を解き放った!
「黙れよ!!」
目には目を、歯には歯を、音には音を、ぶつけ砕いて打ち負かすように。
「誰に命令してるんだ、誰にお願いしてるんだ、誰を動かそうとしてるんだ! 私はこの場最強の人間で『古霊町最強の美術部』の部長だぞ! 単なる言いなりになんてなるもんか! そっちから与えてやる気のない奴に何もくれてやるもんか!」
掴んだまま動けなくなっていた手に力を籠め、深世はそれを祠から取り上げる。
「私はあんたらを外に出してやる! 望み通り幾らかは暴れさせてやる! だからッッ!」
視界の隅に赤銅色が光る。白の世界を映してまばゆく光る、それは鏡の退魔宝具。
古代銅鏡の丸いフォルム、凹凸のある装飾面と、油断したら指先を滑り落ちていきそうなつやつやの鏡面。それに逃がすまいと爪を立て、深世は叫んだ。誰が主で誰が従者か、それを世間知らずで箱入りの退魔宝具に理解らせてやるために。
「私に従え、禍津破祓魔鏡ッ!!!」