怪事廻話
第七環・転回禁止の分岐点に④

「一人だけってそれ、マジで言ってんの?」
「マジに決まっとるじゃろ、こんなところで冗談言ってどうする」
 顔をしかめる杏虎相手に、薄雪は至極真面目な表情で答えた。
「封印領域の退魔宝具は正直に言ってかなり強力じゃ。お主ら向けに言っても"めっちゃ強い"し"やばいくらい強い"。控えめに言っても一当千、否、一くらいの"ぽてんしゃる"があるが、その強力すぎる力故に使い手が少しでも加減を間違えば味方まで滅ぼす。故にあれらは永きに渡り封印され続けてきた」
「なにそれやばいやつじゃん。そんなものの封印をどうして一人で解きに行けと?」
 素朴にして当然の疑問を投げたのは遊嬉だった。
「みだりに持ち出されぬよう、大人数では踏み入ることの出来ない結界と罠を幾重にも張り巡らせておる。術者は儂だから解くこともできるが、……退けたとはいえ敵に侵攻されたばかりのこの状況、まだどこに伏兵が潜んでいるとも知れぬ。残念ながら解いてやることは出来ぬのじゃ。それ故、恐らく大変な道程になるだろうことは予め言っておく」
 薄雪は白い天面をチラリと見遣りながらそう言って、「じゃが」と続ける。
「――じゃが、封印された二つの退魔宝具を手にすることが出来れば莫大な力が手に入る。あれら・・・は永らく封じられてきた故に使い手に飢えておるはずじゃから、あるじと認められるのはそう難しいことではなかろう」
「とは言うけど神様? 莫大な力が手に入るとして、それは二つの退魔宝具を得た人だけのものになるんじゃないの? そしたら六勾玉で封印の術を発動するには力の差は少ない方がいいって話に矛盾してないっすか?」
 すかさず指摘したのはまたもや遊嬉だった。薄雪はその指摘にきょとんとするが、それは決して自分の考えの穴を突かれたからではない。そこにあった感情は、どちらかと言えば、以前に語ったことをはっきり覚えていて矛盾を指摘できる人間が一人でもいたことへの驚きで、それは直ちに喜びへと変わる。
 薄雪はニッと頬を上げ、それから遊嬉と、遊嬉の言葉に触発された美術部らの疑問に解を示した。
「案ずることない。お主らに託した禍津破の六勾玉と封じられた二つの退魔宝具は元々ひとまとまりの退魔武装具。三種の力は互いに混じりあい共有され高め合う。まあつまり平たく簡単に言うとな、解き放って持ってくるだけで全員強くなる"ちーと"装備じゃ! その力をお主らの防御力だの機動力だのに回す! どうじゃ!」
 ドヤ顔で言い放った後で、薄雪がボソリと「まあ危険なんじゃがの」と呟く声を美術部らは聞き逃さなかった。
 ひとまず理屈はわかったところで、美術部六人は神に背を向け頭を寄せ、「どうする?」とひそひそ声で相談を始めた。
「私は下手すると味方まで滅ぼすってところがどうにも引っかかるんだけどさ……」
 最初に出て来た魔鬼の意見に、全員がうんうんと小さく頷く。薄雪はどちらかというと都合のいい面を強めにアピールしてくるが、ならばそんな都合のいいものが今の今まで何故封印されたままなのかを考えれば、それはほぼ確実に「本当にヤバい」のだろうし、何かしらのリスクは覚悟するべきだろう。それを察せぬ中学三年生ではない。
 けれども、それは同時に神をして「そうでもしなければいけない」と思わせる状態になってしまったということでもあるのだ。それもまた、誰もがわかっていた。
 わかっていた、けれども。
「だけどやるべきだと思う。幾らかリスクがあっても、それでも【やつら】に世界の全部を盗られるよりはマシだと思うから」
 魔鬼はそう続けた。それに「そうだな」と繋げ、傍らの乙瓜も己の意思を紡ぐ。
「このまま座ってたって解決するわけじゃないし、劇的に強くなれる方法なんて俺たちの中の誰も持ってない。狐神は力削られて、火遠はまだ目覚めなくて、だけどまだ【月】が大霊道開こうとしてない現状、リスクを恐れてチャンスを見逃すのは勿体ないと思う」
「…………。違いないわな」
 杏虎がふうと息を吐くのと、残る面々が「じゃあ誰が行く」と話し始めるのはほぼ同時だった。彼女らに必要だったのは確認だけで、もう誰の中にも異論はなかった。
「つーかさ、封印領域ってヤツにどの程度の危険があるかなんだよね。眞虚ちゃんの護符で抑えてるけど、正直あたしらの回復は追い付いてない。退魔宝具に辿り着くより先にあたしら自身がぶっ倒れちゃう可能性があるわけで」
 護符塗れの己の腕と脚を擦り、遊嬉が言う。彼女の言う『あたしら』、つまり演習攻撃チームは誰も彼も負傷していて、比較的ダメージの軽い眞虚も護符が一時打ち止めの状態である。
「なんか食っとけば治るかなーとおもって潰れた焼きそばパン食ったんだけど、まあそう簡単には行かんよねー」
「お前馬鹿なの? ゲームじゃないからなんか食ったくらいで治るわけないじゃん。……メロンパン食べる?」
 深世が皮肉交じりに差し出した潰れメロンパン三袋を、遊嬉は無邪気に「ありがとう」と受け取った。……というか多分お腹が減っていただけなのだ。
「魔鬼んとこどうだ? 外見的にはそうでもなさそうだけど」
「……いや無理無理。今までずっと堪えてるけどやっぱりこれ絶対骨がどうにかなってる感じだと思うもん……。一応神域の水被ってみたら気持ちちょっぴりだけはマシになったんだけど全然、全然。眞虚ちゃんの護符の回復すごい待ってるマジ」
 話を振る乙瓜に対して無理無理無理と首を振る魔鬼の顔色は心なしか青褪めていた。
(待ってないで戻って病院行けばいいのに。あるいは誰かいつの間にかすごい増えてる味方妖怪勢でもいいから薬かなんか持ってないかなぁ)
 そう思う乙瓜も乙瓜で、人形勢に思いきり切り裂かれた肩の傷は残ったままだ。そんな中で杏虎も「はい」と小さく手を挙げる。
「あたしは背中強めに打ったけどまあ平気。……ていうか多分動けるのはあたしか深世さんだと思うってか…………、いや。あたしが行くわ。あたしちょっとだけ先視えるから、多分その方がいい」
 自推し立ち上がろうとして、杏虎の身体ははぐらりとよろけた。
「ちょ、おま……全然大丈夫じゃないじゃん! 何考えてんだよッ!」
 咄嗟に杏虎を支え、深世は叫んだ。遊嬉らほどの目に見えて酷い外傷はないにせよ、杏虎は最初の一撃で吹き飛ばされ、背中どころか頭も、全身も強く地面に打ち付けている。交通事故に遭ったばかりと言っても過言ではなく、魔鬼同様やせ我慢で今まで大した事ではない風を装っていたのだろう。
 それに気づいて、深世は腹を立てた。
 杏虎に対してではない。自分に対してだ。
 よく思い返せば兆候はあった。杏虎は確かに全身が痛いと言っていた。深世はそれを思い出し、今の今まで気付けなかった自分が情けなくて仕方なかった。
「……どうして我慢なんかしてんだよ……! しなくていいんだよ、こんな状況でそんなのは」
 深世が自責と悔しさの中で吐き出した言葉に、けれども杏虎は拗ねた様子でこう返す。
「…………いや、だってあたし今日最初にやられてたからさぁ。深世さんも魔鬼もみんな十分頑張ったわけで、……ここはあたしの行く番っしょ」
 深世はそれを聞いて腹立たしいを通り越して呆れ果て、深く息を吐き、支えた杏虎を座らせると、「よしわかった」と立ち上がった。
「私が行く。順番がどうとか関係ない、今一番元気な私が行って戻って来れないなら、どうせ誰が行っても戻って来れない」
「深世さん?」
「……本当にいいのか?」
 眞虚、乙瓜がほぼ同時に放った言葉に、深世は何も答えなかった。そのまま立ち上った高い視点から背丈の低い薄雪に向き直り、人ながらにして神を見下ろし改めて宣言した。

「私が行く。封印領域とやらにはどこから入れるのか教えてほしい」

 はっきり言い切った彼女の様を、天狗のほとりは少し離れた場所から見ていた。
 後から来た小鈴に電八、共に戦った夜雀の兄弟、自称海禿うみかぶろのマリンちゃん、今までどこに潜んでいたのか謎の海坊主などが集う一角から、つい小一時間ほど前までは確かにただの人間だったはずの少女が仲間の為に立ち上がるのを見つめていた。
(……あんなに頼りなかったのに。どうして? なんで?)
 ほとりの中にはたくさんの疑問符が浮かんでいた。
 仲間に感化されたのか、歩深世幽霊やらを視る力はあるようだが、かといって除霊やら邪気祓いの出来そうな力なんてとても感じられなかった。そんな娘が六勾玉の一つに所有者と認められ、【月喰の影】の幹部の一人を戦闘不能に追い込んだ、だなんて、たとえ昨日の自分に言ったとしても信じてくれないだろう。
 彼女は彼女なりのプライドを持って【灯火】側の戦列に加わった。それはかつて巻き込まれた戦乱から命辛々逃げ出し、力尽きようとしていた彼女の先祖を匿い救った丁丙に報いるためだ。
 ほとりたちの一族に丙からの書状が届いた時、彼女は決議すら待たず故郷の山を飛び出した。
 件の先祖の直系で最も年若い彼女は、今こそ一族に伝わる大恩人に恩を返す番だと奮い立っていた。加え、山で起る奇怪な現象の大半に科学的説明が付けられてしまい、天狗というモノに対する威信が失われつつあるこの現代。畏れ敬われていた時代を知らぬ若い彼女は、今こそ再び天狗の力を見せつける時だと張り切っていた。雪女の銀華らの呼びかけで他山の天狗たちも集まってきてからは、自分こそがより優秀な天狗であることを見せようと躍起になっていた。
 彼女が同じ天狗の間で群れず、且つ美術部に対して批判的で、それに対して楽天的な小鈴や電八らにきつく当たっていた理由は、きっと嫉妬だったのだ。
 先祖の縁から恩を果たすべく頑張っている自分が注目されず、才能があるのかすらわからないぽっと出の小娘たちがもてはやされていることに対しての嫉妬。
 認められない、認められない。
 故に美術部の粗探ししかしてこなかったほとりは、雷獣が、夜雀が、薄雪媛神が、そして何より丁丙が看破していた深世の地力に最後まで気付くことが出来なかった。

「……人間は雷などを解き明かし、音は秒間約0.34キロを走るとした。その解き明かされた雷の権化たる雷獣がミヨ34に惹かれたのは、初めは単に名前の音の中に僅かばかりの縁を見出したからかも知れない。妖怪わたしたちって、意外とこじつけに弱いから。……でも途中からはもうそれだけじゃなかったのね。雷獣はたった一晩話しただけで、あの子の為に命を捨てる覚悟をした。それはミヨが例え力及ばなくても絶対に逃げない人間だと信じたから。まったく慧眼だわ。……それに比べ私は。天狗のくせして今の今までそれに気付かなかった」
 憑き物が落ちたように呟き、ほとりは背後に感じる三つの気配に言った。
「あんたたち、いつからわかってた?」
「いつからってほどでもないわいね」
 初めに答えたのはアマメハギの小鈴だった。
「わてらはただ、丙様や神さんの判断を信じただけだがや。わりゃは違うがかいね?」
 ねえ、と続ける小鈴に「ねー」、「あやそうだ」と二つの相槌が続く。
「あのねー、マリンちゃん思うの。この大事な局面で普通の子に切り札を託すなんて、思い付きだけじゃできない。神さまは、ミヨちゃんの仲間想いで絶対責任から逃げたりしないところを大事だと思ったから勾玉を託したんだよ。勾玉もミヨちゃんのいいところに絶対気付いてくれるって、信じてたんだよ。だから万事あれでよかったの」
 甲高い声で言ったのは海禿のマリンちゃん(自称)で、やはりその後には「あや」と、なまはげの電八の相槌が続く。
「わりゃ本当にいつも肯定しかせんわいね」
 小鈴が呆れたように言う中でほとりは三者を振り返る。
「……わかったわよ。私が……悪かったわ。今までは、その……ごめんなさいね」
 そしてぼそぼそと恥ずかしそうに謝罪するほとりの姿に、三者はきょとんとした後で、各々の言葉で「まあ気にするな」というようなことを口にした。
 ほとりは顔を真っ赤にして一旦また三者から目を逸らし、本当に小さく「ありがと」と呟いた。それから頭をぶんぶんと降り、照れ隠しのようにマリンちゃん(自称)をジトリと見て言う。
「……しっかしあんたアザラシにしておくには惜しいわね。滅茶苦茶賢いじゃないの」と。
 マリンちゃんはそれに対して頬(?)をぷうと膨らませると、ぷりぷりとした様子で上体を起こし、前ヒレ脚をぺちぺちと叩き合わせながら激しく抗議した。
海豹アザラシじゃないもん、海禿は海驢アシカだもん! マリンちゃんはもう妖怪化した仲間しか生き残ってないニホンアシカのなかまだもん!」
 その反論を聞いて、どちらかといえばぼんやりした方の電八が急に眼の色を変えた。
「あばや! 絶滅種でねぇが! よぐいぎでだなあ」
「わてもとーとから聞いたきりで本物に会うのは初めてだがや。えじゃけねえじゃけねかわいいかわいい
「えっ? えっ……?」
 来訪神二人の盛り上がりに、ほとりはただただ困惑した。山育ちの彼女と彼女の一族にとってはほとんど縁ないことであるので無理もないが、アシカに分類される鰭足類は現在日本沿岸には生息しておらず、一九七〇年代半ばの目撃例を最後に絶滅したとされているのだ。
 日本海側育ちの小鈴と電八はほとりとそう歳は変わらないが、上の世代からの伝聞でどんな姿でどんな習性を持っていたかは知っているし、稀に南下してくるアザラシやキタオットセイとの違いもわかっている。
 つまりこの場でアシカとアザラシの区別がついていない者がいるとしたら、おそらくほとりだけだ。
 そんなことなどまるで知らずに動物園だの水族館だのとイキっていたこともあったと思い出し、ほとりはただ赤面した。
「まあそういうこともあるべな」
 いつの間にかほとりの右肩に止まった夜雀(おそらく次郎太)が歌うように言う。
しゃんめえしゃんめえ仕方ねえ仕方ねえ。恥はここで全部出しきっとげ」
 左肩の夜雀(三郎平)もそれに続くので、ほとりは「うっさいわねえ」と叫んで唇を横に結んだ。
 二羽の妖怪はケラケラチチチチと笑い鳴き、それから左肩から順に交互にほとりに問いかけた。
「ところでどうすんだや天狗の。あのミヨって子は仲間のために危険さ挑む。あんたはこれからどうすんだ」
「恥かいて、改心して、……んだけどあんたも本当はここでぼうっと立ってるつもりはんだろ天狗の?」
「素直になんな」
「…………。ふ、ふん! あんたたちに言われるまでもなくわかってるわよ!」
 ほとりはぷりぷりしながらも歩き出した。

 その頃、覚悟を表明した深世は薄雪に導かれるままに破壊されつくした神域側の夜都尾神社本殿裏手まで来ていた。
 そこには本殿の有様とは裏腹に傷一つついていない石灯籠が一基だけ立っており、薄雪はその姿を見てにやりとした。
「さしもの【月喰の影やつら】もこれが封印領域への扉とは気づかなかったようじゃの」
 と、言って彼女が小声で何事かを唱えると、石灯籠はその中心から渦巻くようにぐにゃりと曲がった。
「おう!?」
 深世が可愛げのない驚嘆の声を上げる中、渦はパレット上に落とした絵の具を筆で混ぜ合わせたようにぐるぐると回り続け、石灯籠は見る間にその原型を喪失する。は石灯籠という絵の具で神域の白い空間に灰色の穴を描き切ると、ひとまず変化を収束させたようだった。
「この穴から入り、真っ直ぐ真っ直ぐ前に進むのじゃ。お主の目には時々川や崖、分かれ道などが色々な障害が視えてくるかもしれないが、兎に角惑わされずに真っ直ぐ進め。引き返したり曲がったりすると、……良くてここに戻って来られるが、最悪二度と戻って来られぬ」
「二度と戻って来られぬ……ってのは、そっちでも助けようがないってこと?」
「悪いがそうなる。まあ最悪の中でもいい方・・・・・・・・・じゃったら地球上のどこかに放り出される可能性はあるがな。ただそれは海の底かも知れんし火山の噴火口の中かも知れん。つまり儂にもどうなるかはわからん。ただし見える景色に惑わされず真っ直ぐ前に進む限りは安全じゃ」
「真っ直ぐね、真っ直ぐ。……わかった」
 真っ直ぐ、を自分に言い聞かせ神妙に頷く深世に、薄雪は彼女の身の丈よりも大きな布袋――おそらくは麻袋を深世に差し出した。
「これは?」
「退魔法具の回収用にじゃ。封印地点には石の祠が二つあるはずじゃから、そこまで辿り着けたら祠を開き、直視せずにその袋に放り込め。放り込んだらまた前へ前へ進め。そうしたらいずれ本殿に向かう側から戻って来れる仕掛けに……なっとったはずじゃ。多分」
はず・・って。急になんかアバウトだなあ、大丈夫なのかそれ。というか取ってくるやつ直視したらいけないって、見たらヤバいレベルのものってこと?」
「いや……仮に見てしまってもそこまで害はないが念の為じゃ。先に皆の前で言った通り、奴らは長い間封印されていたが為におそらく使い手に飢えておる。最悪取り憑かれるやもしれぬと思ってな」
「とりつかれっ!? ……そういうこと早く言って欲しかった」
 皆の為にと自分から志願したこととはいえ、深世はこの時ばかりは自分の選択を後悔しかけた。
 けれども……いや。既に危険は承知の上だ。どう転んでも行くしかない。
 深世はそう思い直し、差し出された麻袋を受け取った。
「覚悟はいいな?」
「……くどい。私はもう……行くって決めたんだ」
「そうか。――なら、上手くやれることを祈るだけじゃな」
 それ以上のやり取りは不要とばかりに深世が穴の中に片足を踏み出そうとして、薄雪がその場を去ろうとした、その時だった。

「ちょっとちょっと待ちなさい!」

 二者へ向けた大きな声。それは空から降りかかってきた。一人と一柱がきょとんとして天を仰ぐとほぼ同時、鋭い勢を保ったままに一つの影が神域の地に降り立つ。
 それはやはりというか、天狗のほとりだった。
「えっえっえっ!? なにっ、なんなのさ!?」
 深世は驚く。無理もない。ほとりは深世を知っているが、深世はほとりのことなんか知らない。なので次に「どうした天狗の」と問い訊ねるのは、どうあがいても薄雪なのだ。
 けれども彼女はそんな神の言葉を無視して、まさに出立しようとしていた深世へと向かった。当然、深世はそれを疑問に思うし警戒もする。
 だがほとりは、訝る視線をものともせずに深世の前に立ち、その眼を真っ直ぐに見つめ返した。
「あ、あたしはっ! ……天狗のほとり。あんたは私のことを知らないだろうけど、あたしはあんたのことを知ってる」
「……突然のストーカー宣言……だと……!?」
「なっ、ち、ちがうわよっ! …………」
 否定した後で存外その通りなんじゃないかと気づき、ほとりは一旦深世から目を逸らし、やや気まずそうに口をもごもごさせた。けれども、……自分はこんなことを言いに来たわけじゃないはずだ。そう思い直し、彼女は改めて深世を見つめ直す。
「……っ。私は丁丙の要請で集まったあんたらの味方で、……美術部のことずっと見てた。……正直ね、あんたたちみたいな人間の子供が【月】を倒すかなめだなんて言われてて、そんなのおかしいでしょって思ってた」
「うん。わかる。おかしいよね」
(……お主今覚悟したばっかじゃろ、わかっちゃだめじゃろ)
 敢えてなのか空気を読まずに相槌を打った深世を見上げ、薄雪は内心そう思ったが黙っておいた。神には心のみならず空気も読めるのだ。
 一方でほとりは鈍いのかなんなのか、妙な相槌に腰を折られることなく引き続き自分の気持ちを正直に喋り続けた。
「――でも、あんたの覚悟見てて眼が醒めた気持ちだわ。だからちょっとでも助けになればって思う。これから一緒に戦う仲間なわけだしね」
 だからこれ、受け取ってちょうだい。そう言って、ほとりは深世に小さな白い巾着袋を差し出した。
「なにこれ?」
 言って深世が開き取り出した巾着袋の中には貝が入っていた。それを見るなり、「河童の薬か」と薄雪が言う。
伯瑪ハクメ河童の万能薬じゃな?」
 見上げ問う神に天狗は今度こそコクリと頷く。
「童淵神社の護衛ついた仲間が持ってたものを貰って来たの。怪我に効く軟膏が入っているから、なにかあったら使いなさい。後であんたの仲間にも同じものを配るわ」
「…………!」
 あんたの仲間にも配る。その言葉の意味するところを噛みしめて、深世はほとりに勢いよく頭を下げた。
「恩に着るッ!」
「……いいのよ。雷獣のこともあるし、……お互いさまにしましょ」
 そこまできてまた気恥ずかしくなったのか、ほとりはそっぽを向いた。けれども消え入りそうな声で彼女は言う。「がんばって」と。
 そんな彼女に深世は言う。「あんたのことよく知らないけれど」と。

「よく知らないけれどありがとう。……だから私が戻ってきたら、今度は互いをちゃんと知るために話でもしようよ。だから待ってて」

 ほとりはそれに答えなかった。でもきっと、たぶん、わかっていて照れている。薄雪にだけはそれがはっきりとわかった。だからほとりは間違いなく深世の帰りを待つだろう。
(なんか知らんが、味方勢が仲良くなるならまあよかろう)
 ぱちぱちとまばたきししてからふうと息を吐き、薄雪は改めて深世を見上げた。

「行って来られるな?」
「…………うん。大丈夫!」

 先程よりも緊張の和らいだ表情でそう言って、深世は一人封印領域へと歩みを進めるのだ――

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