怪事廻話
第八環・嵐の前①

 近くから響く吹奏楽部の音合わせと、遠くから入り込む運動部の掛け声。それら以外は殆ど静まり返っているのが休日の北中校舎内の常だったが、今日ばかりは少々様子が違った。
 常人には視えざるものたちがざわざわと騒がしい。その騒めきを浴びる廊下には、二つの浅緑ライトグリーンが並び歩いていた。ざわめきを遠ざけるように、わざわざ立てなくてもいい足音を響かせて。
 浅緑の片方は火遠、もう片方は嶽木。図書室の妖界で感極まって目許を赤く腫らした水祢は後から行くとその場に留まり、安堵の笑みを浮かべたアルミレーナは己のするべきことを果たすべく立ち去った。
 なので廊下には二人きりだ。周囲を足音で牽制し、嶽木は今日までのことを弟に簡潔に伝える。
「丙師匠と薄雪神は【月喰の影連中】が大霊道に仕掛けて来た時に迎撃するつもりで計画を立てている。その為に美術部六人全員に勾玉を預けて調整中。……それと、異怨が連れ去られたことを伝えておく。すまない」
「姉さんが謝ることはないよ。…………けれど……そうか。奴らが俺でなく異怨を狙ったとしたら、狙いは恐らく異怨の持つ、姉さんと同じ無限再生の命だ」
「……どういうこと?」
「元々振り切れているものを今更操ることはできない。となると奴らにとっての利用価値は一つしかない。……追々話す。今は――」
 言いかけて、火遠はふと視線を上に上げた。屋上へ続く階段へと。
 そこにはこれでもかというほどに目を見開く丁丙の姿があった。
 今更幽霊に驚くタマでもないだろうが、『まるで幽霊でも見たかのように』という使い古された言い回しの通りの表情を浮かべる丙を見て、火遠はちょっぴり意地悪そうな笑みを浮かべる。
「おはようございます丙師匠。久しぶりにのんびり寝たんでスッキリ爽快ですよ」
「……馬鹿め、もうすぐ昼だ。それに何がスッキリ爽快だ、まだ寝癖・・も直っとらんザマで」
「そりゃあご無礼を。追って整えるからどうかご容赦願いたいよ」
 火遠は至って軽い調子で答えると、姉と揃い・・のままの髪を手櫛てぐしでさらりと一ついた。
「ところで師匠。この寝起きの弟子の頼みごとを、どうか聞いちゃあくれませんかい」
「内容による。まあ言ってみろ」
 驚き顔のすっかり失せた仏頂面で腕組みする丙に、火遠は意地悪笑いを引っ込めた、ごく真剣な顔を向ける。
「おそらく六十数年前に亡くなっているアマガイテルコという女性について、どんな人物だったかを調べて欲しい。なるべく早めに頼むよ」
「ほう」
 丙は表情を崩さぬままそう呟いて、火遠をジトリと見下ろした。
「長い眠りの果てに何か視たか。それが単なる夢でないとも知れぬままに」
「それを確かめるために調べてほしいのさ。是非お願いするよ」
「そうかい」
 丙はそう言って火遠らの前を通り過ぎ、どこか怒ったように、でもどこか嬉しそうに肩を揺らして階下へと消えて行った。特に肯定も否定も返さなかったが、彼女はきっと頼まれごとを果たしてくれるだろう。火遠はその背を見送りながらそう確信していた。
「誰だい、そのアマガイなんとかって」
 気付けば取り巻きの有象無象も失せ、静まり返った階段前で嶽木が問う。
 火遠は「これからわかるさ」とだけ答え、それから前髪に隠れた左目のあたりを、何か違和感でもあるように擦った。
 嶽木はその様子を見て思い出したように言う。
「一つ言い忘れてたことがある。……乙瓜がお前との契約を解いたよ」
 火遠は目許に触れる指を止めて嶽木を見ると、少し寂しそうな、けれどもやはりかといった顔で「そうかい」と答えた。
「これからやらなくちゃあならないことが沢山あるな。力を貸してくれるかい姉さん」
「当たり前に決まってるだろう。今までもこれからもそうだ」
 影武者なんてものをしていたことを伏せたまま頷く嶽木に、火遠は笑って、それから再び前を見た。

「よし。行こう」
 言って歩き出した火遠の髪の瑞々しい葉が紅に染まり、それを燃やして再び炎が噴き上がった。



 歩深世が一つの退魔宝具に認められ、二つの退魔宝具を開放し、草萼火遠が目を覚ます。
 その濃厚な一日は、他の平凡な日々と同じようにするりと過ぎ去った。
 美術部とその家族の間では主に服のことなどで一悶着あったりなかったりしたようだが、翌々日の月曜日に顔を合わせた彼女らは「面倒もあったけれど大した事にはならなかった」と笑い合った。
 覚醒した火遠と顔を合わせたのもその時で、泣いたり怒ったり怒られたりした後で、彼女らは以前のような関係に戻って行った。
 三神社と妖怪たちの戦列には黒い魔女から遣わされた異国由来の悪魔たちが加わった。代表格としての薄雪はそれらを見てまた新たに何事かを考え初め、三神社と悪魔の間で新たに相談事が始まった。
 一方で三神社と居鴉寺の【灯火】前衛対策本部を護る妖怪たちは他の妖怪、そして美術部との親交を深め、特に歩深世の周囲にはあの天狗少女や夜雀の兄弟、暫く後には全快した雷獣がうろちょろするようになった。
「別になにがあったってわけじゃないし。なんか一方的に懐かれてるだけだし」
 どういうことかと問われた深世は、それを尋ねた部員たちを面倒そうにじとりと見た。その首には紐を通した勾玉がかけてあり、あの日以来の翠色で室内灯を照り返している。
 乙瓜の橙の勾玉に花橘の名をつけたように、薄雪は美術部が覚醒させた全ての勾玉に固有の呼称を付けた。
 紅に染まる遊嬉の勾玉に朽葉くちばの名を、白藍に染まる杏虎の勾玉に花薄はなすすきの名を。薄赤の眞虚の勾玉が紅躑躅くれないつつじ、紫の魔鬼の勾玉が薔薇そうび、そして深世の翠の勾玉が若苗わかなえで、全て色から連想される植物の名などから取ったらしい。
「退魔宝具も気を損ねることがあるからの。"あれ"とか"それ"とか言うよりは名前の一つでも付いていた方がよいじゃろ」
 名を付ける意味を問われたとき、薄雪はそう言ってから深世の持ち帰った麻袋を見た。たったそれだけの仕草を前に、深世だけが「冗談じゃない」と苦笑いを浮かべていた。
 一方で、その「冗談じゃない」退魔宝具の片方に懐かれてしまったのもまた深世だった。
 ――禍津破祓魔鏡マガツヤブリノハラエマノカガミ。封印領域を抜け出すために長年封じられてきたその力を振るわせた深世は、すっかり鏡に気に入られてしまったらしい。
 深世は当然(というより帰還直後なかなか手から離れてくれなかったことが原因で)「嫌だ」と拒否し続けたが、最終的に薄雪らの押しに負けて所持することを渋々了承した。以来、(おそらくはやむを得ぬ事情で)学校にも持ち歩いているようだが、鏡そのものはタオル等で厳重に包まれたままである。
 それは逆説的に鏡の覆いを解き放つ場面に遭遇していないということを意味していた。相談箱の依頼はちらほらあったが、これから美術部と協力して【月喰の影】と戦おうという気概に満ちた妖怪たちの集うこの古霊町で、強大な怪異絡みの事件など、それこそ【月喰の影】の攻撃以外ではまず起こりえない。
 あの神域襲撃を最後として。【月喰の影】は雲隠れしたまま、古霊町には平穏が流れていた。
 しかし【月】は隠れているだけで逃げてはおらず、ましてや知らぬままに空中分解などしていない。それは街に溢れる"ツクヨミグループ"の製品が、ポスターが、テレビCMが物語っており、まだなにも終わっていないと嘲笑っている。
 ある視点から見れば何事もなく平和で、別の視点から見れば不気味に沈黙していて。

 そんな嵐の前の静けさのような日常の中で梅雨の季節が過ぎ去り、周囲は夏本番へと移り変わろうとしていた。

 辛うじて夏の大会を控えている運動部もあるが、部活動は世代交代を迎えなければならない時期へと差し掛かり、それは美術部もまた避けては通れない道である。
 六月最後の金曜日、その放課後。一年から三年まで全ての部員が揃っていることを確認し、深世は引退の挨拶をした。
「多分迷惑はたくさんかけたと思うし、部名におかしな箔をつけた以上、これからも迷惑かけるかもしれない。美術部ってことで変なことに巻き込まれたりするかもしれない。ごめんなさい」
「まあ気にしないでください部長。みんなそんな部だと知って入った好き者ばっかですから。今更何事に巻き込まれたところで先輩たちのこと恨んだりはしないっすよ」
 畏まって頭を下げた深世に軽く軽くそう返したのは、案の定岩塚柚葉である。
「美術部はウチらが責任もって守っていきますよ」
 そう力強く答えた柚葉は、そのまま傍らの古虎渓明菜の両肩をがしっと鷲掴みにすると「頼み申したよ新部長」とニタリと笑った。
「……どうして私が新部長になる流れになってるかな? 鬼無里きなささんがやるんじゃなかったっけ?」
 明菜は柚葉をジトリと睨み、次に後方に立つ鬼無里結美むすびを振り返った。一年生の中頃から部内の同学年の取り仕切りはずっと鬼無里がしていたので、明菜はてっきりその流れのまま彼女が部長になると思っていたし、柚葉の発言に対し当然反発があるだろうと踏んでいた。
 けれども当の鬼無里は平然とした表情で自然に口角を上げ、「私のことは気にしないで」と緩く手を振った。
「明菜ちゃんがどうしても嫌っていうならやるけれど、私もこれからの美術部部長は明菜ちゃんがいいと思うの。明菜ちゃん先輩に結構ついてってたし、周りのこともよく見てる。去年のほら、雛崎さんとか。私だったら多分放っておいたかな」
 だから貴女がやるといいと明菜を推す鬼無里に二年生は皆賛同し、まだ付き合いの浅い一年生三人も訳知り顔でとりあえず頷いている。
 すっかり困り顔の明菜を見つめ、「やってみたらいいんじゃないかな」と眞虚が言った。
「駄目だったらそのときは鬼無里さんにお願いしたらいいよ」
「そ、それでいいんですかね?」
「いいんだよ」
 ニコリと笑う眞虚に言いくるめられ、明菜は最終的に美術部部長のポジションを継ぐことに同意した。たすきはここで受け継がれ、その後一年経つまで他の誰にも渡されることはなかったが、それはまた未来の話。その未来が果たして現在を生きる人々の延長上にある未来であるかどうかも――また未来の話。
 ある意味部活動という縛りから解き放たれて身軽になった三年生たちは、晴れやかな顔のまま家路についた。

 ――深世が、眞虚が、遊嬉が、杏虎が、魔鬼が、そして乙瓜が。美術部から表向き卒業・・したその日。
 その日。後世の歴史に残らない戦いまでの最後の一ヶ月が、静かに幕を上げたのだ。

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