五月二十五日深夜、古霊町西端居鴉寺。もう寺の僧侶たちもとっくに読経を終え寝静まったはずのその場所に、幾つもの黒い影が蠢いていた。
彼らは【灯火】に協力することを決めて古霊町へやって来た妖怪・幽霊たちである。よそ者である彼らが古霊町の妖怪の縄張りを侵すわけにはいかないので、当面の間、春以来【灯火】の仮設拠点となっている居鴉寺に集められているのだった。
「ここの神さんらの話聞いたかいね?」
言いながら境内の隅の池に小魚を投げるのはアマメハギの少女だ。彼女は奥能登に住む来訪神の一族の後継者で、名を小鈴と言う。
「おう。神さんたちは人間に力どごけっちまう。それまでおえがだで神さんの守りさねねゃいげねや」
一方でそれに答えたのが秋田に伝わるなまはげの青年で、名を電八と言う。
彼らは出身は違えど起源を共にする来訪神であり、今日も伝統が残っている存在だ。鬼のように恐ろしい姿で子供たちを怖がらせる姿ばかりが有名だが、その目的は悪い性根を正し厄を払うということにある。
伝統行事としての『なまはげ』『アマメハギ』はそれぞれ人が扮するものだが、来訪神としての彼らはそこに本物の厄払いの力を与える存在だ。そして本体としての彼らは人間の身では敵わない災厄そのものと戦っている。
彼らの種族は昔から人間と共に在った。そんな種族であるにも関わらず、一族の長老衆は人間の存続と自分たちの一族の存続を秤にかけて長い間決断しかねていた。
小鈴と電八はそんな老人たちの態度に痺れを切らし、「人間が居なくなった後の世界など守ってどうする」と啖呵を切ってそれぞれ故郷を飛び出してきた。
似通った経緯でやって来た故に意気投合するのは早かった。振り返ってみれば老人たちの言い分もわからないでもないが、自分たちの決断に後悔はしていない。
小鈴はアマメハギが人間と積み重ねて来た歴史が好きだったし、それはなまはげである電八も同じだ。二人とも人間のどうしようもない部分もたくさん知っていたが、それでも守りたいと願ったのだ。
「明日からしこたまがんばらんといげねや」
「おいね。よーけがんばりまいか」
等々二人が意気込む間で、黒い影が池からぬっと顔を出す。小鈴の投げた小魚を丸飲みにしたそれは、遥々海からやってきた妖怪・海禿である。……と、本人(?)は言うがどう見ても普通のアシカであり、丙が最後まで「これ本当に大丈夫か?」と気にしていた存在である。ちなみに名前は「マリンちゃん」だと本人(?)は言う。本当に大丈夫か。
「あのねー、陸じゃあ出来る事はそんなにないかもだけどー、マリンちゃんも人間好きだから頑張るよー。そんで頑張ったみんなにもいっぱいぱちぱちしてあげるー」
「えじゃけないやろね~、ありがとぉ~」
小鈴がニコニコして小魚をもう二、三尾投げると、海禿はそれを無駄ない動きでキャッチした。ちなみにこの海禿、戦う能力とかはないがジャンプ宙がえりと輪潜りは得意らしい。本当に大丈夫か。
と、そんな彼らの居る池とその畔に、屋根から不自然に強い風が吹き付ける。
「なんかいね。わりゃもマリンちゃんとあそびたいがかいね?」
風の吹く場所を見上げて小鈴が問うと、「そうじゃない」とそれは答える。屋根の上に立つ、風を起こした者。
それはやはり先の京都で合流した一人、天狗の少女である。名はほとり。
「あんたたちアザラシだかオットセイだかと戯れてる場合じゃないでしょう」
「戯れてるんじゃないやね。ごはんあげないとマリンちゃん死んじゃうかって。あとマリンちゃんはアザラシでもオットセイでもなくて海禿って妖怪やね。な、デンちゃん」
「あや」
「なにあんたたち、動物園か水族館で見たことないわけ? 思いっきりそのままじゃない、これだから田舎者は」
「あれ。ほとちゃん初対面で山形から来たって言ってなかったかいね?」
「……だ、だから何よ! 山から降りたことくらいあるわよ馬鹿にしないで! ……もう」
ほとりは顔を真っ赤にプイとそっぽを向いて、それからジトリとした視線を再び地上へ向けた。
「ところであんたたちはどう思うの。今日の話。この町の神々が人間の小娘六人に力をあげちゃうとかいう」
「なんだ、丁度わてらもそのこと話してたところだがや。わてもデンちゃんも異論はないかって、明日から神さんたち守りに行くだけやぞいね」
「あや。おみゃは何が異論あるのが?」
「大ありよ、あるに決まってんじゃない!」
頬を膨らませ腕組みして、ほとりは声を大きくした。
「あのねえ、この戦いは遊びじゃないの。私もあんたたちも少しでも間違ったら郷里や親兄弟に累が及ぶくらいの覚悟で来てるっていうのに……もう及んじゃってるのも居るっていうのに、最後の切り札が人間の小娘ってどういうこと!? 中学生ってどういうこと!? ……そりゃこの地の神々にだって託すだけの理由はあるんでしょうけど、そう簡単に納得行くわけないじゃない! 中学生よ、中学生。たったの十何歳か!」
「ほとちゃん他人を見かけで判断せんとかにゃいいぞいね? 山から降りたことあるんだったらもっとよく他人のこと見まいか。わては生まれてから今まで能登から出たことなかったけれど、色んな人がいるって知ってるぞいね。デンちゃんもマリンちゃんもそうやがい、同じこと言ってるがや」
「んだでゃ」
「そうだよー」
「……なんで一々肯定しかしないの腹立つわね」
ほとりは特に電八とギロリと睨み、「いいもん」とすぐにまたそっぽを向いた。
「私は【灯火】の猿神様への恩を果たすために従ってるだけで、あんな子たちが切り札だなんて認めないんだから。同じこと思ってるのはきっと私だけじゃないわ。万が一のことも考えてある。……"厄払いの来訪神"の力は強力だって聞いたからその万が一に取り込みたかったけど、…………それがあんたらみたいなお気楽ド田舎者ならどうでもいいわ。精々言われたことだけぼんやりと守ってることね」
フン、と天狗少女はどこかへと飛び立ってしまった。どこへ行くのかはしらないが、森の中の方が落ち着くのかもしれない。知らないが。
「わてらもちゃんと考えて来てるのになあ。あんな言い方はないやろ。なあデンちゃん?」
「あや」
「……わりゃ本当に肯定しかせんわいね」
小鈴は話が長くなり始めたあたりからとりあえず頷いておけとばかりの態度を取るようになった電八に呆れつつ、けれども、と思う。
先程のほとりの難癖めいた言い分も全くわからないでもない。ここに来た妖怪・幽霊たちが【灯火】に協力しようと決めた理由もピンキリで、自分たちのように人間の暮らしのすぐそばで暮らしてきたからという理由もあれば、ほとりのように義理から来たものもあるだろうし、【月喰】への恨みから来たものだって少なからず居るだろう。
(……こんなんでいざって時団結できるんかいね)
眉間に皺寄せ少し困ってしまった小鈴を海禿が元気付ける。
そんな光景を、ほとりが去った後の屋根の上からまた別の影がじっと見守っていた。
頭に頭襟、背中に黒い鴉の翼、手には大きな羽扇。服装は今風のカジュアル系だが、それはほとりとは別の天狗だった。
「この寺がここまで妖怪に満ちるのも久しいことだ。なあ曼珠沙華よ。お前もそう思うだろ?」
言って、彼が視線を移した屋根の上にはもう一人、着物でおかっぱの小さな少女が立っている。眼窩いっぱいの溢れんばかりの黒目の少女は無言のままコクコクと頷き、日本人形のように不気味可愛い笑みを見せた。
彼らは丙が京都から連れ帰った妖怪ではない。元々この居鴉寺に棲み付き、陰ながら古霊町を見守って来た者だ。
天狗は名を篤風と言う。かつて大霊道の動きを監視する為に西の方から遣わされて来た鴉天狗の末裔で、時折古霊町に風を吹かせている。片や曼珠沙華は生まれつきか何かがあってそうなったのか口がきけないので定かではないが、童女の姿のままの妖怪で、いつからか寺に棲み付き、今は座敷童的扱いを受けている。
彼らの存在は当然丙や【灯火】にも知られており、今までも密かに協力関係にあった。彼らが出来ることはあまり多くはないが、それでもほんのわずかなことでも役に立てればと……少なくとも篤風は考えている。恐らく曼珠沙華も。
篤風は古霊町を愛していた。そもそも大霊道なんてものが復活したり封印されたりと物騒な場所に棲み付き、なんだかんだでたくましく生きている人間たちのことが好きだった。だから例え代わりがあるから要らないだなんて、そんな事は絶対にないと信じている。かつてこの地に根を下ろした人間が「この土地でなければいけない」と感じたように、篤風もまた「今ここに生きている人間たち」が好きなのだ。
彼はその為に戦っている。故に、理由は違えど結果的に同じ目的を達成する為に協力してくれるモノが集まってくれたのは彼にとって喜ばしいことであった。
「折角だから仲良くやれるようなら尚いいんだがなあ。何かきっかけがあれば――」
小さく溜息を突き、篤風は更け行く夜空を仰いだ。
それから一週間ばかりが過ぎた。
暦は変わり、六月へ。いよいよ梅雨を迎えたその季節、日本全国津々浦々の中学三年生がそうであるように、ここ古霊北中学校の三年生も一つの避けられない変化を迎えようとしていた。
即ち、部活動の引退である。受験勉強に専念するといった面目で、運動部三年は今月の試合を最後に引退する。文化部もまたそれに倣い、諸々のことを後輩に引き継がなければならない。
とはいえまだ体育祭の部活対抗リレー等で再び部としてのくくりで活動する場はあるのだが、一先ず一旦ここで三年生は引退である。
そんなわけで六月現在の三年生の教室内では各運動部の面々が最後の試合に向けて意気込んでいるが、その裏で授業合間の十分休み毎に自主勉強に励む面々も、日に日に勢力を増していた。後者が目指すは次の期末での成績アップと評価アップである。これまでの上位常連勢もうかうかしていられない。
そんな中で美術部は概ねいつも通りといえばいつも通りの調子で、変わらず【月喰の影】の襲撃を警戒しながら中学生活最後の初夏を生きていた。
存外落ち着いていられるのは、皆元々成績が悪くないということも大きいのだろう。遊嬉ばかりは幾らかの懸念があったが、この頃の小テストではそこそこ点をのばしているらしいので、彼女の方もさほど心配は要らないだろう。寧ろ天狗になりつつあるので別の意味で少々落ち着いてもらいたいところだ。
修学旅行以来、【月】は再び姿を隠した。攫われた異怨を追って嶽木をはじめとする【灯火】やてけてけたちが幹部以上の構成員の動向を探っているようだが、あまり進展はないらしい。
片や学校妖怪たちは先の一件から警戒を強め、近頃では怪談としての持ち場を離れた昼夜の学校の見回りも開始して【月】の再襲撃に備えているようだった。
それが関係しているのかは定かではないが、相談箱への美術部宛ての投書も近頃は殆どなく、美術部としては特にすることがなくなっていた。
そんなわけで周囲にはやっと大人しくなったかくらいに思われているが、勿論そんなことはない。薄雪に託された退魔宝具の勾玉は、今日も絶賛教室の中まで持ち込まれ中だ。
勾玉がどのタイミングで彼女らを認めるか、そしてどのタイミングで勾玉を使わざるを得ないことになるか分からない以上、常に手の届くところに持っておくのが望ましかろうという。……というのがあの日の帰り道に六人が出した結論であるが、それにしても『勾玉』という歴史的文化財的な物体は便利である。
遊嬉は修学旅行の帰りに刀のことで生活指導の教師と少々揉めたが(だが目論み通り玩具ということで押し通せた)、勾玉なら鞄のストラップとしてもそこまで浮く代物でもないため、生徒指導は今のところスルーである。
大体、仮に勾玉にNOを叩きつけようものならば、多かれ少なかれ他の生徒も付けているマスコットキーホルダー、合格祈願守にまでメスを入れなければならない。伝統文化万歳、溶け込む小物万歳である。
「こういうマジックアイテム的なもの堂々と持ち歩いてるの、魔法少女みたいで滾る」
初めて全員で勾玉を持って登校した火曜日の放課後、黒梅魔鬼が他五人の前で唐突にそう言った。
気持ちは分からないでもないが、「既に誰よりも魔法少女な上に妙なアイテムを幾つも美術室裏に持ち込んでいるお前が今更言うのか?」と全員思った。勿論口には出さなかったが。
そもそも今までの美術部の活動もある意味『魔法少女』であったので、「今更?」といった感想すらある。
――そう、今更。北中美術部のすることといったら、日常を送って、怪事に出会ったら倒すだけ。近頃は『勉強会』と称して神域に行ったりもするが、まあ概ね今までと変わらずいつも通りであった。
深世以外にとっては。
「ただいまあ」
玄関を開けて靴を脱ぎ、深世は家の明かりに照らされることにホッと一息吐く。
梅雨とはいえ一年で最も太陽が長くなる六月、とはいえ深世が部活を終えて帰宅する頃には辺りはもう大分暗闇の中にある。意思疎通のできる妖怪・幽霊には慣れ始めたとはいえ元は怖がりの性分である深世は、街灯疎らな田舎の夜を自転車のか細い明かりだけを頼りに走る時間が嫌で仕方なかった。入学以来続けて来たとはいえ嫌なものは嫌なので、高校は誰に言われずとももっと明るい市街地で、且つバスの本数も多い場所を選ぶだろう。
「おかえり。ご飯できてるから着替えて手洗って来なさい」
「はーい」
いつも通りの家族の言葉にいつも通りの返事を返し、真っ暗の自室に電気を付けて荷物を置いて――深世は再び溜息を吐いた。
鞄に付けられたままの自分の勾玉を見てしまったからだ。深世の預かった勾玉は、未だ外と同じ夜の色に沈んでいる。
この一週間で、深世以外の部員の勾玉は次々と色を変えていた。
元より色付いていた乙瓜のものはまだいい。直接見ていたわけではないがゴールデンウィーク合宿での乙瓜の頑張りは深世も知っているので、概ね納得している。けれども、確かに元々力はあったとはえ、この一週間で特に変わったことをしている風でもない遊嬉、杏虎、眞虚、魔鬼も相次いで勾玉に色を付けたのはどういうことか。
(やっぱり私じゃ駄目だって?)
ややムッとしながら深世は念じる。勾玉応えろ、と。……けれどもやはり反応はなく、深世は溜息を吐きながら制服を脱ぎ始めた。
(なにやってんだろ私)
この半年ばかりで色々なものに啖呵を切ったりした深世だが、他の五人ほど『普通』の枠を越えられていないことには変わりない。それは決して悪いことではないのだが、こうして丙や薄雪に選ばれてしまった今となってはその限りではない。
「何が足りないんだろ。……力か? やっぱり特殊能力が足りないのか?」
いじけてみるが勾玉はだんまりである。そういう駆け引きの問題でもないらしい。深世は再度溜息を吐く。この調子で間に合うのか。その憂鬱な気持ちは部屋着に着替えて夕食を終えて入浴して、習慣となっている寝る前の勉強の為に机に向かうまでずっと変わらず続いていた。
ノートとワークブックを一通り広げ、五教科いずれかの問題に考えを向けてしまえばその間だけ怪事に関する不安を忘れることができて楽だった。深世は勉強は元々嫌いではないし、励めば励むだけ成績という結果となって戻ってくるのを楽しめる人間だった。それに勉強の話題であれば家族や友人と共有できるし、行き詰ったとしても誰かしらが解法を知っている。どうすればいいのかはっきりしているので迷いなく頑張れる。
中学も三年生ともなれば目標は尚わかりきっていて、周囲がそうしているように勉強に打ち込み、成績を上げて志望校の安全圏内に入る。まったくシンプルである。
そうして世間一般と同じ方向を向いた時、深世の中である考えがふと頭をもたげる。
――こんなことしてていいのか?
(…………こんなこと、そんなどうでもいいことでないことはわかってる。わかってるってのに……)
深世はふと思い出してしまったことにムッとし、ついでに書き損じた文字に消しゴムを走らせる。そんな時、机の面する壁の窓からカリカリと小さな音が聞こえて来た。
深世はそれをはじめ風だとおもった。けれども、ずっと聞いている内にカリカリはトントンになり、次第に強く叩くようなバンバンへと変わっていった。
「……ちょっと、やめてほしいんだけど、こんな時に」
少なからずゾッとしながらカーテンの向こうの窓を凝視し、たっぷり迷ってから深世はそっとカーテンの裾を捲った。
そして窓の向こうにおっかなびっくり視線を遣る。しかし夜を映す窓の外には黒い闇があるばかりで何も見えない。
「いや、何もいないってのが余計怖いんだけど」
ほぼ無意識に思ったままを呟く、すると、
『いやいるよ』
「は!?」
突然かけられた声に驚き、深世は一瞬で一メートルは跳び退った。それでも開ききったままの両目を窓の方へと戻してみれば、夜の闇の中に黒っぽい何か生き物のようなものが動いていた。
「なにこれ黒猫!? 狸!? ハクビシン!? おばけ!?」
『違うよ違うよ。……なんだ聞いてたより怖がりだなあ。怪しいものじゃないから明けておくれよ』
大丈夫だからさあ、と、窓の外の声は続け繰り返す。もうわけがわからない深世は、……けれどもこのまま一夜をやり過ごすのもなんだか嫌だったので、恐る恐る窓の側へと戻り、慎重に鍵を開けてゆっくりとサッシをずらした。そして十センチばかりの隙間が開くと、そこから細長い影がサッと部屋の中に入り込む。
「わわっ!?」
と、今度は飛び上がる勢いのまま立ち上がって驚く深世の足下で、黒い影――それは深世が最初思った通り四足の中型の獣に見えた――は後ろ足で首元をかき、それから深世を見上げて言った。
「こんばんは嬢ちゃん、おれっち雷獣。よろしく」
その瞬間、深世は魔鬼が不意に言った言葉を思い出していた。
――魔法少女みたいで滾る。