怪事廻話
第六環・愚か者だと笑えばいいさ②

 美術部が薄雪神に六勾玉を託されていた頃、敵地である【月喰の影】本部廊下を、二つの異物・・が走っていた。
 異物、即ち【月喰の影】の身内ではない者。【灯火】ですら未だ追跡できていないその場所を突き留め入り込んだのは、【青薔薇】の魔女ヘンゼリーゼと主従の契約を交わした十柱の悪魔の内の二柱である。
 一柱は夢想の悪魔・エーンリッヒ。そしてもう一柱は普段はヘンゼリーゼの隠れ家で一介のメイドの立場に甘んじている幻想の悪魔・トーニカ。
 悪魔は人を誑かす存在である故に時と場合に応じ男にも女にも人間以外にも姿を換え得る。そのため彼とも彼女とも表しがたいのだが、十悪魔は主にヘンゼリーゼの趣味により、皆女の姿である。故に、どちらも"彼女"と表して問題ないだろう。

 彼女らが【月喰の影】本部に潜入できている理由は至ってシンプル、彼女らの主であるヘンゼリーゼがその場所を密かに突き止めていたからに他ならない。

 そう、ヘンゼリーゼは先の三月の事変の後に【月喰の影】の正確な位置を独自に突き止めていた。その上で協力関係にある【灯火】黙っていたのだ。――否。【灯火】だけではなく、北中方面への増援に向かわせている身内の三人娘に対してさえその情報は秘されている。
 何故ヘンゼリーゼはそんなことをしたのか――それは彼女があくまで魔女であり、且つ【月喰の影】を倒すといった目的にのみ賛同する協力者であることに由来している。

 魔女ヘンゼリーゼには"心"がない。否、情動を司る部分に大きな欠落を抱えているとしたほうが正確だろうか。
 元々人間であったヘンゼリーゼは、十五歳を迎えた年に父親が行った悪魔召喚の儀式と契約によって不死身の魔女となったが、その対価として悪魔たちに感情を差し出した。以来喜びも悲しみも怒りも、『表面的な態度』や『示すべき行動』として表すことはできるが、強い衝動として胸の内に現れることはなくなった。
 面白いだろうな・・・・と思うことはできるが、感じることはできない。
 悲しいだろうなと思うことはできるが、腹立たしいだろうなと思うことはできるが、嬉しいだろうなと思うことはできるが……感じることはできなくなったのだ。
 そうなると、大抵のことがつまらなくなってしまった。例え不老不死の体を手に入れようと、これでは死んでいるのと大して変わらない。
 故にヘンゼリーゼは人間で遊び始めた・・・・・・。既に己が愉悦を感じるために人間を惑わし翻弄する魔女は多々いたが、ヘンゼリーゼは人間に自分の代わりに泣くことを、笑うことを、憤怒することを、歓喜することを求めた。大なり小なり刺激を与え感情を揺さぶり、その揺れ動く様を摂取することで己の欠落を満たそうとしたのだ。
 それは概ね目論み通りとなった。ヘンゼリーゼは十悪魔と共に思いつく限りの悪逆非道と善行を為し、人間たちに不幸と幸福の両方を与えた。富と名声、貧困と汚名。輝かしく名誉ある最期と、あらゆる尊厳を奪われ尚も続く生。彼女の気まぐれによってもたらされたとびきりの幸福ととびきりの不幸の中で、人間たちは大きな感情を生み出し続けた。
 ヘンゼリーゼはそんな人間たちを見るのが好きだった。ある意味で愛している・・・・・と言っても過言ではないだろう。その愛すべき人間が形を模しただけの紛い物に挿げ替えられてしまうとなれば、彼女としてもおもしろくない。

 そのことだけが、ヘンゼリーゼが【灯火】に協力する唯一の理由だ。つまり最終的に【月喰の影】さえ滅ぼせるのなら、情報共有は【灯火】サイドが十分にあたふたしたのを眺めた後。知らないことで不利に転じないギリギリのタイミング、己に利のあるタイミングで構わないと考えているのだ。いかにも他人の"心"を見たいヘンゼリーゼらしい理由と言えよう。
 そして、情報を共有しない理由はもう一つある。
 彼女がその在り処を掴み、そして二柱の悪魔を潜行させた【月喰の影】本部は、【灯火】側についた妖怪の能力では到達が難しい場所にある。そもそも、ヘンゼリーゼ側で派遣した悪魔たちの中でも到達できたのは内部潜行に成功した二柱と不測の事態に備え門前待機させている二柱のみ、全員送り込むことは出来なかったのである。
 つまり、今このタイミングで共有したところでメリットは小さかろうということだ。
 故に【灯火】への情報共有はしない。その上で、ヘンゼリーゼには二通りのプランがあった。
 一つは、本部内に潜んでいるであろう曲月嘉乃並びに幹部級を捜し出し各個撃破・殲滅すること。実に単純明快である。ついでに先に【灯火】サイドより攫われた異怨を連れ戻して先方に恩を売れれば尚良しである。
 実際のところ今回送り込むことが出来たエーンリッヒとトーニカには状況が整えばそれを成し得るだけの力がある。元々西欧界隈で悪魔などと呼ばれているモノには異教の神々も含まれ、彼女らの出自もそのようなものだ。一度は確かに力を持ち信仰を集めた存在、その実力に不足はない。
 けれども相手も一筋縄ではない。なにしろ、かつて神と呼ばれた二柱の力を以て、やっと本拠地に潜入できたほどの呪術防御の使い手なのだ。外側の守りが鉄壁ならば、ますます守るべき内側にはどんな罠が仕掛けてあるとも知れない。
 そう。これは決して安易なミッションではないのだ。【月喰の影】の擁する"影の魔"、それが噂通り自我を持った"この世の暗闇"そのものであるとするならば――。
 隠れ家の安楽椅子上のヘンゼリーゼは、二柱から送られてくるリアルタイムビジョンを眺め考える。彼女らが走る廊下は果てしなく長い。どこまで行っても枝分かれする通路や階段に当たらなければ、部屋への入り口や窓すら見当たらない。
「無限回廊に捕まったわね」
 ヘンゼリーゼは呟き、足を組み直した。その声は遠く二柱にも届いており、即座にどうするかと問われる。
『どうしましょーかねお嬢・・。私らが気づかない内に取り込まれてたとなればこれ相当強い奴ッスよ? 一応壊せるか試してみるッスか?』
『とりあえず指示ちょうだい。私達はヘンゼの駒、進むも戻るもヘンゼのしたいようにしかしないわ』
 トーニカとエーンリッヒのさほど困った様子でもなさそうな返答に、ヘンゼリーゼは「どうしようかしらね」と、やはりそれほど深刻でもない風に答え、手にしたままのティーカップから紅茶を一啜りした。
 そんなどこか悠長な彼女に対し、天井にぶら下がる者が苦言を呈す。
「ヘンゼリーゼ、ここは壊してでも行くべきだよ。折角辿り着けた敵地なんだから」
 言ってバタバタと羽音を響かせ、一匹の赤毛の蝙蝠コウモリが机の上に降りて来る。翼と一体の前足を広げてアピールする彼女・・もまた十悪魔の一柱だ。
 だがヘンゼリーゼが彼女の進言に答えるより早く、安楽椅子の背もたれに止まる者が反対意見を放つ。
「いいやあるじ、ここは退くべきだ。敵地の位置と仕掛けられた罠の一端を知ることができただけでも収穫はあったとしよう。門で待機させている二柱を動かし、彼女らを救出して撤退すべきだ」
 蝙蝠を威嚇するようにそう言うのは、王冠を被った木菟ミミズクである。これまたやはり十悪魔の一柱で、この木菟と蝙蝠の二柱が隠れ家に留まりヘンゼリーゼを守っていたのだ。
「ばか、何をいくじのないこと言ってるんだい! ここで退いたらまた場所を移されるに決まってる。"影の魔"の回廊さえ抜ければあとは雑魚しかいないんだ、今ここでやるべきだ!」
「ばかは貴様の方だ蝙蝠、見てわからないのか。ここで万一あの二柱が戻れなくなってみろ、次は誰が乗り込めると言うのか。貴様か」
「ボクがそんな危険を冒すわけないだろ。大飯食らいのエーデルと自分勝手のアルディにまた行かせればいいじゃないか。そうでなければキミが行きなよ」
「……やはりばかはばかでしかない。主よ、急ぎ決断を」
「ヘンゼリーゼ! どっちかに決めて」
 不仲の蝙蝠と木菟が見つめる中、ヘンゼリーゼは迷うようなふり・・をして、たっぷり二者の反応を楽しんでから答えた。

「そうね、戻りましょうか」

 木菟側に軍配を上げ、魔女はニコリと微笑んだ。とはいえそれは悔しがる蝙蝠が見たい故の気まぐれ的判断などではない。
 即ちそれが初めから想定していたプランの二つ目。敵地偵察に留め一時撤退、である。
「なんでだよ、なんでいっつもデリエの意見ばっか採用すんのさ! ボクの信用ってそんなにないわけー!?」
 案の定不貞腐れた蝙蝠が机の上でじたばたとする。ヘンゼリーゼは手にしたティーカップを一旦置くと、困った蝙蝠の頭に指を伸ばしてちょこちょこと撫で、それから「違うわよ」と首を振った。
「貴女に意地悪してるわけじゃないのよクローネ。二人の居場所をもっとよく感じなさい。あそこは既にこの世のことわりの中にない。私たちのそれよりももっと深く純粋な闇の底に沈んでいる。……あの場の闇は私たちに味方しない。エーンリッヒもトーニカも、普段の力の半分も出せないでしょうね。それどころか取り込まれてしまう危険すらある」
「……ゾッとするようなことを言うねヘンゼリーゼ。とてもそうには見えないけれど」
「そう見えないから怖いのよ。ねえデリエ?」
 訝る蝙蝠――クローネを弄る手を止め、ヘンゼリーゼは木菟――デリエを振り返った。
 彼女は頷きこそしなかったが、沈黙は恐らく肯定であろう。
「というわけだからどうにかして戻って来なさい。外の二人を動かすわ」
『わかったわ』
『了解ッス』
 その応答を最後として、エーンリッヒ、トーニカとの通信は唐突に途絶えた。それは彼女らの身に何かがあったというよりは、通信に使う力も全て脱出へと回したが故の途絶だった。
 ヘンゼリーゼは再び紅茶に手を伸ばしながら、また静かに思考を始める。

【月喰の影】本部においてヘンゼリーゼらは圧倒的不利である。否、あんな場所・・・・・で有利に戦える者なんて殆どいないだろう。
 彼女は悪魔越し・・・・に感じていた。あの場所に満ちるのは、原初の世界に最も近い力。後世に生まれた光あってこその闇でなく、光ある前の果てしなき闇。――かつてない程濃厚な"影の魔"の力。

「上手い所に逃げ込んだものね。影の魔の腸の中・・・・・・・だなんて。…………あんな気持ち悪いものを人間の代わりにするだなんて。本当に、悪・趣・味。ふふふ」

 クスクスと笑う彼女の目は笑っていなかった。あんなものに勝てるものなんて、それこそ草萼火遠の【星】の力ぐらいしかない。思い、魔女が少々黙った隙に、クローネはまたじたばたとしはじめた。
「……どうするのさヘンゼリーゼー。不利でもなんでも最終的にはアレ・・をどうにかしないと人類終了のお知らせ来ちゃうよ?」
 と。実にコミカルに動き出した彼女を見て、ヘンゼリーゼの顔に笑みが戻った。
「どうとでもなるわ。大霊道を奪取しなければならない都合上、【月】もいつまでも引き籠ってはいられないでしょう」
「そうだけどさぁ。それ最後の最後な局面じゃん。背水の陣じゃん。失敗したら終わりじゃん。お疲れ様じゃん。ギリギリってやだなあ、ボクは常に余裕で優位に立ってたいよ」
「あらあら。面白い言い回しをするのねクローネは」
 ヘンゼリーゼはクローネの顎に手を伸ばし、何度も撫でながら言葉を続けた。

「けれど私も余裕がないのは嫌いよ。だから――そうね。少しあちら・・・の希望に便乗してみようかしら」

 言って目を閉じる魔女のまぶたの裏には、神逆神社の坂を下っていく美術部の姿が映っていた。

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