【灯火】からすれば波乱に満ちた修学旅行も表向きは平穏無事に終わりを迎え、古霊北中三年生は充足感とそれに伴う疲労感を引き連れて古霊町へと帰り着いた。
しかし美術部を待っているのは、自分たちの留守中に北中が襲撃を受けたという現実。学校妖怪の一員と化していた異怨が居ないと言う現実。
帰郷したその日の晩、自宅に置き去りにしていたケータイを開いた魔鬼は一通のメールを目にする。それは明菜からのもので、既に魔鬼も知っている経緯が書かれ、最後は「ごめんなさい」という一言で締められていた。
『謝ることなんてない。ありがとう』魔鬼はそう返信した。取り繕うことない真意である。送信ボタンを押してから、明菜の性格からして魔鬼一人だけに送信したということはないだろうと考える。
他の皆が既に気付いているかどうかはわからないが、起ってしまったことで明菜や他の後輩を責めるような輩はきっと居ないはずだ。浴びせる言葉があるとするならば、それは罵倒ではなく幾つかの土産物を添えた労いの言葉になるはずなのだ。
(明菜ちゃんたちは頑張った。明日からはまた私たちが頑張る番……)
胸に誓い、魔鬼は眠りに落ちていく。
月の齢はまだ若く、夜の闇は暗く深い。その闇の中に紛れながら、京都で合流したものたちも古霊町へと辿り着く。
彼らが、丙が【灯火】の仮設本部にしている寺へと誘導されて行くのを見送りながら、嶽木と水祢は北中へ向かった。二人の間に特に会話はなかったが、目的は同じに決まっている。
図書室の妖界に隠されている火遠のもとへ、一秒でも早く。
裏生徒たちへの挨拶もそこそこに。速足で向かう二人の腕には、頂き物を多分に含む、愛するきょうだいへの見舞いの品が溢れんばかりに抱えられている。だが、脇目もふらず辿り着いたその場所には先客がいた。それはこの空間を守る単眼の司書ではない。
嶽木らよりも背の高い、少女。初めに二人の視界に飛び込んで来たのは後姿だが、その大半は長い髪の毛で占められており。火遠と同じ火の色をしたそれを、薄闇の中にふわりと泳いでいた。
「アルミレーナ」
嶽木がそう呼びかけると、少女――アルミレーナはゆっくりと二人の方を振り向いた。そして視界に入る人物を嶽木と水祢と認識すると、小さく頭を下げる。
「嶽木伯母さま水祢叔父さま。お帰りなさい」
「……ああ、ただいま。伯母さま叔父さまだなんて堅苦しい、おれも水祢も君が赤ちゃんの時以来ほぼ会ったことないんだから、今更気を使わなくていいよ」
「幼い頃のことはあまり覚えていないわ。……なんて呼べばいいかしら」
「嶽木でいいよ。水祢もそうだろ?」
「……勝手に決めないで。………………いいけど」
水祢が仏頂面で答える中嶽木はアルミレーナの隣へ歩み寄り、そこに在る空間の洞とでも言うような場所を覗き見た。
そこには炎を失くしたままの火遠が横たわっており、依然として眠り続けている。
彼が眠りについてから間もなく三ヶ月、烏貝乙瓜との契約を断ち切ってからは二ヶ月が過ぎようとしているものの、未だ目覚める気配はない。
それは対処を間違えたというよりは、彼が世界の一部を変えることによって負ったダメージが、想像以上に大きかったから、と言う方が正しいのだろう。
実際この空間の主であり最も様子を診やすい場所に居るミ子の弁によれば、火遠の容態は日に日に良くなってはきていると云う。当初に比べて顔色も良くなったし、呼びかけに応じるように指先が動くこともあるらしい。特に顔色については二回以上見舞いに来た者の殆ど全員が気づいており、特に頻度の多い嶽木と水祢も認めている。
火遠はいつか必ず目覚めると誰もが信じていた。けれども、誰もが不安に思っていた。それは一体いつになるのかと。
その気持ちは姉である嶽木も、弟にして兄を崇敬する水祢も、元契約者である乙瓜も、……そして一人娘であるこのアルミレーナもきっと同じなのだ。
「看ていてくれたんだ?」
「ただ見ていただけよ。父さんはずっとこの調子」
存外淡白に答え、アルミレーナは困ったように両腕を組んだ。
嶽木は「そうかい」と答えると、両手いっぱいの土産の品を弟の枕元に下ろしはじめた。
「おおまかなことは明菜ちゃんに聞いたよ。この二日北中を守ってくれたんだってね。……ありがとう」
「礼を言われるようなことはしてないわ。私たちは間に合わなかった。異怨伯母さまは連れていかれてしまった。それが結果でそれが事実」
「…………」
異怨の名が出たからか、嶽木は少しの間「そう」とも何とも言わずにに黙っていた。その空白を埋めるかのように、いつの間にか自分もまた見舞いの品を置き出していた水祢が呟く。「なんで」と。
「――なんで異怨の奴なんかを連れていったんだろ。あまり考えたくはないけど、今なら兄さんは無抵抗なのに」
「……それは」
その疑問に答えるように、嶽木が漸く再び口を開いた。
「それは多分、異怨を――」
思いつける理由はいくらでもあった。それこそ美術部が思いついたような、「戦うのを躊躇わせる為」というのもその一つである。
だがその時嶽木が口にしたのは、そんな予想とは全く違う理由だった。
しかしその理由は一時だけこの三者の間に秘められたまま、時は翌朝へと向かう。
修学旅行明けは月曜日。けれどもその日は三年生及び修学旅行に同行した教員は振替休日となっており、当然ながら学校へ行かなくても良い。
そんなわけで、乙瓜の意識は普段の平日ならとっくに一時間目の授業が始まる時間を過ぎてもまだ夢の中にあった。それを打ち破ったのはいつも起こしに来る母……ではなく、ケータイのアラーム……でもなく。
「いーつーかー。起きなさいってば」
「………………なんでいんの?」
目覚めて一秒で目が合った、姉の一声だった。
「なんでいんのとは失礼な挨拶ね。朝はおはようでしょう? それに私が実家に帰ってきたら何か不都合でもあるのかしら?」
「いや不都合なんてないけどさ……」
確かにすぐ会えるとは言っていたが、こんなに早いとは思っていなかったのが乙瓜の本音である。しかもおはようの瞬間から。
「どうやって入って来た?」
「……? 変なこと聞くのね。玄関からに決まってるでしょ。お爺ちゃんとお婆ちゃんに挨拶もしたわ。それで乙瓜が起きて来るまでテレビ見てお話ししながら待ってたのだけれど、なかなか起きてこないからこうして起こしにきたわけ。おわかり?」
「おわかり……」
ここで漸く頭が冴えて来て、乙瓜は思い出す。そういえば七瓜はもう、烏貝家に認知されていたんだっけな、と。
昔のように『家族』としてではないのは残念だがそっくりさんで礼儀正しい友達くらいには認められているし、春休みの件からよほど不都合がない限り出入り自由の間柄にまでなっている。影を失っていた時期の事を思えば、七瓜と家族の関係は奇跡のV字回復を果たしていると言えよう。
彼女はもう、理由なくここにいていいのだ。
(そういやそうだったわな)
乙瓜がのそりと体を起こす中、七瓜は部屋のカーテンを勝手に全開にしていく。
「まったく、それにしても貴女随分寝坊助なのね。私がやってた頃は休日も七時までにはちゃんと起きてたわよ。……本当に私を元にしてるのかしら?」
「そんなこと言っても仕方ないだろ昨日まで修学旅行で歩き回って来たんだから。……ていうか今何時?」
「九時過ぎよ。平日だったら一時間目のだいたい半分くらいね」
「なんだよまだ午前中じゃんか」
ぼやき、乙瓜は差し込む光の眩しさに目を細める。
「もう九時なの!」
七瓜は「もう」を強調すると、伸びをする乙瓜に対して「いいから早く着替えてご飯食べなさい」と追撃した。
「……ていうか何、今日なんかあるのか? 学校休みだぞ?」
「知ってるわ。知ってる上で大事な用があるから、わざわざ私が呼び出しに来たんじゃない」
「大事な用?」
首を傾げる乙瓜に、七瓜は「そうよ」と頷いた。
「鬼伐山のキルちゃんちって神社でしょ。そこの神様に頼まれたの。美術部を至急集めて欲しいって」
「未成年飲酒強要神に?」
「ええ」
七瓜は再び頷いて、「それじゃあ早いところ支度しましょう」と、乙瓜の着替え一式をベッドの上に載せた。用意周到である。
腹ごしらえと身だしなみを済ませ、乙瓜と七瓜は連れ立って家を出た。目指すは町の北東にある神逆神社である。
乙瓜が普段通学に用いている自転車をガレージから引っ張り出してくると、七瓜は家の前に停めてあった小洒落たマウンテンバイクに跨っていた。乙瓜はその時になって初めて意識するが、そういえば今日の七瓜はスカートではなくショートパンツであり、先程履いた靴もパンプスではなくハイカットのスニーカーであった。
「お前それどうしたんだ?」
律儀にヘルメットを被りつつ乙瓜が問うと、七瓜はにーっと口角を上げて「買ってもらったの」と自慢げに言った。
(……魔女存外優しいのか、それとも何かの策略なのか……。イマイチわかんねえけど俺が親に頼んでも買ってもらえなさそうなもの買ってもらえるのはなんかこう、なんかずるい)
以前出会った魔女の言動を思い浮かべ、ついでにかなり私的なことまで思い浮かべ、乙瓜はやや釈然としない気持ちになった。けれども呼ばれている手前行かなくてはならない。乙瓜は畑にいる祖父母に「出かけてくる」と大声で告げ、それからペダルを漕ぎ出した。
七瓜のマウンテンバイクが少々手前を行き、その後を乙瓜が追う。
平日の昼間というだけあって、ただでさえ通行量の少ない道はほぼ二人の貸切状態である。二人の会話を遮る雑音は限りなく少なく、その為並走せずとも会話は通じた。
「他のみんなのところには話行ってるのか?」
「早朝に神様からメールが来てるはずよ」
「は? 神様メール使うんか?」
「知らないわよ。でも送ったって言ってたから使えるんでしょう。……それで貴女だけ開いた気配がなかったから、私が呼びに向かわされたのよ」
「開いたかどうかとかわかるのかよ!? やべえな? ……ていうか何お前使いっぱしりされてんの。魔女組だと思ってたのに宗旨替えしたのか?」
「してないわよ。……まったく、貴女たちも【灯火】も居ない中で誰が北中のお守をしたと思ってるの。有事の為にずっと待機してたら、嫌でも色んなモノと知り合いになるわ。……いざってときに少々罠にかかったけどね」
七瓜は大きく溜息を吐き、やや太い道路と交差する見通しの悪い十字路に差し掛かった為一時停止した。乙瓜もそれに従い七瓜の隣に止まりながら、「すまん」と小さく呟く。
「……その辺り明菜ちゃんからちょっとだけ聞いてる。本当にすまん。……あと後輩のこと助けてくれてマジありがとう」
「いいのよ別に謝らなくても。不可抗力でしょ学生なんだから」
左右とカーブミラーをよく確認してから再びペダルを踏み込み、七瓜はチラリと乙瓜を振り返った。
「そのかわり出すものはきっちり出して頂戴ね。私、まだ京都って行ったことないから」
「…………結局お土産かよ」
聞こえないようぼそりと吐いて、乙瓜もまた自転車を走らせた。それから続き呟く。「まあいいけど」
神逆神社は町の中でも小高い場所にあり、至るまでの道の途中からはやや急な上り坂である。七瓜のマウンテンバイクは性能がいいのかスイスイと進んで行ってしまうが、何のアシストもない乙瓜の自転車は少々遅れを取り、二人の距離は幾分か離れてしまった。その為そこから神社までの間会話といった会話はなかった。
だがその間乙瓜は考えていた。言わずともがなこれからの事についてである。
元からとはいえばそうであるが【月】は白昼だろうが人前だろうが容赦なく作戦を仕掛けて来る連中だ。白昼堂々の破壊行為・拉致なんてお手の物、エリーザの一件のような混乱に巻き込まれればまた美術部外の生徒が傷付くこともあるだろうし、留守中にあったという出来事のように催眠をかけられて利用されることも二度とないとは言い切れない。
乙瓜は以前――神域での"修行"を終え修学旅行へ向かう前、嶽木がそれとなく言っていた言葉を思い出す。
――【月喰の影】は最終作戦を【七月計画】と呼んでいる。何かの暗号である可能性もあるけれど、一応七月には用心しておいて。
最終計画。全ての人間と従わぬ妖怪を"影の魔"に置換し世界の調和を保つという究極の絵空事であり、今まさに実現しようとしている究極の脅威。表向き世界は何も変わりないが、今在る人々は悉く滅びることを運命づけられる静かなる大虐殺。
その実行詳細を伝えられない一点において、乙瓜は【月】に縁切りされた事を惜しく思う。けれどもそれは立ち止まる理由にはならない。野望を完全に阻止するまで走り続けるしかない。
例え【月喰の影】が作ろうとしている世界が有史以来初めて平等や平和を実現した世界であったとしても。今を生きる人間がどんなに醜くバラバラでいがみ合っていたとしても。……それでも、明るい未来や平和を望んで生きる人々までも全て消し去って生み出した世界は、一見どんなに美しくても、そう演じているだけの紛い物だ。未来も希望もない灰色の世界だ。乙瓜にはそう思えてならないのだ。
己の正体を知って、操られて、傷つけて、傷つけて。隠れ過ごしていた自分がぼんやりと見つめていたあの景色のように。
薄雪媛神が今更美術部を呼び出す用事など、これからの【月】との戦いのことや、それに関する大霊道絡みの話しかないだろう。
或いは……遊嬉に聞いた話だと京都では【灯火】に密かに守られていたようなので、知らずに過ごしていた事に対する駄目出しをされるのかもしれない。もっと強くなれとせっつかれ、ゴールデンウィーク以上の地獄の特訓が待っているかもしれない。
(やばい。怒られに行くんじゃないかと思うと気が重くなってきたぞ……)
物理的に重いペダルがさらにずしりと重くなったような気がして、乙瓜と七瓜の間は更に開いた。
そんな乙瓜に気付いたのか、もうすっかり境内の方まで登り切った七瓜が「頑張れ」と声を張る。
「ほら頑張りなさい乙瓜! 化け物パワーで本気出したら一瞬でしょ!」
化け物なのは事実であるが、割と罵倒にしか聞こえないのが難点である。
乙瓜がやっとのこと境内まで辿り着くと、拝殿前の大鳥居の前には乙瓜と同じく昨日帰って来たばかりだというのに巫女服姿に竹箒片手でいかにも「ぐうたらなんてしてませんよ」といった様子の斬子が立っていた。
彼女は汗だくの乙瓜をみて「大丈夫」と声を掛けた後、拝殿の方を見て「みんなもうあっち側で待ってる」と指さした。多分、ゴールデンウィークの時と同じく拝殿の先の本殿に神域への道が開いているのだろう。
「乙瓜ちゃんが一番遅かったねえ。水飲む?」
と、どこから出したか天然水のペットボトルを差し出す斬子を、「スポーツドリンクあるからいいわ」と七瓜が制する。……こちらもいつからそれを持っていたのか謎であるが、確かに七瓜の手にもペットボトルが握られている。
「そうかい」
斬子はすんなり身を引いて、それから七瓜に引きずられるように本殿の方へ歩いていく乙瓜を見送った。
その姿は斬子の目には随分前からそんな調子だった仲良し双子にしか見えなかった。
神域は相変わらずの白い天気で、白い空と地面の間には既に美術部三年の内五人――即ち深世、杏虎、眞虚、遊嬉、魔鬼が揃っていた。
「何、やっぱり寝てたの?」
「そうなの」
問う魔鬼に七瓜がそう返し、「はい行ってらっしゃい」と乙瓜の背を押した。玉砂利にやや躓きそうになりながら乙瓜が皆に並び立つと、丁度皆の背に隠れていた薄雪が見えた。
薄雪は乙瓜を見て「揃ったな」と言うと、抱えていた小さな葛篭――乙瓜や遊嬉、眞虚にとっては見覚えのある葛篭だ――をぱかと開いた。
そこに収まっていたのは案の定、去年の暮れに十五夜兄弟を撃退するのに用いた退魔宝具・禍津破の六勾玉だった。それらの内五つは乙瓜らが初めて見た時と同じ夜の色に染まっていたが、内一つだけが鮮やかな橙に変じている。
「なんでここで勾玉? なんで一個だけオレンジ?」
杏虎が問う。当然のことだ。けれども薄雪はそれに答えるより先に、橙の勾玉を取り出して示し、かつてないほどのドヤ顔でこう言った。
「今日お主らを呼んだ理由はここにある。逆転の希望が見えたんじゃ!」
一方で、朝も夜もなく薄暗い【月喰の影】本部では青く光る水で満たされた怪しげな実験装置が動き出そうとしていた。
その中に膝を抱えて眠るように浮かぶのは、先に拉致された異怨の姿である。
水族館のように幻想的であり、ホルマリン漬けのように不気味でもある水槽の照り返しを浴びて、曲月嘉乃は琴月に問う。
「追っ手は?」
「鴉が四羽、黒猫が三匹。【青薔薇】の小娘たちの使い魔ですわ」
「当然始末したんだろうね?」
「愚問ですわ」
口許を着物の袖で隠し、琴月はくつくつと笑った。
「流石は亜璃紗だ。……ヘンゼリーゼ直属の十悪魔どもの動向はどうなっているかな」
「木菟と蝙蝠が本陣の護衛、蛙と蜥蜴が眩惑防御の手前まで来ておりますが……まあこちらから出向かない限りは待機のままでしょう。蛇、犬、蝶と蛾、あれらの力ではここまで辿り着くのは不可能と断言できます。厄介なのは既に潜行中の大鴉と羊……ですが所詮あれらも闇より出でしもの、我らが擁する【彼女】の力には敵わない。今頃出口のない回廊の中でたっぷりと遊ばれている筈ですわ」
歌うように報告し、亜璃紗はまるで舞でも始めるかの如く懐に刺していた扇をパッと広げた。
嘉乃はその様を見てふっと笑うと、水槽の前からスタスタと歩き去った。
「報告ご苦労、亜璃紗。僕は実験を始めるから、当面の指揮は君に任せる」
「ええ。暫しお休みなさいませ、お父様」
青い明かりが消え、亜璃紗の姿もそこから消える。
液体の中に巡らされる酸素が立てるぶくぶくという音を除いては、雑音の類は一つもない。
何かの始まろうとしているその場所に、今は広大な闇の海だけが存在していた――
(第五環・逆転の希望は・完)