怪事廻話
第五環・逆転の希望は④

 京都の街にぽつぽつとあかりがともりはじめる頃。遊嬉の前に現れ、そして多くを語らずに去って行った"黒セーラー服の少女"こと烏山蜜香の姿は、市街地の中心から外れたとある橋の上にあった。
 傍らには一緒に行動していた天華の姿もあるが、愛車であるスクーターは付近の有料駐車場にて留守番中である。
 まだ人通りも車通りも絶えない時間、道を開けるように欄干に身を預ける彼女らは、ある人がここに来るのを待っていた。
 そのある人というのは、言うまでもなく丁丙である。
 だが丙の姿はまだない。恐らく【月】の分隊の掃除がまだ終わっていないのであろう。
 遠くT県からやってきた蜜香も到着以来何匹かと直接交戦することとなったが、現在の京都は【月喰の影】の分隊が大量に潜伏している状態にある。
 彼らの大半は普段諜報員として動いている低級の妖怪であり、いくら数を揃えてかかって来られようとも丙をはじめとする【灯火】精鋭が負ける道理はない。しかし彼らの任務は先の集会から上手く逃げ果せた者たちを【灯火】に追わせない為の時間稼ぎと目眩めくらましであり、勝てるかどうかは既に問題ではない。その上で、一部分隊には修学旅行中の北中美術部に攻撃を仕掛けようとする動きも見られ、その駆逐掃討は【灯火】としての目下最優先事項であった。

 ……それがまた【月】の罠であることも知らぬまま。

いおん・・・さんてどんな人?」
「さあ? あたしも会ったことないからわかんない。聞いた話以上のことは」
 天華の素朴な疑問に上手く答えられず、蜜香は困り顔になった。古霊北中が襲撃され異怨が攫われた件については、夕方になる頃には京都に集った【灯火】協力者ほぼ全員が聞き及ぶところとなっていた。
【灯火】の中心である丙や火遠、嶽木、水祢を除けば、草萼異怨の素性について知る者は少ない。それは恐らくあの美術部であろうとも同じことで、何でも食べてしまう危険性を孕んだあの妖怪を、草萼のきょうだいは何故野放しにしていたのか……その真実について知る者は殆どいないだろう。例外があるとしたら、それは嶽木と親交の深い戮飢遊嬉一人だけである。
 蜜香はまいったなあとひたいを押さえ数秒の間黙ってから、何かを振り払うように頭を横に、次に納得したように縦に振って、それから改めて天華に向き直った。
「――うん! 確かにどんな人か知らない。けれどそれは助けない理由にはならない。天ちゃんだってそうでしょ?」
 天華はその返しに一瞬だけぽかんとするが、すぐににこりと笑顔を見せ、「そっか。そうだね!」と頷いた。
 そんなやりとりを交わし、いよいよ夕闇が夜闇に振りきれるかといった瞬間。彼女らの待ち人はやっと橋の上に姿を現した。

「やあやあ、待たせてすまん。随分遅くなってしまったな」

 申し訳なさそうに駆けて来る丙。その姿は一見普段と何も変わりなさそうだが、ただ観光地を歩いていただけでは決してつきそうにない靴や服の汚れと傷が、彼女が理由なく遅れたわけでないことを物語っている。
「丙さんお疲れ様」
「おつかれさまです」
 自然と頭を下げる蜜香にならうようにして、天華もぺこりと頭を下げる。
「なァにこんなの疲れの内に入らんよ。沢山いるの追っ払ったら方々ほうぼうに結界張ってフィニッシュだ」
 丙は品無く、けれども元気よくげらげらと笑い、それからすっかり夜景と化した市街の方を見つめた。
「腹減ってないか? どっかにうまいもんでも食いに行くか? おごるぞ?」
「……店入るつもりなら着替えてからにしなよ。結構ヤバイよそれ」
「ん? おお!?」
 蜜香に指摘されて初めて自分の今の状態に気付いたのか、丙は大袈裟に声を上げた。その声に何人かの通行人が振り向くが、すぐに興味をなくしたように進行方向に向き直る。
 だがその一瞬だけの注目を恥ずかしく思ったのか、丙の次の発言はかなりボリュームを落としたものとなった。
「ホテルに戻ってから食うか」
「そだね。そうしましょ」
 蜜香は頷いてから、それから思い出したように語りだした。
「ここに来る途中上野こうずけ檜皮ひわだ様の了解を戴いたよ。戦う力はないけれど、なにか力になれることがあればいつでも呼んでって言ってた。かっくん・・・・たちも元気そうで、"灯火"様へのお見舞いの品も預かってきて――あっ!」
 蜜香は更に何かを思い出したように手を叩いた。そして呟く。「げんチャ」と。わざわざ言うまでもないが、原チャとは原動機付自転車チャリ、つまりスクーターのことである。
「お見舞い原チャの中! ていうか有料駐車場! あの、あたし駐輪場から原チャ引き取ってから行くんで、丙さんは天ちゃんと先に戻ってて!」
 言って、丙が了承するよりも先に走り出す。蜜香の足取りに迷いはなかったが、十メートル程遠ざかってからぴたりと立ち止まり、くるりと振り向くと、
「行きに使ったガソリン代! よろしくお願いしますね!?」
 丙が驚いた時よりも大きな声でそう言って、返答も待たず人目も気にせず、再び走り出したのだった。
 何かと思えば金の事かと丙は呆れるが、高速道路も走れない原付スクーターで長時間かけてやってきたのである。言われずともそれくらいは出してやるし、帰りは元より送っていくつもりである。
従妹いとこの方もあれくらい図々しくなりゃあいいんだがね)
 そんな考えを過らせた後、丙は「いいや」と首を振った。出会った当初の烏山蜜香という人間がどんな有様だったか、忘れてしまうような彼女ではない。

 ――このまま死なせてください。もう嫌なんです。

 三年前、ここではない橋の上で初めて丙と会った時の蜜香は、傷だらけの顔で確かにそう言っていた。
(思えばあれから随分経ったもんだ)
 感慨に目を細め、改めて丙は思う。蜜香のような人間をここで終わらせない為にも、【月】の野望は阻止せなければならないのだ。
 そんな丙の思いなど知らず、「お腹減ったなあ」と天華は呟く。無邪気に呟く。
 丙は彼女の頭を撫でて手をつなぎ、共に"ホテル"へ向けて歩き出した。
 気持ち一つで初夏の京都一帯を凍り付かせてしまう力を秘めた幼き妖怪。その未来もまた守られるべきものである。



 同じ夜。ホテルの中の美術部の間でも情報共有が成され、異怨が攫われたことは六人全員が知る事となっていた。
「攫われたのは異怨だけ? 他の学校妖怪にはノータッチ?」
「そうみたい。てけてけは蹴られたらしいけど再起不能ってほどでもないっぽいし、変なこともされてないって」
「…………異怨をどうするつもりだ?」
 廊下の片隅でひそひそと話し合い、美術部は各々考え込む。
 またダーツを使うかもしれない、という考えは皆頭の中で却下した。そもそも元が本能向き出しのあの調子なので、てけてけとの約束が無くなった状態に戻るだけなのではと容易に推測できたからだ。
 ならば火遠の身内という理由で操るつもりなのかもしれないが、一度乙瓜で試して失敗した手段をそう何度も使うかという点において疑問が残る。
 というか、仮に異怨が攻めて来たとしてこちらが躊躇ためらう理由はてけてけ以外になくないか? というのが主に乙瓜と魔鬼の考えである。
「そもそも火遠、普通に水祢とか異怨とか相手に護符使うの躊躇わなかったし」
「それな。嶽木もなんか異怨の扱い雑だった時あるしな」
 二人は過去にあった出来事をその論拠に挙げる。特に水祢が初めて美術部の前に姿を現した時の顛末や、嶽木が自分を齧る異怨を「とってこい」で追い払った場面などはこの場の全員が直に目撃している。ここに来て浮上する『草萼きょうだい身内に容赦ない説』。その説を裏付けるように、眞虚もまた証言する。
「水祢くんが正気なくしたとき、嶽木ちゃんが結構本気で水祢くんのこと殴ったの見た……」
「ああ、それあたしも」
 眞虚が言うのはあのバレンタインデー前日のことで、当然杏虎もまた同じものを目撃している。
「……よくよく考えたら火遠・嶽木以外本当に仲いいかどうかわからんなこれ」
 魔鬼が首を傾げる中、杏虎が言う。
「だけどきょうだい関係って大体そうじゃね? うちだって姉鬱陶しいなって時あるけど、いざ何かあったとなったら幾らかは気かけるし。てか魔鬼んところはどうなんよ。お前んとこも四人きょうだいとかでしょ?」
「そうだけど、わからんでもないけど……」
「でも、少なくとも嶽木は異怨のこと嫌いじゃないよ」
 魔鬼が口籠る中、さり気なくそう言ったのは遊嬉だった。これには魔鬼もキョトンとし――魔鬼以外も皆ポカンとして遊嬉を見た。
「何、またなんか聞いてたことあるの」
「なんだよう、秘密とかじゃなくて世間話の範疇だっての」
 呆れ混じりの深世に、遊嬉は若干不機嫌にそう返した。
「……まあ異怨は何でも食べちゃう問題児ではあるけど、それを封印しようとする火遠を説得したのが嶽木なんだってさ。その代わり何かの術をかけたみたいで、だからヤバイって言われてる割に今までに食べられた人間はあんまり多くないらしいよ」
「そうなの?」
「そうなんか?」
 魔鬼と乙瓜が同時に呟く。そんな話は初耳である。だが、彼女らが校舎の中で初めて異怨に会った頃を思い返してみれば、確かにてけてけを使って学校妖怪を襲わせるなどの悪事をはたらいてはいたものの、実際に誰かが食べられたという話は聞いた事がなかった。それに無限の食欲を持つという異怨が本能のままに行動していたとするならば、今頃古霊町の――いや、日本の総人口は随分と悲惨ことになっていたであろう。
 それに具体的な被害者としててけてけが存在してはいるものの、彼女の着ているセーラー服が古霊北中学校の制服に採用されていたのは何十年も昔のことであり、少なくともずっと地元に住んでいる美術部の親世代の頃には既に着られていなかったような代物だ。件の術がてけてけが犠牲になった辺りでかけられたものだとするならば、異怨という爆弾を抱えながらも世間が、そして北中が存続している理由にも納得がいく。
「まぁ、あたしら人間だから自分たちを脅かすのは【月】含めて悪だと思うけど、お腹膨れさすために別種の生き物食べることについては人間だってやってるから全否定はできないよ。そうとはいっても限度はあるし、食べられる方だって大人しく食べられますとは思わないから、見境なく襲って食べることは許されないし、全方位に敵を作っていくだけ。……そうなってほしくないから、嶽木は異怨が他の生き物を好き勝手食べられないようにした。それは嫌いだったら出来ないことじゃん?」
 言って、遊嬉は「違う?」とばかりに小首を傾げる。他五人は「たしかに」と漏らし、誰もそれを否定しない。
 皆が難しい顔で沈黙った後、遊嬉は最後に自らの気持ちを口にした。

「まだ寝たままの火遠の気持ちや水祢の気持ちはあたしにはわかんない。でも、でも少なくとも今この瞬間嶽木は辛い。だから古霊町に戻ったら――その力になりたい」

 最初で最後の中学三年の修学旅行が終わりを迎えようとする中、美術部は再び動き出した【月】の脅威を再認識し、いよいよ決戦が迫っていることを感じていた。
 そんな、ホテルの片隅で静かに闘志を燃やす彼女らを、柱の影から見守る者が一人。
「前みたいに滅入っちゃいないか。それが何よりだ」
 呟きそっと立ち去るのは、着替えたばかりの丁丙。そう、彼女はずっと同じホテルにいた。予め学校に居た嶽木らを使えば、北中の今年の宿泊先から一部屋押さえることなど造作もないことである。……嶽木と水祢しか同行させなかったのはただのケチだが。
 一方で蜜香はそんなことなど知らなかったので、丙らの宿泊先に転がり込むこと前提で乙瓜にホテルを聞いたのだが、結果としては同じところだったわけで。「乗り込んでって何しようって事じゃないよ」と乙瓜に言った手前、今頃見つからないかどうかを気にしているに違いない。
 状況は割と愉快だが、取り巻く事態は決して愉快なものだけではない。異怨は攫われたままで【月喰の影】の本拠地は隠れたまま、問題は山積みだ。
(次の策を練らんといけん。それとも三神社の動きが打開策となれば良いのだが。……なあ、媛神様よ)

 思い浮かべる古霊町。古都から遠く離れたその地に、物語の舞台は再び戻る――。

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