怪事廻話
第五環・逆転の希望は③

 動き出した複数の気配を察知し、嶽木、遅れて遊嬉が身構える。彼女らが路地裏の天――取り囲む建物の屋根や屋上を見上げると同時、姿を現し降り立つのは小柄な影たち。
 彼らの背格好は昨晩【灯火】が妖怪を招集した場に潜んでいたイタチカワウソテンの怪によく似ていた。遊嬉はそんなことは知らないだろうが、彼らのボタンやアクセサリーとしてきらりと輝く三日月型を見れば、敵と判断するのにそう時間はかからなかった。遊嬉は受け取ったばかりの紅蓮赫灼の鞘を掴み、その柄に手を伸ばした。
 だがそんな遊嬉を嶽木は腕で制した。
「必要ない。全員雑魚だからここはおれがなんとかする。遊嬉ちゃんは班に合流して」
「でも……!」
 遊嬉は思う。敵はざっと十数人。いくら嶽木が強いとはいえ、本当に一人に任せて大丈夫なのか? と。
 躊躇ためらいが手も足も硬直させ、遊嬉は攻撃にも逃げにも転じられないでいた。けれども嶽木は自分の刀を妖界から取り出し、「いいから走れ」と遊嬉を急かす。
「一人で十分! 遊嬉ちゃんの中学三年の修学旅行は二度はないんだから、そっちを優先させて!」
「……っ!」
 嶽木が叫んだ言葉は優しさだった。遊嬉は反論の言葉を全て飲み込み、踵を返して表通りへ向けて走り出した。当然のようにその後を追う者が出るが、直後嶽木が投げ放った護符の結界が彼らの行く手を阻む。
「一匹たりとも遊嬉ちゃんの方へは、北中のみんなの方へは行かせない!」
 刀を握り直し、嶽木は周囲をぐるりと睨みつけた。しかし【月】の尖兵たちはクスクスと笑い、その中で分隊長と思われる一匹が挑発するようにこう言った。
「それは結構なことです。しかしいいのですか? この場を囲うように結界を張ったことで、貴女もまたここから動けなくなった。まさか、作戦行動中の我々の仲間がここに居る者で全てだとでも?」
「そうでないとするならお前たちを全員倒して先へ進む」
「それはおそろしい。しかし我々、例え雑魚・・でも精一杯足掻かせていただく所存です。お覚悟を」
 彼らは一斉に布のようなものを放った。それらは先日丙を襲った妖怪・布がらみであろう。布がらみは非情に素早いが個々の防御力はそれほどでもなく、先日のように攻撃の軌道が読めれば御しやすいものの、複数体に翻弄されると厄介だ。
 解き放たれた十数体の布がらみを睨み、嶽木は心の中で悪態をつく。面倒な事を、と。
(……草萼式の封縛結界はまず命中させないことには意味がない。一気に動きが封じられないのは面倒だけれど……いや、けれどもやるしかない)

 そう覚悟した嶽木の背後で、ひゅうと冷たい風が吹いた。
 初夏に相応しくないこがらしの風を伴って、甲高い声が路地裏に響く。

「一瞬だけ! わらし・・・を通して!」

 嶽木はその声にハッとし、次にニッと笑う。そういえばそうだったのだ、と。今の自分はひとりではない、と。
「任せた! 勝利の追い風!」
 背面の結界を緩め屈むと同時に、嶽木の背後から季節外れにも程がある吹雪・・が吹き付ける。
 強力な助っ人を得た頼もしさを感じながら、嶽木は動きの鈍った布がらみの群れへと突撃していった。



 走り抜けて来た路地裏を振り返り、遊嬉は呟く。
「嶽木なら大丈夫、とはおもうけれど……」
 暗い路地の向こうからは何の音も聞こえてこない。それが結界か何かの作用なのか、それとも妖怪の戦いだからなのか、……それは遊嬉にはわからない。
 一見して何の変哲もない路地裏を振り返る遊嬉に、表通りを歩く人々はどこか不思議そうな視線を向けて、けれども話しかけるでもなくそのまま通り過ぎていく。
 目の前に広がる何事も無かったかのような光景を前に、遊嬉は一瞬だけ自分が今さっきまで見ていたものが夢なのではないかと錯覚しかけるも、手にしたままの布袋の感覚がそれを許さない。
(どうして言われるままに逃げてきちゃったんだろ……)
 遊嬉は考える。改めて自分がどうすべきだったのかを。嶽木の言った事はきっと正しいし、自分だって中学最後の修学旅行を邪魔されたくない気持ちはあった。けれども、嶽木を見捨てるような形になってしまったことに心が痛まない彼女ではない。それに曲がりなりにも嶽木の姉、異怨が攫われたばかりである。決して弱くはないはずの彼女が如何にして攫われたかということを考えれば、嶽木が絶対無事という保証もない。
 やっぱり戻ろうか。浮かび上がったそんな気持ちと共に路地裏に一歩踏み戻った彼女の背中を、「ねえ」と誰かが呼び止める。

「ねえ。傘貰っておかない?」

 それはあまりに唐突だった。けれども「なんだ」と立ち止まった遊嬉の鼻先に落ちた雫が、投げかけられた言葉の意味を補強した。
 見上げれば、いつの間にか上空に広がる雲は厚みを増し、今にも決壊しそうな様子を見せている。振り返れば、道行く人々はぽつりぽつりと落ち始めた雨の気配に傘を開き、または急ぎ足で店の中や軒下に向かって行く。
 そんな人々の中に、遊嬉のちょうど真後ろに、呼び止めた声の主が居た。
 真っ黒のセーラー服を身に纏い、ゴルフクラブケースを肩に掛けた少女。見た目は遊嬉と同じくらいか少し上くらい。遊嬉から見て全く知らない人間だったが、その顔立ちと声は少し乙瓜に似ていた。
「雨だけど。傘大丈夫?」
 改めて言う彼女の右手にはビニール傘が握られており、反対の左の腕には更に二本の傘が引っ掛けてあった。そんな姿を前にして、もしや京都のような観光地ではバイトがあるのだろうかと遊嬉は思う。……と当時に、先の出来事への警戒から、少女の姿をまじまじと見つめる。
 もしも彼女が【月喰の影】の手の者なら、どこかに三日月型の意匠の入ったアクセサリーなりを付けているのではないかと考えたのだ。けれども彼女の黒いセーラー服には、真っ黒であること以上にこれといった妙な点はなく。唯一の明るい彩りである真っ赤なリボンタイを留める丸い金色の金具にも、特に怪しいところのない、どこかの校章が刻まれているだけだった
(――ない。けれども待って。魅玄とか、【月】の装飾を付けてなかった奴もいる。まだわからない。……どっちだ?)
 遊嬉は判断しかねていた。後はゴルフクラブケースが気になると言えば気になるが、中身がわからない現状では敵とも一般市民とも断定できない。わからない、けれども彼女がそうでなかった場合黙っているのも不自然だとも考え、遊嬉は口を開いた。
「折り畳み持ってるから大丈夫」
「そう」
 少女はどこか安心したようにニコリとすると「じゃあこの傘はいらないね」と例のゴルフクラブケースを開き、四本全てを器用に押し込んだ。ケースはその為のものだったようだ。
「傘配らなくていいの?」
「いいのいいの。ちゃんとやること終わってるから・・・・・・・・・・・・・・・
 少女はふふんと口角を上げて、くるりと遊嬉に背を向けた。けれども、三歩、四歩離れたところで意味ありげに振り返り、唐突に「大丈夫だよ」と口にした。

「大丈夫だよ。大丈夫。こっちに居る間はあたしたちが守ってあげる。君たちが戦うのは修学旅行の後でいい」

「――えっ」
 遊嬉は一旦呆然とし、それから我に返って少女を呼び止めた。
「いや、まって! あんた一体……!」
「へへへ。じゃあね。乙瓜によろしく・・・・・・・
 けれども彼女は呼び止めに応じる事無く、道路横に停めてあったスクーターに跨りハーフキャップを被ると、ばいばいと手を振りながらそそくさとその場から去ってしまった。
 生身では追い付けない速度で遠ざかっていくスクーター。しかしその後姿を見て、遊嬉は目を丸くした。
 黒セーラーの少女の腰に抱き着く、見覚えのある白い着物の小さな子供。
 遊嬉の視力と記憶力が確かなら、それは雪童子の天華の姿に違いなかった。
「……そういうことか。そういや隣県に親戚がいるとか前に言ってたような気がするわ」
 ――乙瓜によろしく。そう言い残した彼女の正体と、立ち位置。遊嬉がそれに気付いた時、横断歩道の向こう側から「あーっ!」と大きな声が上がった。

「遊嬉ちゃん今までどこ行ってたの!! 随分捜したんだよ!?」
 怒り半分呆れ半分、そんな声を上げながら青信号をずんずんと進んでくるのは眞虚だった。杏虎の姿もある。彼女らは同じ行動班として組んでいたので、遊嬉不在のまま次の目的地に向かうに向かえず捜し回っていたのだろう。
 そんな彼女らの姿を見て、一旦路地裏を振り返って……遊嬉はいつものようにお調子者ぶった調子で「ごめんごめん~」と頭を掻いた。
「いやー、あたし迷子になっちゃってたわ~。不注意不注意」
「ごめんじゃないよもうっ!! 気を付けてねってあれだけ言ったのに! 他のみんな待ってるから、とにかく早く来て!」
 信号を渡って来た眞虚はぷりぷりした様子でそう言うと、もう逃がさんとばかりに遊嬉の腕をしっかり掴み、あと三人の班メンバーが待つ歩道の反対側のバス停へと歩き始めた。こうなればもう遊嬉に自由はない。
「…………で、本当のところはなにしてたん? その袋とかどうしたのさ」
 虫の居所が悪そうに「まいったなー」とぼやく遊嬉の横に立ち、杏虎がそっと耳打ちした。
 遊嬉はキョトンとし、それから一つ前とは少し違った「まいったなー」を返した。まったく彼女の目の良さ・・・・ときたら、と。

「後で必ず話す。だから今は一時見逃してほしい」
「……必ずだかんね?」

 想像通りややムッとした視線を返す杏虎に、遊嬉は苦笑いを返した。
 北中で起ったことは杏虎らにも伝えなくてはならないことだ。けれども自分たちの修学旅行が人知れず守られていることに気付いて、彼女はこの日が昇る間だけは暗い話はするまいと決めたのだ。
 それでも嶽木を置いてきたという後悔が全くなくなったわけではないが、今の遊嬉には、きっと嶽木は無事だという確信があった。
 あの黒セーラーの少女のスクーターの後ろに乗る雪童子と、最後に路地を振り返った時に感じた冬の冷気。それは、きっと。
(もしかしたら今までも気づいていないところで誰かに助けられてたのかもしれない。でもそのお陰で修学旅行を全うできそうなんだから、願ってもないありがたいことだよ。……古霊町に帰ったら、たくさん恩返ししないといけないわな)

 ――古霊町に帰ったら。

 異怨が攫われた現実が待っている。
 未だ火遠が目覚めない現実が待っている。
 世界の命運を分かつ【月喰の影】の計画と、最終決戦が迫っている。

 修学旅行の楽しい時間の後に待つ見たくない現実に心折れそうにもなるが、それでも先に進まなくてはならない。
 強く思い、袋の中の新しい刀を強く握りしめたところで。遊嬉は先程降り出そうとしていた雨が、本降りを向かえないままにどこかに去ってしまったことに気付く。気付いてから思い返せば、眞虚も杏虎も傘を差していなかった。とっくに雨は上がっていた。
 清々しい青空はまだ遠く、けれどももう少しで太陽に届きそうな薄曇りの空を見上げ、遊嬉は呟いた。

「落ち込んでばかりもいらんないね」

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