明菜らは花子さんのケータイを借りて北中で起こった出来事を嶽木に伝えた。
遅れ現れたのは七瓜だけではなく、美術室まで戻って行けば、そこにはレーナと三咲の姿もあった。どうも二月の一件と同じように美術室にも【月】からの何らかの介入があったらしく、二人はそこを守っていたらしい。幸い部員や美術室内の備品に累が及ぶことはなかったようだが、入部二週目の終わりにして早速『北中美術部』の洗礼を受けた一年部員たちはそれぞれ興奮するやら怯えるやらで。その他二年も先の件から最悪の事態に備え掃除用具入れやの長物をはじめ美術室備え付けの鑿やら木槌やらの物騒なもので武装しており、室内は軽くカオス化していた。
そんなカオスの片隅で、明菜・寅譜らについて美術室に来た七瓜は、何度も「ごめんなさい」と頭を下げた。
曰く、彼女ら【青薔薇】の魔女組は少し前からまた古霊町に待機しており、【月喰の影】に不審な動きを察知した昨日の時点で既に北中へと向かっていたらしい。
【月】らに転移符があるように、魔女らにも転移の魔法がある。それを使えば大抵の場所、特に一旦訪れたことのある場所などはひとっ飛びで行けるが、その魔法に【月】の術式が介入した。北中が美術部の防衛圏内から外れ【灯火】サイドがやや手薄になる今、何かあれば再び【青薔薇】が介入するであろうことはあちらにとっても想定内だったようだ。
介入を受けた転移魔法は北中とは全く違う場所――【月】の妨害部隊が待ち受ける場所まで三人を飛ばした。彼女らはその場をなんとか切り抜けたが、北中に到着したときには既に事は起ってしまった後だった――というわけだ。
「あと数分早ければ、あの白い子を助けられたかもしれないのに……ごめんなさいね」
言って七瓜が視線を向ける先には、主人を失ったてけてけの姿がある。彼女の表情は相変わらず硬直したような笑顔のままだが、首は俯き動きも緩慢で、言葉はなくともあまり元気そうな様子ではない。
明菜はその様子を不憫に思った。……正直、入学したばかりの時期にはてけてけに大層驚かされた彼女であるが、慣れてくれば殆ど変化のないその表情の裏の感情というものが、少しは察せるようになるものだ。
彼女は伝え聞いた話でしか知らないが、この学校のてけてけはかつて異怨に半端に食べられた少女から成った妖怪であり、その上で異怨のことをそこまで悪く思っていないらしい。且つ、上半身だけの妖怪になって人間に怖がられるようになったてけてけを、異怨ははじめて食べ物ではないものとして愛でているのだ。
それは常人たる明菜からすれば随分倒錯しているようだったが、それはそれでいいのではないかとも思える関係性だった。少なくとも、当人たちはそれで納得していたのだから。
(嶽木さんたちは念のため気を付けてって言ってたけれど、それでも異怨さんはてけてけさんと約束してからこの学校の人間や妖怪、幽霊を襲ったりしていないって聞いた。私には本当のことはわからないけど、単なるきまぐれなんかじゃないと信じたい)
明菜は思う。あの仮面たちは皆この学校の制服ではなかった。にもかかわらず、異怨は彼らを傷つけなかった。
単なる偶然という可能性は残るものの、もし異怨がそれを理解していたのなら。異怨とてけてけの間の約束は、決して破られてはいないのだ。
そして、その通りであるならば。それは他者からその真意を理解され難い異怨とてけてけに、確かな信頼があったことの証明なのではないか、と。
あくまで仮定だ。だが、一度そう考えてしまうと。……残されたてけてけの気持ちを推し測り、明菜は猶更暗い気持ちになるのだった。
あの時動けたら、止められたら、でも殴られたら、死んだら、本当にああするしかできなかったのか。
今更考えたって仕方のないことが明菜の脳内をぐるぐると廻る。
同種の後悔は多分寅譜にだってあったろうし、何より間に合えなかった魔女たちにもあったのだろう。
「……【月】今まで積極的に魔女に介入して来ようとはしていなかったけれど……今になって思えば全てはこの時の為、私たちの意表を突くためだったのでしょうね」
アルミレーナは難しい顔で悔しそうに吐き出した。三咲も頬を膨らませ、「本当にナメたことしてくれるよね」とぷんぷんしている。
そんな彼女らに、いつものふざけた調子を潜めて柚葉が訪ねた。
「連中はどうして北中に入ることができたんでしょうね? 防御術式は敵対する妖怪や霊的存在の侵入を弾くって理解だったんですけど」
「そうね。その理解で合ってるわ。けれどその条件には抜け穴があった」
アルミレーナはそう返すと黒板に向かい、言葉を書き出しながら説明を始める。
「防御術式が敵味方を判定する最大のフラグは、対象が内包する『敵意と悪意』。心の片隅に大なり小なり古霊北中学校の守護者サイドへの脅威となり得る敵意や悪意を持つ人間でなき者は、自立発動型の結界によって侵入を阻まれる。……なら、『敵意と悪意』を持たざる、人外でなき者なら?」
「……あの仮面の連中はただの人間だった。そして敵意も悪意もなく襲ってきたってことですか?」
「察しがいいわね。その通りよ」
柚葉を振り返り、アルミレーナは黒板に書き出した『敵意と悪意』に大きな×を付けた。
「あの仮面の生徒たちには、この学校に対する感情はない。良くも悪くも思っていない。どうしようとも思っていない。七瓜が眠らせた彼らを調べてみたけれど、皆ただの人間だった。私たちが目星をつけていた"影"の成り変わり候補ですらない」
「……なら操られていたってことですか?」
不可解そうに鬼無里が問う。
「そうとも言えるし違うとも言えるわね。貴女が考えているのは二月の襲撃のような人形操術での操りでしょう?」
「違うんですか?」
武器代わりのモップを握りしめる鬼無里に事も無げに「ええ」と答え、アルミレーナは続けた。
「彼らは暗示をかけられていたのよ。『特定の場所に行き』『特定のことをし』『撤収する』、特定条件の発生に従って行動を起こす、それだけのシンプルな命令を刷り込まれていただけ。あれがもし人形操術だったとしたら、妖力判定に引っかかったかもしれないけれどね」
「……!」
鬼無里が反応を示すよりも先に明菜が絶句し、その傍らから寅譜が叫ぶ。
「私たちは司令塔のような男子が女の声で喋るのを見ましたよ!? あれも暗示だと言うんですか!?」
彼女は、そして明菜も知っている。『彼』がこちらの行動に即してアンナの言葉を語るのを確かに見ている。それが単なる暗示だなんて思えなかった。
信じられない。その感情を裏付けするように、アルミレーナは首を縦には振らなかった。否定の横振りの後、しかし紅の魔女はこう答えるのだ。
「そうね。それはきっと暗示なんかじゃない。――でも、もっと簡単で単純なことよ」
もっと単純。次の瞬間にその回答が成されるまで、それが何かと思い当たった部員は居なかった。皆、敵が超常の存在であることを意識しすぎていたのだ。
「携帯電話。知らないなんてことはないでしょう? それとも仮面の下の口が本当に動いたかどうか、貴女は確認したの?」
「そんな……、でも…………そうか……」
あまりに文明的で拍子抜けの回答に、寅譜のみならず皆納得せざるを得なかった。大昔ならいざしらず、通信機器の小型化したこの現代において、遠隔通話は既に奇跡の領分ではないのだ。敢えて指摘されるまで、美術部はそれを完全に失念していた。人外の存在が人外の技だけを使うと思っていたのが盲点だった。
目が覚めるような衝撃に美術部皆が黙り込む中、アルミレーナは続けた。
「人形師は多分、彼の制服のどこかにそれを隠していたのよ。あとは電波の向こうから喋っていただけ。カメラがあったかどうかはわからないけれど、通信だけだとしても貴女たちの声や聞こえ方から、誰がそこにいるかを判断して話すことは可能だわ。どちらにせよ顔を向けるのも助けを求めることに関する妨害も、暗示のフラグで勝手にやってくれるから問題ない」
何か矛盾があるかしら。そう問うアルミレーナに反論できるものは居なかった。すべて彼女の推測だったが、そう考えれば起ってしまった出来事に説明がつく。
たったそれだけのことに、美術部はしてやられたのだ。
留守を預かる二年部員の中には、何とも言えない敗北感があった。すっかり昼食を食べるタイミングを逃したが、誰も空腹なんて忘れていた。
ややあって、その凝った空気の中に「あの……」と蚊の鳴くような声が上がる。その主は新入部員の青鬼鳴魅だった。
「あの……あの、です。新米のよくわかってない質問なんですけれど、敵さんはどうして花子さんとか、図書室の人、もっと重要そうな妖怪を攫って行かなかったんでしょう? 既に精神的に操りにくそうな人より、ほら、てけてけさんとか、他にもあったんじゃないでしょう……か……」
おっかなびっくり質問する彼女は、自分の方に一斉に向いた先輩や魔女たちの視線に気づき、恥ずかしそうに顔を隠した。が、彼女の疑問はごもっともである。学校内部に侵入できたのなら、何故異怨を攫うに留まったのか。それに今回面倒な手段を取るに至らせた防御術式に対する工作もできたかもしれないというのに、何故それをしなかったのか。言われてみればそうだと、明菜らもそう思う。
その説明を求めて、再び大勢の視線がアルミレーナに向かう。だがさしもの彼女は今回ばかりはお手上げのようで、「わからないわ」と首を振るに留まった。
「……わからない。けれど仮面の子たちの行動からして、今回の【月】は明確に伯母さまだけを狙っていたのだと思うわ。その目的は――……今の私たちにもわからないけれど。良からぬことになってしまったことだけは断言できる」
「――エリィのおばさん、無事だといいんだけどね」
アルミレーナの言葉に不穏を重ね、三咲は窓外に広がる冴えない色の空に目を向けた。その灰色を目に映してから、彼女はくるりと振り返る。
「三年生ちゃんたちが居ない間は三咲たちがこの学校守ってあげるよ。ヘンゼリーゼがおじさんと約束したから、おじさんのことも守ってあげる。私と、エリィと、七瓜で」
言って三咲は無邪気な笑みを見せ、その口で次なる不穏を紡いだ。
「三年生ちゃんたち、無事に京都から帰って来られるといいね」
直後空が決壊し、ぽつりぽつりと雨が降り出す。――遥か西でもそうであったように。
報告を受けたばかりの嶽木と遊嬉。彼女らの立つ路地裏を見下ろす無数の気配。常に人ひしめく京都の街で人知れず集った彼らの内の一体が、静かに言葉を紡ぐ。
「臨時編成京都派遣隊第一分隊――作戦開始」
もう一波乱のはじまりを。