怪事廻話
第五環・逆転の希望は①

 時は遊嬉と嶽木が落ち合う少し前に遡る。

 修学旅行の二日目、五月二十三日土曜日の午前。
 三年生不在の古霊北中学校では、相変わらず各部活動が行われ、グラウンドや体育館からは運動部の掛け声が、三階からは吹奏楽部の音鳴らしがそれぞれ響いていた。
 そんな中、「土日など特にやることはない! 休み!」という、活動に精力的でないことについて謎に強気なスタンスが常であった美術部の姿は、珍しく各々の家や出かけ先ではなく、この美術室にあった。
 二年が六名、一年が三名。美術室が元から広かったからということもあるが、三年の六人が丸ごと居なくなってしまった美術室内は平時より随分と広々としているように感じられなくもない。……まあ、三年は平時の活動中にもよく外出・・しているので、あくまでそんな気がする程度の問題かもしれないが。
 とまあ、前述の通り休日はほぼ活動しない美術部が今日になってまた活動しているのにはそれなりの理由がある。
 一つは五月だということ。ゴールデンウィーク明けから新入部員を迎えたばかりのこの時期は、親睦を深めるという面目で「美術部も最低二回は休日活動をすること」と顧問が決めている。それは去年も一昨年も行われており、だいたいは集まってだべってぼちぼち平日の活動の続きなりして、顧問の差し入れを食べたりして終わる。
 そしてもう一つは、運動部から応援幕の修繕依頼が立て続けに来たということ。夏の大会にはまだ少し早いが、部によってはぼちぼち予選会なども始まっていたりするのでそれなりに応援幕もご入用である。それに大会真っ盛りの夏は夏で、生徒会から体育祭用のポスターやらシンボルマークやらの注文が来るだろうし、去年に引き続き『すてきな夏課題』も与えられることだろうから、先延ばしにするのは得策ではない。
 経験者たる二年の面々はそう考え、なら今やるか、と決断したわけだ。
 尚、顧問は三年の担任として修学旅行に同行しているため現在は不在である。だが今日活動することについては前もって相談済みであり、吹奏楽部の顧問が数回様子を見に来る手筈になっている。
 というわけで、本日も美術部は絶賛(?)活動中である。
 今、美術室内に備え付けられた八台の作業机は並び替えられ。それぞれ机三台の組み合わせで形成された応援幕対応の縦長の台が、二セット並んで室内を分断していた。そしてそれらの横にはペンキ缶や筆洗い用のバケツが雑然と置かれた机が一台ずつ配置され、美術室は完全な作業用形態へと変わっていた。
 幸いなことに、新造が必要なほど布地そのものの痛みや汚れが目立つ応援幕はなかったので、作業は面倒な工程を挟むことなく順調だった。
 とはいえペンキの乾燥にはそこそこかかり、且つ長い応援幕を広げられるスペースが限られているため、今日一日で一気に全ての依頼を終わらすことは不可能だろう。
 けれども来週末までには普段通りの活動に戻れるだろうというのが二年生の見解で。まだ活動に不慣れな一年生たちもそんな頼もしい言葉を聞いて、心にゆとりが出てきたようだった。
 そんな頃、柚葉が一年に対して怖い話をはじめた。それはどこか聞きかじった『怖い話』というよりかは、柚葉自身の自業自得を含めた体験談や、この美術部が関わった怪事そのものだった。

 この学校に棲んでいる裏生徒の話。以前この古霊町に存在した『お札の家』の顛末。四辻通りの怪異と呪い。奇妙で愉快な体育祭の話。等々。

 それを面白おかしくペラペラと、言ってしまえば遊嬉よりは怖がらせるのが下手な喋りで語る柚葉を、けれども一年部員たちはキラキラした目で見つめている。流石は厳選された猛者である。
 そして明菜のみならず他の二年たちも、「まー、アタシにかかればこんなもんよー」と、自分が直接解決したわけでもなしに鼻高々の柚葉に、苦笑いと生暖かい視線を向けるのであった。
 そんな一幕も過ぎ、気付けば時計の針は正午の目前まで迫っていた。皆一応弁当持参だったが、作業場のキャパシティ的に午後はそこまでやれることはないだろう。
「とりあえずお弁当食べて荷物減らして、少しのんびりしてから解散しようか?」
 部長代理を任されていた鬼無里結美むすびがそう言って、作業は一旦終了となった。
 けれどもすぐに弁当を広げるわけにはいかない。まだ生乾きの分部の残る応援幕をそっと本棚で区切られた裏(・)まで移動させ、机上のものを片付け、並べ直し。ざっと水拭きなどをして、やっと弁当を広げてもよかろうといった状態になる。
 そこまで済ませたら済ませたで、休憩の初めともなると手洗いやらトイレやらに行きたくなるのが人間というものである。それで、石鹸つき洗い場なら美術室にも備え付けられているので、まあ必然的に出て行くのはトイレに行く者ということになる。
 明菜もまたその一人で、片付けが終わった後で一旦美術室を離れていた。二年も居れば慣れたこととはいえ、女子トイレが二階にしかないのは不便だなと思いつつ二階まで上がり、事を済ませて手を洗っていると、上階からは吹奏楽部の練習が生み出すトランペットやらフルートやらの不規則な音色が未だ続いている事に意識が向く。
 随分と続いてるなあ、お腹減らないのかなあ、等々頭に思い浮かべてから明菜が思う事は、すこぶる平和だなあということである。
(嶽木さんは念のためってみんなに御守りを配って行ったけど、全然何もないし、なんだか拍子抜けするくらい平和……)
 恐らく変えたばかりの芳香剤がいつもより強めにレモンの香りを放つ中で明菜がぼんやりと考えていると、背後で水流の音が立ち、鏡の中に同行者の一人が映りこんだ。
「ごめん、あとちょっとだけ待ってね」
 言って同行者――寅譜結美ゆえみは蛇口を捻った。これも別段妙な事ではない。
 明菜は寅譜が手洗いを終えるのを待ちながら、ずっとこんな感じの平和が続けばいいのになあと思った。もうあの【月喰の影】らの企みの中に巻き込まれるのは御免であるし、せめて先輩が戻ってくるまで何も起こらないでほしい、あわよくば【月】どもがどこか知らないところで自滅でもしていてくればいいと願っていた。
 誰もなんとも言わないが、去る三月丁丙らに【月喰の影】らの正体、あるいは擬態を聞いたその夜、家の薬箱をひっくり返したのは明菜だけではないはずなのだから。

 だが、悪いことというものは、得てして起こってほしくないと思うときにばかり起るものだ。俗にフラグというやつなのかもしれない。。

 明菜らがトイレを発ち、美術部に戻るべく階段に向かうと、すぐに奇妙な光景に行き当たった。
「…………? なにあれ?」
 見下げる一階二階間の踊場に立つ、明らかにこの学校のものとは違う制服を着た数人の子供たち。男も女もいたが、背恰好からして皆中学生くらいだろう。
 明らかな部外者。否、運動部の練習試合等で休日に他校生が入り込むことは稀にあることだ。ましてや今は昼時なので、休憩時間と見ればそれ自体はおかしくもなんともない。だが制服の彼らはとても運動部の用事で来たようには見えず、更にはその制服のデザインは皆バラバラである。その上で異様なのは、皆一様に縦真ん中から左右白黒に塗り分けられた面を被っているということ。
 その姿をしっかり認識した瞬間、明菜は嫌な予感にビクリとした。
 だが妙な生徒たちは明菜らには気付いた様子はなく、踊場からただ一点、一階に向かう階段を見つめているようだった。
「なにしてるんだろ、あれ」
 寅譜が言う。明菜はそれにはじめ「さあ……」と答えるが、直後何かに思い至って、無言で階段を駆け下りる。
(――まさか)
 ふと、彼女は思った。踊場、階段、下りの階段。――まさか。
「何してるんですかッ!」
 叫ぶ勢いで踊場に立つ彼らに問うも返事はない。どんな表情をしているかすら、そもそも明菜を認識しているのかすら不明な様子で、微動だにしないままそこに立ち、一階へ向かう階段に顔を向け続けている。
 その彼らと同じ方向に顔を向け、明菜は息を飲む。そこには果たして、彼女が危惧・・した通りの光景があったのだ。
「な、なんで……なんであなたたちはどこから、どうして……!?」
 明菜の声が震える。遅れやってきた寅譜は、「どうしたの」と明菜の肩を叩いた後で、彼女の視るものに気付いて絶句する。

 そこには果たして白い人影があった。
 真っ白い人影が階段の下・一階の下駄箱前に立っていたのだ
 その足元には、やはり北中のものとは違う制服を着た仮面の生徒が、どこか苦しそうにうずくまっている。
 そしてその二者の間で、上半身しかない異様なものが、何か言いたそうにもぞもぞと動いているのだ。

「おなか、が、すいた、な。やわら、か、かった、な? たべ、ちゃだめ、かな?」

 白い影が蹲る生徒を見下ろして言った。長い古木のような右手をにぎにぎと閉じたり開いたりしながら言った。明らかに主語を欠いた言葉だったが、それが意図することが分からぬ明菜ではない。
 一年前――美術部に入部したばかりの頃。明菜らは彼女がどんな存在であるかを、先輩たちに聞かされていた。

 曰く、草萼きょうだいの上の姉。
 てけてけと仲が良く、一緒にみかけることがあるかもしれない存在。または、てけてけを呼ぶと一緒に出て来ることがある存在。
 常に腹を空かせていて、動く物はなんでも食べられると思っているということ。以前『学校の』妖怪や人間は食べないと約束させたことがあるが、その精神状態からしてどこまで順守されるかは保証しかねるので決してこちらから接触しようと思うな、ということ
 それがあの先輩を持つ限りどんな事態に巻き込まれるとも知れない美術部員らが知っておくべき大事なこと。故に明菜らが極力関心を持たれないようにしてきた危険人物。草萼異怨。

 不幸な事に、彼女を制御できそうな嶽木身内は明日まで不在である。

「あれって、草萼――」
 おののき一歩後ずさる寅譜の横で、明菜が叫ぶ。
「やめて! 食べないで!」
 思いっきりこちらに注意を引きつけるような発言に、寅譜はぎょっとした目を向ける。それと同時、案の定、草萼異怨の丸く見開かれた目が明菜を捕える。
「おかず?」
 無邪気に――というよりは無感情にそう呟く声が、明菜らの耳にやけにはっきりと届く。寅譜はその言葉を認識したと同時、こんなところで死ぬのは御免だと悲鳴を上げた。
 一方で、仮面の生徒たちは先刻の体勢のまま動く様子がない。びくりともしない。ただ踊場に立ち尽くしてじっとしている。これでは良い的だ。異怨の昼食に添え物が増えるだけだ。
 他校生と思われる彼らが何故北中にいるのか、何故仮面を被っているのか。……おそらくてけてけを呼び出し、ついでの異怨まで呼び出してしまったのは彼らでもあるが――その何故何故はこの際明菜にとってはどうでもよかった。
 とにかく少し前まで確かに平和だったこの昼下がりを血の惨劇で塗り替えるわけにはいかない。仮にも美術部の留守を預かっているのが自分たちなのだから。
 明菜はそう考え、寅譜の手を引いて今降りて来た階段の方へと向かった。
 幸いにして、出て来たばかりの階段脇のトイレが二階西女子トイレ――花子さんの居るトイレである。なんの能力も持たない明菜らがこの状況を好転させるには、花子さんを呼び出して助力を請うより他にない。
(急がなくっちゃ……!)
 その判断は適格だった。
「行くよゆえ・・ちゃん! 早く!」
「え、ちょ、…………うん……!」
 寅譜は一瞬面食らった後で明菜の考えに気付いたのか、自分の意思で階段を駆け上がりはじめた。彼女もまたあの二月と三月を超えた美術部員であった。
 ――だが、しかし。

「お気遣い結構。優しいんだねぇ古虎渓明菜ちゃん」
「えっ?」

 背後からの突然の声に、二人の足は止まった。
 振り返る。相変わらず棒立ちの仮面が居る。その中の一人が明菜らに白黒の面を向けている。制服と背格好から恐らく男子。声はきっと彼からのものだろうが、それにしては・・・・・・やたらと高く、まるで女子の声のようだった。そしてその仮面の下の表情は窺い知れないものの……おそらく、きっと、彼の顔はニタリと笑っていた。
「なんで私の名前を……?」
 警戒しながら、明菜はこの奇妙な者たちの正体に勘付き始めていた。否、初めからその可能性はあったのだ。だからこそ予感があったともいえる。
 けれど、しかし、まさか。明菜は思う。数日前、留守部員全員に御守りを行きわたらせた後で、確か嶽木はこう言っていた。

 防御術式下の北中には、敵意のある人外は入って来れないから。

 その言葉を覚えていたからこそ、彼女は一旦その可能性を排除したのだ。
 しかし、今となって明菜は後悔する。それは軽率な判断だったと。
「どうして……あなたたちは――【月】……!」
 明菜が恐れと焦りに叫んだ瞬間、それまで置物のように固まっていた仮面の生徒たちが一斉に動いた。まるで電源の入った玩具のように。糸が動かされた繰人形のように。
 その妙に統率の取れた動きに、明菜は覚えがあった。否、おそらく寅譜もそれを見た事がある。

 あの二月に。東階段で。美術室防衛戦で。

「『全部アタシの計算通り。だから気遣い御無用、手出し御無用。用事が済んだら帰るから、君たちはそこで大人しく見てなよ』」
 少年の口を借りて、人形遣いの彼女は堂々と言う。
 人形遣いの【月】の幹部、アンナ・マリー・神楽月。きっと仮面の彼らは彼女の新しい傀儡なのだと、明菜と寅譜が気づくのにそう時間はかからなかった。
(てけてけと異怨さんを呼び出して、また何かをするつもりなんだ! 止めないと!)
 判断し、明菜は再び上階へと走り出した。何を知ってしまったにしろ自分たちだけでは何もできないのも事実だ。ならばやるべきことは変わらない。トイレの花子さんの力を借りるほかない。
 しかしそんな考えはとっくに相手に読まれている。階段を駆け上がる明菜らの頭上に、サッと黒い影が躍ると、次の瞬間には男女二人の仮面・・が明菜と寅譜の前に立ち塞がる。
 彼らはどこから取り出したのか、少なくとも一瞬前には持っていなかったはずの金属バットを握りしめ、それぞれ明菜と寅譜に向けた。
「『怪我したくなかったら大人しくしててよ。大人しくしてれば今日だけはなにもしないから』」
 背後からのアンナの声の後、数人が一斉に動く気配に明菜と寅譜は振り返った。見れば、残りの仮面たちの姿がない。それが階下の異怨とてけてけに向かって行ったからだということは、考えるまでもなくすぐに理解できた。
「なに、すんの」
 間の抜けた異怨の声と、何かが固いモノに叩きつけられるような音。
 慌て踊場に戻って覗き見れば、一階廊下には異怨のに叩き落とされて倒れる何人かの仮面と、おろおろするてけてけの姿。そして、まだ健在の仮面に囲まれ、何か・・で取り押さえられる異怨の姿があるのだった。
「『楽勝だね』」
 少年・・が呟く。ほくそ笑むように。
 そしててけてけには目もくれず、捕えた異怨と他の仮面を率いて、堂々と昇降口から去ろうとする。しかし明菜と寅譜はどうすることもできない。慌てて一階廊下の手前まで降りたところで、未だ帰ってくれない背後の二人から、ひやりと冷たいものを首筋に突き付けられたからだ。あと一歩でも動けば頭蓋骨か首の骨を砕く用意があるとの意思表明。物騒な彼らは、きっと仲間の撤収が終わるまでは消えてくれないだろう。
「……待って、待ちなさいよ! その人をどうするつもりなの!?」
 恨めしさを視線に込め、寅譜が叫ぶ。しかしアンナの言葉を語る少年は振り返ることもせず、また答えることもない。
 下駄箱の中頃を過ぎたところでてけてけが異怨を運ぶ集団の内の一人の少女の足に飛び縋るが、アンナの少年に引き剥がされ、蹴り飛ばされ……、下駄箱の角に頭をぶつけ、それっきり小刻みに震える以上の動きをしなくなった。
「ひどい……ひどい、こんな……」
 明菜は思う。異怨が連れていかれてしまう。彼女は先輩や嶽木に言われていた通り危険人物ではあるが、てけてけの大事なご主人様だ。どうなってしまってもいいということはない。
(あのまま連れていかれちゃったら、烏貝先輩みたいに操られちゃう……? それとも赤マントさんみたいにおかしくされちゃう……? わかんないけど、とにかく駄目……!)
 明菜は今ほど己の無力を呪ったことは無かった。こんな時、先輩ならどうするだろうと考えた。自分と同じくこれといった能力はないが、柚葉ならどうするだろうと考えた。
(駄目だと思う、止めなきゃと思う。だけど目の前で駄目なことをされていくのを止められない、自分は……自分は……!)
 そして多分、寅譜結美もそれは同じだった。
 金属バットを突きつけられたままで、動けないままで、握りしめた両の拳の中に爪を立てていた。

 今、この場に先輩がいたら。
 今、この場に誰かヒーローがいたら。

 願い、悔しさに涙して。仮面たちが転移符で消えていくのをただただ見つめて。その後で。

 どさり、と。背後で鳴った何かが倒れたような音に、二人は驚き振り返った。

「遅かった。……私たちが来るのがあと一瞬早ければよかったんだけれど、そのことについての後悔は一旦先送りね」

 言葉と共に立つのは、古霊北中の制服と、見慣れた背格好の少女。
「せんぱ――」
 明菜はそう言いかけて、けれども違うと言葉を閉ざしかけるが――しかし何も間違っていないと考え直し、叫ぶ。
「七瓜先輩!」
 そう、そこに立つのは烏貝七瓜。乙瓜と同じ顔の、乙瓜の姉。明菜があの二月に助けられ、そして一月余りを確かに美術部の先輩後輩として過ごした人物。
 恐らく彼女に気絶させられ、壁に沿って倒れる仮面二人の真ん中で、七瓜は明菜、寅譜に手を差し伸べ、そして言った。

「花子さんの所へ行きましょう。起きてしまったことを京都の【灯火】に伝えるのよ」

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