丁丙は主張する。
【灯火】は人間と人外の間のパワーバランスがどちらかにだけ過剰に傾くことを避けたい。その為に状況に応じて人間の味方にも人外の味方にも回ることを掲げ、今は【月喰の影】の計画がある為にどちらかと言えば人類側に助力するが、蹂躙される妖怪たちも助けたいと。
「そして妖怪の成り立ちには人間の抱いた幻想が関わっていることも事実だ。その幻想が根絶されたとき、我らが今のまま無事とは限らん。なれば互いに勢力の調和を保ち、共に歩んで行く他道はないだろう?」
「詭弁です。幻想ならば既に成った我々だけでも補完し得るもの。そして我々アヤカシの類が全て人間どもの幻想で出来ているとも限らない」
桂月は反論し、そして彼女もまた主張する。
「パワーバランスを保つと言うならば、今はどちらかといえば人間どもの方が強い力を会得しています。……人間たちは個々には脆弱な存在です。けれど集団として団結したときの勢力は時に我ら妖怪や神をも上回り、ゆくゆくは世界そのものをも滅ぼしかねない脅威を秘めています。その脅威から我々人外の世界を守るため、人間を管理せねばならないのです」
「その管理というのが人間を人間のような何かに置き換えることか」
「ええ。人間自身に期待することはもうありません。ただでさえ人間たちは数が多く、思想信条は我々よりも多種多様。その上寿命も短く、現状全ての人間を啓蒙するのは不可能に近い。方々で信じられている一神教の神を以てすら不可能なことを我々如きに実現可能とする方がよほど愚かな思い上がりだと、マガツキ様は考えました」
「……そうかい。その主張は正しいかもしれないが、人間たちだって変わりつつある。いつまでも何十年前と同じじゃあない」
「そうでしょうね。奴らは変化が早い。だからこそ古からの約定は失われ、平気で私たち変化の類の住処を荒し奪った」
桂月は丙をじとりと睨み、それから傍らに控えたままの江月を見た。
「この江月は獺化けです。知っての通り人間どもの乱獲で数を減らし、今やこの日の本に化ける前の若い血統が続いているかどうかすら定かでない。そこまではならずとも、鼬様やお狐様もそれぞれ元の住処を奪われ、お狸様に至っては人間どもの出した塵を漁って生きている。それを悔いる人間も幾らかはいるようですが、もう起ってしまった事は変えられないのですよ。それこそ貴女方が擁する"灯火"様の御力でも借りない限りは。……けれど"灯火"様はどういうわけかそれをしないので、マガツキ様が代わりに行います。我々の念願が成就すれば、少なくとも人間どもの行いによって我々が脅かされ世界が傾くことは防げる」
桂月は強い口調で言い切った。
「全ての未来の可能性を失ってもか」
「ええ」
確かめる丙に迷いなくそう答え、桂月は続けた。
「未来とは希望という意味ではありません。最善の方向に進む可能性も秘めてはいますが、同時に最悪の方向へと進む可能性も孕んでいます。その『最悪』が誰かの軽率な判断で訪れるものなら、避けて通れる道が選べた筈のものなら猶更『最悪』です。例え全ての良き可能性を失ったとしても。全ての過ちの可能性を捨て去る為ならば、我々はそれを成します」
「………………その為の犠牲は全て必要な犠牲と言い切るわけかい。あのダーツで妖怪たちの心を破壊したことすらも」
「変革には犠牲はつきものです。それに失われたアヤカシや人間どもは革命の後に"影の魔"で補完します。世界は現在の形を保ったままでより良くなる。それがこれから滅びる『今の人間』たちへのせめてもの慈悲であると、マガツキ様は仰いました」
曲月嘉乃の言葉を滔々と語り、桂月はその場に集ったアヤカシたちを見つめ宣言した。
「我々が我々の活動に異を唱える者を攻撃したことは事実です。しかし我々がこれから成そうとしていることを妨害しない限り、あなた方に特別な危害を加えたり、協力を強制することはございません」
その言葉の後で、或いは途中から、一部のアヤカシたちがざわついた。「それは本当なのか」と。当然だ。今まで【月喰の影】が攻撃してきたモノたちは全員が全員彼らへの妨害を企てたりしたわけではない。
「し、信じられるかそんな言葉! おらの兄貴はあんたらに騙されて連れていかれたんだ……!」
ややあって、どよめきの中にいた一匹の小さな妖怪が叫んだ。
「少し仕事を手伝ってほしいと言うから、ヒトの良い兄貴はついていった! ……そして戻ってきたときにはもうそれは兄貴じゃあなかった……! おらのことも他の弟妹のこともわかんなくなっちまって、あんなふうになっちまうなら殺されちまってた方がまだましだった……!」
雀のような姿の彼は勇気を振り絞り切った震える声で訴えた。彼の周囲には彼と同じような境遇の者も少なからず居るらしく、「そうだそうだ」と彼に続いた。
だが桂月はそんな彼らを前に涼しい顔でこう言い切った。
「貴方のお兄様は恐らく先達ての臨床実験の被験者に志願なされたのでしょう。担当の者が事前説明を行う事になっておりますので、同意はきちんと得ている筈です。断じて騙してなどおりません」
だが当然、件の彼がそんな回答に納得するわけがない。
「嘘だ嘘だ! そんなわけねえ、騙されるか……! くそう……、くそう! 兄貴を返せよぉ!!」
彼は興奮気味にバタバタと翼を羽搏かせ、地団太を踏んだ。桂月はその様を見てキョトンとすると、さも意外だとでも言いたげな口調でこう言い放った。
「御心配なさらなくとも、先程申し上げた通り貴方のお兄様については後程記録から補完しますので、じきに以前のようなお兄様に会えますよ。ああ、現状に対してでしたらお見舞い申し上げます。そしてご協力ありがとうございました」
「……なにわけわかんねえこといってんだおめえ……! 新しい兄貴が来るからって、おらに元の兄貴を忘れろって言うのか!!」
「ええ、酷なようですが。でもご安心ください。影の魔による認識改変は大変強力なので違和感は殆どないかと思われます」
「そういうことじゃあねえッ…………!」
彼を中心に同じような痛みが噴き上がる中、桂月は解せないと言った顔で丙に向き直った。
丙はそんな彼女にまるで分かり合えない異物を見るような視線を向け、眉間の皺を隠そうともせず訊ねた。
「お前さんたちは本当に本気なんだな……? 代わりがあるから失っても問題ないと」
「はじめから、そしてはじまりからそう申し上げている筈です。それとも"灯火"様や貴女様方に与する魔女様や西洋悪魔の力で彼らをお救いいただけますか? 江月や私、縛られたままの同僚たちの助けられなかった大切な者を、マガツキ様が欲し、守りたかったものを、過去を曲げてお救いいただけますか? ……どれだけ祈っても揺さぶっても、『神』はその全能である筈の力を振るってはくれなかった。なので我々は一点の光ではなく広大な影に縋った。愚か者だとせせら笑われ、裏切者だと石を投げられ、鬼畜と恐れられてでも。我々は必ず理想を成します」
桂月の目は本気だった。単に代弁者として言わされているのではなく、芯からの曲月嘉乃の賛同者としてその言葉を吐いていた。
「例え全てのヒトが、全ての景色が偽物になったとしても。その果てでもう誰かに排されることなく生きていけるなら、私はそれで構いません。構うものかという所存です」
「そうかい……」
丙は呟き、しばし押し黙った。黙りながら思う。――成程、彼らの理屈ではそうなっているのか。と。
奪われ、排除され、拒絶され、滅ぼされ、それを拒むために奪い、排除し、拒絶し、滅ぼす。これらは本来繰り返す限り永遠に終わらないいたちごっこだが、彼らが信奉し使役する"影の魔"の力を以てすれば彼らが見切りをつけた人間と、まつろわぬアヤカシたちをまとめて一掃できる。世界の記憶は改竄され、禍根も消える。
(本来在った筈の多くの者を全てなかったことにして別の存在へ置換し、しかもその業を自分たちでも忘れてしまうカラクリなんだから罪悪感もクソもあったもんじゃないな)
丙は溜息を吐き、そして以前にその弟子から聞かされた過去に思いを馳せた。
――今確かに生きてた人たちの事を、そして今、生き残る事が出来た人たちの事を。なかったことに、しないで。
嘗て火遠と戦禍の時代を生きた少女、富岡沙夜子の最期の言葉。
その言葉があったからこそ、火遠は一時何もかもなかったことにしてしまおうとした世界をそのままに留めた。
(けれどもお前さんらは全てなかったことになってしまってもいいと言うんだな)
その時丙の心にあったのは、怒りというよりは哀れみだった。
なかったことになってもいいと、偽物でいいと言えてしまう今日までが。
哀れであり、……それでもその主張は丙個人として、そして人間と共に生きると決めた【灯火】代表として、決して容認できるものではなかった。
(わかっていた。とっくの昔に交渉は決裂していた。今更説き伏せる事は出来ない。……そして【灯火】として、あちきにはこの娘らを救うことはできない)
丙はやるせなく俯いた。
直後、その肩に誰かが手を置く。それが一歩後ろに控えていた嶽木のものだと丙が気づくのにそう時間はかからなかった。
振り向けば、彼女の弟子と同じ顔がある。弟と同じ、否、弟が失った炎を髪に、瞳に代わりに宿し続けるその顔は、この場に居ない彼の言葉をもう一つだけ丙に思い出させた。
それは【灯火】を結成した時に彼が言った言葉。
――『師匠。それでも俺は……――』
先の雀姿の彼はまだ桂月に対し罵詈雑言をぶつけ続けている。彼の同輩もそうだ。そして噴き上がっていない者もざわめき立ち、どちらの側に付くか、それともどちらにも付かざるかを周囲の者と相談して、或いは一人黙して考えているようだった。
程なくして、集まった者の内では最もこの世の行く末だの人類の存亡だのに興味のなさそうな連中の一角が言う。
「丁度いい暇つぶしになったから帰らせてもらうぞ。まあどっちも好きにしろ」
彼の言葉を皮切りに、物見遊山に来ただけの連中がこぞって引き返していく。そもそも誰かに頭を下げるということからは限りなく無縁の連中だ。手紙を出した丙からしても駄目で元々の相手だったが、彼らがごっそりと居なくなったことを受け、考えあぐねていた連中も動き出した。
「……駄目だ。丙さんにゃ悪いが、あんたさんたちに味方して【月】に勝てる未来が見えん。あっしの姿はみなかった事にしてくだされ」
「同じく。抵抗したところで得がない。それに結果として平和になるならそれで結構じゃあないか。がんばんなさいよ貂のお嬢ちゃん」
「妖怪やら幽霊やらの味方するならともかく人間に味方するわけにゃあいかないよ。化け物としてあたしの信条だからね」
既に空間封鎖なんて解けている。気まずそうに去る者、月に分があると去る者、適当な理由を上げて一刻も早くこの場から消えようとする者。殆どがどちらにも付かず去って行った。
「流石皆様物分かりが良い。どうぞ新しい世界でもよろしくお願い申し上げます」
桂月はそれをにこやかに見送り、勝ち誇った顔で丙を見た。
「新戦力など早々あつまりませんよ。貴女が将としてできることは、精々山に逃げ帰って今ある戦力をどこでどう動かすか、ない頭捻って考えることです。言っておきますが今更降伏は受け付けませんのでお覚悟を。……行きますよ、江月」
あからさまに挑発すると、桂月は傍らの江月の手を取って走り出した。直後、彼女らが今の今まで居た場所を巨大な爪が、水祢の腕が掠める。
「残念でしたね、機動力なら私たちに分があります! それではさらば、いずれの機会にまたお会いしましょう!」
十分に距離を取りつつ転移符を取り出すと、桂月は未だ捕えられている仲間たちを見て、それから丙らに向き直った。
「いずれ皆を迎えに上がります。それまでに酷くするようなら許しませんよ!」
叫ぶと同時に護符の術式が発動し、桂月はその場から姿を消した。
招集したアヤカシの殆どが居なくなったその場所に、丙と嶽木と水祢、そして僅かなアヤカシだけが残された。
「…………召集作戦は失敗か。奴らの思う通りに事が進んだわけだ。……いや、奴らなぞ居なかったところで結果は変わらなかったのかもしれないが」
悔しさに丙が呟く内にも、その場から去っていく者がいる。「仕方ない」と水祢が零し、嶽木は手にしたままの刀の柄を固く握りしめた。
「少しでも、遊嬉ちゃんたちの負担を減らせればと、仲間が増えればと……そう思ったんだけどな」
溜息交じりに嶽木は呟いた。先日、柚葉や明菜が気にしていた事について、彼女が今まで全く考えたことがなかったわけではなかった。
――『世界かかってるってーのに、戦うのが先輩たちだけってのがなんてーか……』
全くその通りだと彼女は思った。それは当然丙も同じで、絶対に口には出さないながらも水祢だって同じ筈だ。たぶん。
嶽木たちだって戦うつもりではいるが、如何に彼女らが強かろうと無敵ではない。例えば嶽木などは火遠に比べて遥かに高い再生力が高いものの疲労がないわけではなく、丙は無数の式鬼を操れるものの、全くの無尽蔵ではない。一騎当千なぞに依存した布陣は物量で攻めて行けばいつか必ず崩れる。
一人でも多くの味方が必要だった。誰かしらはなってくれると思っていた。だが希望は敗れ去った。
――かに、みえた。
「大変遅れまして申し訳ございません」
【灯火】を代表する面々に諦めの気配が漂い始めたまさにその時、随分とがらんとしてしまったその場に一つの声が響いた。
まだわずかに残っていた者たちが、そして何より嶽木や丙たちが驚き顔を上げる中、現れた影は凛として言った。
「説得に大分時間がかかってしまいました。雪女の銀華、並びに北関東・東北・北陸方面妖怪衆。【灯火】に協力するべく推参致しました」
白い髪に白い着物、冬の空気のような白い肌の彼女・銀華は、細い眉に確かな意思の力を込めてそう宣言した。