怪事廻話
第四環・古都の総会、白の喪失⑤

 丙らが動き出すとほぼ同時、妖異の群衆の内から幾つもの影が躍り出る。
 アヤカシたちの一部は面白い見世物が始まったとばかりにどよめき、また一部――恐らく【月喰の影】に虐げられてきた者たちか――からは悲鳴が上がった。
「やはり諜報隊が紛れ込んでいたか」
 丙は舌打ちする。
 諜報隊はアンナらの率いる『統括部隊』程の打撃力は持たないが、主に高い機動力と他者他物への変化へんげの力を持ち合わせる狐狸の類から編成され、取り逃がした場合の追跡には困難を極める。丙と【灯火】の経験則だ。
 案の定、潜伏を看破された諜報共は一目散に逃げだすかに思えた。だが今宵の彼らは二手に分かれ、片方はこの場からの逃走を、もう一方は丙らへの突撃を試みるようだった。
「捨てがまり蜥蜴トカゲの尾切りか、だが一匹も逃さん! れい式――」
 吼え、丙は式鬼札を逃走する影へ向かって投じた。
 だが、
「空間封鎖ですか! それはさせません!」
 転進隊の先陣を切る一人の娘が叫び、式鬼札に向けて何かを放った。黒く長い何かを――いや、一瞬遅れて丙はその正体に気付いた。
「……自在操布そうふ術のたぐいか!?」
 自在操術。すなわち放たれたものは布。それも帯のような長い布であると。
「いいえ! これは妖怪・布がらみ! 護符術持たぬ我らとて、貴女を一時封縛する事くらいできます! ……行け!」
 先鋒・・がにたりと笑って手を離すと、それまで帯のようだったものは蛇のような姿へと変じた。齢を重ねた狐・狸の類は様々なモノに化けるとされるが、布がらみは布のようなものに化けるとされる妖怪だ。布にしかなれないと見ると化け・・物としては大層不器用だが、逆に布にしかならない・・・・のだと見れば、それが恐ろしく洗練された技術わざであると気づく。現に丙の目すらあざむいていたのだから。
 妖怪布がらみは赤々とした口をぱくりと開き、鋭い牙を覗かせて飛びかからんとする。その動きは早く、恐らく丙が文句の全てを唱え切る寸前で彼女の喉笛を捉えるだろう。
 しかし、丙とて、【灯火】とて、この日この晩大人しくやられてやるつもりはない。予想外の伏兵の一つや二つ現れたところで、やられるなどとは思っていない。
 布がらみを放ち、既に敵将討ち取ったとばかりの表情を浮かべる敵の先鋒の耳に、ひどく冷ややかな声が届いた。
「大将ばっかり見てるなよ。諜報員じゃ戦場いくさばは初めてかい」
 声と同時か直前か、ひゅうと風切る音が鳴る。先鋒が、音が向かってきている・・・・・・・・と気付くのと、丙を討たんとしていた布がらみの身体が縦真っ二つに裂かれていることに気付くのはほぼ同時。一瞬後、音が向かってきている意味を察して慌てて身を捻るのと白い輝きが肩を掠めるのもほぼ同時。肝を冷やし、青褪あおざめ、鋭い翠の眼光とすれ違った直後、何者かの手にぐいと引かれたそれが見たものは、寸前まで己が居た場所を貫くように飛ぶ紙の鳥の軍勢だった。
「ぼうっとしないでください江月こうげつ! また来ます!」
 己の身を引き守った【月】の仲間の言葉に、先鋒は――江月はハッと我に返る。
 ――逃げねば。
 撤退補助の尻尾・・の役割など、青褪めた時点で既に江月の頭になかった。ただでさえ純粋な戦力では勝ち目のない相手、初手の奇襲にのみ僅かな希望があったが、それが崩れた今となっては全力で撤退するしかない。が、

零式れいしき式鬼神しきがみ空間封鎖結界陣・はち年一二型大結界大符・へい!」

 耳に届いた、全てが台無しになる言葉。術式発動の文言。目の前に突き付けられた白刃を前に。江月は少なくとも自分一人と自分を助けた仲間一人、この二人だけはただではすまないと悟り。後はもう、その場にすとんと膝を落とすことしか出来なかった。

 あっけなく観念した彼女を見て、丙は少々拍子抜けしながら己の式に命じた。
「捕まえとけ。空間封じたから転移符は持ってても使えないだろうが、自決するかもしれないから念入りにな」
 彼らが諜報である以上、一匹でも【月】の本陣に帰還出来ればその目的は達成できる。だが捨て石となった者たちが万が一【灯火こちら】に篭絡、或いは拷問等で【月】側の情報を吐いてしまう事があれば、【月】としては不愉快であろう。ただでさえ過去に寝返ったと思われる者がいるのだから。
(嘉乃……いや、特に参謀である琴月やつが許しておかんだろうな)
 思い、小さく舌打ちし、丙は閉じられた空間の天井・・を見上げた。そこには水祢の鳥に絡めとられている更に幾人かの諜報員の姿がある。
 丙の目には彼らは皆化け始めてほんの二十から五十年の若造・・に見えた。人の目からすれば似たり寄ったりの見目若い妖異は珍しくないが、好き好んで、或いは止むなき事情によってそのような姿を取っている丙らのような云百年ものの妖異とは違う青臭い気配が彼らにはあった。
 その殆どが抵抗の気力を失っているように見えた。或いは暗い決意を固めてしまったのかもしれない。
 悲しい事だと丙は思った。恐らく、たぶん、先程から黙ったままの嶽木も同じことを思っているだろう。……元【月】として水祢も同じかどうかは定かではないが。
「まあ殺しはせんさ。無理に敵陣の情報を喋らせようとして死なれても厄介だから、死ぬ気がないなら決着ケリがつくまで【灯火うち】で匿ってやる」
 丙はそう言いながら、静かに三枚の式鬼札を自らの結界外へ放った。捕縛した数と最初に動き出した数の勘定が合わないことなど把握済みである。
 札は結界の外に出ると大猿の姿へと変わり、去った者の気配を追って夜の彼方へ走り去った。
「……撤退した連中も捕まえたら保護するのですか?」
 江月を救った一匹が問う。他の諜報隊共々捕縛式に捕えられている彼女は、黄褐色と白混じりの毛に獣の耳を持つ娘だった。
「ああ……そうだな。お前さんらの本隊・・に合流していなかったらそうなるだろうよ」
「なるほど。…………それを聞いて寧ろ安心しました。けれど我々は諦めない。少なくとも私は諦めない。牙を折られ貴女方に守られ生きていくくらいなら――」
「?」
 何やら不穏な気配を臭わせ始めたその娘に、丙が怪訝に首を傾げた……その瞬間。
「丙危ない!」
 叫んだのは嶽木だった。
 丙がその意味を理解した時、彼女には三方から己に向かってくる影が見えた。――布がらみだ。まだ存在していたらしい。
 嶽木が即座に動くが、その位置からでは一体までしか防げない。水祢が護符を再展開するのにもを広げるにもあと数瞬かかり、丙が護符を媒介に護衛の式鬼神を召喚するのにも少々かかる。
「死になさい【灯火】総代!」
 娘が嬉しそうに口の端を吊り上げる。それを見ながら丙は思う。迎撃は間に合わない、間に合わないが先程のように術式の展開待機中ではない。ならばとれる手段はたった一つ。『避ける』しかない。
 思った瞬間丙は跳んだ・・・。元より彼女は山育ちの化け猿である。今は人の形だが、元来の能力は決して退化しているわけではないのだ。
 跳んだ直後に一体の頭を嶽木の剣が貫き、攻撃目標を一瞬見失った残りの二体は互いに衝突を避けるべく宙で交差する。
「やりよるじゃあないか嬢ちゃんよ、だが死ねと言われて「はい」と言えるほどあちきは参っちゃいないよ」
「ええ、そうでしょうそうでしょうとも。けれど諦めないと私は言ったのです」
 娘は漸く迎撃の用意を始める丙を見上げながらも余裕の笑みを浮かべ、それから二体目の布がらみを斬捨てて怒りの視線を向ける嶽木に顔を向けた。
「このままだと斬られそうですね。斬られるのはごめんです本望ではない」
 と、封縛されたままの身体をよじり、服の胸元からはみ出た紙切れのようなものを噛んで引っ張り出した。
 それは一枚の護符であった。更に言うなら、丙の危惧したようなものではなく、「その護符は」と目を剥く嶽木に娘はやはりにやりとする。
しょおそうしゅしゅしきかくらんれしゅ術式攪乱ですひゅうひゅうりょりつりょう"急々如律令"
 勝ち誇り、宣言し、娘への拘束術式が瓦解する。その裏で水祢のが残りの布がらみを捕え、丙の式鬼神がそれを破砕する。
 けれども自由となった娘はそんなことなど計算尽くとでも言わんばかりの涼しい顔で、遅れてやって来た嶽木の攻撃をスッと避け、江月の首根っこをひょいと掴むと、そのまま軽く十数メートル後方へと跳び退いた。
 彼女は恐らく比較的アヤカシの密集していない場所を選んで飛んだのだろうが、面白半分で見守っていたアヤカシも不安半分で見守っていたアヤカシもそこを円形に避けたので、まるで小さな舞台ができたかのようだった。
 その舞台の真ん中で、娘は言う。
「私の手元には転移式ともう一枚の攪乱式があります。ご安心ください、術符を持っているのは私だけです。でもこれで私たち分だけの退路は確保しました。あの子たち・・・・・は保護されるというのなら、いずれ頃合いを見て迎えにきましょう」
「……結局撤退を選ぶのか。いいのかあちきを殺さなくて」
 問う丙に「ええ」と頷き、娘は続ける。
「時間稼ぎに決まってますでしょう。今は私と江月この子だけ退却できればそれでいい。けれどもその前に私にはしなければならないことがあります」
「何をするつもりだってんだい」
「決まってるじゃないですか。はなから貴女方にも我々にも興味のない冷やかしの皆様も相当数集まっておいでですが、丁度我々の活動に疑問を抱いていらっしゃる方々もそれなりにいらっしゃいますのでしょう? ならば却ってそれは好機ではありませんか」
「……主張は最初にはっきり言って。回りくどくてイライラしてきた」
 と、ここで口を開いたのは水祢だった。腕はもう大分平時のものに戻ってきているものの、まだ指先が尖っている・・・・・・・・。完全に引っ込めるつもりはないらしい。
 苛ついているのは恐らく姉の嶽木も同じで、そう簡単にが出てこないようにつけている、護符の巻かれた左手首の腕輪に右手を回している。
「何の好機だい。言ってみな」
 促す丙も式鬼神を引かせる様子はない。いつまた妙な動きをするとも知れない相手に対し、それは当然の備えだった。
 臨戦態勢の三者に相対しながら、しかし娘は余裕の態度を崩さなかった。絶対的逃走経路を確保した心理的なゆとりも当然あるだろうが、それとは異なる理由に裏付けされた自信に満ち溢れているようにも見えた。
 その彼女が言う。
「聞き伝えではない、互いの生の主張をぶつけ合う好機ですよ。大体【灯火】ばかりがずるいじゃないですか我々【三日月】にも弁舌を振るう機会を与えるべきです。なにより『貴女方から見た我々』だけで【三日月】の思想を判断していただきたくはありません。どうせなら双方の主張を聴いていただくべきです。マガツキ様はそのための特命を我々に与え、光栄にもこの私めを代弁者に選んでくださいました。これによって私たちは、互いに主張の当事者と対立者を得たことになります」
 そこでパンと手を叩き、娘はニコリと笑った。
「すなわち果たしてどちらの勢力に付くか付かざるか! お集りの皆様方に、双方の生の主張のぶつかり合いを聞いた上で判断していただきたいのです。そのほうが、ほら。貴女方の大好きな"公平"でしょう?」
 言い切り、辺り一面のアヤカシたちを見回した後、娘は丙に向き直り、一礼する。

「申し遅れました。私は【月喰の影】中部中国方面間諜報連絡部隊所属、臨時編成京都派遣隊第二分隊隊長・テン桂月けいげつと申します。お手柔らかに願います」

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