やや厚い雲越しにうっすらと太陽が見える六時手前の早朝、古霊北中学校第三学年八十人余りの姿は、町の南西はずれにある駅の狭いホームの中にあった。
その中には当然烏貝乙瓜の姿があり、黒梅魔鬼の姿があり、小鳥眞虚や白薙杏虎、戮飢遊嬉と歩深世の姿もある。
田舎ながらに存在しないわけではない通勤ラッシュにはまだ遠く、わずかばかりの務め人の影や引率教師以外の大人を除けば、ホームの上は子供ばかりで埋め尽くされていた。
あと数分もすれば電車がやってくる。この駅からはローカル線しか出ていないので、途中駅で乗り換えを行い東京へ。そこから更に新幹線に乗り換え、京都に到着する頃には十一時近くになるだろう。乗り換え時に迷ったり置いて行かれる生徒が出て来るだろうが、電車移動に馴染みのない田舎人にそれを経験させることも社会勉強の一環なのであろう。なにせ修学旅行なのだから。それにまず新幹線へと到達する為の移動時間は大変なゆとりをもって見積もられているので、よっぽどのことに見舞われない限りは問題はないだろう。
だがそんな大人の事情を察して動ける生徒がいたらいい方で、生徒の大半は訪れた非日常に朝からはしゃぎ、または眠いと欠伸を噛み殺し、忘れ物をしたとか、数の少ない駅のトイレがあくのはまだかと落ち着かない様子で居たりと大変にフリーダムである。
それは北中に一抹の不安を置いてきた美術部とてなんら変わらず、既に午後の行き先の観光地の事や、天候にはやや恵まれなかったが新幹線の窓から富士山はみえるのだろうか、などといった雑談に花を咲かせまくっていた。
それでも。
「北中なにもなければいいけどね」
到着した電車に民族大移動の如くぞろぞろと乗り込む最中で魔鬼が何気なく漏らした小さな声は、乙瓜の耳にも届いていた。
古霊北中三年生一行がおよそ予測可能のトラブルを超えて東京駅へと辿り着いた頃、一時間目の授業を控えた古霊北中の裏図書室には、あの黒布一つ目の司書ではない一つの影があった。
草萼嶽木。静かに佇む彼女の視線の先には、力失い目を閉ざしてから間もなく三月が過ぎようとしている草萼火遠の姿がある。
乙瓜との契約を解いて尚まだ目覚める気配のない彼に眼差しを向け、嶽木は言った。
「行ってくるよ」
確かに、彼への報告として。
「富士山よくわかんなかったね」
静岡県を間もなく越えようとしている頃、乙瓜に向けて遊嬉が言った。
新幹線の席順は概ね組と班ごとに分かれていたが、特に車両で区切られたりはしておらず、乙瓜や魔鬼らの属する二組の班と、遊嬉らの属する一組の班は席が近かった。
遊嬉と乙瓜は――これは偶然であるが――丁度通路を跨いで隣同士の席であり、言い換えれば新幹線の内側の席である。遊嬉が振って来た富士山云々については当日の天気が決して最高とは言えなかったこともあるが、内席同士故に特に分かり辛かったという同意を求める意図の方が大きかったのだろう。たぶん。少なくとも乙瓜はそう解釈し、「仕方ないわな」と返しながら、開封したばかりのチョコスティック菓子の袋を持った腕を遊嬉の方へと伸ばした。
ぼちぼち小腹が空いて来る頃合いで、あちらこちらで持ちよったおやつ類の交換が行われている最中だった。
遊嬉は「ありがとう」と言いながらスティックを三本も引き抜いて行き、直後物欲しそうに見つめている隣席の山根地禍の視線に気づき、一本を彼女に渡したものの、死守したままの二本は誰にも譲らない心積もりであるらしい。
そんな友人の姿に呆れつつ、乙瓜は三人席のすぐ隣に座る魔鬼に向き直った。彼女にも菓子を渡そうとしたが、どうも朝が早かったことが祟って寝落ちしているようなので、起こさないように気持ち小声で、もう一つ隣の席へと声をかけた。
「あの」
そう呼びかけられて窓から振り向いた二つ隣の少女、一応同組同班だが普段殆ど話したことのない鬼塚絵魔は、少しキョトンとした様子ながらも「ありがと」と一本だけ受け取った後、手を引っ込める乙瓜を呼び止めるように「あのさ」と続けた。
「何か?」
「ううん、大したことじゃないんだけど。……富士山が見えるのって、進行方向的には二人席の方の窓だよね?」
「え、うん、多分」
この時乙瓜は特に意識していなかったので曖昧な返事になってしまったが、恐らく彼女の言葉に間違いはなかった。
とはいえ乙瓜がそれに気付いたのはこの会話が終わった後なのだが、なんにせよ話しかけた相手が頷くのを見て、絵魔は「やっぱそうだよねえ」と呟き、釈然としない顔でこう言った。
「じゃあ何だったんだろ。ついさっき、大きな山みたいなものがあった気がしたんだけど……」
彼女が向き直った窓の外には、山らしき影はない。彼女が巨大な山と誤認したものからとっくに遠ざかってしまった可能性は大いにあるものの、伊豆半島は既に遠く、紀伊半島へ入るのはまだこれからだ。
三人席の窓側の向こうは、海である。
乙瓜は鬼塚絵魔の為人をよく知っているわけではないが、いくら古霊北中が玉石混交の田舎公立校だからとて、暫く前に通過した場所を指して「ついさっき」と言うような人間はいないだろう。たぶん。
(……いやしらないけど)
乙瓜は席に座り直しつつ、どこか釈然としない気持ちでチョコスティックをぽきりと噛んだ。
(まあ、妙な話ではあるけど不吉な感じはしなかったからいいか)
相変わらず乙瓜の隣では魔鬼が寝息を立てていて、通路を挟んで向こう側では遊嬉が地禍らとババ抜きをしている。
火遠との契約を解いてから"視る"事に関しては随分鈍ってしまったが(それでも出自故か視ようとすれば視えないこともない)、嫌な予感というものを察知する事についてはそこまで鈍ったとは思えないし、それは周囲ではしゃいでいる遊嬉らだって同じだろう。
その彼女らが特に何も言ってこないなら、特に杏虎が動かないならまあ問題はないだろう。そう判断して、乙瓜は暇つぶしに修学旅行のしおりでも読み返すことにした。
それから京都に着くまで、遊嬉らの様子に特に変わりはなく、魔鬼はどういう勘をしているのか駅手前でぴたりと起きるまで寝落ちしたままで。そしてその間、乙瓜と絵魔が再び例の件について話す事もなかった。
そして、観光バスへの乗り換えやら昼食やら、奈良へ向かって東大寺だの法隆寺だのの史跡名所を回っている内に、乙瓜は新幹線での絵魔との短い遣り取りをほとんどすっかり忘れてしまっていた。
実際何も無かったわけなので、恐らくは鬼塚絵魔当人も「気のせいだったかもしれない」くらいにしか思っていないだろう。
だが、鬼塚絵魔が視たモノは事実確かに存在していた。
あの時、反対側の窓から富士山を見損なって気落ちした彼女が、自分の側の窓の外に気を向けたあの瞬間。
海側から山のように迫り上げて来た、この世ならざる何かの影は。確かに存在していたのだ。
その巨大な影の立ち上がる瞬間を、鬼塚絵魔は見てしまった。彼女は八尾異のように視えることをウリとしているわけでもなく、自分自身でも霊感なんてないだろうと思っているが、そうした人間でもふとした瞬間に普段視えないものを認識してしまう事がある。俗に「波長が合う」などと言われるやつだ。
彼女はその日その時その瞬間、たまたまそれと波長が合って視えてしまっただけなのだ。ならばその正体とは何者であり、如何なる目的で陸へ現れたのか。
その答えの一端が、先日丁丙が方々に送った手紙にある。
当夜、古霊北中修学旅行生一行が旅疲れで寝に入った頃。古霊北中の生徒らより一足遅れて古霊町を発った草萼嶽木と草萼水祢、丁丙らの姿は、京都某所にあった。
彼らを取り巻くのは、方々から参集した自我ある怪異たちの影。
山から集ったモノ。平野から集ったモノ。湖沼、河川、海から集ったモノ。化かしの類、人食いの類、都市伝説の現代妖怪、神に近いモノ。
随分と集ったが、送った手紙の数からすれば半数にも満たない面々だ。そして当然話だけを聞きに来た面々も少なからず居ることだろう。
(さぁて、どれくらいまで説得させられるかはあちきの弁舌に懸かってるわけだ)
集い銘々にざわめく人外たちを前に、丙の首筋には幾筋かの冷や汗が伝っていた。
「しかしまあ、冷やかしと見える大御所様の多いことで。海坊主の奴なんて絶対何もする気ないだろう」
緊張を紛らすように丙はぼやいた。それはごく小さな声だったが、傍らの嶽木には届いていた。
「まあ『とりあえず』でもこれだけ集まってくれただけで僥倖ですよ。聞く耳も持たれない方がよっぽど問題だ」
「……だな。違いない」
自嘲するようそう言ってふぅと息を吐き、嶽木に向き直った。
「そういやお前さん、ブツは受け取ってきたのか?」
「ブツ? ああ……遊嬉ちゃんの刀か」
嶽木は思い出したように顔を上げ、それからどこか呆れ顔でこう続けた。
「もうすっかり拵まで完成したと聞いたから工房に行ったんだよ。だけど、なんでも急にいい号を思いついたとかで、茎に掘っておきたいから明日まで待てと抜かしやがった」
「なんだそりゃ。銘はともかく号なんて作ったばっかの刀に付けるかよっていうか掘るか普通? 紙にでも書いとけよ」
「まったくだよ。……まあ自分で名前付けたくなるくらいにはいい出来だったんだろ多分。それに茎に何かしたところで性能が変わるわけでもないからあの場では好きにさせとくことにしたけれど、明日になって別の理由で渡さんようなら奴を斬りますので後は丙がどうにかしてください」
「おう突然物騒なこと言い出すなよ。あちきを何だと思ってるんだ」
「火遠の師匠」
言って「だよね」と同意を求めて振り返る嶽木を、水祢が心底鬱陶しそうな目で睨み返す。
そんな姉弟の変わらぬ様子に呆れる丙は、けれども己の中の緊張がすっかりほぐれていることも自覚していた。
(変に気負ったって仕方ないな)
丙はすぅと大きく息を吸い、そして集った人外化生アヤカシどもの雑談を塞き止めるかのように声を張り上げた。
「今宵は御足労いただき感謝する! 私が【灯火】の丁丙だ! これより日本妖異総会としてかの重大案件についての告発並びに諸氏への要望を告知しようと思うが、――その前に」
注目を一身に浴びる中で丙は一旦言葉を区切り、辺り一面をぐるりと見渡して、それからフッと不敵に笑った。
「やはり紛れ込んでいたな【月】の諜報め。群に紛れさえすればあちきの目から逃れられるとでも思ったか」
睨みつけた丙の視線の向こうで、動揺の気配と挑発の気配が同時に立った。複数居る。
即判断して己の刀を抜き始めた嶽木と、鳥護符を広げ始めた水祢を横目に、丙も己の式鬼札を抜き、再び大衆に向けて声を張った。
「まだ会場の掃除が済んでいなかったようで! 少々失礼するよッ!」