――乗り切るから。がんばるから。待ってるから。
そう、ここからを始めるために。
乙瓜が火遠との契約を解除してから間もなく三週間を迎えようとしていた四月二十九日、水曜日。
学校生活としては新年度の諸行事を粗方終え、ゴールデンウィークを目前に控えたその頃。美術部と北中オカルト界隈では、目立って変わった事が一つ。
「……今日も特には異変はないようね」
「そうだね。不気味なくらいに」
定例会議の時間も終わり、表向きはもう誰も居ない事になっている生徒会室にて。裏生徒会の長である花子さんの呟きに応える、赤々と燃え盛る髪。だが、その主は草萼火遠ではない。
草萼嶽木。火遠の双子の姉。曲月慈乃の要望を承諾した彼女は、今もどこかで【月喰の影】に抗い続けている者たちに希望を与えるためだけにその姿をとっている。……尤も、末の弟にはすこぶる不評ではあるが。
肝心の本物の火遠は、未だ目覚めていない。彼を匿っている一ツ目ミ子の見立てでは、契約を解く前と比べて回復傾向にあるらしいが、それでもいつ目覚めるかまでは予測できていないのだという。かの夢見の娘・八尾異に聞けば「近く必ず目を覚ます」と言ものの、具体的な日時については彼女もやはり分かっていない様子であった。
いつでもいい。一日でも早く目覚めてほしい。火遠の姉として、嶽木はそう願う。それは彼女だけでなく、古霊北中で火遠を知る者たち殆ど全ての願いでもあることは言うまでも無い。
傍らに立つ花子さんをはじめとする裏生徒会の面々だってそう願っているし、美術部の、特に烏貝乙瓜は人一倍そうだろう。
(その為に乙瓜ちゃんは君に与えられたものを手放した。……手放したからって無関係でいられなくなるわけじゃないのにだ)
僅かに空いた窓から前庭を見下ろし嶽木は思った。早く帰ってこい、と。
その視線の先には、暖かくなってきたとはいえ未だ肌寒さ残るこの陽気の中で、運動部よろしく上下半袖半ズボンの体操着で何故か走り込みをする美術部三年、乙瓜と眞虚の姿があった――
「ラスト一周だよ! がんばってがんばって!」
「も、もう無理……、足ぃ……足がぁ!」
励ます眞虚にそう応え、乙瓜は前庭のアスファルトの道にそのまま膝をついた。
眞虚はその様を見てその場走りを止め、ふうと息を吐いてしゃがみ込み、乙瓜に視線を合わせる。
「もう! やるって言いだしたの乙瓜ちゃんだよっ? それにもうあと一周だけなんだから、ほら!」
ちょっぴり呆れたように言う眞虚に、乙瓜は荒い息で「ごめん」と返す。その左右を綺麗に避けて、吹奏楽部の一団が駆け抜けて行く。
吹奏楽部も美術部も同じ文化部に分類されるとはいえ、本来作品制作に気力体力を奉げてなんぼの美術部に走り込みをする意味など殆どない。いや、気晴らしやネタ出し、モチーフ探しの為などと言ってしまえば少しは納得できるところがあるだろうが、少なくとも今前庭に居るこの二人はその為に走っているわけではない。
曰く、修行。難しい理由なんてない、直球ストレートに体力づくりの為のランニング。運動部や吹奏楽部ならまだしも、美術部がわざわざ部活の時間にそれを行う不可解さを、近くに遠くに見ている生徒や教師たちは敢えて無視した。――なあに、この学校の美術部が変わっているだなんて今日に始まった話ではない、と。更に一部にとっては、またか、と。
「脱走したり物壊したりしてないならいいか」
その日珍しく様子を見に来ていた顧問教諭の呑気な呟きに、二年の間に妙に育ってしまった気がしなくもないモンステラをスケッチするふりをして外の二人を見守る遊嬉は、ケラケラと笑いながらこう答える。「今日は壊したりはしないですよー」と。
(いや、「今日は」って……)
傍から聞いていた明菜はそうツッコミたいのを堪えつつ、コンクールに出展する絵の構図をスケッチブック上に出していくことしか出来なかった。『壊れる』だなんて縁起でもないこと、もう当分はごめんである。
「かれこれもう二週間だっけ? 乙瓜も眞虚ちゃんもよく続くよね、スポ根。あたしら美術部だよ?」
窓辺のオリヅルランに水やりしながら杏虎が言う。その近くの机で珍しく真剣にスケッチブックと向かい合っている魔鬼は、そのままの体勢でこう呟いた。
「それだけ本気ってことじゃん? 口じゃあ弱音吐いてるけど」と。言ってふぅと顔を上げ、室内灯の下露わになったスケッチブックには、円形と文字記号で出来た図形――あからさまな魔法陣が途中まで描かれていた。
顧問が気づけば呆れ果てそうなそれを描く作業から一旦浮上した彼女は、疲れ目を押さえ伸びをしてからこう続けた。
「――こっちもたまーに便乗してるし、全く他人事ってわけじゃないしさ? 杏虎」
「まあ、それもそうだわな」
水滴滴る尖った葉をピンと指で弾いて、杏虎は前庭へ目を向けた。その両目に丁度再び走り出した乙瓜と眞虚の姿を捉え、杏虎は静かに頬を上げるのだった。
四月十日、烏貝乙瓜は草萼火遠との契約を解除し、護符の力を失った。安全であるという保証を失い、残るのは"影の魔"の力の末端を秘めたその身一つ。……だが、"影の魔"として、化け物として戦う方法を彼女は知らない。
否、本当は知っている。そういうものなのだと認識した瞬間から何モノにでも姿を変えられるその身は、乙瓜の心ひとつで鎧にも剣にも変わる。けれども本来はずっと写し取った人間の姿のまま己を人間だと信じて生きていく筈だった身。無理な変形を繰り返せば何が起こるかわからない。感情一つで再び崩れ始めるかもしれない。『烏貝乙瓜』の姿に戻れなくなるかもしれない。その可能性を指摘したのは丙だった。
――その力は危険だから極力留めておけ。契約を解除した後、ふと己の力を解き放つ事に思い至った乙瓜に、丙ははっきりとそう告げ、且つこう提案したのだ。護符の力を自分の力として再習得しろ、と。
「護符操術は何も妖怪との契約者だけに与えられる特殊技能じゃあない。そもそもあちきは誰にでも使えるように護符に起こしただけさ」
滞在する寺の縁側で彼女は乙瓜にそう語り、幾つかの護符を渡した上でこう告げた。
「勘を取り戻せ。借り物の力だとしても、護符を飛ばしていた時の感覚はお前さんの中に必ず残ってる。なんなら飛ばせる奴に聞くのが一番手っ取り早い。小鳥眞虚に聞け」
あちきは他にやる事があるからな。そう苦笑いした丙の背後ではビジネスマン風の眼鏡の男が表情一つ変えずにノートパソコンのキーボードをカタカタと叩き、わざわざ持ち込んだのであろう業務用と思しきプリンターが、当てつけのように何らかの書類を印刷しまくっていた。
斯くして乙瓜は護符の力を再習得すべく、護符に通ずる眞虚に師事を仰いだ。
それが二週間ばかし前の事で、至る現在。……彼女たちが握るのは、護符ではなく汗ばんだ各々の拳であった。どういうわけか。
「……今日も、なんとか、やり遂げたぁ……」
昇降口の玄関前に腰を下ろして両足を雄々しく左右に投げ出し、乱れた呼吸を整えながら、乙瓜は天を仰ぎ見た。その視界に広がる青々とした春の空は、西に落ちかけた日に照らされて僅かに黄昏の憂いを覗かせている。
(いつも通り平和、だな。今は、まだ……)
乙瓜は半ば放心しながらそんな事をふと思った。それとほぼ同時、水飲み場から戻ってきた眞虚が、乙瓜の隣にちょこんと座る。
「今日もお疲れ様」
労いの言葉をかけながら体育座りの腕をぐっと前に突き出して伸びをする眞虚に「ああ」と頷き、乙瓜は大きく息を吐いた。
彼女らが二週間ばかり続けているこのランニングは、見ての通り護符とは一切関係ない。それはそれこれはこれであり、火遠との契約の力が消えて機動力の落ちた乙瓜が自ら言い出して始めた体力づくりの一環である。
とはいえそもそも運動音痴でありいつ音を上げるかわかったもんではないと自覚している乙瓜は、その構想を美術部の皆に明かし、賛同した眞虚に護符操術を習うついでに付き添って貰っている……というわけだ。
ただ、今日の随伴走者は眞虚だけだが、その様子を見て感化された美術部員が時折気まぐれに走っている為、この走り込みはもはや美術部全体のイベントと言っても過言ではない。
――体を動かす事自体は良いことだ。しかし事情を知らない者からすれば単に不可解なその現象を、周囲は面白半分茶化し半分にこう呼んだ。――修行、と。
『美術部は遂に地獄の大魔王とでも戦うべく修行を始めたのだ』、と。まあ、概ね間違ってはいないが。
一方で、乙瓜が護符を飛ばす為の修行もまた行われてた。とはいえその光景については特に噂は流れていない。
当然だ。彼女らがそれをするのは学校でも、ましてや現世でもないのだから。
「ゴールデンウィーク、大丈夫そう?」
「多分。家族には海行った時みたいな感じで説明したし、引き留められることはないんじゃねえかな」
「そっか。よかったぁ」
乙瓜の返事ににっこりと笑い、眞虚はよいしょと立ち上がった。それから彼女がふと見遣った方向――武道館の前では、剣道部の鬼伐山斬子が後輩を指導しており、眞虚の視線に気づいて小さく手を振るのだった。
古霊町三大神社。八尾異の夜都尾稲荷神社に並ぶ、歴史と伝統ある神逆神社の神主一族の血を継ぐ娘。彼女こそが、秘密の修行の場所への鍵を握っているのだ。
誰にも邪魔されない場所――即ち、薄雪媛神の神域への。
「頑張ろうね。終わらせるために。火遠くんのために」
「…………ああ」
眞虚の言葉に頷き、乙瓜もまたゆらりと立ち上がった。