怪事廻話
第二環・環状返済リスタート⑤

「……なんで止めた」
 暗く沈んだ裏図書室のうろの中で、乙瓜は言った。
 彼女の振り下ろした鋭利な刃は眼球の寸前で動きを止めている。だがそれは乙瓜の意思に拠るものではなく、一ツ目ミ子の黒布の下から現れ出でた、長い長い絡繰カラクリの腕の成したことであった。
 ミ子の伸ばす二対の三本指の腕はそれぞれが乙瓜の腕の半分以下の太さにも関わらず、捉えた乙瓜の腕をがっしりと固定し、動かすことを許さない。
 そんな腕の主を恨めしそうにギロリと睨み、乙瓜は再び言った。
「なんで止めた。そうしろと言ったのはお前じゃないか」
 振り下ろす瞬間までの怖れなどとっくに忘れたように、むしろその感情全てをとげに変えたかのように言葉を吐く乙瓜を、ミ子は大きな一つ目でじっと見つめ返した。
 じっと、静かに。ピリピリと逆立った乙瓜の気配を飲み込むように。
 そんなミ子の目に見つめられ、乙瓜は徐々に落ち着きを取り戻して行った。ついカッとなっていた気持ちが冷めるのと並行して、尚も左目の寸前にぶら下がったままのカッターの刃を再び意識し目を背ける。
 ほんの数分前にしたばかりの決意はすっかり揺らいでいた。乙瓜は怖れを取り戻すと同時、それを恥ずかしいとも思った。
 けれどもミ子は言う。
「いいのです乙瓜さん。十分じゅうぶんなのです」
 ゆっくりと言い聞かせるように。
「十分って、俺はまだ何も……」
「…………」
 狼狽うろたえる乙瓜にそれは違うと首を振り、ミ子はそっと乙瓜の腕から手を放した。その間際にカッターナイフを回収する事も忘れずに。
 乙瓜は凶器と行き場を失った手を下ろし、呆然とまばたきを繰り返した。何故、十分なのかと。
 解放の安堵と何も成し遂げていない不安に入り乱れる疑問。それら全てがごちゃ混ぜになった視線の送られる先のミ子は、黒布の中に全ての腕を引っ込めた後で、改めてと言わんばかりにわざとらしく咳払いした。
「まだ何もしていない。そんな疑問をお持ちのようですが、それは違います。乙瓜さんはもうきちんと成し遂げています」
 そこまで言って、ミ子は火遠を振り返った。相変わらずそこに横たわるばかりで、目覚める様子のない彼を。
 けれどもミ子はそんな彼を見てふっと目を細める。笑うように。
「?」
 その理由がわからず首を傾げた乙瓜に、ミ子は再び向き直る。
「よく思い出してください乙瓜さん。火遠様と契約を交わしたあの晩、確かに貴女は火遠様の左眼を奪い・・ましたが、眼球そのものを取り換えたわけではないでしょう? ……返済すべきは火遠様に与えた感情。潰される刹那の一瞬の恐怖。貴女が火遠様に与えたものを、火遠様の為に貴女が受ける。それが貴女の方から契約を解除する為のバックドアだった」
 カチカチとカッターの刃が収められる。凶器としての力を大分削がれたそれが黒布の懐に納められるのを呆けたまま見届け、乙瓜は言う。
「俺と火遠との契約は解かれたのか?」
「ええ、さっぱりと。貴女が火遠様から与えられていた加護と身体強化、そして護符の力は失われました。右目の視力も戻っている筈です」
 確認しろとばかりに促すミ子に、五日は恐る恐る左目を閉じる。
 火遠との契約以来ものの輪郭をくっきりとは映さなくなって久しい右目は、覗き込む一つ目の女の顔をくっきりと鮮明に捉える代わり、ほとんど常に見えていた魚とも煮凝りともつかないモノを映すことを止めていた。
 乙瓜はぽかんとしながら両目を開き、次いで左腕を上げて制服の袖に目を向けた。腕と袖口の間の僅かな空間。差し込む右手の指先は何も引き出す事はなく、そこが元々そういった場所だという事を乙瓜は思い出した。
 おかしなものが視えない目、不思議なものが出てこない袖。本来それが『普通』なのに、なんだか変だなと乙瓜は思った。それが最初の感想で、喪失感は少し遅れてやってきた。
 ――終わったんだ。実に二年近くの間、ずっとあったものが途切れた。当たり前になっていたものが失われた。そのことを実感して、乙瓜の中には寂しさが広がって行った。
 じわじわと。紙の先から吸わせた水が、少しずつ染みわたっていくように。
「あのさ……」
 少し震える声で、呟くような小さな声で乙瓜は言った。これでよかったんだよな、と。
 放って置けば泣き出しそうなその言葉を放ってしまった後で、彼女はハッとしたように首を振った。
「いや……何言ってんだろな。こうするのを決めたのは俺なのに。それにこれは火遠の奴の為なんだから、今更になって後悔するとかおかしいよな……!」
 自分に言い聞かせるようにそう言って、乙瓜はわざとらしく笑ってみせた。そんな乙瓜に歩み寄り、ミ子は小さく首を振った。
「乙瓜さん、後悔は悪ではありません」
 はっきりそう言い切って、彼女は黒布からまた手を伸ばした。
 多くの物を持たずに生まれた彼女の為に、多くのことが出来るようにと与えられた腕。それは見た目こそ奇妙であったが、己を取りつくろおうと震える乙瓜の小さな肩を抱きとめるには、十分すぎるほど優しい腕だった。
「例えどんなに正しい事を行ったと思っても、どんなに覚悟を固めたつもりでも。後悔する事は誰にだってあります。私にも、火遠様にも。丙大師匠にだって。……貴女は火遠様のためとはいえ、大切なつながりを失いました。そしてそれを寂しく思っている。その気持ちを、誰が否定できましょう? だから――」
 泣いてもいいのですよ。そう言い聞かせるミ子の隣で、乙瓜はもう泣いていた。ぽろぽろと涙を零し、声も無く泣いていた。
 その頭をゆっくりと撫で、ミ子は続けた。
「けれど忘れないでください。まだ全てが終わったわけではありません。護符の力を失っても、貴女はまだ【灯火】と【月】の争いの中心に立っています。そして――火遠様もまだその舞台を降りてはいない。貴女方・・・は、今日この場の契約解除で終わってしまったわけではないのです。ここから・・・・を、始めなければならないのですから」
 ここから。その言葉にゆっくりと頷いて、乙瓜はその袖で乱暴に涙を拭った。
 何も終わっていない。幕引きにはまだ早く、その裾すら見えていない。
 事態はまだ動いている。全てはまだ廻っている。一抜けするにはまだ早い。
「なのにこんな危険な事をって、あいつ・・・怒るだろうな」
「ええ、きっと・・・
 苦笑いを浮かべる乙瓜にそう答え、ミ子は彼女から腕を放した。
 二人にはもう見えていた。が遠からず再び立ち上るであろうビジョンが。稲荷の巫女と違って予知の力なんてありはしないが、以前よりも確信を持ってそう思えるのだった。

「俺、一人でも乗り切るから。がんばるから。待ってるから。……絶対に間に合わせて来いよ」

 横たわる火遠の手を取り囁く乙瓜には、彼の顔が心なしか笑っているようにも見えていた――



「そう、選択をしたのね」
 コトリとティーカップを置き、彼女はゆっくりと目を開いた。
 闇を見つめる赤い血色の瞳。すました顔の中心で禍々しいその色を輝かせ、黒衣の魔女・ヘンゼリーゼはクスリと笑う。
 その笑顔の対岸の椅子に掛ける黒いロリータ服の少女――七瓜は、むっとしたような表情で魔女を見つめ、そして問う。
「戦う力を失って、乙瓜はこれからどうなるの」
「どうもしないわ。霊妖に対して有効的な攻撃手段を失うだけ。いざとなっても化け物・・・という正体を自覚した身だもの。簡単には死にはしないんじゃないかしら」
「…………」
 事も無げに言ってのけるヘンゼリーゼをキッと睨み、七瓜はおもむろに席を立った。
「……御馳走様」
「あらぁ。どこへ行くの?」
「…………わかってるくせに。古霊町よ」
 不愛想に答えた彼女の眼光は、同じ顔だけあってによく似ていた。その姿は、次の瞬間にはもうそこにない。
 転移の魔法の残した青い花弁が紅茶の上に浮かぶのを見つめ、ヘンゼリーゼはテーブルの上に行儀悪く肘をついて手を組んだアーチの上に顎を乗せ、また笑った。



(第二環・環状返済リスタート・完)

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