「奴らはそれを【七月計画】、と仮称しています」
「【七月計画】? それはなんとも……」
直球な名前じゃないか。ぼやくようにそう続ける嶽木に「ええ」と返し、彼は眼鏡をクイと上げた。
慈乃。所詮は趣味道楽と称しつつも各地を巡って妖怪事幽霊事を蒐集する過程で様々な人外のモノと出会った彼は、その独自のつながりを通じて【月喰の影】の動向を探っていたのだ。
「ですが名主の妖怪が【月】に従うと決めた土地で流れる噂からして、ほぼ確実な情報かと思われます。ごく少数ですが【月】を抜けた方々からもお話を頂けましたし」
「名主からって……やっぱりそんな土地がもうあるのか。よく無事だったね? 君たちも顔が知れているだろう?」
「そこはまあ隠密というか、変装と芝居はうちの狸たちの十八番ですから」
「芝居ねえ……」
嶽木は訝しむような目つきで周囲を見た。基本的には立入禁止の屋上には、見える限り嶽木と慈乃以外の人影はない。しかしふざけた風でいて主人が呼べば瞬く間に姿を現すあの兄妹狸は、今もどこかでこの場を見張っているのだろう。
(相変わらず油断も隙も無いというか)
まるで忍者だ、と嶽木は思う。否、まるでというよりは、かつてそのままの疑問をぶつけた時に目の前の少年が答えた事が全てなのだろう。
(だからって忍者の里が近かったからと言われてもなあ)
一旦の回想の中身に眉を顰めつつ、けれどもまあいいやと嶽木は会話を続ける。
「それはそうとして、離反者からの情報ってのは信用に足るのかい?」
「おや。そこを疑いますかい。それは僕という情報源もまた疑うという宣言になりませんかね? ……まあ、疑っていただいても結構なのですけれども。ただ、僕は彼らを信じていますよ。命からがら【月】を抜けた、数少ない証言者を。それはこちらにおいでの魅玄さんもそうでしょうし――水祢くんも。そうですよね?」
殆ど一息に言い切って、慈乃は試すように、どこか不敵に目を細めた。嶽木はそんな彼の視線を数秒じっと見つめ返した後、「わかったよ」と肩を竦めた。
「君まで疑っては何を信じていいのかわかったもんじゃない」
「改めてご信用いただけたようで何よりです」
くしゃりと笑い、慈乃はその場で一人舞うようにくるりと回った。幼い外見に反して図太くたくましいのが彼の強みであり頼もしいところである。きっと普段から誰に対してもこうしてぐんぐん迫る形で方々から情報を聞き出しているのだろう。
その様が容易に想像できてしまい、嶽木は小さく溜息を吐いた。その上で問う。
「世間話はこれくらいで。信用を再確認した上で改めて問おうか。【月喰の影】の【七月計画】、その内容を」
静かに吹いた風の中で、はっきりと響き渡るように。
その問いを受けて待っていましたとばかりに口角を上げた少年は、目に掛かりかけた前髪の一部を指先で払い、そして答えた。
「――最終計画です。古霊北中学校周囲の守護を打ち崩し、古霊大霊道の力を用いて既存人類を全て"影の魔"の分身に置換する。その最終目標達成の為の、最後の計画――謂わばあなたがたとの最終決戦へ備えた作戦指令のようなもの、らしいですね」
「つまり奴らには七月まで……或いは七月中に古霊北中を陥落させるヴィジョンが見えている、と?」
「断言はできませんが、おそらく」
「…………」
嶽木は難しい顔で口を結んだ後、呟くようにポツリと漏らした。なんで、と。
「なんで七月なんだ。そこまで計画ができているのなら、火遠のいない今この時だっていい筈じゃないか」
それは尤も且つ当然の疑問だった。否、嘉乃が火遠を打倒した上での計画達成を望んでいるからという、火遠の立てた推論もわからないでもない。計画の全てを水泡に帰す恐れのある【運命の星】の力は、嘉乃としては確実に潰しておきたいところだろう。――だが。
だからこそ不自然だと嶽木は思うのだ。計画の前に不穏分子を始末したいというだけなら、今すぐ仕掛けてくればいいではないか。
正直"影の魔"などという【灯火】にすら全容の掴めない強大な力を味方に着けた【月喰の影】を前に、火遠以外の敵は無いに等しい。だというのにも関わらず、何故今ではないのか。……否。一度大霊道の封印結界が完全に消えかけた【シールブレイク】で火遠を封印した十年弱の間、古霊町に対して殆ど何も仕掛けてこなかったのがそもそも不自然だったのだ。あの期間こそ奴らにとっての絶好のチャンスだった筈なのに――
考え込み、嶽木は益々険しい表情で俯いた。すっかり自分の事など見えていないかのような彼女を前に、慈乃は一度目を伏せ、小さく息を吐いた後で、静かにまた言葉を紡いだ。
「……一つ、僕が立てた仮説があります。【月】は最終計画の達成に際して、もしかしたら火遠の兄さんの力を利用しようと考えているのではないかと」
「利用?」
反芻する言葉の中に微かな殺気を感じさせながら顔を上げる嶽木に「はい」と頷き、慈乃は続けた。
「草萼火遠と曲月嘉乃、二人の歴史を辿ってみれば、決別の分岐点は二人が直接相対する前――あの恐ろしい炎が世界で初めて無辜の民に向けて投じられた日にありました。あの日あの場所に立った火遠の兄さんは、怒りと悲しみに任せてこの世界を無に帰す寸前まで行き、一人の少女に救われた。……けれども嘉乃は救われなかった。人間と、同胞と。大勢の断末魔を呆然と聞いている他無かった彼は願ってしまった。愚者の炎をも超越する破滅の光の一端に。それが後の宿敵になるとは知らぬまま」
「願った? 何を――」
「世界の救済と破滅を」
大それた言葉をさらりと吐き、慈乃は少し寂しそうに表情を歪め、西日の中で掠れ行く空の青に目を向けた。
「あの人は優しかった。だからあの瞬間、地獄のような今の世界の終わりと再生を願った。しかし世界は変わる事無く存続し、それどころか願った相手は世界をどうするつもりもないと言う。願いは悲しみへ、憧れは憎悪へ。されども何の力も持たないあの人は己の理想とする世界の実現と、己を裏切った彼への復讐の為に歩き出した。――ねえ、嶽木さん」
どこか詩を読むような長い語りの後で、ふと慈乃は言った。嶽木を振り返る事無く。嶽木もまた慈乃を見る事無く、彼と同じ空を見上げながら大きく溜息を吐いた。
彼女にはもう分かっていた。慈乃が何を伝えんとしているのか。だから彼が先に言葉にしてしまうよりも早く、その最悪の仮説を口にする。
「……つまり、火遠の【星】の力を今度こそ解き放たせようとして……あるいは奪い取る策があるとでも?」
問う声は恐ろしく冷静だった。そこに怒りも焦燥もなく、嶽木本人すら驚くほどに。
慈乃は数秒の間を置いてゆっくりと嶽木に向き直り、「あくまで僕個人の推測です」と強調してから話を続けた。
「本当のところはわかりません。ですが……今年、皆既日食がある事はご存知ですか?」
「…………ああ。でもこの辺りじゃ部分日食しか見られないとかいう」
「ええ。完全な皆既日食はこの日本だとトカラ列島や奄美大島をはじめとする限られた島々でしか観測できないと言われていますが、東京でも七割から八割、遠く札幌でも四割程度の分部食になるそうです。そしてその日食が起こるのが……七月二十二日」
「七月……、七月?」
「そうです。七月なのです」
ハッとする嶽木にはっきりとそう答え、慈乃は言葉を続けた。
「古の信仰から遠ざかりつつある現代の多くの人間にとっては希少な現象でも、僕たち妖怪や術師たちにとっては日月の動きは重要です。特に月名乗る影の巣食う今のこの日本で。影となった月が輝く炎の星を削り取るだなんて。……絶好の打ち崩し日和だと思いませんか」
眼鏡の奥の眼光鋭く、少年の姿の筆記者は言う。
「更に言えば二十二日は新月です。月立ち、朔日。新しく何かを始めるにはうってつけではないでしょうか」
「……その日を狙って仕掛けて来るのはほぼ確定、というわけかい?」
「くどいようですがまだ仮説です。あくまで」
強調するようそう言って、慈乃は再び眼鏡の位置を直し、それからどこか寂しそうに呟いた。
「あの人の考えていることの真実なんて、僕にはわかりっこありません。……いつだって」
言って、大きく息を吐く。まるで体中に張りつめていたものを開放するように。
それが合図だったかのように、嶽木もまた空を睨んでいた目を瞑り、休ませるように掌で覆った。
「貴重な情報ありがとう」
「どういたしましてですよ。嶽木の姉さん」
小さく礼をする慈乃の姿は嶽木には見えていない。だが、そんな事は見ればわかることなので慈乃は気にしないし、この場には他にとやかく言う輩もいない。
太陽はますます傾き、屋上から見える背の高い木の向こうへと消えようとしている。また一つ風が戦ぎ、前庭の国旗と木々の枝葉、二人の髪を微かに揺らした。
校庭を駆ける生徒たちの姿は元気溌剌そのもので、そこから遠からぬ場所で自分たちの命運を分けるかもしれない話し合いがあっただなんて誰も微塵も気付いた様子はないし、想像すらしていないだろう。彼らのみならず、大人さえも。
様々なものが環境音として流れ去った数十秒の沈黙の後、再び目を開け顔を上げた嶽木に慈乃は言う。
「嶽木の姉さんに折り入って頼みがあります。暫くの間火遠の兄さんの代わりを務めてほしいのです」
「……なんでまた? 【月】にはとっくに火遠が倒れたと知られているだろうに」
「はい。……ですが、これから【灯火】に、貴女方に付いてくれるかもしれない、未だ決めかねている人外や、どこかで【月】に抗い続けている同胞を勇気づける標として。……今頃下で行われている事を思うに、兄さんの目覚めはそう遠くないでしょうが、それまでの間だけ。一時お姿をお貸しいただけたら、と」
まじまじとそう言って、慈乃は続けた。
「貴女には出来る筈です。火遠の兄さんから【運命の星】の力の一端を受け取った貴女になら」
「…………」
嶽木は答えなかった。それどころかどこか不機嫌そうに顔をしかめた。だが慈乃は引き下がらない。
「遠い昔、貴女は実の姉の異怨さんに殺された。けれども火遠の兄さんから受け取った何かの力で生き返った。不死身めいた身体となって」
違いますかと振り向く慈乃に、嶽木はやはり肯定も否定も返さなかった。だが、彼の話は殆ど真実だった。
嘗て――嶽木らのきょうだいが四人だけではなかった頃。同族の妖怪として群れを成して暮らしていた頃。
一番上の姉によって隠されていた大姉がいた。正気を失くし、その眼に映る生きとし生ける者全てを食べ物としか認識しなくなった名も無い大姉が。
もはや同族の人外から見ても化け物としか称す他ない彼女を、殺しても死なない彼女を、一番上の姉はずっとずっと匿っていた。化け物であるが故に。――愛しているが故に。
だが、秘匿されていた彼女の存在を暴き、解き放ってしまった者がいた。……嶽木だった。
自由となった大姉は嶽木を食らい、同族の姉妹たちを食らい、一番上の姉を食らい――駆け付けた火遠に斬捨てられた。
だが、その頃には姉妹の群れは殆ど全滅していた。初めに襲われた嶽木もまた身体の殆どを食い荒らされ、しかし辛うじて少しだけ生きていた。
辛うじてだ。手を施そうが施すまいが、最早命は風前の灯火だった。そんな姉を抱え上げ、火遠は何かを与えたのだ――
「それが【運命の星】の力の一端だったのでしょう? 現に貴女の新緑萌ゆる髪もまた火遠の兄さん同様、他の同属とは大きく異なる。だから貴女になら」
出来る筈。真剣な表情でそう告げる慈乃を見つめ返し、嶽木は無言のまま肩を竦めた。
(……昔話の出典は十中八九あいつだろうな。あとでシメておかねば)
何も知らずに眠ったままの彼の姿を思い浮かべ、嶽木は怠そうに首を一揉みした。
「あんまり他者のプライバシーに言及すると嫌われるよ」
「よく言われます」
悪気なさそうにニヒヒと笑う彼を見て、諦めたように溜息を一つ吐いて。嶽木はやれやれとばかりにこう答えた。
「仕方ないね。ただしいずれこの『依頼』の代金は頂くからね。――曲月慈乃」
不満ありげに彼女が睨む先で、因縁の名を持つ少年は少しだけ困ったように微笑むのだった。――嘉乃兄さんを倒してからでいいのなら、と。