その場所に至る方法は、とっくの昔に示されていた。
図書室入口横の貸し出しカウンター。今はもう卒業してしまった鳩貝秋刳がかつて語って聞かせた通り、そのカウンターの机の裏には一枚の札が貼ってあった。
用もなければ貸出係はおろか掃除担当すら覗き込まないであろう、完全な死角。乙瓜はそこへ潜り込むと、僅かにめくれている札の角に指をかけ、つまんで一思いに引き剥がした。
ぺりぺりと。糊付けしたものを剥がす音が静かな図書室内にやけに大きく響くと同時、乙瓜を取り巻く空間もまた、壁紙を捲るように姿を変えた。
静かに本ばかりが並んでいた図書室は、厚雲の中に放り込まれたような、靄がかった白の空間に変わり。本棚も机もカウンターも、そこに置かれていたあらゆるものが乙瓜の前から姿を消した。
一変した周囲を見渡し、乙瓜はゆっくりと立ち上がる。
裏図書室。古霊北中学校図書室の裏に寄り添うもう一つの空間。彼女がこの場所を訪れるのは、これが初めてではなかった。
ここには、火遠がいる。他の妖界と異なり術符を用いて意図的に作られたこの空間は、入口となる札の存在を知る者しか踏み入る事ができない。――故に。あの日倒れた草萼火遠は、それからずっとこの場所に匿われていたのだ。
失踪前、乙瓜は何度かここを訪れて、その度に全く目覚める気配のない火遠の姿を目の当たりにしてきた。
――やろうと思えばなんだって出来るということは、きっとこの世界を意のままに変える事も出来るだろう。……けれども、それじゃあ嘉乃のやろうとしている事と変わらないじゃあないか。
かつて火遠はそう言った。しかしその信念を曲げてまで乙瓜と七瓜を助ける事を選択した。
ある筈の無くなるものを「ある」と、無い筈のないものを「ない」と証明する矛盾。その矛盾は火遠自身に跳ね返り、その身から燃え盛る炎を奪った。
(自分なんかを助けようとしたばっかりに。……いや)
再び頭を過った自己否定の念に首を振り、乙瓜は裏図書室の澱んだ白の中を歩き始めた。……足取りに迷いはない。どこへ向かうべきかは既に分かっていた。
不明瞭な視界を進み、度々靄の中から現れる、無重力気味に浮かぶ本棚を避けながら。やがて辿り着く暗く窪んだ洞のような場所に、彼と彼女の姿があった。
相変わらず眠り続ける草萼火遠。その傍らで闇に紛れるかのような黒布を身に纏った小柄な影、一ツ目ミ子。
「そろそろ来る頃合いかと思っていました。乙瓜さん」
ミ子はペコリと頭を下げると、その名の通り大きな一つ目でギョロリと乙瓜を見上げた。初対面の相手なら多かれ少なかれ驚くその容姿であるが、三月の事変の後で一度会っている乙瓜としては、今更特に驚くことはない。
寧ろ臆することなく視線を向ける乙瓜に、ミ子は言う。
「そんなに睨まないでください。わかっています。遊嬉さんに聞いてきたのでしょう? 私が火遠様を目覚めさせる方法を知っていると」
睨まないで。そんなミ子の言葉に、乙瓜は初めて自分が険しい表情をしていた事に気づいた。
(いつから……いや、そんな事はどうでもいい。わかってるんなら話が早い)
僅かな動揺の後、乙瓜は改めてミ子の顔を――異様に見えている面積が少ないが――見つめ、思い切って口を開いた。
「……教えてくれ。火遠を目覚めさせる方法があるんなら」
「…………」
ミ子は少しの間沈黙した後、ゆっくりと頷き、それから乙瓜に向けて一歩、歩み出た。
「まず……以前申し上げましたが、火遠様は乙瓜さんたちが何もしなくとも、時期が来れば目覚めます。それが明日になるか、それとも来年よりも先になるかはわかりかねますが」
「そんなことはもう知ってる」
「ええ。こちらもそれは承知しています。ですので、何かするという前提で。『火遠様を目覚めさせる方法』を。これからお教えしたいと思います。――その前に」
と、ミ子はふと、眠ったままの火遠に目を向けた。乙瓜もそれを追いかけるようにして火遠を見る。
炎を失い、変わり果てた緑の姿でそこに横たわる契約妖怪の姿に、再び眉間に力が籠る乙瓜の前で、ミ子は再び言葉を続けた。
「話しておかなければならないことがあります。これから私が言う通りの方法を実行する事によって、貴女は大切な物を失います」
「大切な物……?」
「戦う力と、火遠様との繋がり。即ち、火遠様との契約とそれによってもたらされる力や恩恵全てを、貴女は――」
失うのです。と、ミ子は乙瓜に振り返った。その単眼と目を合わせ、乙瓜はゴクリと唾を呑んだ。
「契約を解除すれば、火遠は元にもどるのか……?」
「はい。というのも、火遠様は今も貴女に無意識下で力を与えています。貴女がどこにいても、貴女を貴女として承認し、貴女の存在を守るために、ご自身の力を流出させ続けているのです。ですので、その繋がりを遮断します。結果流出していた力が火遠様の中で循環するようになるのであれば――」
「火遠の回復が早まる……」
「そうです。それが私が想定している『方法』です」
尤も火遠様本人は、この方法を是とはしないでしょうが。そう続けたきり口を閉ざし、ミ子は決断を迫るような視線を乙瓜に向けた。聞いた上で貴女はどうしたいのですか、と。
無言の問いかけを前にして、目を瞑って乙瓜は思う。
あの日――始まりの日、火遠と初めて出会った日。あの時結んだ契約はそもそも怪異として生まれながらその事をすっかり忘れてしまっていた自分を守り、導いてくれた。
そもそも【月喰の影】の駒だったというのに、上手い事懐柔されたといわれればそうなのかもしれない。けれども時に恐ろしく時にくだらなく、何も知らないままだったら絶対に出来なかった仲間と経験を得て現在に至る自分がいるのは、間違いなく火遠のおかげだ。
悪態をついたときもあった、不満を漏らした時もあった。思い返してみれば火遠にもデリカシーの無い所や、小馬鹿にしているようにしか感じられない態度を取られたりもしていたけれど。……それでも、火遠と居た時は確かに楽しかった。
与えられた護符の力に助けられた。
自分ではどうしようもできない危機から助けられた。
消えるはずの運命から、再び存在を与えてもらった。
(そう。だから、俺は)
すぅと開かれる、乙瓜の瞳に迷いはなかった。それを見たミ子は黒布の隙間から小さく笑うように息を漏らし、先程よりも僅かに優しい声で問う。「心は決まったのですか?」と。
その柔らかい問いにコクリと肯定を返し、乙瓜はまっすぐにミ子を見た。
「今に至ってしまった以上、裏図書室に来てしまった以上、俺の選択は初めから決まってた。……その再確認をしただけだ」
「火遠様が次に目覚めるまで、【月】が攻めて来ても戦う力の全てを無くすのですよ。遊嬉さんも刀を失っている最中です。……いいのですか?」
「かまわない。ていうか護符がなくたってどうにかするし、俺は魔鬼や他のみんなの力を信じる。そして今はとにかく、火遠に早く目覚めて貰わないといけない。そうだろ?」
「……そうですか」
一つ目女は静かに目を閉じて、どこか呆れたように長く息を吐いた。
(火遠様。貴方の選んだ彼女は自分勝手で臆病で、けれども私が思っていたよりもずっと良い子でした。……貴方は間違っていなかった。だから、もし目覚めても。あの子の決断を愚かと一蹴しないでやってください)
心の中で届く事ない報告をし、ミ子はその目と口を開く。
「――それでは、貴女と火遠様の間にある契約を解く方法をお教えします」
契約解除。救ってもらった恩を返すため、烏貝乙瓜は繋ぎ止められた手を放す。
自分はもう大丈夫だからと。これ以上自分の為に身を削ってくれなくていいと。
――だから。
決意を固めて唇の内側を噛む乙瓜を、一つ目の女はじっと見据えて言葉を紡ぐ。
「火遠様はご自身に何かあった時の為に、貴女の側から契約を解く方法を用意し、初めから暗に示していたのです。……先の襲撃において貴女を乗っ取った曲月嘉乃が、最後までそれに気付かなかったのは不幸中の幸いとも言えます。その方法は――」
その方法は。一拍の間をおいて、彼女は言った。
「始まりの日。貴女が火遠様から奪ったものを返すことです。貴女が潰して取り替えることになった、火遠様の眼を」
物騒とも取れる言葉を。そして言葉と共に差し出されるのは、洞の外から零れ落ちた光を受けて鈍く輝くカッターナイフ。二年前、乙瓜が火遠に突き刺したのと同じ凶器。
意思確認はもうなかった。そんなものは先刻終わっただろうとばかりに、赤く大きな目玉は乙瓜を見上げていた。だから乙瓜もまた何も言わない。
ただ黙って受け取ったその刃をチキチキと繰り出し、乙瓜は思う。――あいつはあの夜あの瞬間、何を思ったんだろう。
(怖い? 痛い? ……いいや、どうだっていい)
この程度で禊になるのならば。この程度で償いになるのならば。
くるりと己に刃を向け、乙瓜は思った。
ああ、怖いな――と。
「お見舞いはありがたいけど今頃取り込み中だよ」
西日差す屋上の手摺に膝を立て、草萼嶽木は背後の客人にそう告げた。
「おかまいなく。今が駄目でも待ちますから」
客人はさして気にした風もなくそう答え、しゃがみ込む彼はしぶとく生える雑草の頭をツンとつついた。
「それにですね、僕はただお見舞いだけに来たわけではないのですよ。来たる戦いの時、奴らの最終計画を――」
「リークしに来たわけだ」
ゆっくりと嶽木が振り向いた先で、彼は――慈乃はにこりと首を傾げた。
「ええ。全くその通りです」と。