鬼伐山斬子が何者かと問われれば、当人は「八尾異よりはよっぽど凡人である」と答えるだろう。
生まれこそ古霊町に古くから続く神逆神社の神主一族の血を引くものではあるし、しばしば巫女として神社の仕事を手伝いもするが、神懸かり的な奇跡を起こしたことなんて一度もないし、読心・未来予知なんて芸当、当然出来るはずもない。
一つだけ、特筆して人と違うことがあるとするならば、自分たちの神社で祀っている神様――薄雪媛神が視えることくらいである。
この世ならざるモノを視る力。
とはいえ、彼女に視えるのは薄雪一柱だけであり、それ以外の神々や霊・妖怪の類に関してはさっぱり。あって精々、嫌な気配には他人より少しだけ敏感なくらいだ。
故に昨年五月・杏虎と共に巻き込まれた鵺襲撃の件は、彼女にとってよほどの異常事態だったのだ。
神様は、まあ居る。けれどこの町でまま聞く幽霊話や妖怪話はどこか遠い、それこそ『おはなし』の中の出来事で、まさか自分が巻き込まれる筈がない。そんな風に認識していた彼女の常識は、あの出来事をきっかけに見事に塗り替えられた。
害意を持った本物の怪異をその目で初めて視てしまった。ねっとりと纏わりつくような薄ら寒い気配と、相対する恐怖を覚えてしまった。そして――美術部が、噂の通りそんな化け物と戦っていて、打ち倒す力を持っている事を知ってしまった。
……とはいえ、知ってしまった自分がどう変わるわけでもない。あれから斬子の周囲で少しだけ事件があったが、元々持っている以上の特殊能力に目覚めるなんて事もない。
だが、『身近にいる不思議な隣人』程度に思っていた薄雪から事情を訊き出す事くらいは出来る。それまで話半分に聞いていた『昔話』という名の伝承を。今古霊北中で何が起こっているのかを。
そうして鬼伐山斬子は知った。美術部が何の為に怪事を解決するのか。何に巻き込まれ、何と戦っているのか。……そして。
大霊道が何故生まれ、代々それを封じ護って来た筈の古霊四大寺社――その中でも最も古い神逆から大霊道封印の秘術が失われたのか。
「真に失われたのは書物でも口伝でも祭具でもない。……人間じゃ。儂らと交信して心通わせ、現世にてその力を受容するだけの力を持った人間が、ある時期からめっきり減ってしまったのじゃ。……そして、儂ら自身の力も」
夜の闇が電子の灯りで隈なく照らされるようになり、人々中から闇への恐怖を薄れさせた。それに伴うように目に見えざる者への畏れ敬いも少しずつ軽視されるようになり、今まで神霊や妖怪の仕業とされていた幾多の事象が科学という名の光に照らされ、その秘めたる原理を暴かれて行った。
怪しい事は、人知の及ばぬ現象でもなんでもない。幽霊は錯覚であり、神や妖怪は自然災害や現象の擬人化である。どんなことにも必ず何かのタネがあり、仕掛けがあるのだと――
『それは決して悪い考えではないじゃろうし、皆が皆神仏を信じなくなってしまったとも言わぬ。だが、な――』
スキー合宿前の冬休み、薄雪は斬子を前にそう呟くと、どこか寂しそうに笑っていた。
そこから一月余りが過ぎた頃、北中は【月喰の影】による初の同時多発的な攻撃を受ける事となる。
大半の教師生徒が外部からの攻撃を受けた事すら気づけなかった、二月十三日の事変。気付いていたのは美術部と学校妖怪と、ごく少数ながら存在する"霊感持ち"。そして、事情を知ることで認識妨害のまやかしから逃れたもの。斬子もその内の一人だった。
あの異様な光景を、彼女は何もすることも出来ずに見つめていた。続く三月三日の事変でもそうだ。彼女は何も出来なかった。
……仕方のない事と言ってしまえばそうだろう。いくら武道の心得があったとて、飛び込んで行ったところで自分に何が出来ようか。
だから……彼女は羨ましかった。三月三日の大混乱の中、窮地の美術部を救う為に動くことが出来た者のことが。自分と違って神も仏も霊も見る事が出来ないのに、そもそも特別な力なんて何一つ持ち合わせていないのに。何かを成そうと動いた王宮や天神坂、馴染みの薄い後輩二人と、幸福ヶ森幸呼の事が羨ましくて、――悔しかった。
後に彼らにそうするように促したのが八尾異……兼ねてから社祭第二小学校の霊感少女として一部の生徒の間で妙に崇敬されており、神逆・夜都尾・童淵から成る古霊町三大神社の横のつながりで、斬子自身の幼馴染である彼女であった事を知るも、……だからどうしたと云うのか。
『異は特別だから』、……それは違う。
彼女は動く事を選択した。自分は動く事を選べなかった。そして自分は後悔した。
事実は、それだけ。
――故に。
烏貝乙瓜らがこっそりと謎の修行を始めた事を知った時、斬子は思った。もしかしたら、これが私に出来る事かもしれないと。
直感を胸にお伺いを立てた祭神は、蹄の手で器用に持った湯呑の中身を一啜りし、それからコクリと頷いたのだ。
「それがお主のやりたい事ならば、儂からは特に反対する理由はない。……いいじゃろ。神逆神社の神域の使用を許可する」
神域の時間経過は現世とは違う。無い時間を縫って何かの研鑽に励むにはもってこいであり、更には人目を気にする必要もない。まさに絶好の修行場所だった――
そして至る現在、五月二日土曜日。
天気は快晴。正午を回って気温は25度を超え、ゴールデンウィークの始まりとしては絶好の行楽日和を迎えたその日の神逆神社の境内には、普段より多めの参拝客の姿があった。
参道や拝殿周辺が騒がしすぎず喧しすぎずの賑わいを見せる中、美術部六人もまた神逆神社を訪れていた。
あまり人の寄り付かない、そもそも許可なくば入ることの出来ない本殿の前。
ただ参拝に来たにしてはやたらと大荷物な彼女らの目的は言うまでも無く一つ。修行、それも合宿である。
そのはじまりは、乙瓜と眞虚の間だけでの計画だった。
乙瓜の護符の勘を取り戻す為、それまでも斬子の協力の下神域内でのリハビリ的修行を行っていたのだが、どうせならゴールデンウィークの連休を利用して徹底的に行おうという話になり、それを聞きつけた魔鬼や杏虎らが「どうせなら自分たちもやりたい」と言い出し……最終的には美術部全員参加の強化合宿の形となったのであった。
彼女らの荷物の中には、それぞれ数日分の着替え。そんな彼女らを出迎えるのは神社の鍵を預かる斬子と、もう一人。
「お前自分のところのはいいのか?」
「ぼくじゃなきゃ出来ない仕事なんてありやしないから平気だよ」
乙瓜の問いにケロリと答える八尾異。夜都尾稲荷神社の巫女。
さも当然のようにこの場所に来た彼女は、「どうせ暇だったしね」と宣いながらクスクスと笑った。そして呆れる乙瓜をスルーした上で斬子に向き直る。
「別にいいだろう? それに神域に関してはぼくに一日の長がある。それに」
ぼくも最後まで見届けたいしね。――見透かすように、否、事実見透かしているのか。ニコリと微笑む幼馴染に対し、斬子は少しムッとしてみることで返事とした。
「まあまあ。今更見学が一人二人増えたところで特に支障はないでしょ」
「……悪かったな見学で」
遊嬉が言いながら視線を送る先で、今回はついてきた深世が唇を曲げる。
彼女の背負う他の誰よりも大きめのリュックサックの中には、数日分の着替えの他に受験対策の参考書やら幾つかの漫画本にスナック菓子等、彼女が思いつく限りの暇つぶしの道具がぎっしりと詰め込まれている。それは戦えない彼女なりに他五人に付き合うという意思の表れでもあった。――彼女も覚悟を決めたのだ。
そんな深世の傍らで、杏虎がコキリと指を鳴らす。遊嬉は「早く行こう」とばかりの表情で腕を組み、魔鬼は魔鬼でバッグに収まりきらないほどの何に使うか分からない道具を抱え込みながら、きりりとした表情で斬子らを見据えている。皆気合十分といった様子だった。
きっかけである乙瓜と眞虚も、もうすっかり心の準備は整っていた。
斬子はその一人一人の面構えを見てフッと微笑み、それからキッと眉を上げて宣言した。
「――行くよ。お願いします、薄雪様」
僅かでいい。自分には太刀打ちできない何かと戦っている彼女たちの為に、少しでも力になるために。
それがきっと、鬼伐山の血を引く者として、大霊道封印の秘術を失くしてしまった者として。今、自分がしなくてはならない事なのだと、宿命なのだと信じて――