参道まで辿り着いた魔鬼は、一旦近くの空き地に自転車を停めた。
ハレの日には本当に古霊町かと疑う程の盛況を見せる参道には、今日は敢えて時期を外した十人足らずの観光客と思しき人々と、他は地元の老人が三人ばかり木陰で語らう長閑な光景が広がっている。そんな参道を進み、長い長い階段を昇り。やっと境内に辿り着いた時、果たしてそこには魔鬼が想像した通りの彼女の姿があった。
「魔鬼ちゃんが勘が良い方で助かったよ」
学校での姿とはまた違う印象を与える着物を纏った彼女――八尾異は、言ってふっと微笑みながら袂からなにか細長いものを取り出した。というか、それは学校でも使うシャープペンシルだった。
異がそのノックボタンのキャップと消しゴムをおもむろに外すと、芯タンクに通ずる狭い穴の中から白い何かがにょきりと姿を覗かせる。
それに一瞬ギョッとした魔鬼だったが、尚もペンの中からニョロニョロと身を伸ばすそれをよくよく見て、どこか安心したように、そして少し納得したように「ああ」と漏らす。
「なんだっけこれ。管狐ってやつ?」
と、魔鬼が人差し指で示したにょろにょろの先端には、先程の道で見た狐の頭と足があった。
「ああうん。流石は美術部だけあって説明は要らないみたいだね」
異はコクリと頷くと、己にじゃれつくように身を擦るそれ……改め、管狐の頭を捕まえて、猫を手懐けるようによしよしと撫でた。
「ご明察の通り、この子はぼくの飼ってる管狐。ちょっとしたことに使えるから、普段からペンの中に入れて飼ってるんだ。いまさっき魔鬼ちゃんを呼んだみたいにね」
言って軽くペンを振る巫女とどこか笑っているような使役魔を見て、魔鬼はしかし単刀直入に言う。
「私に何の用だ?」
と。異は一時キョトンとした後、またいつものように読めない笑みをその顔に浮かべた。
「そうだね。君にとってはそっちの方が大事な話だ。勿論ぼくにとっても」
言ってくるりと踵を返し、異はちょいちょいと手招きする。
「立ち話もなんだし上がっていきなよ。飲み物くらいは出すよ」
「…………」
背後を振り返る事無くスタスタと歩き出した彼女の背をジトリと見つめ、魔鬼は思う。
先の件では異が居たから助かった部分も大きいし、感謝もしている。……けれどそれを差し引いても未だ怪しさの残るこの巫女を、どこまで信頼していいものか、と。
(感謝はしてるんだけどな……。妙に色々知りすぎてて逆にイマイチ信用できないっていうか、そういうとこ昔から苦手なんだけどな……)
魔鬼は数秒考え、でもしかしと頭を振る。苦手だろうがなんだろうが、それでも行かない事にはなにもわからないのだ。彼女が何故自分を呼んだのか、何を話したいのか。
そう思い直し、魔鬼も遅れて彼女の後に続いた。
境内を超えて案内された八尾邸は、魔鬼が過去に尋ねた事のある友人・知人宅とは明らかに一線を画す雰囲気を漂わせている立派な和風建築だった。
思えば小学生以来の苦手意識から一度も異の家を訪れたことが無かった魔鬼は、妙に落ち着かない心持でやたらと広い家の中をキョロキョロと見回してしまった。
そんな魔鬼の様子に気づいたのか、異は言う。
「集会所も兼ねてたから広いだけだよ。日常的に住んで使ってるところはそんなに多くないかな」
「ふ……ふぅん」
くるりと振り返る彼女にそう答え、けれど心の中では「いや普通は自宅が集会所にならねえよ」と魔鬼がツッコむ中、異の足は縁側へと向かう。そこからは狭いながらも玉砂利の敷き詰められた庭があり、小さな池には鯉まで泳いでいた。しかも鹿威しまである。もはや妖界なんかよりもよほど異界であった。
だがそんな異界を超えた果てにあった異の部屋は、存外普通の六畳間だった。
ある意味失礼な拍子抜けをしている魔鬼の前で、異は押入れから座布団を二枚持ち出し、ぽいぽいと畳上に敷いた。
「まあ座りなよ」
促されるままに座布団に座る魔鬼と入れ違いに、異は再び部屋の外へ行ってしまった。勝手も知らない他人の私室に一人取り残された魔鬼は、寛げない気持ちのままに室内を見渡し、すぐにあるものに気が付いた。
それは一枚の写真。おそらくは勉強机代わりなのだろう、古めかしい文机の上に置かれた写真立ての中には、年代を感じさせる白黒の写真が飾ってある。
どう考えても異自身を写したものではないそれが気に留まり、魔鬼はゆっくりとそれに近づき、写真立てに手を伸ばした。――と、その時。
「ああそれ、若い頃のお婆ちゃん」
「!」
唐突に掛けられた声に、魔鬼はびくりと肩を震わせた。否、唐突もなにもあるまい。それは戻って来た部屋の主の声だったのだから。
魔鬼がばっと振り返る先には、なにかグラスに注がれた飲み物と菓子鉢を盆にのせた異が立っていた。彼女はそれらを床に降ろしながら、事も無げに「美人だろう?」と続ける。
てっきり「写真触らないで」といったふうに続けられるものかと思っていた魔鬼は、ポカンとしながら改めて写真を見る。身内ゆえの贔屓目というのもあるのだろうが、確かに写真の中の女は整った顔立ちだった。そしてなにより――。
「この顔……」
呟き、魔鬼は思い出す。乙瓜を攫われたあの日に見た、【月喰の影】の女幹部・琴月亜璃紗の顔を。眉間に皺が寄るのを感じながら。
そんな魔鬼に異は言う。
「そういえば魔鬼ちゃんたちにはそのへんだけちゃんと話してなかったね。ぼくのお婆ちゃんも影を取られたんだ。あの女にね」
君たちよりほんの少しだけあれらに詳しいのはその為さ。そう続けて、異は自ら招いた客人より先に半透明の飲料に口を付けた。
そして再び振り返った魔鬼の視線に気づくとニコリと笑い、グラスを置いて襟を正してから「さて」と切り出す。
「色々あったわけだけれど、未だ君がぼくに対して疑念と苦手を感じている気持ちはわからないでもない。だけども、呼んでいるのがぼくだと思いつつもここまで来てくれたのは、少なからずぼくに期待することがあったからだと自惚れておくよ」
「…………」
――いや、自惚れとか自分で言うかな。魔鬼はそう思いはしたものの、しかし黙って座布団の上に戻った。……実際当たっていたのである。異の指摘も。魔鬼の思惑も。
「……何を知った?」
「君が一番知りたいこと」
にべなく尋ねる魔鬼にそう返し、顔に架かる髪をスッと払ってから異は続けた。
「いっちゃんの居所がね、わかるかもしれない。現世外の正確な位置が」
その言葉を聞くや否や、魔鬼の両目はカッと大きく見開かれた。
驚愕に、或いは怒りの手前にも似た表情を浮かべ魔鬼は異に向けて頭二つ分ほど身を乗り出す。
「どこッ!? 乙瓜はどこにいるのさッ!?」
「まあ落ち着いて落ち着いて」
興奮を隠しきれない様子で早口に問う魔鬼に対し、異はあくまで冷静に言う。
「まだ『かもしれない』のところ。やっと尻尾が見えて来たあたり。掴むのにはもう少しだけかかる」
諭すように言う彼女に魔鬼はハッとしたように大人しくなり、代わりにどこか拗ねたような視線を異に向けた。
「……どういう意味だよ?」
「夢の話さ。最近また視えそうなんだ」
当たり前のようにそう言ってのけた彼女を凝視して、魔鬼ははぁと溜息を吐いた。
八尾異の夢は只の夢ではない。彼女には未来を夢に視る力があり、幼少の頃から近い未来を予言しては周囲の子供たちに畏れられたり敬われたりしていた。などと只聞いただけでは眉唾もいいところだが、能力の実在は先日の一件で半ば証明されてしまった。……そうなれば後はもう、彼女自身を信じたいか信じたくないかにかかってくるのだろう。
「いつになったら全部見えそう?」
ジトリと視線を向けたままに問う魔鬼に、「一週間以内かな」と異は答える。かなりいい加減だ。だが、彼女がそう言うのだからそのくらいになるのだろう。
しかし彼女はこうも言うのだ。
「まだ憶測だけど、きっといっちゃんはかなり深い場所に居る。現世の住人が簡単に踏み入ったらいけない場所、と云うべきか。恐らくは神域か、その更に先か」
「……? 神域に先があるのか?」
「先というか、普通は入っちゃいけない場所。……ううん、『絶対に戻って来れない場所』って言った方が正確かな。人間も、並の妖怪も。火遠くらいになったら平然と出入りできるんじゃないかなあとは思うけど。……そういえば彼はどうだい?」
「起きないよ、まだ……」
言って、魔鬼はすっかり変わり果てた草萼火遠の姿を思い浮かべた。【月喰】の襲撃に備えて学校妖怪たちが隠している彼の様子は魔鬼も何度か見に行ったが、誰もが言う通りまるで目覚める様子は見られなかった。
(早く目覚めろよ、また助けろよ……)
魔鬼は思う。けれどその思いが自分勝手な願いだということも理解している。
火遠はあのまま全ての認識から消滅しつつあった乙瓜と七瓜を既に救っている。決して使わないと誓った奇跡の力を解き放って、己の身を焼き尽くして。……そんな彼にそれ以上を求めるのは傲慢だ、と。
己の中でぐるりと廻る収まりつかない感情に魔鬼が俯く中、八尾の巫女は清流のように言葉を続ける。
「場所さえはっきりすればこの町の神様たちでもそこに行けるだろう。だけど、そこに行くのは誰でもいいわけじゃない。引き籠っているいっちゃんを説得して連れ返せる人じゃないと。ね?」
問いかけ。短い問いかけ。魔鬼は暫し押し黙り、数十秒の後に両の掌をぐっと握りしめ、ゆっくりと顔を上げながら口を開いた。
「なんとかして私がそこへ行って戻ってくる方法はないのかな」と。
「それでこそだよ」
異は嬉しそうに目を細め、そして言う。
「ぼくだってただ絶望を認識させるために君を呼んだわけじゃないんだからさ」
そして約一週間後、三月二十六日・木曜日。
古霊町内の全ての小中学校が無事に卒業式を終え、春休みに入ったその日の夜。黒梅魔鬼の姿は古霊三大神社の一つ・夜都尾稲荷神社の本殿にあった。
異との遣り取りは全て学校妖怪と美術部らに明かした。
眞虚は同期生を代表して護符を預け、水祢と嶽木は戻りの目印としてのまた別の護符を与えた。
七瓜は「乙瓜をお願い」と一礼し、どこからか聞き及んだ幸福ヶ森幸呼は「馬鹿って言ってきて」と、小さく折った手紙を託した。
受け取ったモノと受け取った想い、そして自らの内にある想いを胸に、魔鬼は開け放たれた扉の向こうを睨む。
黒く渦巻く神域への門。そこから更に目指すこととなる本来『絶対に戻って来れない場所』。
まだ見ぬその場所を睨み、唾を呑み、自らを鼓舞するように拳を握りしめ。魔鬼はそこへ飛び込んだ。
「待ってろよ乙瓜……!」
かけがえのない友人を連れ戻し、物語を再び廻すために。