妖界神域の奥の奥。古霊の地にいる神々の影響下で見かけばかりは現世の形を残す場所から更に外れたその場所へと魔鬼は向かい、その後方には異が続く。
「今朝の夢にはっきりと出た。いっちゃんはこの先に居る」
と、異が促す先にはいよいよ常人の感覚をして不安を覚える気味の悪い空間が広がっており、そこから漏れ出るピリピリとした雰囲気に、魔鬼は静かに鳥肌を立てた。
――引き返せ。そんな無言の圧力が辺り一面に満ちる気配が、或いは危険を回避しようという本能が、強く魔鬼に訴えかける。そこは本来人間が居ていい場所ではないと、ありとあらゆるものが訴えかけている。
だが魔鬼は足を止めない。今更立ち止まるわけにはいかないのだ。
(帰るなら乙瓜を連れ戻してからだ……! 逃げ帰るわけにはいかないんだ……!)
強く強く己にそう言い聞かせて、魔鬼は一歩一歩確かめるように、既に地面の体をなしていない底面を踏み進んだ。
徐々にどこからともなく生温い風が吹きはじめ、辺りは闇一色に染まる。天も地も、行くべき先も、来た道も。全て照明が落とされたように真っ暗に染まり、やがてその闇を裂くように稲光が走り始めた。それも魔鬼達のすぐ近くを掠めるようにだ。
流石の魔鬼もこれにはいくらか怯み、半ば悲鳴のように異に問う。
「これ! 道間違ってないのか!? このまま進んでいいのか!?」
叫んで振り返った先の巫女は、もはや暴風といって差し支えないような風にバタバタと揺れる装束が邪魔してか、魔鬼とはだいぶ距離が離れてしまっていた。だが問いは届いたのかコクリと頷き、大声で返してきた。
「大丈夫! 異物が入り込んだことで、この領域の主がぼくたちを追い出そうとしているだけ。多分まだ殺しはしない」
「殺しはって……殺しにかかってきたら!」
「共犯になってもらった文徳の加護を信じるしかない」
そう言って、異は再び強く頷いた。
文徳は本来の稲荷神である宇迦之御魂神の代理として夜都尾稲荷を預かる妖狐である。初対面の魔鬼をして火遠より胡散臭いと感じさせる狐だったが、本殿という大切な場所を介して神域への道を開いてくれたという点では彼もまた協力者であり、そこから通じる自分の領域でもない場所へ踏み入ることを黙認したという点では異の言う通り共犯者なのかもしれない。
彼は出発前の魔鬼と異に力の及ぶ限りの加護を約束した。寧ろその加護があったからこそ、魔鬼らはこんな恐ろしい場所にまで進むことができたのだ。……そうでなければ、とっくに発狂しているか、あるいは細切れの肉片となって異界の狭間に永遠に消えることとなっていただろう。
「信じて。文徳は一度やると誓った事はやり通す狐だから。そして――」
異は確かめるように言い、そしてと続けた。
「ぼくを信じて。君は絶対にいっちゃんに会える。生きて会う事ができる」
確信したように。「会う事ができる」と。それは夢の予言を外したことのない彼女なりの自負であり、魔鬼を勇気づけるためのエールだった。
魔鬼は己が立ち竦む間に追い付きつつある異の言葉と表情を見て、グッと唇の内側を噛んで、両手を強く握って、それから再び己の進むべき先へと向き直った。
「……ありがと」
ぶっきらぼうにそう言って再び歩き出す魔鬼の背中を見て、異はフッと笑った。
八尾異には理由がある。烏貝乙瓜を助けたい理由がある。
彼女はその人生のかなり初期の時点から、己に見えているものが他者と違う事を認識していた。
どこにでも居るのに誰にも気にされないモノは、皆に無視されているのではなく見えていないのだと云う事に気づいていた。少し先の出来事を夢に見る人間は稀だと云う事に気づいていた。そして普通の人間は言葉にしていない内側の気持ちを読み取る事が出来ないのだと云う事も。
そう、彼女にはほんのわずかにだが、他者の心を視る事ができた。だから他者には見えていない事を口に出すと、周囲がどう思うかを知っていた。
それでも異が周囲から完全に孤立することがなかったのは、いつからか芽生えた彼女のお節介せずにはいられない性分故か。様々なきまぐれやうっかりの結果、出身小学校界隈では一部にカルト的な信仰を集めてしまった彼女だったが、常に胸にあるのは優越感ではなく、どこまで行っても他人と違うという寂しさだった。
そんな彼女が社祭第一小学校の霊感少女に関する噂を耳にして興味を持ったのも、きっと偶然ではなかったのだろう。社祭第一小学校の霊感少女・烏貝乙瓜。……もっとも、彼女が会いたかった相手は厳密には烏貝七瓜だったのだが。
けれども、中学校に進学してから件の少女を見かけた異は、既に乙瓜の正体に気づいていた。
かつて己の祖母を食らったものと同種の存在。憎むべき相手。だが程なくして美術部が現在の美術部の形で活動を開始してから、異の認識も徐々に変わった。それにはなにより、草萼火遠の存在も大きかったのだ。
大霊道を封じ見守る古霊四大寺社の一角の生まれとして、異は火遠と面識があった。幼い頃のほんの一時期ではあったが、彼女は火遠と会った事があるのだ。
その頃の異は、己の正直な言葉が周囲にどちらかといえば好意的に受け入れられないものである事を自覚しはじめ、ならばいっそのことずっと黙っていようと決め込んでいた。丁度信頼していた祖母を亡くした頃であり、自暴自棄になっていたのもあるかもしれない。
そんな彼女の前に現れた火遠は言った。自分で自分を否定するな、と。
――君は視えているモノが少し普通じゃないだけで、だけど普通の人間でなくなったわけじゃあないのだから。
異が中学に上がるまで己のままに生きてこられたのは、その時の火遠の言葉があったからだ。少なくとも異はそう信じている。――故に。彼女は先入観とは別に己の眼で視たものを信じることにしたのだ。
彼女から視た烏貝乙瓜は、"影の魔"と【月喰】通じる化け物だ。けれどその一方で完全に人間へと擬態したその身に宿るのは、友人を思い遣り、誰かの為に泣き、笑い、思い悩める、周囲の人間と変わらない気持ちだった。
そこに居たのは『少し普通じゃないだけの普通の人間』だった。得体の知れない敵ではない。八尾異が化け物ではないように。……自分でそう信じているように。
だから彼女は助けたいのだ。例え己の視る夢の未来が確定的な運命で、自ら何をせずとも烏貝乙瓜が助かるのだとしても。視えるばかりで戦う力は持っていない自分だが、せめて何かの手助けになればと。そう願うのだ。そう願うからこそ。
異は一つの禁忌を犯した。
魔鬼を確実に行かせる為に。そして確実に帰すために。異は来た道に杭を打ち込んで来た。
神聖不可侵なる神域に、主の許しを得ることなく標を立てたのである。
例え異に何が視えようが視えなかろうが、巫女だろうがなかろうが。所詮は只の人間だ。噛みついてきた蟻が希少な絶滅危惧種であったとして、大抵の人間はそうと気づかずに叩き落とし踏みつぶすだろう。それと同じことで、この神域の主も自分の庭に許可なく杭を打ち込むこの人間を、希少な人間としてではなく明らかな『外敵』として認識した。
真っ暗な闇の中から何かの気配がじっと己を見つめているのを、異はずっと感じていた。
じっと己を、己だけを。形も知らない何者かの意識は、恐らく魔鬼には向いていない。
(それでいい。最終的にクロちゃんといっちゃんが無事で帰れれば)
思い、異はぽっかりと口を開ける暗闇の中を睨む。
行く手を拒む風はいよいよ強く、雷はその音と光に激しさを増してゆく。先行く魔鬼は顔を庇うように右腕を上げながら、けれども足を止めることなく先へ先へと進んでゆく。
これでいい。異はニッと口角を上げ、けれどもと念じる。
(ぼくもまだ飲まれてやるわけにはいかない。彼女たちを帰り道も無事に送り届けなくてはいけない義務がある。夜都尾の巫女として、そして――)
視えざる何かを敢えて攻撃するように杭を刺し、異は思うのだ。
(そして――彼女たちの友達だから)
瞬間、まるで視えざる壁に押されるような風が吹き、魔鬼と異はそれに耐えるように身を縮める。
目を固く瞑り、吹き飛ばされれば道を見失って二度と戻って来れないであろう大風に耐える中、弾けんばかりの雷鳴が轟き、何か巨大なものがのたうつような振動が辺りを揺らす。
「くっ!」
「ううっ……」
それぞれにうめいた後、最初に目を開いたのは魔鬼だった。
初撃の風をまともに受けた事による不快感を押してゆっくりと立ち上がった彼女は、どこまでも続くかに見えた闇の中に差す一筋の光を視た。
「……異、これ!」
思わず頑なに呼ばないでいた名を口にしながら魔鬼が振り向く先で、異もまたゆっくりと目を開けた。
「ここは――」
驚いたように目を見開いて立ち上がる異は、けれども少し辺りを見渡した後、その目に明確な確信の光を宿して言う。
「ここだ。いっちゃんの居る領域は」
彼女がそう断言したその場所は、ほんの数分前までの雷鳴轟き暴風吹き荒れていた暗闇から一転、目に刺さる程の白が支配する空間へと変貌していた。
とはいえ空間は全てが一色の白ではなく、地面は薄っすらと灰色で、遥か彼方にはぼんやりと大きな鳥居のようなものが視える。
そんな空間を前にして、魔鬼はふと、かつて乙瓜や杏虎から聞いた薄雪神の神域を思い出した。
「ていうかここ、薄雪の領域じゃないのか?」
だが思ったそのままを口にすると、巫女は左右にゆっくりと首を振った。
「薄雪様の気配はない。別のものが支配する異界同士でも見かけが似る事はあるらしいから、ここは彼女の領域じゃないね」
言って一呼吸置いてから、異は更に言葉を続けた。
「多分だけれど。いっちゃんは昔薄雪様の領域に落ちた事があるから、それがこの神域のイメージ形成に影響しているのかもしれない」
「へえ……」
感心する一方で魔鬼は、異がこんな事情にまで妙に詳しい事については今更ツッコミを入れないでおこうと心に誓った。そもそも神様と話せる娘なのだ、自分たちよりも多めに知る機会があっただけなのだろう。
(どこどなくいけ好かない感じもするけど、それで助かってるところも多かったもんな……)
ふうと一つ溜息を吐いて、魔鬼はキッと空間を睨んだ。
「魔鬼ちゃん、いっちゃんの居場所はここから――」
「いや、いい。わかった」
道案内を続けようとする異の言葉を遮って、魔鬼は言う。そして右腕をスッと前に出し、人差し指である方向を指示した。
「――あそこだよね?」
ほぼ断定的な口調で問う魔鬼に、異は一旦意外そうな表情になり、それから「ああ」と頷く。
「もう君にもわかるってことか。そうだよ、あれがいっちゃんだ」
そうして二人が見つめる先、白と灰の消え入りそうな地平線の彼方には、立体感を欠いた黒い小山がポツンと在る。影を固めたような黒い小山が。
「行こうか。家出娘を連れ帰る為に」
「言われなくとも」
決意を秘めた声で答え、魔鬼は小山に向けて――そこに在る乙瓜に向けて走り出した。