怪事廻話
第一環・再廻再演プロローグ①

 ――廻せ、廻せ。再び物語を始めるために。


 三月二十六日・木曜日。
 古霊町内の全ての小中学校は無事・・に卒業式を終え、春休みに入ったその日の夜。黒梅魔鬼の姿は古霊三大神社の一つ・夜都尾やつお稲荷神社の本殿にあった。
 開け放たれた扉の向こうに広がるのは、その外郭からは大きくかけはなれた、黒く渦巻く異質な空間。
 その不気味な渦をにらむ魔鬼に、紅白の装束をまとった巫女は言う。
「ここから先は神域だ。本来ぼくたち人間が軽々と踏み入って良い場所じゃないし、少しでも主に対する礼を欠くことあれば、異界の果てへ追いやられることになるだろう。そうなればそこから抜け出すことは不可能だ。例え魔法使いの君であっても、そして巫女のぼくであっても」
 それでも行くと言うのかい? そう訊ねる巫女に、魔法使いは無言のままに、しかしはっきりとうなづいた。
 眼前に構えるはまだ見ぬ異界・未開の神域、挑む装備はいつもの・・・・制服と十五センチのプラスチック定規、そして友らより預けられた幾つかの守りの護符のみ。幾らか心許こころもとないながらも、それでも魔鬼は飛び込むことを決意したのだ。

 かけがえのない友人を連れ戻すために。



 例の事件――古霊北中学校全体を巻き込むこととなった三月三日の事変・・は、【灯火とうか】の丁丙らの暗躍・・によって表向きの記録には残る事無く終息に向かった。
 しかし事変それに直接関わった者の中には大なり小なり爪痕つめあとが残る。中でも草萼火遠が"星"の力を限定的に行使することによって負ったダメージは深刻であり、あれから数週間が経過するものの、彼が目覚める気配は一向にない。
 そして烏貝乙瓜が心に負ったダメージもまた深刻であった。あの日あの場で烏貝七瓜と共に消滅する事なく、個々の存在として存続できるようになったことは奇跡としか表しようがないだろう。だが、一方で草萼火遠が全ての過去をくつがえすことを拒んだ結果、よみがえった彼女が依然として人間ヒトの形をしたバケモノである事には変わりはないのだ。
 否、医学的に見れば彼女は紛れもなく人間で、周囲のクラスメートたちと同じように生きていて、成長している。誰も彼女が人間ではないなどとは思わないだろうし、自ら申告したところでこの年頃にありがちな妄想のたぐいだと受け止めるだろう。
 けれどもそれらは全てまやかしだ。己を形作っているものが、血や、肉や、細胞が。全て精巧にできた"似せもの"だと、乙瓜はもう知っている。そしてその正体を、あの日大勢の前でさらけ出したということも。
 殆どの生徒は忘れさせられている・・・・・・・・・だろう。だが、己を救おうとしてくれた彼女たちは、美術部は覚えている。

 戮飢遊嬉は、白薙杏虎は、小鳥眞虚は、歩深世は、――そして黒梅魔鬼は知っている。烏貝乙瓜の正体が、所詮は人の形を模しただけの不定形の化け物だということを知っている。

 否、否。しかし彼女らは受け入れるだろう。知って尚取り戻そうと呼び続けたものを、今更拒むことはしないだろう。乙瓜にだってそのくらいはわかる。……だが。
 彼女は恐れたのだ。己自信を。己の出自を。そんな己のために起ったあの事変を。烏貝七瓜に負わせてしまった重い決意を。草萼火遠が支払う事になった代償を。
 故に――彼女は逃げた。

 嵐の後の一時の平穏の中で訪れた三月十三日。美術部と怪事、そして大霊道に関する一つの発端を握る先代部長・鳩貝秋刳あくるらの卒業式の終了と共に。烏貝乙瓜もまた、その姿を消したのだ――。

「なぁるほどねぇ。それで乙瓜ちゃんいないの」
 卒業式から一週間後、二十一日土曜日。休日の美術室で開かれた『美術部送別会』にて、鳩貝秋刳は別段驚いた様子もなくそう漏らした。
 しくも入試に備えた体調不良改善の為に三日の日には学校を休んでいた秋刳は、その日北中で何が起こったのかを伝聞でしか知らない。だからなのか、それとも彼女は彼女なりに怪事を経験してきたからなのか、存外どうってこと無さそうに彼女は言うのだった。
「そんで七瓜ちゃんだっけ? 初めましてなのかあの七月とき会ってるのかちょっと思い出せないけど。まあよろしくね。っつってもあたし引退したし卒業してんだけどさー」
「は……はい」
 陽気にバンバンと肩を叩く秋刳に若干困ったように答え、七瓜はその眉をくもらせた。

 乙瓜が姿を消したその日、七瓜は乙瓜と共に烏貝家に居た。火遠の力でを取り戻した彼女は、「たまたま出会った乙瓜のそっくりさん」というていで烏貝家に訪れるようになっていた。
 烏貝家の娘そこはすっかり乙瓜の場所で、昔のようには戻れないかもしれない。けれども家族に会いたくないわけではない。故についた嘘でありながらあながち間違いでもない事を、烏貝の家族はあっさりと信じた。皆根がおおざっぱだったのかもしれない。
 故に堂々と帰宅・・する権利を得た彼女は、あの卒業式後の夜にも親が許したという事にして泊まりに来ていた。……そしてその次の朝、乙瓜は忽然と姿を消していたのだ。
『やっぱりここにはいられない』――そんな不穏なメモを残して。

 以来一週間、再び七瓜が乙瓜として生きている。
 よくよく考えてみれば、自分と共に蘇ってからの乙瓜は何でもないように振る舞いつつもどことなくから元気だったようだと七瓜は思う。
 そこで初めて七瓜は思い至る。そもそもとして乙瓜は七瓜じぶんを元にして今の人格として生まれたのだと。態度や言葉遣いに差はあれど、もしかしたら負わなくていいものまで背負い込んでしまっているのではないのだろうか? と。
 ――そう、少し前の自分のように。
 乙瓜がさらわれた後、白薙杏虎は言った。正体は何であれ乙瓜は友達だと。そして誰もがそう願っていた。
 今更乙瓜が何であろうと分かったところで、美術部らにとってはどうでもいいのだ。草萼火遠もそれをわかっていて乙瓜を、そして自分を救ってくれた筈なのだ。
(……だから、ここからいなくなる必要なんてないの。あなたはここに居なくちゃ駄目なのよ)
 七瓜は思い、その日の内に美術部の他の五人に乙瓜の失踪の事実を共有した。やはりというか、彼女らは驚き、心配し、それぞれ思い当たる場所を手分けして捜した。……けれども乙瓜は見つからなかった。終いには顔見知りの妖怪らも巻き込む騒ぎとなり、その結果として乙瓜は『現世にはいない』という事実だけが判明した。
「妖界のどこかに隠れたか、或いは神域の奥に潜り込んだか、だな。だがその正確な位置はわしにもわからん。気配を感じこそすれ、何か――隠そうとする強い意志に阻まれていての。流石は裏世界の主・・・・・の力の末端と言うべきじゃろうか。とはいえ黄泉よみの領域でないことだけは確かじゃろう」
 最後に頼った山神はそう言い残し、乙瓜が現世ではないどこかに隠れた可能性を示唆したものの……――以来大きな手がかりを得る事もないままに一週間が経過していたのだった。

「でも乙瓜ちゃん居ないまま卒業して終わりってのはちょっと寂しいかな」
 経緯を横から聞いていた、同じく卒業生の仮名垣かながきまほろが言う。
「なんていうかさ、二年生が何かやってるときって……まあ一年生の頃からなんだけどさ、いつもだいたい乙瓜ちゃんと魔鬼ちゃんが真ん中にいたじゃない?」
 と、困ったように笑う彼女に、秋刳も、他の卒業生もうんうんと頷き同意を見せた。
「見つかるといいよね。できたら高校の新学期始まらないうちに」
 三月の内ならまだ顔出せるかもだから、と言ったのがまほろの親友・滝壺たきつぼ供子ともこで、「いいや高校になっても見つかるまで毎日顔出すわ」と秋刳が続き、「あんまり無茶言うな」と美霞洞みかどすみれがツッコむ。
 皆が笑い、皆が思う。――早く戻ってくればいいのに、と。
 一見和やかながらも色々な意味でほんのりしんみりとした送別会に、部屋の片隅の壁に背を預ける青髪の少年は呆れとも哀れみとも取れる視線を終始向け続けていた。

 皆、乙瓜に会いたかった。
 警察には見つけられようもない失踪の中、今再び乙瓜の身代わりをしている七瓜は勿論――はじまりからして乙瓜の相棒・・であった彼女・・などは特に。

 所詮は中学生の送別会なので、ジュースで乾杯しテーブルゲーム等で盛り上がる会合は朝から始まり昼下がりには終わりを迎えた。
 その帰り道を自転車で行きながら、魔鬼は今日も妖界に入れそうな場所を無意識に捜してしまうのだった。
 言うまでも無くよそ見運転は危険だし、家に戻って荷物を置いてから改めてした方がいいという事くらい魔鬼にはわかっていた。わかってはいたが、魔鬼にはその危険運転を止める事が出来ないでいたのだった。
(馬鹿、折角戻って来れたのにどうしてまたいなくなっちゃうんだよ馬鹿……!)
 思いながら八つ当たりのようにペダルを踏み込み進む中、魔鬼は視界の隅に何か白いものを捉えた。田舎道を挟むやぶの右側から進行方向に飛び出す白いもの。
(やばっ、猫!?)
 いてしまう! 魔鬼は思うと同時にぎゅっとブレーキを握った。そろそろ油が切れかかっている自転車はキィと甲高い音を上げた後、まるで向かってくる自転車を気にしていないかの如く進行方向に留まり続ける白いものの直前で止まった。
「危なかった……あ?」
 溜息交じりの独り言を吐き、魔鬼は今なお動く様子を見せない白いものを改めて見、そしてハッと目を見開いた。
 そこに居たのは猫ではなかった。白くて、フェレットのように細長い体を持ち――けれどもフェレットではない。そこに居たのは山の形の大きな耳と細い顔。真っ白い、そして異様に小さなキツネのような生き物だったのだ。
「神社の狐?」
 そう魔鬼が呟くように、その生き物は時折稲荷神社などに置いてある白い狐の置物によく似ていた。そして魔鬼が思いつく限り、この古霊町で稲荷といえばあそこ・・・。ましてやこうして己を呼び止める・・・・・・・ものなんて。
「……呼んでるのか?」
 恐る恐る問う魔鬼の言葉が通じているのか、白い狐はコクコクと頭を振り、くるりと身をひるがえして飛び出してきたのと同じ藪の中へと消えた。
 それを見て、魔鬼の疑問は確信に変わる。丁度藪の向こう側――人の通れる道ならば、この藪の道を超えてすぐの広めの道を真っ直ぐとずっと進んだ先は、かの夜都尾稲荷神社の参道へと続いている。
 自宅への道はこのまま直進。しかしあの狐が呼んでいるのならば、神社に行くのは今なのだろう。
 そう解釈し、魔鬼は自転車を再び漕ぎ始めた。

 きっと何でもない顔をして「待ってたよ」なんて言うであろう、あの娘の顔を思い浮かべながら。

HOME