怪事戯話
第十三怪・死蘇芳香①

 芳香、香り、匂い……或いは臭い。
 形を持たず、目にも見えず、触れることも出来ないが、確実に存在するもの。
 そんな"におい"を、人は古来より利用してきた。多くは腐臭や汚物の悪臭を覆い隠すためだが、時として香りそのものを楽しむ為にも用いられた。
 実体のないそれを楽しむその光景は、鼻の悪い者から見れば、或いは。

 幽霊と会っているようにでも、見えたのかもしれない。


 ――二月中旬。
 短い三学期も半ばに差し掛かり、暦の上ではいよいよ春に向かっていくのだろうという頃。
 バレンタインデーなる行事はここ古霊北中でも例年通り展開され、学生たちは色めき立っていた。
 県立入試を間近に控えた三年生は比較的大人しいものの、一年二年はそんな事など構う事なく。この恋人たちのイベントという名の製菓会社の陰謀に乗せられ、朝からはしゃいでいるのだった。
「ヘイYOU! バレンタインデーだってのに相変らず不景気な顔をしているね!」
 十分休みの一年一組教室、そのど真ん中。ふんぞり返りながら話す王宮おうみやの声は、無駄に大きかった。ついでにYOUユーの発音のネイティブ具合がいくらか向上していた。
 そんな彼の言葉を受けた乙瓜は露骨に顔をしかめた。
「……うっせえな、別にいいだろ、好きな奴が居るとかいないとか。大体12、3歳で恋愛とかそんな、ねえだろ」
 言いながら机に上半身を沈ませて行く乙瓜。何の因果か教室のど真ん中の席になってしまったが為に、今の状況は完全に悪目立ちしている。それが嫌で仕方ない乙瓜は、シッシと手を振って王宮を追い払おうとした。
 だがそれに気付かないのか、それとも敢えて無視しているのか。王宮は眼鏡を怪しく光らせると、また大きな声を出すのだった。
「フン。いいのかいYOU、そんな事を言って。小学生だって恋愛してると言うのに、今は良くても数年後に後悔しても知らないぞ」
「いや、だからっつってお前に心配される事でもないわ」
「ぬかしおる」
 フハハハ、と演技がかった笑いをする王宮に冷ややかな視線を送りながら、乙瓜は思った。
 ……こいつ誰からもチョコもらえなかったからモテなさそうな奴に総当たりしてるんだな。と。
(哀れだが必死過ぎてきめえ)
 本人に知れたら当分落ち込みそうな事を考えていると、通路側に天神坂が通りかかる。
 いいタイミングだと思い、乙瓜は彼を呼び止めた。
「天神坂、ちょい」
「なんぞい」
「こいつ持ち帰ってくれ」
 乙瓜は机の傍らに立つ王宮をぶっきらぼうに指差した。
「友人を売ると言うのか!」
「誰が友人だよ。……早急に頼む」
「……あ? ああ」
 天神坂はイマイチ状況が飲み込めないような顔をしつつ、王宮を引き摺って行こうとする。
 ぐいぐいと制服の裾を引っ張られた王宮は、急に焦った様子で騒ぎ出した。
「待て! 烏貝! 最後に何か渡すものがあるだろう!」
「ねーよ。そんなに欲しかったら向かいのコンビニで買えよ」
 冷酷にも乙瓜が親指で示す方角には、全国チェーンのコンビニがある。が、生徒の溜まり場になるのを防ぐため、昼休み含めた授業時間及び休み時間や登下校の間は原則として利用禁止となっている。
「卑怯な!」
 王宮が悲痛な叫び声を上げる。言動は大分おかしいが、校則を破る気はないらしい。腐っても生徒会副会長ということか。
 天神坂に引かれるままに教室から一旦フェードアウトしていく彼を見て、つくづく哀れだなと乙瓜は思った。
 そんな王宮と入れ替わるようにして、隣のクラスの魔鬼が入ってくる。
「乙瓜、は……いたいた」
 彼女は席に座ったままの乙瓜の姿を見つけると、そそくさと近寄ってきた。
「魔鬼。なんか珍しいな」
「いやあ、たまにはと思って」
 魔鬼は乙瓜の左隣の空席に手を付くと、制服のポケットをまさぐって何かを取り出した。
 それが何だか見せないまま「手だして?」という彼女の言葉に従い、乙瓜が差し出した掌の上に、何か小さなものが置かれる。
「? 何だ?」
 疑問符を浮かべたような顔の乙瓜に、魔鬼は掌を握るように指示する。
 乙瓜が握りこぶしを作り始めたのを確認すると、魔鬼はすっと自分の手を離した。結果としてそこには、何かを握りしめた乙瓜の拳が残る。
「え、なにこれは」
 乙瓜がますます不可解そうな顔をすると、魔鬼がそっと耳打ちした。
「あげるから私が出てったら開けるよーに。おけ?」
「今じゃ駄目か?」
「今じゃ駄目」
 わかったな? と念押しし、魔鬼はすたすたと教室を後にした。
 乙瓜は首を斜めに傾けながら、そっと拳を開く。
「…………あ」
 その中のモノを知った時、乙瓜は自分の間抜け加減に気付き、ぽかんと口を開けたのだった。
 少し前こそ男女のイベントの如く喧伝されていたバレンタインデーであるが、最近は同性の友人間でもチョコレートを贈り合うケースが増えたらしい。……というのは、乙瓜も話には聞いていたが。
「男じゃなくてもやっぱ三倍返しになるんだろうか……」

 独り言を呟く乙瓜の手の中には、小さいものだが確かにチョコレートがあったのだった。



 ――その日の昼。
 美術部の活動拠点である美術室には、掃除の時間に大音量で流れる古い洋楽を聴きながら、黙々と掃除をする眞虚の姿があった。
 室内には他にも数名の女子の姿があり、皆ほどほどに清掃に取りかかっている。姿の見えない男子は入り口手前の廊下を掃除している――という事になっているが、引き戸を閉ざせば完全に死角なので、本当に取り組んでいるかどうかは眞虚にはわからない。……一応、眞虚の班がここの担当になってから絶望的に汚いと感じたことは無いので、やることはやっていると信じたいが。
 そんな時間の最中さなか、眞虚は普段放置している本棚の裏をいくらか綺麗にしておこうと思い立ち、乱雑に置かれている何かの残骸をかき分けていた。
 本棚の裏と聞くと、普通は壁等を連想するだろう。だがここ北中の美術室には、入って右手側に構造上の空きスペースがあり、そこに本棚を立てることで区切っているのだった。そして本棚の表側は通常の作業スペースとして、裏側の空間は物置のように使われているのである。
(なんとなく見なかったことにしちゃいがちなんだよね)
 そう思いながら隙間の塵を箒で掻きだす眞虚。本棚の裏は表側から見えないこともあって、美術部目線であっても多少の散らかりくらいなら……と無視してしまいがちだ。
 日頃の怠慢分を取り返すべく、眞虚は掃除に力を入れた。

 その時、だった。
 屈んだ眞虚の近くで、何かがコトリと音を立てたのは。
 金属か、あるいは陶器か。何か固いものが動いたようなその音は、とても幽かな音だった。

「?」
 眞虚は思わず顔を上げる。見上げた先の壁には、小さな扉が付いていた。その見た目はダストシュートによく似ているが、それにしては小ぶりであり、実際は何のために設計されたのか眞虚にはわからない。前に遊嬉たちと開けたことがあるが、その中には申し訳程度の空洞があるのみで、特に何かが入っているとか、上下に通じる穴があるなんてことはなかった。
 そんな小戸は、今はぴったりと閉じられている。壁と同じくやや黄ばんで薄汚れた白の周りには、シールか何かを貼り付けていたような痕跡があった。
(そういえば、火遠くんが封印されてたのって、美術室のどこだっけ――)
 眞虚は、乙瓜や魔鬼の不在時に火遠に尋ねたことを思い出していた。
 一体どこから来たのかという問いに対し、火遠は美術室に封印されていた、と。眞虚たちの怪談語りのお陰で封印が解けたのだと話していた。
(もしかして、ここなのかな……?)
 ふらふらと立ち上がり、まるで吸い寄せられるかのように小戸に手を出す眞虚。

 ――コトン。
 その近くで、また幽かな音が聞こえた。どこかから……否、むしろそれは、扉の中から聞こえているように思えた。
 それは、とても幽かな音だった。考えてみればおかしな話である。掃除の時間に流れる軽快なBGMは、誰もツマミを調節していない為か結構な爆音である筈なのに。


「眞ー虚ちゃーん、もう終わっちゃうよー?」
 間もなく掃除の時間が終わるというアナウンスが流れた後。いつまでも裏から出てこない眞虚を不審に思い、同じ班の女子が彼女を呼ぶ。
 その声にハッと我に返った眞虚は「すぐ行くから」と取り繕い、直後に手の中に固く冷たい感触を感じる。
 ――えっ? なにこれ、さっきまでこんなの……。

 驚く彼女の両手の上には、鈍く金色に輝く、小さな香炉が乗っていた。

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