怪事戯話
第十三怪・死蘇芳香②

「――で、気が付いたらその香炉を持ってたってわけか」
「そうなる……のかな。多分」
 時は放課後。美術部員の囲う机の上には、清掃時間中に眞虚が見つけ出した香炉が置かれていた。
 蛍光灯を反射して妖しく輝く香炉には、どこか大陸文化を彷彿とさせる意匠が散りばめられており、まるで美術品のような佇まいである。これはもしや、かなりの値打ちが付くものなのではないだろうか。その場にいた全員がそう思ったし、疑わなかった。
 はじめこそ見ているだけだった部員たちは、やがて香炉を触り始めた。代わる代わる持ち上げては角度を変え、細かい意匠や造形を観察するその姿は、珍しく"真っ当な美術部"らしかった。
 そんな最中。
「……あれ?」
 呟いて首をかしげたのは、部長の鳩貝秋刳だった。
「どうしたの?」
「先輩……?」
 部長である彼女の不可解な様子に他の部員達が反応し、美術室はややざわついた。
 秋刳は「いや、何かね」と前置きし、その時香炉を持っていた杏虎に視線を送る。そのアイコンタクトに気付いた杏虎は、掌の上のものを秋刳に向かって差し出した。
「ん、ありがとう」
 秋刳は香炉を受け取ると、神妙な顔をして二三揺らし、それから徐に蓋を開いた。その一連の動作を見て、部員たちは今まで誰も蓋を開けていなかった事に気付く。外観のことばかり気にしていた為か、これが香を焚く為の道具であることをすっかり忘れていたのだった。
 目から鱗の部員たちを余所に、秋刳は香炉の中身を覗き、目を細めた。
「そっか、やっぱりねー」
 一人納得したように頷いた後、彼女は部員達にも見えるように香炉を傾けて見せた。それに合わせて一斉に中を覗き込む部員達。  彼女たちが押し合いひしめきながら見た、その中には。

 空っぽの器の中に、ぽつんと。小さな欠片のようなものがいくらか入っていた。

「何ですかー、これ?」
 遊嬉が欠片を指差しながら秋刳に問う。秋刳はやや考えるように宙を見てから、「香木って奴じゃない?」と答えた。
「コウボク? 公僕こうぼく?」
「イマイチわかってない顔してるから一応言うと香りの木って書く奴ね」
「ああ、香木ですか」
 遊嬉はやっと腑に落ちた顔をした。
 その横で、眉間にしわを寄せた乙瓜が呟く。
「……な、なんだ? 香木って」
 真顔で問う乙瓜。正直彼女は殆ど香りを楽しむという事にあまり縁がないため、芳香と聞いて真っ先に思い浮かべるのはトイレの芳香剤が発するはじけるレモンの香りという、何とも残念な人種である。
 勿論香木が何たるかも知らないし、そもそも芳香剤と香炉の違いがイマイチ分かっていない。精々名前が違うくらいだと思っている。恐らく乙瓜の頭の中には、芳香剤の中身みたいなものが香炉の中に入る使用図が浮かんでいるに違いない。というか、浮かんでいた。
「ああ、香木っていうのな――」
 そんな彼女をフォローすべく、魔鬼は口を開く。――が。
「香木ってのはそのまんま、いい香りのする木のことだよ」
 その先を答えたのは遊嬉だった。
「ちょ、遊嬉おまえ――」
 割り込まれて不服そうな魔鬼を余所に、遊嬉はペラペラと説明を続ける。
「葬式で焼香の時におがくずみたいな奴をパラパラーってやるじゃん。あれは抹香まっこうっていって、しきみなんかの木を粉末にしたものなんだけど、香木はそれの仲間だと思えばいいよ」
「へーぇ。あれってそういう奴だったんだな。てっきり鰹節の親戚かと思ってたわ」
 感心したような声を上げ、「為になった」と遊嬉に礼をする乙瓜を見て、魔鬼は僅かに頬を膨らませた。
(そ、それくらい私も知ってたし……!)
 心の中でそう思う魔鬼だが、彼女もまた抹香をふりかけの遠縁の親戚か何かだと思っていた事は内緒である。

 そんな魔鬼の心中などしらず、遊嬉は香炉とその中身をまじまじと見つめている。物言わぬ香炉と香木は、秋刳の手の中で静かに佇んでいる。
 やがて秋刳は少し困ったような顔をして遊嬉に訪ねた。
「コレ、気になるよねぇ。……どうしよっか?」
 その問いに、遊嬉は即答した。

「とりあえず焚きましょう」


 所謂西洋のフレグランスとは異なり、こうは焚くものである。
 方法としては、まず香炉に灰を入れ、炭をおこし、灰を温め、温めた灰の上に香を乗せる。これが一般的な空薫そらだきの方法である。遊嬉が引き合いに出した焼香をイメージするとわかりやすい。
 さて、曲がりなりにも火を使うと言う事で、美術部一同は理科室へと移動していた。なんと説明したかは分からないが、職員室で理科室と準備室の鍵を借りてきた遊嬉は、嬉々として準備室を漁り、足りない分の灰と炭を調達してきた。何かの実験用なのか、理科準備室には入浴剤や蚊取り線香なども置かれており、その中に交じって香炉用の灰と炭もあったというのだから、何とも都合のいい話である。
「火箸っつってもなんかでかいのしかないし、長めのピンセットでいいよね」
 誰に同意を得るわけでもなく次から次へと物の準備を整えた遊嬉は、ガスバーナーで炭に点火する。
「……情緒もへったくれもあったもんじゃねえな」
 冷静にツッコミを入れる魔鬼の前で、熾るを通り過ぎて火柱を上げている炭を必死で吹いている遊嬉の姿があった。
「鎮まれ! しずまれ! ふー! ふぅぅー!」
「おい馬鹿なにやってんだ! 水! 水ぅ!」
「うわわわ火事になっちゃう!」
 炭の大炎上に部員たちは一時騒然となるが、必死の消火活動(?)の甲斐あってか、なんとか炎は落ち着いたようである。
「やれやれ、酸素濃度が高いと困りますな全く」
 現実逃避気味なことを呟きながら肩を竦める遊嬉は、何事も無かったかのように炭を灰の上に転がした。
「いや学校の中で酸素濃度高いとか低いとかねーよぅ!」
「何言ってんよ魔鬼。0.01%くらいは変わるかもしんないべ?」
 これだから素人は、と言わんばかりの薄ら笑いを浮かべてみせる遊嬉だったが、その肩は少し震えていた。炭が火を噴いたことで内心かなり取り乱していたのだろう。美術部のホラーテラーと呼ばれ、怖いもの知らずかと思われた彼女にも、やはり恐ろしいものはある様である。
「いや、めっちゃ震えてんじゃんか! 正直怖かったんか。怖かったんだな!?」
「ハハハ何の事かね」
 遊嬉はそう言うが、その目は泳ぎまくりだった。そして碌に手元も見ないまま、炭を灰の上で転がし続けている。その様子を傍から見ていた眞虚は、ひっそりと思った。

 ――炭ってあんなに転がしていいんだっけ。勿論間違いである。

それからやや時間が経った頃。
「なあ、なんとなくだけど温かくなってきてると思わん?」
 特にやることもなく香炉の灰をぼんやりと見ていた乙瓜が言う。
「ん? んー、そだねー。良い感じじゃない? どうよ?」
「どうよと言われましても……」
 何故かふんぞり返る遊嬉にもうツッコむ気力すら失せた魔鬼だが、香炉の上に手を伸ばすと、なるほど確かに。じんわりとした熱気が掌を伝い、香炉の上部がかなり熱を持っているのがわかった。
「なんだ、けっこう温かくなってんじゃん」
「だろだろー? もう香木乗せちゃってもいい系じゃね? いいよね?」
「おうおう。やっちゃえやっちゃえ」
 遊嬉はフフンと鼻を鳴らすと、ピンセットで香木を掴み、灰の上に丁寧に置いた。
「どうかな?」
 遊嬉が香木の位置を調整してピンセットを置くのとほぼ同時くらいか、理科室の中に仄かな香りがふわりと漂い始める。
「なんだかぼんやりといい匂いがしてきたね?」
 暫く手持無沙汰に窓の外を見ていた秋刳をはじめ二年生も香炉の近くに集まり出す。何の木だかわからないが、思いの外香りが部屋に溶け込むのが早いようである。
「はぁ……癒されますねぇ」
 二年の仮名垣まほろがうっとりと言った様子で机に両肘を付く。彼女以外の部員達も、特に言葉に出さなくとも言い知れぬ心地いい香りに酔いしれているようだ。
 抹香を鰹節の親戚と評し、レモンの香り以外に馴染みのなかった乙瓜も、そのどことなく古風で趣のある香りを堪能していた。
(……なんか昔親戚ん家行った時似たような感じの匂いしたな。あの家も香焚いてたんだろうか)
 乙瓜はふと思い出す。まだ幼い日、家族で滅多に行かない隣県の親戚の家まで行ったのだ。少し古風で玄関の段差が高いその家は、線香の香りとは違う仄かな香りが漂っていた。
 ――アレが香の香りだったんだなぁと、乙瓜は長い年月を経てやっと気づいた。

『きっと今、あなたは幸せなんでしょうね』

「――!」
 乙瓜はハッとして顔を上げた。それが夢か現実かわからずに落ち着きなく辺りを見渡すが、辺りには蕩けるような顔をした部員しか居ない。
(気のせい……か?)
 そうは思えども、乙瓜は自分の全身がすっかり粟立っているのを感じていた。
(あれは……七瓜の声だった。九月のあの日奴が言っていたことだった)
 烏貝七瓜。乙瓜に瓜二つの存在。双子の姉を自称し、美術部へ襲撃をかけた、……少なくともただの人ではないもの。部員を操り、あと一歩で乙瓜を殺すことも出来た筈なのに、何故か彼女はそれをしなかった。
(折角香りを楽しんでいたのに。何で今更そんなことなんて)
 乙瓜は頭を抱えた。

「…………? どうした?」
 どうにも様子がおかしいのに気付いたのか、魔鬼が乙瓜の方を見る。
「いや……なんでもない」
「そうか……? ならいいけど」
 魔鬼がちょっぴり釈然としない様子で元の位置に向き直った、その瞬間。

 パリィィン。
 突として硝子の割れる音が響いた。
「えっ、何、どうした!?」
 一度で止まず次々と鳴り響くその音に、部員達がざわめきだす。その音は理科室ををでたすぐそこの廊下から生じている様子で、出入口近くにいた深世が真っ先に様子を確認しに行く。
 用心するように恐る恐る扉の硝子を覗いた深世は、一瞬の間をおいて大きな悲鳴を上げた。
「ぎゃあああぁああぁぁああぁああああぁぁああああぁあぁああ!」
「ちょっ、うるさ……どうした、何があったん」
 その悲鳴にやや遅れ、杏虎がドアの前に立つ。彼女はまずは深世を落ち着かせるのが先とばかりに深世の肩を掴み、無理矢理自分の方を向かせた。
 深世はパニック映画に出てくる端役のように意味も無く口をパクパクさせながら、震える手でゆっくりとドアの外を指差した。
「~~~~~~~! ~~~~~!」
「いや、何言ってるかわかんないから」
 何かいいたそうだが言葉の出ない彼女を冷たくあしらい、ガチャリとドアを開ける杏虎。だが、空けた直後になってから軽はずみな行動だったなぁと、杏虎は少し後悔した。
 杏虎が明けたドアの向こうでは、内臓をむき出しにした蛙や、もはや元が何なのかわからない、足や手だけの変てこなモノ達が、準備室側の窓に展示されていたホルマリン漬けの瓶を破って生き生きと跳ねまわる姿だった。
 そんなお世辞にも可愛いとは言えないクリーチャーたちの内数体は、杏虎が開けたドアから理科室に侵入してきた。
 それを目の当たりにした瞬間、深世は泡を吹いて気を失い、二年をは勿論流石の乙瓜や魔鬼もこれには驚いた。
「ぞ、ゾンビ!? 新手の怪事か……うっひゃぁ!!?」
 似つかわしくないほど可愛らしい悲鳴を上げた乙瓜の前では、二つの目玉がピョンピョンと跳ね回っている。どうやら手足があるかどうかは特に問題ではないらしい。目玉は当たりを見渡すようにキョロキョロと動くと、また飛び跳ねながら乙瓜の前から去って行った。
 乙瓜がほっと一息ついたのとほぼ同時に、今度は学年教室の方から悲鳴が上がる。余談だが理科室のある二階には三年生の教室があり、県立入試前のこの時期は放課後まで自主練と言う名の追い込みが実施されている。どうやら、ホルマリンゾンビの何体か三年教室まで行ったようだ。
「ちょ、うわぁっ、これヤバくないッ!?」
 何故か執拗に顔面目がけて飛んでくる内臓カエルのジャンプを避けながら遊嬉が叫ぶ。
「ていうか既にもうヤバイし! こっちくんなし!」
 答える魔鬼も目玉に追われている。二年の先輩達はもはや何だかわからないものから逃れて机の上に椅子を置いてよじ登っているし、眞虚は真冬に似つかわしくない大きな甲虫の群れに対しモップを出して応戦している。
 そんな悪夢のような中に居て、未だドアの付近に立ち続ける杏虎は、三年生の阿鼻叫喚と理科室の地獄絵図を見比べながら、「ゲームみたいだ……」と呟いた。

 一方、逃げ続けることにくたびれた魔鬼は、遂に懐から定規を取り出した。
「ああ、もう! しゃらくせぇなぁ! 消し飛びやがれ! 氷獄のコキュートス――」
「馬鹿、止めろ備品だぞ!」
「こんな生きのいい備品があるか! 滅びよ!」
 机の上から止める乙瓜の声も聞かず、魔鬼は魔法をぶっぱなそうとする。
 ――もう駄目だ、学校の備品終わった! 乙瓜が諦めた、その時だった。

「あーあー、もう。とんでもないことをしてくれたね?」

 こんな状況に居て妙に間延びした声が、扉側から聞こえてきた。

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