怪事戯話
第十一怪・未練執念トラッカー⑥

 ――土曜日、マラソン大会当日。
 雲一つない冬晴れとは言え、ひんやりと冷たい寒気に包まれた早朝の古霊町文化センター前。町内マラソンのスタート地点であるそこには、大会参加ランナーと観客で既に大勢の人だかりが出来ていた。
 小さな片田舎の町でここまでの人だかりができるのは、去る秋に同じ場所で行われた町民文化祭以来だろうか。いや、もしかしたら文化祭の時よりもずっと多いかもしれない。ドがつくほどのローカル大会だが、どこで聞きつけてきたのか町外からわざわざ参加しにくる者もいるのだから。
 この古霊町マラソン大会は、町南の文化センター前よりスタート、町北の神逆神社前で折り返し、文化センター裏手の町役場前でゴールというコース設定になっている。往復10kmほどの道のりには特に大きな起伏も無い為、一班のの参加者でも二時間、遅くとも三時間ほどで戻ってこれるという、比較的簡単なコースだ。……とは言え、本来運動音痴である魔鬼や乙瓜のような者にとって、10kmという道のりはひたすらに苦行にしか思えない。学校の方針で仕方なく参加するものの、最初の2km地点にある補給ポイントでリタイアしようと思っている生徒も、おそらく少なくないだろう。
 さて、肝心のスタート時間まではまだ20分ほどの余裕があり、参加者たちは各々暖を取ったりストレッチをしたりと準備をしている。古霊北中の生徒たちも文化センターのグラウンドに集合し、たった今準備体操を済ませたところだ。

 整列が崩れ、思い思いの相手と雑談を始める生徒たちの群れを縫って、魔鬼と乙瓜は合流した。
「結局、遊嬉の奴ずっとあの足憑けたまんまだったな」
 上ジャージのポケットに両手を突っ込みながら乙瓜は言った。その視線は、今は別のクラスメイトと談笑している遊嬉に向けられている。
「はぁ。何が面白くてあんな厄介なもの憑けっぱなしにしとくのやら……」
 魔鬼も遊嬉の方をチラリと見、軽く溜息を吐いた。
 あの後、魔鬼達は何度も遊嬉を説得したのだが、彼女は頑なに足の幽霊を払う事を拒否し続け、放課後の走り込みも続けていた。あの日以来、他の生徒はわざわざ文化センターのグラウンドまで足を運んだり、歩道を走るなどして北中のグラウンドを避けるようになったので、走っている遊嬉を抜く者は誰一人としていなかった。体育の授業は二回ほどあったが、近頃の授業内容は専ら室内でバドミントンなので転移条件を満たすことはなく。そんなわけで、足の幽霊は依然として遊嬉に憑き続けているのだった。
 照魔鏡の魅玄のいう事が間違っていなければ、今現在の遊嬉の運は交通事故に合う程度には悪くなっている筈。未来の事なんて二人には知る由もないが、今日この大会の中で何らかのアクシデントが彼女を襲うのはほぼ確実。
「……なあ鏡の、例の足が大会中に遊嬉から上手い事離れたり、なんてことはないのか?」
 乙瓜は突っ込んだポケットから鏡を半分ほど引っ張り出して言う。小さな鏡面の向こう側にいる住人は、首をゆっくりと横に振った。
『あの足の未練は中学生だったときの思いに依るものが大きい。だから母校で一番足の速い生徒を厳選していた。その子に足の本来の持ち主の悲願を達成させる為にね。そして足は遊嬉ちゃんを選んだ。それどころか遊嬉ちゃん自身がそれに納得したことで、結びつきが強くなってしまった。残念だけど、もう完走させること以外にアレを剥がす方法なんてないだろうねー』
「大会に出たら確実に危険にさらされるのにか」
『そうだよ。だけど、ここで遊嬉ちゃんを棄権させたらまた来年への持越しだ。一時的に騒ぎは収まるだろうけど、そんなの問題の先送りじゃないかな? 君たちはそれでいいのかい?』
「それは……」
「よくない……けど」
 魅玄の言う事があまりにも正論すぎて、乙瓜も魔鬼も言葉を詰まらせた。
 その時だった。

「やれやれ、辛気臭い顔してどうしたんだい君たちは」
 聞き覚えのある声。そしてポンと軽い衝撃が二人の肩を叩く。
「うぇ!?」
「ふにゃっ!!?」
 二人は各々短い悲鳴を上げた。それも当然だ。俯いていたところに突然の不意打ちを喰らったのだから。遅れて振り向くと、そこにはやはり彼女らの知った顔がいた。
「何だ、そんなに驚くこともないじゃあないか。全く、大丈夫なのかい君たちは」
 そう言って呆れたような顔をする人物は、炎のように赤く光る隻眼でじとりと二人を見つめた。
「え、おま、火遠!?」
「やあ」
 改めて驚きの声を上げる魔鬼に対し、火遠は片手を挙げて軽く挨拶した。彼は普段の寒そうな姿ではなく、大勢の人だかりの中に交じっても違和感のないジャージ姿だった。普段炎のように燃え盛っている特徴的な髪の毛は落ち着いた暗色に変わっており、長いもみあげはニット帽の中にすっぽり収められているようだった。魔鬼が火遠を見て驚いたのは、そんな姿のせいでもある。
 一方の乙瓜は、夏の頃の経験もあるからかさして驚いた様子も見せず、冷めた目で火遠を見つめながら言った。
「今更何しに来たんだ。こっちは真面目に色々考えてるのに」
「何しに来たとはとんだ御挨拶だなあ。こっちこそ色々と考えてきてやったのに」
「色々って何だよ」
「そっちこそ、どんな色々があるって言うんだい?」
 頬を膨らませる乙瓜を見て、火遠はクスクスと笑った。
「怪事の正体と目的、そしてとんでもない副作用については、そこのソイツの手助けで上手く突き止めたようだね」
『いやー、こいつらときたら頭が悪くて理解させるのに大分かかったけどねェー』
 火遠に指さされた先で、鏡の中の怪がやれやれと手を肩を竦めた。
 当の鏡を持っている乙瓜は、魅玄の言動に割とイラっときたが、直接何かを言う事はなかった。その代わり晴天の空から差し込む日光に鏡面を向けてやったが。
『うわぁ!? ちょ、やめて眩しい!! 目が! 目がァ!』
 太陽に向けているので直接その姿を拝むことはできないが、恐らく鏡の中でのた打ち回っているだろう魅玄を想像して乙瓜はにやりとした。ざまあみやがれ、と。
 その様子を見て隣に立つ魔鬼はぽつりと呟いた。
「大分扱いに慣れたな……」
「むしろ慣れてもらわないと困る」
 火遠はククッと笑った。久しぶりにその様子を見て、魔鬼は相変わらずよく笑う奴だなぁと思うと同時に、彼が今になって現れた理由について考えを巡らせていた。

 この頃怪事の解決にあまり関与しないにせよ、今このタイミングで自分たちの前に現れたという事は、多分無意味なことではないのだろう、と。
 そう考えながら凝視する視線に気づいたのか、乙瓜達を見て笑っていた火遠から反応が返ってきた。
「何だい? 人の事をまじまじと見つめちゃってさ」
「……そろそろ教えてくれてもいいんじゃないか?」
「教える、とは?」
「こちとら遊嬉ともだちの運命かかってんだから何か良い案があるなら教えろ。ってこと」
 魔鬼はそう言って、グラウンドに立つ時計台を見た。スタート時間まであと10分ほど。あと数分もしたら選手はスタート地点の路上に集合しなくてはならないので、実質もう時間がない。
「ああ、そのことか」
 火遠も魔鬼と同じように時計を見、「もう時間もないしね」と呟いた。それから相変わらず魅玄へのお仕置きを続ける乙瓜の方を向いて溜息を零し、彼女を呼んだ。
「乙瓜」
「ん? 何だ?」
「遊んでないで少し話を聞いてくれないかい。遊嬉を助けたいだろ?」
「…………。策があるのか?」
 乙瓜はサッと真剣な表情に戻り、天高く掲げていた鏡を下した。鏡の中の魅玄はほっと一息つくが、直後乱暴な勢いで元のポケットの中に仕舞いこまれてしまった。
 火遠は乙瓜と魔鬼の二人を手招きし、できるだけ自分の近くまで寄せた。内緒話でもするのかという距離に二人を寄せた後、彼は周りを二三度確認してからこう言った。

「一度しか言わないからよく聞けよ? ――二人には反則ズルをしてもらいます」

「はあッ!!?」
「えええッ!??」
「しっ。静かに」
 火遠は今にも叫びだしそうな二人の口をサッと塞ぎ、一人一人にゆっくりと視線を遣った。
 いいか、絶対に叫ぶなよ。……そう言わんばかりの視線に、二人とも顔を見合わせた。火遠はその様子を見てニヤリと笑い、彼女らの口を塞ぐ手を下した。そしてまた声のトーンを落とし、話を再開した。
「いいかい? 足の怪事はマラソンを完走しさえすれば勝手に成仏する。つまり遊嬉の奴を無事に完走させればいい。……要するに、遊嬉の前に通り魔が出て来ようもんならブッ叩き、トラックが来ようもんなら弾き返し、落石があったら破壊して何が何でも完走させればいいワケさ。分かったかい?」
「……マテマテ、言ってること無茶苦茶過ぎやしねぇか?」
「そーだそーだ。簡単に言ってくれてるけどトラックとか実際どうしようもないぞ?」
 二人の抗議を受け、火遠は「これだから……」と溜息を吐いた。
「何の為の魔法と護符フダの力だよ。何が来ようが恐れることもないだろう、君たちが遊嬉の僅かに後方を走りつつ護衛をするんだ」
「私が? 私たちがっ!? あの遊嬉の後ろに付けって言うのか?」
 信じられない事を聞いたような顔をする魔鬼に、火遠は「ああ」と答えた。
「だから言ったろう、反則してもらうって。時に魔鬼、君は確か身体強化の魔法が使えたね?」
「う……。確かに使えるけど……」
「なら遊嬉の後ろに付くことくらいワケないじゃあないか。あと、乙瓜は――」
「俺はそんなん使えねぇからなっ」
「まあ拗ねるなって。君には俺の力を僅かに・・・分けてやろう。遊嬉の奴の僅かに後ろを追い続けることくらいは簡単だろうぜ?」
 そう言って、火遠は乙瓜の額に指を当てた。

『新規契約条項。五つ。この者に我の力の一部を限定的に貸与たいよすること。追加承認、追加完了』

 火遠が文句を唱える間、宛てられた指先は淡く光り、乙瓜の額にかかった前髪が風もないのにふわりと舞い上がっていた。
 その間中乙瓜はずっと、契約を交わしたあの夜のように暖かい何かが額を通して流れ込み、全身に伝わって行くのを感じていた。
(――暖けぇ。まるで布団の中に居るみたいにポカポカしてきやがる……)
 全身を包む心地よい暖かさに、乙瓜はついウトウトしかかる。しかし契約の文句が終わると同時に冬の冷たい空気の感覚を思い出し、彼女の目は一気に冴えた。

「これで完了だ」
 火遠は一仕事終えたようにすっきりした口ぶりでそう言うと、乙瓜と魔鬼から一歩離れ、時計を確認した。
 時計の針は先程確認した時よりもいくらか進み、選手たちがぼちぼちスタート地点へと集まりだす時間となっていた。
「じゃあ俺はこの辺で。君たちの健闘を祈るよ」
 精々がんばれよ、と背を向ける火遠を、魔鬼が呼び止める。
「ちょっとまてまて! 観客もいるなかで魔法とか札とか使ったらどう考えても悪目立ちするだろ! どうすんのさ!?」
 そう叫ぶ魔鬼に火遠は振り返ると、悪巧みでもするような顔で笑った。
「言ったじゃないか、何かあったら俺たちと学校妖怪がサポートするって。なぁに、君たちが気にすることはない。行けばわかるさ、ってね」
 火遠は意味ありげに言い残すと、今度こそひらひらと手を振りながら行ってしまった。

「気にすることは無いって言われてもなぁ……」
 そう不安げに呟く魔鬼のジャージの袖を、乙瓜がグイと引っ張った。
「何さ?」
「いや、もう集まり始めてるぞ。出だしで遊嬉を見失ったら洒落にならん」
「ん、ああ。確かにそうか。よし……」
 魔鬼は辺りを少し見回し、移動を開始した遊嬉を発見する。
 他の友人と冗談でも言い合っているのか、楽しそうに笑うその顔はとても取り憑かれているようには思えない。
(遊嬉……。お前の考えはわからんけど、ヤバいもの憑けたまま走るっていうなら私たちが全力で守るからね――)
 そう決意した魔鬼は、乙瓜と共に遊嬉を追った。



 好天の下、スタートの合図が鳴り響く。
 一斉に駆けだすランナーたちの地鳴りのような足音と共に、乾燥した大気に土埃が舞い上がった。

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