怪事戯話
第十一怪・未練執念トラッカー⑦

 文化センターを出てすぐに広がる森林沿いの新道を、大勢のランナーが駆け抜けて行く。
 スタート直後でまだ疲労も無いせいか、参加するランナーの間には殆ど開きも無く、まるで敵陣営に突撃する武士のように密集していた。
 そんな、本気で足を進める彼らに申し訳なく思いながら、魔鬼はぼそりと呪文を唱えた。身体強化の魔法である。
 唱え終わると、魔鬼の足取りは途端に軽くなった。体力を温存しつつ堅実に走って行く人々の群れを、空駆ける鳥のようにスイスイと追い抜いて行く。
 やがて魔鬼の視界が開け、この先行くべき道が明確に視認できるようになる。前方を遮っていた人々の集団から抜けたのだ。彼女の更に前方には、とっくの昔に群れを抜けて先陣を切って走るトップランナー達の姿が点在していた。
 その中に遊嬉の姿を見つけ、魔鬼は彼女に接近するためにスピードを上げる。彼女がチラリと見遣った左方では、同じように人の波を潜り抜けて一歩飛び出す乙瓜の姿が見えた。

「遊嬉っ……!」
 魔鬼の叫びに、遊嬉は僅かに振り返った。
「二人そろってあたしを抜かす気? いーけど、急ごしらえの手品じゃあたしの事は抜かせないよ?」
「違う! そういうのじゃなくて――」
「あーうん、わかってるわかってる。あたしから幽霊あし引き離すって話っしょ? 悪いけど、何度も言ったようにお断りだかんね」
 そう言うと、遊嬉は急にぐいっとスピードを上げた。魔法と妖怪に借りた力でやっと追いついたものを更に振り切れる力があることに、二人は驚かずにはいかれない。
(所詮は急ごしらえ……素のスペックが低い所に加算しても本物には敵わないのか――?)
 どんどん距離を開けて行く遊嬉を見て、魔鬼は歯ぎしりせずにはいられなかった。
 その横を並走する乙瓜が叫ぶ。
「お前ッ、自分がどうなるかわかってるのか!」
 その言葉に、遊嬉は何も言わない。ただ左手を高く挙げ、ひらひらと振りながらカーブの向こうに消えた。
「……あンの馬鹿野郎」
 乙瓜ははっきりと舌打ちした。それから魔鬼の方を見遣って言う。
「そろそろ崖沿いの道に入るぞ。……念のため」
「わかってる」
 二人は頷きあい、無言で速度を上げる。この先の道は緩やかなカーブが連続しており、片側が急な崖になっている。一応ガードレールが設置してあるものの、一部途切れている地点がある為に自転車・自動車を問わずに気を付けていないと思わぬ事故に合う道であることが知られている。
 今のところ歩行していて転落したという話はないものの、現在運が最低に悪くなっている遊嬉のことだ。何事も起こらないとは言い切れない。
 視界から消えた遊嬉を一秒でも早く再捕捉しなければならない。二人は目の前に広がるカーブを駆け抜けた。
「げっ」
 丁度カーブを曲がりきった瞬間、乙瓜が短く嫌そうな声を漏らす。
 片側でそれを聞いていた魔鬼は、しかし当初の命題を果たす為、わき目も振らずに「どうした?」とだけ問う。
 乙瓜は魔鬼の視界の隅で二三度頭を振った後、まるで何かから目を逸らすようにしっかりと前を向き、そして言った。
「……居るんだよ、この道ここ。幽霊が」
「あんだって?」
 怪訝な声を上げた魔鬼は、しかし直後に道の前方にとある看板を発見してしまう。

 ――『死亡事故多発地点』。

「うげ」
 それを視界に認めた瞬間、彼女もまた先の乙瓜と同じような声を出した。
「事故が多いって聞いてたけど、ガチなのか……」
 魔鬼の呟きに、乙瓜は「ああ」と頷いた。
「崖の下から碌な形も持ってないような輩が手を伸ばしてやがる。あんまり近づきすぎるなよ、引っ張られんぞ」
「はぁ……把握」
 魔鬼は溜息を吐きながら頷いた。
 それとほぼ同時だろうか。二人が再び遊嬉の姿を見つけたのは。
 何度目かのカーブを超えて、少しだけ良くなった視界の先に走る彼女は、今のところまだ健在だった。けれど乙瓜は、普通に走行しているようにしか見えない彼女の前方にあらぬものを見て顔色を変える。
 ――乙瓜が見たもの。それは丁度ガードレールの途切れた先から誘うように伸びる青白い手だった。
 それも一本や二本ではなく、何十本もの群体だ。蛇のように腕を長く伸ばしてぐれぐねと蠢いているそれらは、遊嬉の進行方向に大きく広がっていて、あたかも獲物がかかるのを待ち受ける蜘蛛のように見えた。
「恰好の餌食ってわけかい」
 乙瓜はまた大きく舌打ちをすると、左手側のジャージの袖を右の人差し指で指でグイと広げた。
「召喚、重符五組七枚、願いましては!」
 宣誓と同時に、袖の隙間から数十枚の札が現れる。文字通り、忽然と現れた・・・・・・のだ。彼女がさっと取り出した札の厚さは、咄嗟に隙間から取り出せるようなものではない。少なくとも、それを横で見ていた魔鬼にはそう思えた。
 けれど、魔法使いの端くれである魔鬼は察した。それが当人の努力によるものか、それとも火遠との契約の範疇で身に着けた力であるのかまではわからないが、乙瓜はその宣言通りに札を「召喚」したのだと。
 札を取った乙瓜はそれらを掴むと、流れるように投射した。

流星ながれぼし!」

 宣言と共に打ち出された札は放たれた矢の如き勢いで腕目がけて飛んで行った。
 その様子は遊嬉にもはっきりと見えていた。
「やれやれ、なぁんも要らないって言ってるのになァ」
 遊嬉は呆れたように笑うと、札の直撃を受け、目の前で崩れ落ちつつある腕の怪物をすり抜ける。そして走行速度を全く緩めないまま第一の補給地点を通過し、彼女はまた先へ先へと走りを続けた。

「なんだよあいつ、俺たちみたいにチート使ってるわけじゃないのに底なしかよ……!」
 それを見ていた乙瓜は呆れかえったように呟いた。火遠の力を借りているとはいえ、素が運動音痴なせいなのか、まだ五分の一しか走っていないというのにも関わらず、軽く疲労を感じていた。
 片側に立つ魔鬼も同様、彼女の場合は強化する代わりに自分の魔力も消費するので、連続使用することを考えると乙瓜よりいくらかきつそうだ。
 ――本当に大丈夫なのか。乙瓜が軽く不安を覚えつつも、それでも遊嬉を放っておくわけにはいかず。遊嬉にやや遅れて補給地点を超えようとした、その時。

「あらあら。素通りなんてもったいない、ちょっと寄っていきなさいよ」

 聞き覚えのある声に呼び止められ、二人は急ブレーキをかけたように立ち止まる。驚いた顔で振り返る二人の視線の先には、補給ポイントでニコニコしながら手を振っている花子さんの姿があった。
「は、花子さん!? 何してんの!?」
「私だけじゃないわよー」
 詰め寄る魔鬼に、花子さんはウフフと笑って隣を指さした。そこかなり不機嫌な顔をした闇子さんの姿があった。二人もまた火遠のように普段の出で立ちではなく、赤と黒のジャージ姿だった。
「……あたしは別に来たくて来たわけじゃねーし」
 そう言って、闇子さんはソッポを向いた。
「あんなこと言ってるけど、本当は一番ノリ気だったのよ?」
 花子さんは闇子さんの様子を窺いながら、魔鬼達にだけ聞こえるように耳打ちした。
「それにしたって、どうして二人がここにいるんだ? 本来の補給係って、そこでノビてる人たちだろ?」
 乙瓜は怪訝そうに言いながら、花子さんたちの後ろでスヤスヤと眠っている本来の実行委員であろう人々を指さした。
「あー、その人たちにはちょっとお休みしてもらってるだけよー。今は私たちが補給係。咽渇いてなぁい? ドリンク飲む?」
「……遠慮しとく。ていうか、話があるなら早くしてくれ。遊嬉が行っちまうじゃないか」
「あーらー。残念」
 花子さんは本当に残念そうな顔をすると、差し出したプラスチックカップを引っ込めた。その肩に寄りかかりながら闇子さんは言う。
「ばぁか、クソ真面目に補給係なんてやらなくていーんだよ。あたしらはあたしらの役目を果たして撤収。そーだろ?」
「役目だと?」
「そ。あんたらは、あの遊嬉って子を守りたいんだろー? だけど、あの子の後ろに付くなんてムリムリムリ。だって元俊足の霊が憑いてんだぜー? あんたらが自分の力にチート上乗せしたみたいに、元々運動能力の高い遊嬉にも能力上乗せが起こってる。つまり、今のあいつは最強最速、ちょっとやそっとじゃ追いつけねーって話」
 闇子さんはそう言って肩を竦めた。
「……なっ? ――そうか、道理で尋常じゃないと思ったら、遊嬉にも補正が入ってたのかよ」
 どんなに追いかけてもするりと先へ先へと行かれてしまう理由に気付き、乙瓜は頭を抱えた。
「えええ……。それじゃあ、そんなのどうしようもないじゃんか」
 不満そうに口を曲げる魔鬼に、花子さんはクスリと笑った。
「だから私たちが来たんじゃない。火遠に聞かなかった? 反則してもらうって。ねぇヤミちゃん?」
「ふん。……いいか、これからあたしが空間に穴を開けて、あんたらを遊嬉の僅かに後ろに出す。それが支援その一、ショートカット。……どう、準備はいーい?」
 そういう闇子さんの両手の間には、何か黒い物体が渦巻いている。どうやら有無を言わさずにやる気らしい。乙瓜と魔鬼の二人は、「火遠の言ってたサポートってこういうことか」と察し、互いに顔を見合わせて頷く。そして同時に宣言った。
「「いつでもこい!」」
 二人の言葉に闇子さんはニヤリと笑い、手中の黒塊を解放する。
「その意義やよし! 落ちるもぐら穴の直通路モール・ホール・ショートカット!」
 忽ち二人の足元に黒い空間が開き、二人の身体が吸い込まれて行く。視えない滑り台を進むように落ちて行く二人を、花子さんの声が追いかけた。

「次の仲間にもよろしくねー」



 それから二人は、補給地点ごとに居る学校妖怪の力を借りながら遊嬉を追走し、彼女に襲い掛かる危険を払いながら進んでいった。そしていよいよ最後の補給地点を超えたラスト2km。広い道の両脇は応団幕を持った参加者の家族や観光客で埋め尽くされている。大盛り上がりでトップ集団に声援を浴びせる彼らに手を振られながら、ショートカットしながら進んできた乙瓜と魔鬼の心中は複雑だった。
 ――だが、ここを無事に抜ければ遊嬉に憑いた足の未練は成仏する。あと少しの辛抱だと、二人とも気を引き締めて遊嬉を追い続けた。
 このまま何もなければいいな。乙瓜は思う。
 物理的に危険な道や霊的に危険な箇所は、ほぼ切り抜けたといっても過言ではない。それに、最後のこの道は古霊町の中でも最も新しく完成した新道。見晴しもよくほぼ一直線で、何より他の地点よりも警備が厳重だ。遊嬉はもうすぐゴールまで1kmを切る。トラックが突っ込んでくる様子も無い。
 ――いける。やりきった。大丈夫。
 二人が確信めいたものを感じた。――次の瞬間。

 突然周囲がどよめきはじめる。どこかから叫び声があがる。直後、ゴール付近で壁のように密集していた人の列の一角が崩れる。そして、その隙間から軽トラックが顔を出した。
 騒然となる観客たち。軽トラは暴れ馬のように滅茶苦茶に動き、人々を四方に散らしている。そのバンパーは大きく凹んでおり、まるで事故車のようだった。

「……ッ!? どういうことだ……っ」
 乙瓜は目を疑った。彼女の目には、そのトラックは忽然と出現したようにしか見えなかったからだ。
(つうか、現れたところに繋がってる道なんてねぇぞ……!)
 きっと魔鬼も同じようなことを考えているだろう。同じく信じられないものを見たと言わんばかりの目で歩みを止めている。
 愕然とする二人。その隣に、唐突に気配が生じた。
「成程、未練はここにもあったのか」
「火遠!」
 再び現れた火遠はふわりと宙に浮かぶ。トラックを指さしてざわめく人々はそのことに全く驚いた様子がない。恐らくいつだかの時のように、彼らには火遠の姿が見えていないのだろう。
「どういうことなのさ火遠、あのトラック一体なんなんだ!」
 そう言いながら魔鬼の視線はトラックに向けられたままだ。否、トラックと言うのは語弊がある。魔鬼の視線は遊嬉に向けられていた。
 遊嬉は、この混乱の中にあっても走ることを止めようとはしなかった。何人かの観客が危ないと声を上げるのにも関わらず、止めに入った人すらスイスイと潜り抜けて、自ら暴走トラックに突っ込もうとしている。
 焦る魔鬼に釣られるように火遠もまた遊嬉を見、「ほう」と一言だけ呟いた。
「ほう、じゃねーよ! あのままだと遊嬉が死んじまう!」
 叫び、追いつけないとわかっていながらも再び走り出そうとする乙瓜を、火遠は片手で制する。
「何で止めるんだ!」
 本当に噛み付かんばかりの勢いで怒る乙瓜に、火遠は静かに言った。

「見ていな」


 戮飢遊嬉は走っていた。一緒に走ってきたトップ集団たちが突如現れた暴れトラックに臆し、逃げ出してしまったあとも、ゴール目がけて走り続けた。
 いよいよトラックに近づく。トラックは、彼女の接近に気付いたようにピタリと動きを止め、遊嬉に向かって緩やかに向きを変える。
 そしてブオンとエンジン音を鳴らすと、獲物を見つけた肉食動物のように、遊嬉目がけて急発進した。
「いやぁ、待ってたよこの瞬間を」
 しかし遊嬉は、明らかな危機を前にしてニヒヒと笑った。そして自らの足に呼びかけるように言う。
「待ってな。三十年越しのゴール、連れてってあげるからね!」

 そうして、あたかも見得を切るように右手を大きく突出し、吼えるように叫んだ。

退魔宝具たいまほうぐ崩魔刀ほうまとう!」

 忽ち遊嬉の手に火柱が上がる。激しい閃光が生じ、観客たちは思わず目を塞いだ。
 その光の中から、一振りのつるぎが現れる。白銀の刀身を輝かせ、魔を裁断し崩壊させる神憑りの刃・崩魔刀が。
 遊嬉はそれを両手に取り、真横に構えた。そして踏ん張るように地面に足を付け、突っ込んでくるトラックに刃を向けたのである。

「綺麗ッ! さっぱりッ! 往生しやがれぇッッ!!!」

 それは一瞬。本当に一瞬のことだった。
 目を塞いでいた観客には、恐らく何が起こったかすらわかるまい。遠くで見ていた観客も首をかしげ、先程までとは違うどよめきが起こっている。
 だがしかし、魔鬼と乙瓜は見たのだ。遊嬉が自身に向かってくるトラックを、洋画のトンデモ日本人さながらに薙ぎ払ったのを。そして横に真っ二つにされたトラックが、跡形もなく消えてしまうのを。
 呆然とする二人。その横で火遠が呟いた。「これで全部終わったな」と。



 トップ集団ゴール寸前にあんな騒ぎがあったのにも関わらず、なんと大会は中断されなかった。あの騒ぎに関しては怪我人もなく、トラックが暴れていたという証拠すらなく、目撃者たちは暫く首をひねっていたが、昼になる頃には誰も話題に出さなくなった。
 無事に最後の一人がゴールした頃には、実行委員会が参加者全員に配っている缶ジュースを飲みながら、どこそこ構わず腰かけて健闘を讃えあう参加者の姿があった。
 あの後素の実力で走り、後続に抜かされながらもゴールした乙瓜と魔鬼も、グラウンドに下りる階段に腰かけて、配られたジュースを飲んでいる。
「妖怪の力ってすごい。改めてそうおもった」
 アルミ缶を傾けながら、乙瓜はしみじみと言った。
「みんな白昼夢だと思い込んでるらしいから相当だわ……」
 魔鬼も辺りを見渡しながらそう言うと、同じように青い缶を傾けた。
 事件が大事にならなかったのは、二人の反則を支援していた学校妖怪たちが、大会を中止させないために工作したからに他ならない。きっと今頃ほとんどの人間は白昼夢だと思っている筈だ。
 その甲斐あって遊嬉は無事にゴールすることができたのだから、工作様様だろう。事件のせいで歴戦のランナーが皆一様に尻餅をついたり逆走したりしたが為に、誰よりも早くゴールすることができた彼女は、今頃町の広報誌の取材を受けている最中だろう。

「結局、あのトラックも未練だったんだな」
 乙瓜がぽつりと呟く。
 あの後火遠は言った。足がそうだったように、あのトラックもまた三十年前の未練のようなものなのだと。
 足の持ち主だった生徒は「あの時トラックが来なければ、あの時トラックを避けられれば」と繰り返し後悔し続けたに違いない。それこそ、悪夢に見る程何度も何度もだ。そんな彼の未練と憎悪の対象となった「トラック」は、大霊道の障気によって霊体を得るのと同時に、悪霊のような何かとして形成されてしまったのではないかと。
 そう。実体のない幽霊のようなものだから、崩魔刀の力でそれを斬ることができたのである。

「……足は悲願を遂げ、トラックは霧散し。三十年続いた一つの因縁が終わったっちゃ終わったけど、これで本当に幸せなのかねぇ」
 乙瓜は溜息を吐きながら空を見た。相変わらず雲一つない。魔鬼も同じように空を見た。

 二人は気付いてしまったのだ。ゴール付近の観客の中に、確かに。両足の無い車椅子の中年の男が居るのを。
 待ち受けていた教師陣に抱きしめられ、褒め称えられる遊嬉を見ていた彼の表情は。……多分、今の彼女達には言い表すことができない。

「空になっちゃったなー」
 呟きながら缶を振る魔鬼の横を、ピンク色の日傘が通り過ぎた。
 何かが居たような気がして乙瓜が振り返るが、そこには誰も居ない。

 ――だから、きっと気のせいだろう。



(第十一怪・未練執念トラッカー・完)

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