怪事戯話
第十一怪・未練執念トラッカー⑤

「どうしたのさみんな、そんな血相変えて」
 保健室に雪崩れ込んだ美術部の面々を迎えたのは、きょとんとした遊嬉の顔だった。
 不思議そうな顔で五人を見つめ返す彼女は、パイプ椅子に座らせた女子の素足に包帯を巻いて処置している途中のようだった。もう一人、先程遊嬉と一緒にその女子を運んだと思しき男子生徒は、手当が得意でないからなのか、立ち尽くしてオロオロしているだけだった。保健室内に養護教諭の姿はないが、遊嬉たちが鍵を取りに戻った様子は見ていないのでおそらく小用でも足しているのだろう。
「遊嬉、その子どうしたの」
 手当されている女生徒を見つつ魔鬼が言う。
「軽い捻挫っぽい。あたしの後ろ走ってたんだけどスッ転んじゃってさ、まあ週末の大会までには何とかなるでっしょい」
 遊嬉はそう言って笑うが、当の怪我人の青褪めた顔は、怪我の程度の割に深刻そうだ。更には小刻みに震えているようにも見える。
 ――ああ、やっぱり。
 魔鬼は確信した。考えずとも簡単な事だ。教師が言及するほどに大きくなった噂の事を考えれば、転んだだけでこんな表情をする理由なんて一つしかない。
聞いたんだね・・・・・・
 魔鬼は言った。件の彼女はこくりと頷いた。
 彼女が頷くと同時、乙瓜は手に持っていた鏡をくるりと回し、鏡面をさりげなく彼女達に向けた。
『いるねえ、ビンゴだ』
 鏡の中から魅玄の声が、魔鬼や乙瓜たちだけに聞こえるように囁かれる。
「どっちだ」
 乙瓜が呟く。鏡の中の存在はくくっと小さく笑う。
『悪い予感程よくあたる。乙瓜ちゃんたち全員がそうかもしれないと思いつつ、そうであってほしくないと思っているその人が答えだよ』
 そう言うと、鏡はひとりでに乙瓜の方へ向き直った。
『見てみなよ』
 声に促されるまま鏡面を覗き込む乙瓜。彼女が見たのは自分の顔ではなく、写真でも撮ったかのように切り取られた景色。
 屈んで手当をする体勢の遊嬉の姿。その隣には、青白く半透明な何かが写し出されている。
 ――それは足。膝から上が溶けたように掻き消えているが、運動靴をとソックスを履いた二本のそれは、紛れも無く人間の足だった。



「で、あれは一体どういうことなんだよ」
 美術室に戻った五人は、一つの机を囲むようにして席に着いていた。机の中心には花子さんの鏡、その鏡面には魅玄の姿が映し出されている。
「俺の目でも遊嬉の周囲に異常らしき以上は見当たらなかったんだぞ。あんな如何にも『ザ・心霊』と言わんばかりの足があったら見逃さない筈なんだが」
 乙瓜は言う。彼女は実際あの後遊嬉の周囲をまじまじと観察したのだが、火遠と契約した右目が怪しい影を捉えることはなかった。訝しむような彼女の言葉を受けて、鏡の中の魅玄は苦笑いする。
『視えなかった、それも仕方ないね。だってこの画はあくまでわかりやすく表現されただけに過ぎないし。足の幽霊は実際はお友達の周囲に居たわけじゃないよ』
「……?」
 首を傾げる一同に、魅玄は続けた。
『幽霊は今、遊嬉ちゃんの足に取り憑いているよ。殆ど違和感なく同化してしまっているから、半端な目じゃ異常を捉える事なんてできないさ』
「なんだって……?」
 五人は驚き、顔を見合わせた。暫しの後、眞虚が言う。
「じゃあ……遊嬉ちゃんは今、幽霊オバケに取り憑かれてるってこと……?」
『残念だけどそういうことになるねぇ。本人は全然気づいてないっぽいけれど』
「そんな、それじゃあ…………大丈夫、なの? 大丈夫、だよね……?」
『アレはそこのおデコちゃんが想像したみたいに人から人へ憑くモノだからね、今までの奴がそうだったように、憑いている事が命に関わるなんてことはないんじゃないの』
「おデコちゃん? あたしのこと?」
 杏虎が自分を指さすと、鏡の中の魅玄はコクリと頷いた。杏虎は溜息を吐いた。
「はぁ。別に間違ってないんだけど、あたしの名前は杏虎だから。……話し戻すけど、つまり遊嬉に憑いてるモノは遊嬉を取り殺したりはしない、そういう事でオーケー?」
『オーケーオーケー。その認識で間違ってないよ、杏虎ちゃん』
 魅玄のその言葉に、眞虚はほっと胸を撫で下ろした。けれど杏虎は言及する。
「取り憑いた主を取り殺すでもなく、短期間で人から人へ移り続ける霊。それは一体何が目的なのさ? それにあんたは『命に関わるなんてことはない』って云ったよね? それってつまり、命に関わらない程度の危害は加えるかも知れないってことじゃないの? 違う?」

 ――沈黙。

 杏虎の言葉に彼女達五人の周りだけが異様な静けさに包まれる。同じ教室内では二年の部員たちがいつものように実の無い雑談をしているにも関わらず、まるで見えない壁に遮られているかのように。折角安堵の表情を見せた眞虚の顔には、再び不安の影が差している。
「霊の目的、って……」
 恐る恐る魔鬼が口を開く。魅玄はニヤリとしてそれに答えた。
『それはずばり、マラソン大会だよ。この鏡は照魔鏡。霊の正体を暴く道具。過去の全てを幻影として映し出す事の出来るこの僕が、ただ心霊画像を写して終わりなんて、あるわけないじゃないか。だから理由を知っている。だから目的を知っている』
 流れるようにつらつらと語る彼に、乙瓜は身を乗り出して叫んだ。
「知っているだと? なら話せ! 知る限り全部を話せ!」
『言われなくとも。だってそれがあの人に仰せつかった僕の仕事だもの』
 魅玄はそこで一旦言葉を区切って、すぅと息を吸った。
『校庭の追い越し幽霊の目的は、より足の速い人間に憑いてマラソン大会に出場すること! 奴は走っている生徒の中からより速い生徒から生徒へ梯子はしごするように憑き続ける。転移の条件は憑依した主が誰かに追い抜かれること。そうやってより速いやつを厳選し、今は君たちのお友達に憑いている。そしてその正体は! 過去にマラソン大会に出場し、途中のアクシデントで二度と走ることのできなくなった生徒の未練!』
「未練だと?」
『そう。本来ならそれは幽霊でもなんでもない、未練の塊だよ。誰か聞いたことはないかな? 過去この町で行われたマラソン大会で、酔った軽トラック運転手がランナーの列に突っ込んだって話をさ』
 その話は美術部全員に心当たりがあった。マラソン練習が始まる前に、珍しく先輩たちが語ってくれた『怖い話』があったからだ。

 それはこの学校に伝わる、怖くて悲しい話。
 三十年ほど昔、この学校にまだ「陸上部」があった頃。そこにはとても足の速い生徒が居て、近隣の中学校には彼に追いつける者は無く無敵そのもの。夢は五輪で活躍する陸上選手であり、三年の秋には特待生として一足先に進学先も決まっていたという。
 そして迎えた三年最後のマラソン大会、彼は生徒たちや一般参加者を次々と抜いてトップに躍り出るが、そこに酔っ払いの軽トラックが交通規制を超えて乱入する。
 彼は運悪くそのトラックに轢かれ重体となるも、即座に病院に運ばれたため一命を取り留める。だが両足は損傷が酷く切断することとなり、彼は陸上選手への夢を泣く泣く断念した。
 それからと言うもの、切断された足だけの幽霊が夜な夜な校庭を走り続けているのだという。

 だがしかし、美術部一年の面々が先輩からこの話を聞いたのは、噂が始まる前の事。それまでも部活で校庭を走る生徒は居たが、誰も足だけの幽霊を見たなんて話はしていない。
 話通り三十年前から存在する怪事ならば、何故今になって動き出したのか。
「なんで今更……?」
 全員の胸中を代表するように魔鬼が呟いた言葉に魅玄は答えた。
『大霊道から漏れ出す障気が、霊未満の存在まで活性化させたんじゃないかな。噂止まりだった足の幽霊は、恐らく噂の大元たる彼自身が持っていた未練を取り込んで実体化したんだよ』
「未練……か。つまりこの噂にはモデルがいるのか」
「乙瓜ちゃん、私図書室のスクラップ帳で見たことあるよ。新聞にも載ったみたい……」
 乙瓜の呟きに眞虚が答えた。乙瓜は溜息を吐き、机上の机に呼びかけた。
「それでそれで、件の彼の未練っつーのがマラソン大会に出ることでいいのか?」
『正しくはマラソン大会を完走することだね』
「じゃあ、速い生徒に憑いて大会を完走すれば足の霊は離れるのか?」
『そうなんだろうけど、そう上手く行くかはわからないよー?』
「どういうことだ?」
 曖昧なその答えに、乙瓜は顔をしかめた。その隣の杏虎が険しい顔をする。
「……それが命に関わらない程度の危害につながるかも知れない事、なんでしょ?」
 魅玄はコクリと頷いて、ククっと笑い、そしてとんでもないことを口にする。

『僕はあの場で全てを見通した。……あの遊嬉ちゃんって子の運気、今どうなってると思う? 物凄く下がり始めてるんだ。これはおそらく足の幽霊本来の性質ではないし、目的とするところでもないんだろうけど、きっと事故にあったときの悪運をそのまま引きずっているんだろう。このまま遊嬉ちゃんの運気が下がり続ければ、マラソン大会当日には三十年前の彼とほぼ同じくらいになるんじゃないかな。……これがどういうことかと言うとね――』

「まさかッ!?」
 真っ先に気付いた深世の顔がみるみる青褪める。他の四人も一瞬言葉を失った。
 このまま足の幽霊が遊嬉から離れなかったら、遊嬉の運は、「不運」にも足を失った三十年前の生徒と重なる。
 彼は命こそ拾ったが、二本の足を失った。それに匹敵する不幸が、遊嬉を襲うというのか? 五人の背筋に冷たいものが走る。
「だ……大丈夫だよね? それまでに取り憑いてる幽霊を遊嬉ちゃんから引き離す事、できるよね?」
 鏡を持ち上げて縋るように言う眞虚に、魅玄は優しい声で言う。
『できるとも、大丈夫だよ眞虚ちゃん。ただし、――ね? 本人にその気があれば、だけど』
「え?」
 魅玄の言葉と共に背後からかかった影に、眞虚は顔を上げる。次の瞬間、眞虚は動揺した。否、眞虚だけではなく他の四人も一様に眞虚の背後を見て固まっている。
 ――その人物は、きょとんとした顔をして。

「だからどうしたのさ、そんなお化けでも見たような顔して」

 すっかり固まっている美術部五人を見、はっきりと言った。

「――離さないよ。あたしがこの足をゴールまで連れてってあげるまで。絶対にね」

 そう告げると、戮飢遊嬉はニカッと笑った。

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