怪事戯話
第七怪・影の来訪者⑦

「どうしたんだよ! なんでお前まで、しっかりしろよッ!!」
 立ち上がり、仮面のような無機質な笑顔を向ける魔鬼の肩を掴み揺さぶる乙瓜、しかしその表情は変わらず虚ろなままで、だらりと下がった腕は糸の切れた人形のようにぶらぶらと揺れる。
 周囲を取り囲む部員たちはケタケタと笑いながら手を前方に伸ばし、じわりじわりと乙瓜に迫ってきている。

「無駄よ! その子たちはみんな暗示で私の忠実な人形と化している。あなたの声は届かないわ!」
 火遠と刃で押し合ったまま七瓜は言う。
「そんな、冗談――」
「冗談じゃないわ。その証拠を見せてあげる。お行きなさい繰人形たち。私が行くまでその子を退屈させるんじゃないわよ!」
『ハァイ、七瓜サマ』
 七瓜の命令に、"人形"と化した部員たちは一斉に答え、そしてそれぞれの上着のポケットからごそごそと何かを取り出した。
 それは、この"美術室"という空間内に置いてはごくありふれた備品・アートナイフ。
 しくも五月の赤い月の晩に火遠の左目を潰したのと同じ凶器は乙瓜の周囲をぐるりと囲み、七瓜の持つ剣の光に照らされて刃先をキラリと光らせている。
 無機質な笑顔と無邪気な殺意に囲まれて、烏貝乙瓜は逃げ場を失ってしまった。
「一応言っておくけれど、操られているとはいえ凶器を持った生身の人間よ。立ち振る舞いを間違えば……わかってるわね?」
 ――怪我をする。しかも下手すればかすり傷どころの怪我じゃ済まないかもしれない。変なところに刺さったら最悪死ぬ。乙瓜はわかっていた。重々承知していた。七瓜はにやりとした。
(畜生、ちくしょう……! 卑怯な手段を使いやがって!)

『オ医者サンゴッコシヨー』
「くっ……!?」
 考える暇もなく、人形と化した魔鬼が、抑揚のない言葉と共に乙瓜の腕にナイフを振り下ろす。
 乙瓜は掴んだままの魔鬼の肩から手を離し、すんでのところで後ろに飛び退く。アートナイフは宙を切った。
『逃ゲチャダメダヨー』
 ダメダヨダメダヨーと他の部員もも続く。乙瓜はすり足で更に後退する。
 後退する上履きのかかとが障害物に当たり、乙瓜が振り向く先には銀色の流し台シンクが鈍く輝きを放っている。絵具を溶いたり流したりする都合から、美術室にはそれが備わっているのだ。
「みんな正気に戻ってくれ……来るんじゃない、来るんじゃない……!」
 乙瓜は流し台によじ登りながら更に後退する。流し台の後ろはもう窓だ。窓の外には豪雨と雷鳴の外界が広がっている。

(こんな天気の下に飛び出していきたくはねぇけど……)
 乙瓜は覚悟を決めて窓枠に手をかける。鍵は開いていた。――しかし開かない。
 案の定と言うか、毎度おなじみと言うか、美術室の空間は完全に閉ざされてしまっているようだ。助けを呼ぶことすらできないだろう。


傀儡かいらい化と空間閉鎖……系統は高級魔法の類か。呆れるほど容赦しないね」
 火遠はどん詰まりで背水の陣の乙瓜をチラと見遣った。
「乙瓜にあなたみたいな強力な後ろ盾が付いていなかったらあんな手使わないわ」
「ほぉ。成程、随分とこちらの事情に詳しいと見た。問おう、君の言うフロイライン・・・・・・とは?」
「教える義理は無いわ」
「だろうね」
 拮抗したせり合いが続く。しかし執念の力故か、それとも火遠が万全の状態でない故か、僅かに七瓜の方が押している。
 七瓜は少しずつ口角を釣り上げて更に腕に力を込めた。引く気はない。
「もう一度だけ言うわ。そこをどきなさい。あなたが如何程の存在かは知らないけれど、百襲媛モモソヒメの刃はあなたを完全に殺すわ」
「ならこちらからも言わせてもらおうか、この崩魔刀は初めからそのため・・・・に造られし刀。その刃は文字通り魔を持つ者を崩し滅する退魔の神器だとね……ッ!」
 火遠は言いながら、七瓜の剣を押し返しはじめる。
「手加減していたのね……?」
 七瓜が顔をしかめる。
「さァ、それはどうだか? 存外ギリギリかもしれないよ……ッ!」
 火遠の踏ん張りに押され、七瓜の剣の傾きが鈍角になった。

 一方、烏貝乙瓜は観念していた。
 追い詰められた窓から部員たちに両手両足を絡め取られて引きずりおろされ、最早身動きもとれず逃げることもままならない。
(これ完全に詰んだわ……)
 乙瓜は自分の状況を他人事のように感じながら、アートナイフを持って自分の上に馬乗りになる魔鬼の瞳を覗き込んだ。
 相変わらず生気がない。手足を押さえ込んでいる他の部員も元に戻る気配はない。
『イーツッカチャンガー悪インダー♪』
 完全に操られている魔法使いは、体を揺らして歌うように口ずさんだ。
『ワタシハ知ラナイ、何ニモ知ラナイ、イツカノ過去モ、背中ノ傷モ。知ラナイ、知ラナイ。何ニモ知ラナイ。アノ夜何ガアッタノカー♪』
「魔鬼……?」
『夜ノ学校トビオリター。イツカチャンハ悪イ子ダー。ダケドワタシハ何ニモ知ラナイ、知ラナイ』
 歌いながら、魔鬼はアートナイフを放り投げた。それは脚を押さえる杏虎の髪の毛を掠って数本落とし、床に突き刺さった。
 そして自由になった両手を乙瓜の首に回された。細い指が絡みつく。
『嘘ツキイツカハ隠シ事。いまじなりーふれんどハ誰ノ事? 本当ハソレハ誰ダッタ? 思イ出シテ、思イ出シテ……』
 巻きつく指に力が籠められ、乙瓜の首はじわじわと絞めつけられていく。それはやがてとても12歳の少女とは思ええない力に達し、乙瓜は苦悶の叫びを上げる。上げたつもりだ。しかしそれは殆ど声になっておらず、火遠には届かない。
 両腕も押さえつけられているから、魔鬼の手を振り払う事も出来ない。
(操られ……てるだけだ…………悪くない、魔鬼は……)
 喉を圧迫されて呼吸もままならず、次第次第に霞んでいく意識と視界の中、"人形"の顔で自分を覗き込む魔鬼を見て、乙瓜は五月からの出来事を思い出していた。
(そういやいっつも魔鬼に助けられてばっかりいたな……。何か知らないけど強くって、ここぞって時は大抵いつも近くにいて、時には背中預けたりして……。頼りになって、そんな奴に殺されるのかは……――殺されちゃうんだなぁ)
「魔……き…………」
 乙瓜の口から声が出た。絞り出して潰れたような言葉だった。けれど、それっきりだ。



 時同じくして、ポタポタと床に当たって跳ね返る水音があった。雨漏りの音ではない。いかに風雨が激しくとも、年に数回あるレベルだ。雨漏りが一階まで浸透するほど常識外の豪雨ではない。
 七瓜はその水音の正体に気付いていた。そして内心では恐怖に震えていた。そのせいか、剣を持つ力がやや緩んでいた。
 の出所は火遠だったからだ。正確には包帯で隠された彼の左半分の顔から。

 包帯のガーゼで吸収仕切れずあふれ出た赤い血が、どくどくと零れて床を濡らしていた。

 それに気づいた瞬間、七瓜は恐る恐る火遠の顔を凝視した。

 ――笑っている。

 草萼火遠は。片目を炎のように光らせて、口を三日月のように吊り上げて。……笑っていた。

 食い殺されてしまうかもしれない。
 七瓜の本能が警鐘を鳴らす。ここは一旦引くべきだと、煩いくらいに警告する。
 だけど七瓜は引けない。今更引き下がれない……!

「何なのよ……何なの……あなたは何なの……!」
 古今東西、こんな台詞を口にする者はやられ役と相場が決まっている。しかし七瓜は問わずにはいられなかった。正体不明の何者かに立ち向かっていく勇気なんて、たった12歳の少女にはなかった。
 それに対し、火遠は完全に瞳孔を開ききった顔で笑みながら、そしてこう答えるのだ。
「草萼火遠。妖怪を狩る妖怪。理の調停者まとめやく。――今はしがない、烏貝乙瓜・・の契約妖怪さ」
 乙瓜の名前を強調するように掲げ、火遠は七瓜の剣と交えた刃を思いっきり横に振り払った。咄嗟の事で七瓜の手から百襲媛が離れて弾き飛ばされ、やや離れた場所の天井に突き刺さる。
 あっという間に丸腰にされた七瓜は驚きと衝撃でぺたんとその場にへたり込む。その顔の先に、崩魔刀の白刃が無慈悲にも付きつけられる。
「お遊びの時間はここまでだ小娘レディ。さっさと部員たちの術を解いて降参した方が身の為だぜ?」
 火遠は淡々と告げる。七瓜は、しかし腰が抜けてまともに立ち上がることも退却することもできず、目の前にある凶器と目の前にある脅威を見て震えることしかできない。

 事態は暫く膠着こうちゃくするかと思われた。――しかし。

「あぁああああああアアああアァあああぁあああああアアアアああアァあああぁあああああああアああアアァああああああああぁぁぁあぁぁあぁぁァああぁぁぁぁああああァァアアあぁあァあッ!!!!!!」

 絶叫。
 同時に、どこかそう遠くない場所にでも落ちたのか、雷鳴と轟音と稲光がほぼ時間差なく炸裂する。
 すさまじい光に照らし出された窓の下、流し台の脇では。

 黒梅魔鬼が耳を塞ぎながら、喉が張り裂けんばかりの声で絶叫していた。



 ――ただ、暗黒があった。
 黒梅魔鬼はこの世ではないかのような浮遊感の中、暗黒の海の中を彷徨さまよていた。
(ゆ……め……?)
 ぼんやりとする意識の中、魔鬼は辺りを見渡す。何もない。しかし、徐々に頭上から光が差し込んでくるのに気付いた。
 なんとなく、そこまで行けるような気がして、魔鬼は光を目指す。

 たどり着いた先の光の中には、今度は真っ白が広がっていた。辺り一面真っ白で、しかし雪のような冷たさはなく、羊の毛のようにふわふわとしていた。
「変な夢……」
 魔鬼は呟く。
「そうね」
 その言葉に、返す者がいた。

「誰」
 魔鬼は振り向いた。その先には、少女がいた。
 栗毛に碧眼、頭に大きな白いリボンをつけて青いエプロンドレス風の服を着た、小奇麗な人形みたいな少女だった。手には何故か大きなフォークを持っている。
 魔鬼は、ちょっとだけ昔テレビで見た変身ヒロインっぽいなぁと思った。そして思ったことはそのまま口からこぼれ出していた。
「夢の中に魔法少女が出てきた……」
「それはちょっと違うわねェ。ここは確かに夢の中だけれど、私は魔法少女じゃないですもん」
 少女は残念でしたと言ってニカッと笑った。
「私は夢想の悪魔。夢の世界の支配者。私は全人類の夢想を覗き、全人類の夢想を除く、地獄の偉大な領主サマ。……だったんだけどぉ、今はしがない魔女の小間使いってとこかな。まーしかたないわね~」
 悪魔を名乗った少女はスカートの端をつまんでぺこりとお辞儀した。
 その立ち振る舞いを見て、魔鬼は何かを思い出す。

「……やばい、私寝てる暇じゃないや。変な奴が来てみんな襲われたんだった。早く起きないと……」
 ブツブツ言いながら自分の頬をつねりだす魔鬼を見て、悪魔はつまらなそうな声をあげる。
「なによー。折角来たんだからゆっくりしてきなよー。私と一緒じゃ不満なわけー?」
「得体のしれない存在と一緒にいたかぁ無いんだよ」
「ひどーいー。そーいう言い方は無いじゃないねー。同じ同士仲良くしよーよー、ねー? 魔法使いちゃん」
 しつこく周りを飛び回る悪魔に、魔鬼のイライラはすぐに頂点に達した。
「あぁもう、うっさいなぁ! 私は起きることに専念したいんだから邪魔しないで!」
「そっちこそッ! 私が精一杯邪魔してるんだから起きないでってば!」
「邪魔してたのかよ!」
「そうよ!」  ドヤ顔の悪魔に、直後魔鬼の平手打ちが炸裂した。

「ほぇあちゃ!?」
 悪魔は変な声を上げて真っ白な地面の中にふんわりと沈み込んでいった。
 魔鬼はそれを見て勝ち誇った笑みを浮かべ、「へっ……ざまーみろ」と親指を立てた。
 地面の底から恨めし気な悪魔の声が聞こえてくる。

『今は起きない方がいいと思うんだけどなァ……』
「そっちの都合何てしるかってんだ。私は起きるからな。じゃあの!」

 ぶすっとした声にそう返し、最後の声と共に魔鬼は自分の両手で両頬を思いっきり引っぱたいた――。

 ――暗転からの復帰。


 感覚が確りしているから、ここは多分現実なんだろうなと魔鬼は思った。
 しかし、目覚めた魔鬼が見たものは、予想していたのとは大分違う景色だった。
 何故か自分が馬乗りになっている人物は烏貝乙瓜。自分の口は自分の意思とは無関係に勝手に言葉を紡いでいく。
『ワタシハ知ラナイ、何ニモ知ラナイ、イツカノ過去モ、背中ノ傷モ。知ラナイ、知ラナイ。何ニモ知ラナイ。アノ夜何ガアッタノカー♪』
(――えっ……? 何、なにこれ……?)
 眼下の乙瓜は悲痛な顔で自分を見上げている。体の自由がきかないのであまり周囲の状況が把握できないが、自分に乗られている他に両手両足を押さえつけられているようだ。魔鬼は少しずつ状況を把握する。
 乙瓜が押さえつけられていること。押さえつけているのが虚ろな目の美術部の仲間たちだということ。自分の手にアートナイフが握られていること。体の自由が聞かず、勝手に動いているということを把握する。
『夜ノ学校トビオリター。イツカチャンハ悪イ子ダー。ダケドワタシハ何ニモ知ラナイ、知ラナイ』
 勝手に動く口はまた勝手なことを喋り出す。歌うように吐き出されるその内容に、魔鬼は心当たりがあった。
(合宿の時につっかかってたことだ……。傷と飛び降り、過去と乙瓜の)
 唐突に、右手で持っていたアートナイフが放り投げられ、魔鬼はギョッとする。自分から見て後方なのでどうなったかはわからないが、誰かに当たりやしなかったろうかとヒヤリとする。だがそれ以上に肝を冷やすことが、その直後に起こった。
(――!? まって……まって! 手……駄目だ、駄目だよ……!)
 魔鬼の意思と関係なく、両手が乙瓜の首へと伸びていく。
(やだ、やだ、逃げて、やだ、こんなのやだ! 戻れ、戻れ戻れ戻れお願いだから……!)
 思えど願えど腕は止まらない。自由にならないのに、首を捕捉した生々しい感触だけがしっかりと伝わってくる。
『嘘ツキイツカハ隠シ事。いまじなりーふれんどハ誰ノ事? 本当ハソレハ誰ダッタ? 思イ出シテ、思イ出シテ……』
 絞めていく。徐々に力を込めて、魔鬼は乙瓜の首を絞めていく。
 魔鬼の見下ろす乙瓜は苦悶の表情を浮かべて、目にはいっぱいの涙を浮かべている。
(やめろ、やめろ、やめろ、やめろ、やめろ、やめろ、やめろ、やめろ、やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ!!!)
 掌から感じる生々しい脈動、今まさに自分の手で絞め殺そうとしている彼女が吐き出した小さな呻き。

『今は起きない方がいいと思うんだけどなァ……』
 告げられた悪魔の言葉の意味を理解して、尚も魔鬼は、心の中で叫び続けた。

 悪夢のような時間の中、ふっと乙瓜が言葉を漏らした。絞り出して潰れたような言葉だった。

「魔……き…………」

 そして、乙瓜は、がくりと、糸の切れた人形のように――


 魔鬼は。
 ぷつり、と、何かがちぎれるのを感じた。

 ――絶叫。

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