怪事戯話
第七怪・影の来訪者⑧

 美術室を揺らすのは、きっと落雷の衝撃だけではない。
 大音声の金切声は容赦なくあふれ続け、少女の喉を潰してしまわんばかりの勢いだ。

 七瓜の傀儡支配は完全に解けていた。
 黒梅魔鬼は自由になった腕で耳を塞ぐ――あるいは、頭をかきむしるかのようなポーズで。ぐったりと動かなくなった乙瓜の上で叫び続けていた。
 血を吐くような、内臓まで吐き出してしまいそうな絶叫、大絶叫。
 その叫びは、しかし互いに一歩も引かない攻防を続けていた火遠と七瓜を確実に止めたのだった。
 互いに注意する対象が魔鬼と乙瓜へと変わり、火遠が刃に込める力が緩む。そして状況を把握する。

「――乙瓜……ッ!」
 重なって悲鳴が一つ。以外にもそれを上げたのは、部員たちを操り乙瓜に危害を加えようとした七瓜本人だった。
 彼女は注意力散漫な刃からふっと身をかわし、火遠の横をすり抜けて乙瓜へと駆け寄った。頑なに守っていたラインは一瞬で破られたが、しかし火遠は七瓜を止めない。一瞬にしてさっと青めた彼女を止めることなんて、火遠にはできなかったからだ。

「どきなさいッ、どきなさいったら……」
 七瓜は狂ったように叫び続ける魔鬼を乙瓜の上から無理矢理押しのける。魔鬼は流し台脇の柱にぶつかって小さくうめき、何度かむせてからやっと叫びを止めた。
 手足を押さえていた部員たちは七瓜の豹変ひょうへんと共に糸の切れた人形のようにぐったりと倒れている。七瓜は倒れる部員たちの下敷きになった四肢を引っ張り出し、乙瓜を抱き起した。
「乙瓜、ねえ乙瓜、乙瓜、ねえッ……ねえったらッ!」
 名前を呼んで体を揺さぶるその目には涙。自分で命を狙っておきながら、その傷ついた姿に動揺する光景はなかなかに異様な光景であった。

 ――歪んでやがる。草萼火遠は七瓜の行動をそう分析していた。
 身の安全を保障する契約を結んでいる相手がただならぬ危害を加えられたのにも関わらず冷静にそんなことをしていられるのは、確固とした確信があったからだ。
「死なないよ。烏貝乙瓜は生きている」

 火遠の呟いた直後、七瓜に揺すられ続けた乙瓜がげほげほと息を吹き返した。
「乙瓜……!」
 七瓜は目許に溜まった涙の粒を弾けさせて、しっかりと乙瓜を抱きしめた。

 薄らと意識を取り戻した乙瓜は、自分が誰に呼ばれていたのか、今誰に抱きしめられているのかわからないまま、しかしその体の温もりを感じていた。
(温かい……)
 その温度に、彼女は一瞬だけ過去の光景を思い出した。ほんの一瞬の事だ。

 幼かった日、石段をうきうきしながら登った日、つないだ手の温もり――

「――ぉ、ねぇ……ちゃ……」

 乙瓜の口から小さくその言葉が漏れかかった時、強い衝撃と共に乙瓜は温もりから引き離された。
 否、乙瓜が引き離されたというよりは、抱きしめていた方――七瓜が乙瓜から弾き飛ばされた・・・・・・・と言うべきか。
 七瓜はあたかも磁石の同極が反発し合うように弾かれ、美術室奥に置かれた版画プレス機の足に頭から突っ込んだ。確実に衝突した証に鈍く低い金属の音が響く。
 七瓜と離された乙瓜にはしかし、また別の体温が触れていた。
 背中から覆いかぶさる温度、左肩に乗せられた手、右肩からは先程まで七瓜が被さっていた前方に延ばされた腕。その手には定規。
 その手の主は言うまでも無く黒梅魔鬼。彼女は乙瓜の背後から七瓜に向けて容赦なくゼロ距離魔法をぶっぱなしたのである。七瓜が弾き飛ばされたように見えたのは、魔鬼の魔法をまともに喰らったからだった。

「許さ……ない……、おまえは……おまえだけ……は……ッ」
 ゼイゼイと苦しげな呼吸をする魔鬼は、叫びすぎて掠れた声で言う。途切れ途切れの言葉にはしかし、確かな憎しみの感情が籠められていた。
 呪詛の言葉を吐いた魔鬼は、そのまま力なく腕を下し、乙瓜の背中に寄り掛かった体がずり落ちる。
「魔鬼……? おい、魔鬼ッ……」
「大丈夫……気にすんな。乙瓜は、……大丈夫か。痛く……苦しく……ないか?」
 乙瓜には自分の意識が途切れている間何があったのかはわからない。しかし魔鬼がもう操られていなくて、けれどとても大丈夫と言えるような状態ではないことくらいわかる。
「……おう。大丈夫。何とも無い……平気だよ」
 乙瓜はほんの少し泣きそうになりながらも平然を装って答える。背後の魔鬼は「そっか」と短く言って、だがとても安心した様子だった。

(自分が一番大丈夫じゃないくせに……)

 思い、乙瓜は――折角堪えていた涙を一つ零した。床にぽたりとしずくが落ちる。

 一方の魔鬼は、操作に抗えなかった自己嫌悪と殺してしまったかもしれないという罪悪から介抱され、こちらもまたいっぱいの涙を浮かべていた。
(生きてる。温かい。生きてる)
 触れている体は冷たくない。くっつけた耳からはきちんと心音を感じる、呼吸の音がある。
 そのことが嬉しくて、魔鬼もまた床に涙を零した。


 ぱち、ぱち、ぱち、ぱち。

 不意に起こったゆっくりとした拍手に、乙瓜も、そして魔鬼も顔を上げる。
 音の発生源は版画プレス機の隣――丁度七瓜が弾き飛ばされたすぐ脇だった。

疲労困憊ひろうこんぱい死屍累々ししるいるい、――チャンバラごっこにお人形遊び、お涙ちょうだいの友情演出。盛りだくさんだね、楽しいね」
 手を叩く人影は、しかし七瓜ではない。火遠でもない。勿論魔鬼でも乙瓜でもないし、操り人形と化していた部員の誰かでもない。
 全の第三者。赤いワンピースドレスに白い帽子。濡れ羽色の黒髪をさらりと手で払い、振り向いた顔にぱっちりと座る双眸は宝石というより血のような赤。

 少女、だった。
 背はごく低く、年の頃は魔鬼や乙瓜と大して変わらないように見えるその少女は、いつからそこにいたのか、どうやってここに来たのか、その一切を誰にも知られることなく。まるで初めからそこに在ったかのように、当たり前のようにこの場に現れて見せた。
 目を丸くする乙瓜と魔鬼、彼女たちと少女の間に立ちふさがるように、すっと移動した火遠は問う。

「性懲りもなく次から次へと、全く今日は厄日だね。君は、……いいや、君たちは何者だい? 月か薔薇バラか、それとも別の何者か」
「やだわおじさん・・・・、そんな怖い顔しないでよ。お顔から血が出てるわよ。ハンカチ使う?」
 少女は可笑しそうに笑うと、本当にハンカチを差し出して見せた。真っ白なハンカチだった。光沢のある様から見るにシルクの布地であろう。その四隅には、淡く青い糸で薔薇の刺繍ししゅうが施してある。少女は続けた。
「私たちは魔女。高見の座から静寂の水面に一石を投じる者。風のないところに波を立て、火の無いところに火をつけて回り、人を舞わし人を惑わす不穏と不和と不協の運び人。奇跡と神秘の青薔薇の名の下に、集い蔓延はびこる闇夜の結社! それが魔女、それが私たち!」
 歌うように言うと、彼女は初めから貸す気すらなかっただろうハンカチを仕舞った。
「青薔薇の魔女だと……? 何故彼女・・が今になって使者を寄越すんだ」
 まるで心当たりがあるかのような火遠にぺこりと一礼し、赤い服の少女は話を続けた。
「はじめまして、カノン・ソウガク。私はミサキ。石神いしがみ三咲みさき。あなたの知ってる彼女の遣い。そして我らがお嬢様フロイライン伝言係メッセンジャー。あなたに一つ言伝を預かってきましたので、どうぞお聞き下さいな」
 三咲と名乗った少女は一旦切って咳払いすると、改めて伝言を伝えた。

「『親愛なるカノン。私は全て知っている、私は全て持っている。もしあなたが変わらぬ目的のために動いているならば、我々はもう一度手を組むべきだろう。決して不利益は無い筈だ。よい返事を待っている。愛を込めて。【ヘンゼリーゼ・エンゲルスフィア】』……以上伝え終わりました故に、私は……いいえ。私達はここいらで失礼させて貰います」
 三咲はマイペースに話を終わらせると、プレス機の下に倒れたままの七瓜の手を引っ張り起こした。

「行きましょ七瓜。エリィも待ってる」
「……まって、まだ、決着が……」
 よろよろと立ち上がりながら、七瓜は火遠越しに呆然と見ている乙瓜に向かって手を伸ばした。
「だめ。そんなんじゃつけられないでしょ。それに無理よ。あなたの心が決まってないし、何よりやり方がクレヴァーじゃないわ。こんなに場を散らかすのはお上品じゃないって、エリィが言ってたでしょ」
アルミレーナ・・・・・・が……?」
「ええ、そうよ」
 よくできましたとばかりに七瓜に微笑みかける三咲は、じゃあ帰ろうかと何事か――魔法の呪文のようなものを唱え始める。

 その一方で、直接彼女らに対峙していた火遠は極限まで目を見開いていた。
 驚愕、あるいは愕然。
 その顔は背に庇う乙瓜や魔鬼には見えていない。
 だから、きっと彼女達には。次の瞬間どうして火遠が焦りだしたのか、わからなかったろう。

「待て! エリィ・・・とは、アルミレーナ・・・・・・とは誰の事だ!」
 何としてでも引き留めようとする言葉に、だが三咲は悪戯っ子のように舌を出して答えるのだった。
「おじさんにはおしえてあげなーいだっ! じゃあね、ばいばい」

 ――転移魔法。三咲と七瓜の姿が消える。煙のように、霧のように。
 残されたのは気を失って倒れる部員たちと、床に座り込む乙瓜と魔鬼と、そして。

「……おい、火遠?」
 乙瓜が恐る恐る言葉を投げる背中。反応はない。平時のようにふざけた気配も、小馬鹿にするような言葉も返ってこない。
 火遠かれがどんな表情をしているのか、彼の代理人二人には見えない。

「…………が………………のか?」
 彼が小さく呟いた言葉も、よく聞き取れなかった。


 この日烏貝乙瓜は願った。恐怖や怒りに惑わされることが無くなるようにと。
 沢山の怪事とは無関係な仲間を巻き込んだ後悔から来るものだった。
 その一方で思った。烏貝七瓜は結局何者であったのかと。
 全てが真実と告げた薄雪神の言葉。七瓜の持つ殺意は本物だった。だが同時に、抱きしめられたときに感じた優しさや懐かしさも本物だ。自分は何かを忘れている。自分はそれを知らなければならないと。

 この日黒梅魔鬼は願った。『今のまま』に留まることをやめようと。
 七瓜の術は自分より上位の魔法だった。北中内の怪事には、パワーはあれどああいった系統の術を使う者はいなかった。だからどこか油断していた。そのせいで友人を殺しかけた。その反省から来るものだった。
 その一方で思った。白薙杏虎の驚愕とは一体何だったのかと。
 多分、杏虎は何か知っている。乙瓜と同じ姿をした七瓜が何者であるのか。きっと杏虎は、その答えに一番近いところにいる。知らなくてはいけない。今後再び七瓜が襲ってこないとも限らないのだから。自分はそれを知らなくてはならないと。
 そしてもう一つだけ。彼女には気になることがあった。

 ――魔女【ヘンゼリーゼ】という名前。

 そしてこの日、草萼火遠は……?


『風の無いところに波を立て、火の無いところに火をつけて回る』
 その言葉通りに、来訪者たちは各々の心に不穏な爪痕を残して去って行った。



(第七怪・影の来訪者・完)

←BACK / NEXT→
HOME