「あら、おかえりなさい」
妖海から美術室に帰還した乙瓜を、七瓜は白々しい笑顔で迎えた。
屋外の雷雨は更に激しさを増し、停電したのか部屋の中はほとんど暗闇。時折稲光に照らされて光と影の鮮烈なコントラストが浮かび上がり、七瓜の白い顔がくっきりと表れる。顔や体にはくっきりと黒い影が浮かぶものの、相変わらず床や壁に映る影はない。まるで七瓜の存在が虚像であることを強調するかのようだった。
そんな室内に、少なくとも乙瓜が見渡す限りの空間に、先輩の、同級生の、黒梅魔鬼の、全ての美術部員お姿がない。
「みんなを……どこへ……」
乙瓜が愕然とした様子で呟くと、七瓜はクスクスと笑った。
「おいッ! ……笑ってないで答えろ! さもないと――」
「さもないと、なぁに?」
挑発するような台詞と共に七瓜が視線を投げる先、ポケットに手を突っ込んだ乙瓜の姿が雷鳴と共に浮かぶのだった。七日は笑う。
何もかもを見通し、その上で更に煽る七瓜の態度に、乙瓜は妖界で薄雪の話を聞いたときの気持ちと一転、沸々と込み上げる怒りと殺意を感じていた。
自分ひとりが妙な目に合うのは――未だに納得いかないものの、それでも、まだマシだ。相手が自分を目的として来ているなら尚更のことだ。
だが、七瓜は殆ど無関係な人間を巻き込んだ。
乙瓜の知らない誰かではない。よりにもよって彼女の所属する部活の! 彼女が安心して存在できる場所の! 彼女が心許す仲間を!
七瓜は手にかけたのだ。そういうことを、やらかしたのだ。
「よくも……お前は……よくもぉぉッ!! なァのぉかぁああぁあぁああァァアァアアアア!!!」
乙瓜の叫びが雷鳴と共に部室を大きく揺るがす。
激怒。激昂。憤怒。大きな感情が乙瓜を突き動かし、今にも七瓜に飛びかからんばかりの勢いだ。
「乙瓜。やめな」
そこに、火遠の一声が割って入る。
乙瓜よりやや前方に立つ火遠は、すっと腕を伸ばし、狂犬のような表情で眼前の影を睨みつける彼女を制した。
「敵の策だ、冷静さを欠いて勝てる存在じゃない。乗せられるな」
「わかってる……わかってるわかってる……っ! だけどッ――」
ぶつけてやらないと気が済まない。乙瓜は地団太を踏んだ。
影はその様子を嘲笑うように顎に手を当て、クスリと笑った。
「居場所を奪われた気分はどうかしら? 苦しいでしょ、悔しいでしょ、哀しいでしょ、……腹立たしいでしょ。お腹の奥が熱くなって、胸がざわざわするでしょ? 頭の後ろが痺れて、落ち着かなくなるでしょ? わかるわ。わかるわよ。だって私はあなただもの。だってあなたは私だもの」
「――っ!!! 黙れ、黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れだまれぇッ!! お前なんか俺じゃない、お前なんか私じゃない、お前なんか誰でもない、お前なんか存在しないッ! 先輩を、眞虚ちゃんを、深世さんを、遊嬉を、杏虎を、魔鬼を! 返せよ! みんなを今すぐ還せよぉぉおッ!!」
「乙瓜ッ!!」
「止めんな火遠、止めてくれるな火遠! こいつは、こいつだけは……っ!」
口車に乗せられるままに完全に自制を失った乙瓜は、ポケットから両手の指の隙間に持てるだけの護符を引き出す。
その数、十枚一対八組の、計八十枚。
「喰らいやがれ! ――流星!!」
叫びのような宣誓とともに投げ放たれた八十枚の札は個々に輝きを持ち、敵と定めた対象目がけて飛んでいく。
しかし的となった彼女は涼しい顔で日傘に手をかけると、落ち着き払った動作でそれを展開し、前方にかざして高速回転させた。
回転するピンク色の日傘は流星の発光符を防ぎ、弾き返した。力を奪われただの紙切れと化した札たちが、弱々しく床に落ちていく。
連撃の気配が完全に収まったのを確認し、七瓜は視界を覆い隠す傘からひょこっと顔を出す。
「やあねぇ寂しがり屋さんなんだから。それとも、一人じゃあ怖いのかしら? ……怖いわよねぇ、一人は怖いわ。全部の札を撃ち尽くしてしまわないと気が済まないくらいに」
言われて、乙瓜は漸く我に返り、ポケットをまさぐる。その指先に紙の感覚は伝わってこない。ポケットの布地の感触があるだけで、全くの空っぽだ。
乙瓜はひやりとし、心の底から「ヤバイ」と思った。その脇で火遠が舌打ちする。
「はぁーあ、やっちまったようだね乙瓜。知恵の働く奴が相手だとこのくらいの精神攻撃は基本……。まんまと嵌められたってわけだ」
「そんなッ……俺は一体どうしたら……」
「……そこは自分で考えなよ、俺は君の事は契約で守ってやれるけど、お仲間の事は契約案件外だぜ?」
呆れ声の火遠に憔悴する乙瓜。七瓜はにやりとして腕を下した。開きっぱなしの傘からほんのりと甘い香りが漂う。
「かわいそうに寂しがり屋の乙瓜。その男は自分の目的を達成すること以外はどうでもいいのよ。いくら縋ったってあなたの望みを叶えてくれない。ああ、なんて冷たい人。なんてかわいそうな私の妹。私なら、私ならあなたの全てがわかるのに」
演技がかった台詞を大げさに語る七瓜の目尻には、何故か光るものがあった。彼女はそれを指で拭うと、頭を軽く二・三度振った。
「何だあいつ……。マジなのか、それとも頭おかしいのか……」
すっかり冷静になった頭の乙瓜が呟く。
「恐らくマジなんだろうね。だけど何か仕掛けてくるつもりだね、あれは」
火遠はそう言って七瓜と乙瓜を結ぶ直線状に立ちふさがった。丁度武装を失った乙瓜を庇うような形で七瓜と対峙する。
「邪魔をしないで冷血漢」
「まだ邪魔してるつもりはないんだけどな、レディ」
「そこをどいて、私と乙瓜の邪魔をしないで。と言っているの」
七瓜は眉をひそめながら日傘を畳む。そして取っ手を掴む手首のスナップだけで一振りすると、それは乙瓜が階段のところで見た剣に姿を変えた。
剣は雷光を受けて光りが乱反射し、美術室全体がゆらゆらとした光に包まれる。それは水中から水面を見上げた時に見える揺らぎによく似ていた。
「十拳剣か、久方ぶりだね」
「玩具じゃないわ。本物よ。斬られればただじゃすまされないわ」
「見りゃぁわかるさ。純正ではないようだが本物の緋緋色金を見るのは五十二年ぶりだ。レディ、一体それをどこで手に入れた?」
「……あなたに教える筋合いはないわ」
睨みあう火遠と七瓜。
七瓜は苛立った様子で剣を構えた。
「危ないからお止し。レディには似合わない」
「いいえ止めないわ。私にはもうこれしか道がないのよ。フロイラインは仰った、導いて下さった、だから……!」
言いながら七瓜は床を蹴った。
「取り戻すためにッ! 私はその子を殺すのよ!」
剣を構え向かってくる七瓜の鬼気迫る表情にを火遠の肩越しに見て、乙瓜は硬直する。直後、その動かない体がドンと後方に突き飛ばされる。火遠の手が押したのだ。
乙瓜は一メートルほど飛んで尻もちをつき、同時に金属同士がガンとぶつかり合う音を聞いた。
恐る恐る見上げた先では、七瓜の剣を火遠がどこからか取り出した刀で受け、鍔迫り合いを繰り広げていた。
火遠の持つ刀は日本刀のような形をしていたが、柄から伸びる金色の房に、乙瓜は見覚えがあった。
(初めて会った時に奴が持っていた大鎌についてた奴だ……!)
「まったく、いきなりで驚いたじゃないか。近頃の若者は凶暴で困るなァ」
一方、七瓜と互いに一歩も譲らないせり合いを続ける火遠は、しかし意外と軽口を叩きながら平然としている。美術室に戻って来てから思いの外冷静なのは、乙瓜の動揺と激昂を見たからだろうか。
火遠が包帯で塞がれていない右目だけで覗いた七瓜の顔は、眉間に力が入ったせいか平時の乙瓜にこれぞまさしく瓜二つだった。
「……退いて。あなたなんかに構っていられないのよ」
「残念だけれど、自分で結んだ契約をそう易々と破棄できる俺じゃあないさ」
「そう、残念ね」
七瓜は剣により一層の力をこめて押し込み、そして叫んだ。
「繰人形の残酷劇場! お出でなさい、操り人形たち! 私が行くまで乙瓜の相手をしておやり!」
宣言と同時、まだ尻もちをついたままの乙瓜の周辺に桃色の魔法陣が複数展開される。
そして展開された魔法陣からはいくつもの人影がゆっくりと姿を現した。
「そんな……嘘だろ…………」
烏貝乙瓜は愕然とする。
魔法陣から這い出るように現れた彼らの姿は、紛れもなく――。
「先輩、眞虚ちゃん、深世さん、遊嬉、杏虎……魔鬼……!」
美術部の部員たちに他ならなかったからである。
目を閉じた状態で現れた彼女たちは人形のようにぎこちない動きで目を開く。開かれた瞳は曇っていて、まっすぐ前を見つめながら何も写していなかった。
『――アソボ』
部員の誰かがそう口ずさむ。誰だかはわからない。それを皮切りに全員が口々に同じことを連呼し始めたからだ。
アソボ。アソボ。アソボ。アソボ。アソボ。アソボ。アソボ。アソボ。アソボ。アソボ。アソボ。アソボ。アソボ。アソボ。アソボ。アソボ。アソボ。アソボ。アソボ。アソボ。アソボ。アソボ。アソボ。アソボ。アソボ。アソボ。アソボ。アソボ。アソボ。アソボ。アソボ。アソボ。アソボ。アソボ。アソボ。アソボ。
無機質で感情の籠らない声が乙瓜を取り囲む。ぎこちない動きで一歩一歩じわじわと乙瓜に迫る。
「やめろ、おい! やめろよ!! 七瓜ッ! みんなに何をした!!!」
耳を塞ぎ頭を振り乱して叫ぶ乙瓜の前に、すっと黒い影が立った。
「――あ……」
黒梅魔鬼だった。
曇りガラスのような瞳の彼女は、にっこりと微笑んだ表情で乙瓜に言った。
『イツカチャン、アソボ』