怪事戯話
第三怪・怪談の女王様④

 花子さんの宣誓、確かに掲げられた始まりの合図。
 呆気にとられる乙瓜を余所に、花子さんは言葉を続ける。まるで反論の隙など与えないかのように。矢継ぎ早に、機関銃のように言葉は紡がれる、紡がれていく!
「ゲームをしましょう乙瓜。この私が、あなたを火遠の代理として認めるための、それに足る存在であるかどうかをテストするゲームよ」
 パチン。花子さんが指を鳴らすと、彼女の斜め前に小さな光がはじけ、何かが姿を現す。
 発生と同時に重力に従って落下するそれをキャッチした花子さんは、時代劇の印籠いんろうよろしく乙瓜に見せつける。

 それ、の正体は『鏡』。
 幼い子供のてのひらにだって余裕で収まってしまうような、小さな、本当に小さな手鏡。
 丸い硝子を覆う赤のプラスチックの上部に白い花の飾りがつけられているだけという、幼児向けの食玩のオマケ程度のお粗末でチープなつくり。現れたのは、そんな鏡だった。

「この鏡を……そうね乙瓜。私はこの鏡をどうすると思う?」

 両の手で鏡を弄びながら、花子さんはわざとらしく乙瓜に問いかける。
「なっ、そんな、どうするって……」
 急に発言権を戻されたことでとしどろもどろする乙瓜を流し見、花子さんはくすくすと意地悪く笑う。
 乙瓜の横に佇む火遠も、花子さんの意図を察したのか、飽きれた顔をしつつもくつくつと笑っていた。
 何が何だかわからずに眉をひそめる乙瓜に花子さんは宙を滑るようにすっと近づいて顔を寄せ、囁きかけた。
 生暖かい吐息が耳に当たり、乙瓜は一瞬ぞくりとする。
「あのね、ここから先の事をよく聞いてね。忘れそうならメモでもしておきなさい。尤も、忘れようがない事だろうけど、いい? よく聞くのよ……」
 言って、花子さんは乙瓜の首に左手を回す。
 人形のように繊細なその手は、片手であるのにも関わらず万力のようにがっしりと乙瓜を捕えて離さない。
 そして獲物をしっかりと捕らえた手の主・花子さんは、蛇のようにゆっくりと顔を上げる。乙瓜の顔を覗き込む双眸はカッと見開かれ、ぎらぎらと紅く輝いている。
 初めに見たときとほとんど同じ距離に浮かぶ白い顔。しかしそれに対して抱く感情は、最初のドキドキとは違うベクトルの「ドキドキ」。

 ――恐怖。
 まさに学校の怪談の、その女王と呼ばれるに相応しい。冷酷で、残忍で、獲物を狩る大蛇のように狡猾なその様は本能を揺さぶり、脳みそにダイレクトに恐怖を伝えてくる!
 ころされるかもしれない。
 乙瓜はこの時初めて死を覚悟した。

 花子さんは言う。
「明日。……明日よ? 私は明日この鏡を、古霊北中このがっこうのどこかに隠すわ。あなたに課す試練は、この鏡を見つけ出す事よ」
 乙瓜の視界の隅で、赤色が踊る。存在を強調するように振る手鏡の色だ。蛇ににらまれた蛙の如く、花子さんから目を逸らすことができないので確証はない。だが、今、この状況で。それ以外の何があるというのだろうか。
 手鏡を振る手を止めることなく、花子さんは続ける。
「勿論、隠し場所は学校の建物の中限定よ。屋外なんて不確定要素で紛失する可能性の多い場所になんか隠さないから安心して。万が一何かの手違いでこの鏡が屋外に行ってしまうことがあったら、その時は鏡の発見・未発見を問わずに私の負けを認めるわ」
 でもね、と花子さんの目が嫌らしく細まる。
「明日の最終下校の放送までに見つけられなかったらあなたの負けよ。そうしたらあなたは……ふふっ、どうなるのかしらねえ」
 ごくり、と唾を飲み込む乙瓜。暑くもないのに、むしろぞっとするほど冷たいのに、背筋を冷たい汗が伝っている。
 寒気。悪寒。震え。身震い。嫌悪感。恐れ。怖れ。畏れ。
(――敵わない)
 何かを覚悟して、身を固くする乙瓜。薄暗い部屋の中に張りつめた緊張の糸。
 その糸が、ふっと。突然、いきなり。何の前触れもなく解かれ、侵食するようにじわりじわりと蔓延していた花子さんの殺気が一瞬にして霧散する。
 全ては目には見えないもの。しかし、今、危機は去ったのだと。日常空間が戻ってきたと。乙瓜は肌で感じたのだった。
 眼前には、満面の笑みを浮かべる白い顔。花子さんの顔。
 その顔がゆっくりと離れていき、首に回されていた手が滑らかに離れていく。
「はーなこさーん、あんまり乙瓜をいじめてやるなよー?」
 横で何事も無かった風に茶々を入れる火遠の声が聞こえる。
 木製のドア越しに、廊下を越して、吹奏楽部の練習の音が聞こえる。なんでもない日常の音が。
 それを認識した刹那、乙瓜は糸の切れた人形のように、トイレの床にがくりとへたりこんだ。

「あーらら、掃除してるからそこまでじゃないと思うけれど、あんまり床に座っちゃだめよ、汚いもの」
 花子さんがいたずらっ子のような口ぶりで乙瓜を指さして笑う。
「やりすぎたんだよ、全く、こんなところで折らないでくれよな?」
「いやねえ火遠。焚きつけたって言うのよ。大体、私より怖いオバケなんていっくらでもいるのよ? これくらいで折れてしまったら遊び甲斐がないわ」
 花子さんはそのまますっと浮かび上がり、乙瓜を見下ろす。
「それじゃあ、明日だから。忘れちゃだめよ。放棄してもだめ。必ず学校に来ること。わかったわね!」
 そしてドロリと。現れたときと同じように、消えた。

(冗談だろ、あれが、あれがオバケかよ……。あれよりヤバイやつがまだ、まだいるっていうのか……?)
 へたりこんだ姿勢のまま、花子さんの消えた宙を見つめ続ける。
「はは……ははは…………」
 意図せず乾いた笑いがこぼれる。解放された余韻からか、残っていた恐怖からか。力ない笑いをあげながら、乙瓜はよろよろと立ちあがった。
 そして、何を思ったか、右の拳を固く握りしめて壁に向かうと。
 バンっと力強く。タイル張りの壁を殴った。
 生身の女子中学生の拳骨とタイルでは、当然のことながら圧倒的にタイルの方が強い。おそらく全力でぶつけたであろう乙瓜の拳からは、うっすらと血が滲んでいた。
「……ッざけんじゃァねえぞ……!!」
 乙瓜は叫んだ。トイレの壁を越えて、放課後のほとんど人のいなくなった校舎全体に染み込ませるような、押し殺したような声で――しかし、叫んでいた。
「……やってやる。試練だろうがなんだろうがやってやる。弱いものをビビらせて優位に立とうとする輩に目に物見せてやる。目に物見せてやりてェよ。……火遠ッ!」
 信用ならない契約の妖怪の名を呼ぶと、すぐ背後に気配が生じる。振り返ることなく視線を移した先、手洗い場の鏡に映るのは背中合わせで立つ赤い姿。
「人でないものは総じてそうさ、人の弱みにつけこんで、人の恐怖を齧って生きている。特にああいった、怪談で構成されている存在ならば尚更さ。花子さんのような輩なんて、五万といるよ。それこそ、掃いて捨てるほどね」
「……知ってる。ていうかった。わかった。『魅了』されちまってたんだな、俺。美しさにも、怖さにも」
 呟いて、乙瓜は鏡から目を離した。
「わかっているなら話は早いじゃあないか」
 火遠は、きっと笑っているのだろう。肩を震わせ、声を押し殺して笑っているのだろう。
 乙瓜はキッと顔を上げて歩き出す。上履きのゴムが床をこすり、キュキュッっと音を立てる。
 入ってきたときと同じ取っ手を掴み乱暴に開け放つと、振り返りもせずに女子トイレを後にした。

 階段を一、二、三段と降りながら、目には見えない、しかしいつもそこにいる存在に語りかける。
「始めるぞ火遠。特訓だ。明日、あいつのくだらん遊びに付き合った後でぎゃふんと言わせてやる」
 そしてカツン、と降り立った踊場で。乙瓜は彼と同じように呟くのだった。

「怪事きたれり」

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