怪事戯話
第三怪・怪談の女王様⑤

「……で、あの子は顔出しもそこそこに校舎の周り走ってるってーの?」
 美術室の開ききった窓から穏やかな五月の風が吹きこむ午後。僅かに絵具汚れが染みついた白いカーテンの揺れる窓際に肘をつきながら外を眺める遊嬉の視線の先には、別室から戻ってくるなりジョギングを開始した乙瓜の姿があった。
「あれじゃあ運動部と一緒じゃん、なァに考えてるんだか」
「何って……体力づくり?」
 真面目に風景をスケッチする手を止めず、杏虎が答える。
「乙瓜はさあ、運動全然だめなんだよ。小学校で徒競走なんかした日には一番後ろからトロトロついてくるような奴だったし」
「ああ、杏虎は乙瓜ちゃんとおんなじ学校なんだっけか」
「……まーァね。っても、昔はほとんど話したことないけど」
 杏虎は一旦鉛筆を置き、屋外で先程から視界の隅を行ったり来たりしている乙瓜を見やり、一言。
「いいねえ。青春っぽい」

 一方、魔鬼と眞虚と深世は遊嬉と杏虎のすぐそばの机で画用紙の駒を立てて遊んでいた。駒の下にはマス目の描かれた画用紙。双六すごろくである。
「一、二、三。あがり。えへへ、私の勝ちだね!」
「げぇっ、また一着ぅ!?」
「眞虚ちゃん運強すぎぃ!」
 一着上がりの眞虚は一抜けし、残りは魔鬼と深世の一対一サシの勝負となった。二人の現在位置はほぼ同じ。意地をかけたダイスロール合戦が始まった。
 平時の怪談話語りに比べるとなんと健全で平和な光景だろう。だが、双六は『美術部』の活動ではない。断じて違う。
 結局、僅差で深世が二着ゴールし、自動的に魔鬼が最下位ドべとなった。
「ああくそぅ! 最後に5が出たら勝てたのにぃ!!」
 頭を抱える魔鬼を勝ち誇った顔で見ながら、「じゃあ片づけよろしく」と深世は自分のスケッチブック片手に窓際に向かった。
「あーあー、なーんでこう、ここぞって時の運が悪いかなぁ……」
 ぶーたれながら双六セット(手作り)を片づけにかかる魔鬼。画用紙製のダイスを曲げないように棚の引き出しに仕舞うと、すでに風景スケッチをしている他の三人(プラスさぼり一人)と同じように窓の外をチラと見た。
 そこには、なぜか走っている烏貝乙瓜の姿。
 聞く話によると、彼女は今日"花子さん"に会ったという。トイレの怪談で有名な、あの"花子さん"にだ。
 何でも、この学校の花子さんは恐ろしく美少女で、且つすごい怖いらしい。……なぜかシャンプーがどうとかいう事を力説していた気がするが、そこは気にしないでおくことにした。
 そんなことはともかく乙瓜は、花子さんに理の調停者代理と認めてもらうための試練を与えられたらしい。
 その内容は明日中(登校から最終下校の間)に「学校のどこかに隠された花子さんの手鏡を見つけ出すこと」だとか。
 正直、そんなに気張るような内容か? と魔鬼は思ったが、何かやる気になってる乙瓜をここで止めるのもはばかられたので、とりあえず見守ることにした次第である。

(ていうか、私も一応代理の一人なんだけど。花子さんに会ってみたかったなぁ)
 ペンケースからシャープペンシルを取り出しながらそんなことをぼんやりと考えていると、魔鬼の背後に気配が成った。
「会えるさ。仮に会いたくなくっても、いずれ会うことになるだろうよ?」
 くくく、っと嫌な笑い。振り返らずとも誰だかわかる、本来なら美術室ここに居ない筈の人物の声。
 魔鬼はもはや振り返ることもせず、少しだけ眉をひそめると背後の声に返した。
「――火遠。乙瓜は……」
「ああ、あれな。俺が奨めたのさ。花子さんと戦うのに特訓するなんて言うからな、『まずはその貧相な体力をどうかしたらどうだい』って言ってやったのさ」
「例の札の特訓じゃないのかよ」
「それはそれで追々するさ。だが考えてもみなよ魔鬼。あいつはこれからバリエーション豊かな魑魅魍魎ちみもうりょうの類と戦わないといけないってのに、戦いに関してまるで素人だぜ? 水祢との戦いでの無様っぷりったらありゃしないだろ、君から見ても」
 笑いを押し殺すような声で囁く火遠に半ばあきれながら、しかし魔鬼は同意せざるをえなかった。
 乙瓜は完璧な素人だ。化け物の攻撃をかわすスピードもなければ、現時点では火遠の助けなくして技の一つも使うことができない。持久力もない。ついでに冷静な判断力も今一つといったところか。
「機転とか技術とかは後でも身に着ける。でも明日のメインは探し物だぜ。対象物はこーんな小さい鏡だ。校舎の隅々走り回るのには体力がいるだろう。もっとも、今から二三十分走りこんだところでなんにもならないと思うけどね」
「……無意味じゃないか」
「なにを、意味のないものなんてほとんどないんだぜ。どんなことを身に着けるにしたって、まずは始めないと意味がない」
「だろう?」と火遠は同意を促した。
 確かになあ、と魔鬼は思った。思ったのだが。
「いつまで続くだろうか……」
 不安げに呟く魔鬼は知っていた。運動音痴の継続力の無さを。事実、もう何周目になるだろうか、校舎の裏から視線の先に現れた乙瓜の足はもうフラフラだ。
 同じトラックを回って体力づくりしている吹奏楽部の新入生(肺活量を増やすために走っている)に比べても、ペースダウンしているのは明確だ。
 その様を見て火遠はニヤニヤとしている。否、魔鬼の視線は一貫して窓の外に向けられているので直接見たわけではないが、背中越しに伝わる妖怪の気配はそういったものだと、彼女は確信していた。
「あれじゃ物探しどころか筋肉痛で動けないだろ……」
「それもまた一興」
 背後の気配は再びくつくつと揺れる。
「もしそうなったら君が手伝えばいいじゃないか。折角だし、友情を深めるいい機会だと思ってさ」
「……なんじゃそりゃ」
「黒梅魔鬼。花子さんが君に直接試練を与えなかったのは、君の使う術が代理者に足りうるレベルクリアーラインに達していると判断したからさ」
「急に話変えないでほしいんですけど」
「いいや、変えてなんかいないさ。……花子さんが乙瓜に試練を課す時、何て言ったと思う?」
 直接聞いたわけでもないのにそんなの知る筈がない、と魔鬼は黙っていたが、火遠は気にせず続けた。
「なんともおかしなことに花子さんの奴、『一人で探して来い』なんて一ッ言も言ってないんだぜ」
 ふうん。魔鬼は一度はそう聞き流し、一瞬遅れて火遠の言わんとすることを理解した。
「……ちょ、ちょっとまてよ。ていうことは、この試練――」
「「鏡は何人で探しても構わない」」
 魔鬼と火遠の声がダブる。
 まさしく目からうろこと言った風にハッと目を見開いた魔鬼は、しかしすぐに呆れ顔になって言った。
「わかってて焚きつけたのか……」
「いいじゃないか。何かやる気になってたみたいだし、何もさせないほうがこくってもんだぜ」
 悪びれる様子もなく言い放つ声を背に、魔鬼はすでに走れなくなって膝に手を付き片で息をしている乙瓜を見、深いため息をついた。

(乙瓜……この試練、鏡探すのに何人使ってもいいんだよ……!)

 テレパシーなんて使えないので、その気持ちは彼女に伝わらないだろう。面と向かったって言えるはずがない。こんな拍子抜けするような事実を……。

「なんていうか、その……日本語って難しいな……」
「全くだ」

 のんびりと沈んでゆく五月の西日が、乙瓜の背中を明るく照らしていた。

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