怪事戯話
第二怪・見ずの訪れ、水の音すれば⑦

「出られるのっ!?」
 一瞬前まで暗く沈んでいた眞虚の顔がぱあっと明るくなる。
「出られるさ、この局面で嘘を言うとでも?」
 火遠は得意満面の表情で改めて言った。それを聞き届けるやいなや、部員の間に安堵の雰囲気が流れ始める。
「――はー、よぉかったああぁ。このまま一生ここから出られなかったらどうしようかと思ったぁ……」
 遊嬉がぺたんと床の上にへたり込む。なんでもない風を装っていたが、実際かなり気にしていたのだろう。
 同じくこんな特異な場面に遭遇するのはほぼ初めてだろう杏虎も、特に何か言うわけではないものの、ほっと一息吐いたようだった。

 ――よかった。この奇ッ怪な空間から脱出する方法がないわけではないんだ。
 全員が安心し、胸をなでおろす。
 次の瞬間。

『だぁあぁれェぇえがあぁあここから出すとでもぉぉお!?』
 怒りに震える姿なき声が美術室中に響き渡る。それに呼応するように、部屋全体が強い地震に見舞われているが如く鳴動している!
 振動で立ち上がることすらままならない部員たちはある者はなんとか机の下に潜り込み、ある者は椅子の上から転がり落ちるようにして床に伏せた。
「地震!?」
 机の下で頭を抱える眞虚が言う。
「いや、これは……ッ、地震なんかじゃぁ――!」
 魔鬼が画板で頭をガードしながら答えた直後、乙瓜は何かに気付いたように叫ぶ。
「水祢……っ!!」
 同時、黒板の前の天井が水面のように波紋を描き、巨石でも落とされたかのように地面に向かって沈んできた。ぼこんと沈んだ天井は教壇の上で弾け、その内から此度の怪事・草萼水祢が姿を現した。
「かあぁあぁぁぁらあぁあぁあぁああすぅぅぅウううがぁああぁいぃぃぃぃぃぃぃいつかぁあぁぁあああぁぁあァァァァ!!!!」
 水祢は現れるや否や化け物じみた老木の腕をむき出しにし、乙瓜ただ一人を目掛けて飛びかかる!
「小娘の分際で! の愛する兄さんにぃぃぃぃぃいいいいイィ! なぁにを吹き込んだぁぁああぁあああああッ!!!」
 リーチの長い腕は窓際で伏せていた乙瓜の身体をあっさりと捉え、そのまま教室前面の壁に叩きつける。
 その間、僅か数秒。誰にも水祢を妨害することなんて出来ないし、する隙すら与えないほどの威圧感が、水祢が登場したその瞬間から教室を支配していた……!
「ぐがっ……!」
 苦しみえずく乙瓜をゴミでも捨てるかのように腕から放り投げ、しかし水祢は殺気を僅かも抑える様子もなく投げ捨てた乙瓜に迫る。
 そして汚物でも拾うように右手の指先で摘み上げ、乙瓜の顔に己の顔を近づけ威圧する。
「……よくもよくも騙していたね?」
 ささやくような、けれど決して弱々しくない声音で水祢は乙瓜に尋問する。
「ッ……だ、騙してなん……か、……ていうかお前の兄さん今そこにいるぞ……っ」
 乙瓜がよろよろと指差す先にはさっきから声ひとつ上げず、しかも平気な顔で机の上に腰かけている火遠の姿があった。しかし水祢はそんな火遠になど一瞥いちべつもくれず、乙瓜を睨み続ける。
「知ってる。兄さんは『いい人』だから、きっとお前みたいな性悪の雌豚に引っかかって騙されてるんだって。ちゃあんとわかってるから。だから私が兄さんに付く悪い虫を追い払ってあげないと。そうしないと兄さんは私を見てくれないもの。……ふふふ、うふふふ」
 水祢の口調が最初の頃と変わってきていることに気付き、乙瓜はこいつ相当やばい奴なんじゃ……と思い始める。今更だが。
(……っていうか最初からなんとなくおかしいとは思ってたんだよ。こいつの火遠兄さんに対する執着は普通じゃないって……ッ)
「お前、あれだな……火遠のこと好きなんだろ。しかもLikeじゃなくて……Loveの方で」
「……だから? 何?」
「いや、だったらお前相当アレだなって、おもっ――」
 ぱぁん。
 水祢の余った左手による平手が炸裂し、乙瓜は一瞬意識を飛ばしかける。
「図に乗るなよ、豚」
 水祢の左手が乙瓜の首に伸びる。
「やっぱりお前はここで殺す」
 ぐっと首を圧迫される。苦しい。部員みんなが何か叫んでる。ていうか助けろよ、と思いながら乙瓜は何にもしない火遠のいる方をちらと見る。……? 居ない?
(畜生、あの野郎……。早速契約違反じゃ……ねーか……! 違約金とるぞ……!)
 恨み言が浮かんでくるものの、もう限界。乙瓜が今度こそ意識とさよならしようと目を閉じた、瞬間。

「暗黒・爆裂波ァ!」
 声、そして爆音、衝撃。首元を締め上げていた腕の感触が消え、乙瓜は床にどすんと尻餅をつく。
「はぁ……は……息、吸え……?」
 何事かと思って顔を上げると、そこには怒りをむき出しにする水祢と、それに対峙する魔鬼の姿があった。
「何が何だかわからんけどね……っ! いきなり人ひとり絞め殺そうってのはどうかと思う!!」
 15cmの定規を構え勇ましく啖呵を切る魔鬼の姿が勇者に見えた。恐らく何らかの魔法攻撃で水祢の気をそらすことに成功したのだ。
 幸運なのは、魔鬼の挑発に水祢がまんまと乗ったことだった。
「……やってくれたね、目障りなハエ。まずはお前から血祭にしてやる」
 そう言う水祢は乙瓜の方を一切向いていない!  これはチャンス、とばかりに乙瓜は水祢の腕の射程から逃れるため、立ち上がるため、両腕を前に付き、走り出そうとして……見た!

 水祢の襲来までみんなで作っていた護符が、何かの陣形を組むように並べられているのを……!

 乙瓜がそれを認識したと同時に、脳裏に火遠の声が響く。
『さあ、乙瓜。ポケットから取り出して』
 憎々しい火遠の声に、なぜか逆らうことができない。乙瓜は操られるように制服のポケットを探り、何かを引き当てる。
 それは、一枚の護符。だが明らかに自分たちで作ったチープなものではない。正式な様子に朱の墨で書かれた、立派な出来の護符だった。
 どこでポケットの中に入ったのだろうか、しかし最初からそこにあったかのように自然に取り出されたそれは、確かに今乙瓜の手の中にあった。
『立って、構えて。そして――』
 導かれるように自然に立ち上がる。手が上がる。構える。水祢が彼女の異変に気付くのは、全ての動作が完了してしまってからだった。
「お前、何を……!?」
『唱えて。』

『「封魔結界陣! 暁闇あかときやみ!!」』

 舞う。飛ぶ。乱舞する。美術室中に仕掛けられた護符たちが、さながら空から落つる鳥の羽根のように、さながら風に舞う花弁のように。
 風もないのに宙へ舞い上がり、飛び上がり、一斉に水祢を取り囲み、あっという間に水祢の動きを封じてしまったのだ。
 水祢は己を囲う陣から抜け出そうともがくも、模様の力だろうか、たかが紙とは思えない不思議な力から逃れることができない!
「っあぁぁあぁあぁぁぁあああ!!! なんで、どうして、兄さぁあぁああああ……ッ!!」
 思いもよらないことに、水祢は大量の護符に囲まれてから明らかに弱っている。
「マジかよ……」
 呆気に取られる乙瓜のすぐ隣に、姿を消していた火遠が降りてくる。
「さっきの言葉で術が発動したのさ。水祢こいつは妖力を根こそぎ奪われ、当分は悪さができないだろうね」
「おい、何お前普通に出てきて説明してんだよッ! こちとら死ぬかと思ったんだぞ!!」
「死ななかったんだからいいじゃないか。そんなことより魔鬼に礼をいいなよ」
 火遠は水祢の近くで乙瓜と同じく唖然としている魔鬼を指差す。
「俺が彼女に言ったのさ、少しだけ水祢の気を逸らしてくれってね。でなけりゃ乙瓜、君は死んでたぜ?」
「……わーってるけどー。だけど――」
 ――お前の態度が気に食わねえ、という続きは、助けてもらった礼含めで心の中だけに留めることにした。

「て、ていうかーーー!! 倒したの!? あのお化け倒したの!!?」
 思い出したかのように机の下に隠れていた遊嬉、眞虚、杏虎の三人がわらわらと出てくる。ちなみにここまで深世は気絶したままである。
「うぇ、あ、うん。なんかこれで終わりらしい」
 自分の事で精一杯ですっかり忘れていた乙瓜は虚を突かれすこし挙動不審な返事をしてしまったが、三人、特に遊嬉は全く気にしていない様子だった。
「へーーーーっ。しっかしびっくりしたわーー。何あの必殺技。え、もしかしてあたしにも出来たりするそれ? できちゃったりするんすか??」
「いや、無理だね」
 間髪入れず火遠が答える。
「ええーっ。何をー! けちくそー!」
「残念だけどね、札術の力は俺が契約で乙瓜に分け与えたものだから、乙瓜にしか使えないよ。今のところは」
「何それ初めて知った」
 いかにも初耳といった感じでじろ見する乙瓜に火遠は。
「契約の二つ目。『この者に我の持つ術の一つを与えること』。これ。護符ふだ使って倒す術の事だから」
 けろりと、さも当たり前のことであるかのごとく言ってのけた。
「て、てめえええ! そういう大事なことは事前に言っておけよ!!!」
 浮いているネクタイを掴もうとする乙瓜の手を、火遠はするっと避けた。
「その時が来たら教えるつもりでいたともさ? それより契約内容を確認しない君にこそ不備があったと思わないかい? どのみち悪い方向に働く内容じゃいんだし、よかったじゃないか。これから乙瓜は護符で怪事退治。すると俺の目的である大霊道の封印に繋がる。win-winじゃないか。寧ろ今回は俺が持ってる技の中で最高級のをいきなり使わせてあげたんだから、もっと感謝してもらってもいいくらいだよ?」
 にやりと笑って、火遠はふわりと宙へ浮かんだ。
「逃げた!」
 乙瓜が、おい待て降りて来いや! と喚く一方で、水祢を取り囲んでいた護符達が、光の粒子のようになって一気に消えた。
 同時に、水祢が最初に巻いて行った人型も同じようにして消滅する。
 後には両腕が普通の人間と同じように戻った水祢が力なく倒れ、それを一番近くで見ていた魔鬼が恐る恐る15cm定規でつついた。

「おーい、もしもーし?」
「…………めろ……つつくな……」
「おお、へんじがある。しかばねではないようだ。……ねーこれどーするよ?」
 魔鬼が振り返りながら(しかしつつくのはやめない)皆に問う。
 水祢は完全に妖力を失ったのか、気付けば窓の外の風景は徐々に見慣れた校庭に戻りつつあった。
「どうするって言われてもねー……あたし的には戻れたから別にいいけど」
 杏虎がおさげを弄りながら投げやりな感じに言う。
「とどめ刺すっても、弱ってるのに殴る蹴るすんのはちょっとなー」
 遊嬉も首をかしげながら杏虎案に同調した。
「あの、火遠……さん。これってもう倒したことになってるんだよね?」
 眞虚がすこし自信なさげに問う。
「大霊道の封印に必要なのは『化け物が調伏されている』という事実だけだよお嬢ちゃん。何もとどめを刺す必要なんてない。さぁて、と」
 火遠はそのまま倒れた水祢の側に降り立ち、「これで少しは懲りただろ?」と一言。
「ちがっ、兄さ……火遠、俺は……っ!」
 起き上がろうとする水祢を指で制して、火遠は続ける。
「好いてくれるのは構わないさ。けれどお前は少し思い込みが過ぎる。そんなんじゃ、こっちは好きになるどころかドン引きだぜ?」
「あ……ぁ……」
 水祢は糸の切れた人形のようにがっくりと項垂れてしまった。
「そう落ち込むなよ。もしお前が美術部こいつらの手伝いをしてくれたら、そうしたら俺、お前の事多少は好きになると思う」
「!?」
 美術部全員が頭に感嘆かんたん疑問符を浮かべている中、火遠は天使のような、だがやはりどこか胡散臭い笑顔を浮かべて水祢の顔を覗き込んでいる。
(こいつ、悪魔だ……!!)
「……本当に? ほんとにほんと……っ!?」
 美術部の脳内総ツッコミむなしく、水祢は火遠の笑顔にコロッと騙されてしまったようだ。
「ああ、本当だとも」
 すがるような水祢の手を取って火遠はうんうんと頷いている。
「力を消耗させてしまって悪かったね。でももう二度としないから、ね? 今日は帰ってお休み」
「……! うん……ッ!」
 水祢は信じられないくらい明るく花のように愛らしい顔を浮かべて火遠の手を握り返した。
「オゥ……」
 乙瓜は何か見てはいけないようなものを見たような気になって小さく一言もらした。これはひどい。

 と、思ったその時、すっかりギャラリーと化していた美術部に向かって水祢がギロリと睨み付ける。
「……命拾いしたな烏貝乙瓜、そして美術部。別にお前らの事なんかどうでもいいけど、火遠の頼みだから助けてやる。勘違いするなよ、別にお前らの事なんかどうでもいいんだからな。どうでもいいんだからな。ふん!」
 捨て台詞をのこし、水祢は一瞬のうちに姿を消した。
「何なんだあいつは……意味が分からん」
 呆然と立ち尽くす乙瓜の前で魔鬼がぼそりと言った。
「ツンデレか……」

 かくして、妖怪・草萼水祢による一連の騒動は幕を閉じた。
 美術部一年及び美術室は無事元の現世に戻ることができ、時間は進みだし、またいつものように部活動が始まる。
 だがしかし、平穏は束の間。

 物語はまだ、幕を開けたばかりなのだから。

(第二怪・見ずの訪れ、水の音すれば・完)

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