怪事戯話
第三怪・怪談の女王様①

 そこにかしこに怪あれば、あちらこちらでそれに到り。
 知らぬ怪に出くわすことあれば、誰もが知る怪など尚更なり。
 ここに誰もが知る怪あり。
 ひやりと冷たいタイルの床と、じめりと湿った黴の臭い。陽光届かぬ仄かな暗所。

 誰もが知ってるあの彼女は、誰にも識られずそこにいる。


「全然駄目。書き直し」
 乙瓜が真剣に馬鹿丁寧にゆっくりたっぷり時間をかけて書き上げたそれを、火遠はあっさりと破り捨てた。
「うわあああぁあぁッ! 何で、なんでだよッこの鬼畜! あと何回書き直せばいいんだ!」
「仕方ないじゃないか。己の悪筆を呪うんだね」

 水祢との戦いから一夜明け、再びの放課後。
 火遠と乙瓜は人気のない自習室で、『護符』の『原本』を作成していた。
 火遠曰く、昨日のような一枚一枚時間をかけた手作りは作成に恐ろしく時間がかかるというデメリットがあり、しかもそれを一戦ごとに使い捨てていくのだからえらく効率が悪いらしい。
 そこで、『原本』と呼ばれる一枚を作り、それを妖界内で大量に複製して常備しておく、という方法が提唱され、今に至るというわけだ。
「くそだりぃ……。ていうか一々横から文句言うくらいだったらお前が書けばいいだろ」
「駄目さ。俺が書いたらそれはもう俺専用の護符になってしまうからね。ほら、美術部なんだろ。がんばれ」
「ちぇー」
 不貞腐れながらも新しい護符の紙に筆を走らせる乙瓜。その筆先は朱墨とはまた違う色の赤に染まっている。
 中途半端な力の護符では複製後に力が劣化してしまう。『原本』の護符には複製してもその力が衰えぬように、先の戦いで使った鉛筆・ボールペン書きの即席札よりも強い力を込める必要があった。そこで火遠は、契約主と被契約者である己と乙瓜両者の血液を墨に混ぜ合わせたのである。
 血には古来より生命の象徴とされ、また、呪術的な儀式によく用いられたものだ。ベクトルの正負は問わず、力があると信じられている。護符に力を持たせるには、一番手近で最適なものだった。
 乙瓜の右手の人差し指には、まだカッターで切りつけた血が滲んでいる。絆創膏を貼ってはいるが、相応の血を出すためとはいえかなり力を入れて切りつけたことは容易に想像できた。
 ……実際は、そこまでしなくてもいいのに乙瓜が緊張のあまり力を入れすぎて、指を切りすぎただけなのだが。
 その時の火遠ときたら酷いもので、腹を抱えてげらげら空中で笑い転げ、「俺の目を刺したときと言い、力が有り余ってるんだよ。さすがだなぁ」と乙瓜を煽り、彼女を半ギレさせていた。
(いつか絶対殴り倒す……!)
 乙瓜は痛さと怒りで若干涙目になりながら改めて心に誓った。

 さて、今現在は『原本』の作成のため紙に視線を落として集中する乙瓜と、それを静かに見守る火遠。
 自習室の中には不気味さのない穏やかな静寂が満ち、壁掛け時計の針の音だけがゆるやかに時の経過を伝えていた。
「…………。できた!」
 新しい用紙に書き始めてから十分ほどして、乙瓜がばっと顔を上げた。
 決して大きいとは言えない縦長の用紙に書かれた五芒星の模様と二文字の言葉。「奉」そして「天」。
「やるじゃないか乙瓜。上出来だよ」
 それを見て火遠は、相変わらず上から目線ではあるが嬉しそうな言葉を投げた。
 ――完成だ。
 乙瓜は己が仕上げたそれを、どこか感慨深そうにまじまじと見つめた。
(これが……力。俺の力。……俺の武器)

「さぁて、それじゃあ乙瓜。そいつを俺に渡しな」
「お、おうよ」
 火遠に言われるまま『原本』を手渡すと、火遠はそれを両手で挟み、こう唱えた。

『――願いましては四の五の双つ。一を四に四を五度くぐり、其れ二つとかけましては二千四十八と解く。殖えろや増えろ、集えやつどえ』
 詠うように文句を唱え終わるころには、彼の手と手の間に相当の分厚さを持った紙の束が出来上がっていた。
「……さて、こんなに大量は今の乙瓜には扱いきれないね。使わない分は妖界あちらに送ってしまおうか」
 ぱんっ、と火遠が手を閉じると、紙の束は一瞬にして明らかにその量を減らした。
「受け取りな乙瓜」
 薄くなったとはいえまだ景気のいい札束くらいの厚さのあるそれを、火遠はすっと乙瓜に差し出した。
(成金みたいだ……)
 その様を見て乙瓜はなんとなくそう思った。

 乙瓜が護符を受け取ったと同時、ガラララッと自習室のドアが開いた。
「火遠……そして乙瓜」
 そう、消え入りそうな声で呼びかける相手は、先日の怪事の主・草萼水祢だった。
「おま……水祢じゃんか。何だよいきなり」
「お前はいい。火遠に」
「な、何だよお前! 相変わらずやな感じだなぁ……!」
 相変わらずの冷たい態度に呆れ果てる乙瓜を余所に、水祢は淡々と言葉を紡いだ。

「火遠……"花子さん"が呼んでる。理の調停者、その代理人を見せろって。言伝。伝えたから」
 水祢はぽそぽそと伝えるとそのままくるりと踵を返し、立ち去った。
 後に残るは相変わらずの乙瓜と火遠のみ。

「花子さん……? 花子さんって……そりゃ……。あの"花子さん"のことか……?」
 乙瓜は急に出てきた学校怪談の大物の名前ビッグネームにたじろぎながらも、そうかこの学校にもいたのかと目から鱗が落ちた。
 そうか、有名すぎて逆に盲点だったけど。いたんだ、花子さん。
「……"花子さん"か。成程なるほど……まさか…………だが………………あるまいね」
「お、おい火遠……? 聞いてんのか――」
 一人ぶつぶつ呟きつつ何やら思考を巡らせている様子の火遠に恐る恐る声をかけたと同時。
「――よし決めたよ乙瓜」
 唐突に乙瓜に向き直り、それに驚いてびくりと震える乙瓜を無視して火遠は続けた。

「"花子さん"に会いに行こう」

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