怪事戯話
第二怪・見ずの訪れ、水の音すれば⑥

 許さない。
 許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない……!
 一体何様のつもり。いったい何の権限を持ったつもりで。

 憤慨。憤懣ふんまん。飛ばされた先の屋上の給水塔の裏で、草萼水祢は地団駄を踏んだ。
 ――許さない。誰を。そう、あの小娘を。兄さんと一緒にいたあの小娘。あいつが愛する兄を誑かしてこんなことをさせたに違いないのだ。
 でなければ、理由が見当たらない。
「許さない、許さない、許さない……」
 水祢は小さな唇から息を吐くように呪詛の言葉を漏らすと、屋上のコンクリートを力強く蹴り大きく飛び跳ねると、空中で綺麗な弧を描き。まるでプールにでも飛び込むかのように地面に飛び込み、そして消えた。
 向かう先は美術室。水祢の思うあの忌々しい小娘・烏貝乙瓜のいる所――。

 一方の美術室では、先ほどの火遠の指示に素直に従い、五名の美術部員がせっせと護符作りに勤しんでいた。ちなみに気絶した深世は空いている机の上に寝かせてある。火遠は言うだけ言ってまたどこかへ姿を隠してしまったが、多分まだ近くにいるのだろう。
 美術部員たちは画用紙でもコピー紙でも、自分たちの使える用紙をフルに使い、模様を模写し、鋏で調度いいサイズにカットし……この場面を第三者が見たならば、不良美術部と呼ばれた彼女らが改心し、熱心に美術的創作活動に励んでいるように見えるだろう。感動的な光景である。
 しかし彼女ら一年美術部の真の目的が「妖怪退治」だなんて知ったら、一体どう思うことだろう。ついにトチ狂って謎の儀式でもはじめようというのかと、周囲はドン引きするだろう。現に水祢が残していった大量の人型はまだ取り除かれないままで。何とも呪術的な光景である。
 水祢ほんたいが出たり消えたりできるんだし、現にこの紙の人型だって突然出てきたんだから、できることなら掃除なんて面倒くさいことしなくても自然消滅してくれやしないだろうか。美術部はそう願ったが、何分待っても消えることはなかった。大量の燃えるごみを前に、美術部の五人は「倒しても消えなかったら掃除する。あとでやろう」と、目の前の問題をスルーすることに決めたのだ。
「そんなこんなで大分時間かけてお札作り続けてますけどさ」
 遊嬉が鋏で紙を切りながら言う。
「消えた奴さん、えーと、みずね、だっけ。そいつなかなか現れませんな」
「ん、まあ確かに」
「そうだねー」
「そだけども」
 各々作業の手を休めることなく適当な返事をする。しかし。
 机の上に積みあがった完成品の護符の山はもう相当な高さになっている。時間のかかる地味な作業でここまで進むのだから、相当な時間が経っている筈である。
「なんかさ、おかしくない? 先輩達もいつまでたっても来ないし、外もやけに静かじゃない?」
 そう、何かがおかしい。一階の端にある美術室からはグラウンドがよく見えるし、窓の外の道を隔てた先は剣道部が使っている武道館がある。
 なのに、練習の声が、部活の喧騒が。まったくと言っていいほど聞こえてこない。
 沈黙。
 カリカリ。シャリシャリ。
 聞こえてくるのは美術部員たちの作業の音。鉛筆の音、鋏の音、紙の擦れる音、そしてここにいる五名の呼吸音。以上。
 静かすぎる室内。取り残されたように動いている空間。そこにきてやっと遊嬉は気付いたのだ。……時計の針が動いていない。
「「まさか!」」
 乙瓜と魔鬼が同じタイミングで叫ぶ。そう、なんとなく覚えがある。このいやな感じは昨晩と同じではないか……!
「火遠っ!」
 乙瓜が叫ぶ。瞬時に空間に炎が生じ、火遠が姿を現す。
「んー、あー。これはアレだ。まずったね」
 火遠は辺りをぐるりと見渡し、何とも暢気に言う。
「どういうことだ! なんでまた空間が閉じられてんだよ!」
 乙瓜は宙にひらひらと浮かぶネクタイを掴み、ぐいと力任せに火遠を引き寄せる。乙瓜の目と鼻の先5cmくらいの位置に引き寄せられた火遠は全く動ぜず、しれっとした表情を変えることのないまま続ける。
「水祢の人型、アレ全部が鍵になって妖界を発生させてるんだろうね。お前らが怠惰なことを見越しての時限式だよ全く、さっさと処分するなりしておけばこうはなるまいに」
「だったら!!!」
 乙瓜が猛犬のごとく火遠に詰め寄る。ただでさえ近い二人の顔と顔の距離が1cmくらいに縮んだ。不良の喧嘩みたいな光景である。
「……だったら、さっさと伝えろって言いたいのかい? お前たちが楽しそうに作業続けてるから折角黙っていてやったのに。酷いなあ。それに、結果的にこんなに護符を作る時間が出来たんだからいいじゃないか」
「よくねーよ! なんだよ、水祢の奴は延々と作業させてくたびれ死させる気かよ!」
「うん、多分それ」
「ちッくしょう!!」
 乙瓜は火遠のネクタイをぶっきらぼうに離して、ずかずかと窓へと向かい、勢いよく開ける。
 いつも通りの平凡な校庭の風景を映していた窓の向こうは、黒と青の二色が混ざったどよどよとした形容しがたい世界で、緑の木々も青い空も、風の音も人の声も何にもなかった。
「……昨日のお前の色違いじゃねーか」
 乙瓜は悪態をついて窓を閉じる。恐らくドアの向こうもこんな感じなのだろう。完全に脱出口を失っている。今現在この美術室から抜け出す方法は、無い。
「ずっと……このまま……?」
 人一倍臆病おくびょうな眞虚がへたり込む。いつもと変わらない美術室、いつもと変わらない仲間、しかし時は動くことなく外界には暗黒の澱みが広がっているのみ。
「嘘だよねえ……嘘。………………やだあぁ……!」
 オカルトに興味はある。だけど怖がり。怒涛どとうの現実に、ついに眞虚は泣き出してしまう。その背中を杏虎が優しくさするが、彼女の顔もまた不安な表情を隠しきれていなかった。傍らで棒立ちになっている遊嬉も同じような顔を浮かべている。
「…………脱出する方法は」
 その状況で一人、椅子に座ったままだった魔鬼が筆箱を探りながらぽつりと。
「ないわけじゃないんだろ」
 取り出した15cm定規を火遠に突出し、平坦な口調で言った。
 特に怒りも不満も不安も、何も籠っていない瞳で魔鬼は火遠をじっと見据える。
 火遠は何か考えているのか考えていないのか、常時仮面のように浮かべていた笑顔を引っ込めてまじまじとその瞳を見つめ返す。
 数秒の無言。まるで水を打ったような静寂。寂として声なし。
 数十秒にも思える沈黙を破って、火遠は言った。
「――無論、あるとも」

「そもそも妖界というのはだね」
 火遠は宙を泳ぐ魚のようにふわふわと身を漂わせながら語る。
「人間界の上に重なるように時の流れの違うもう一つの世界のことなんだよ。俺たち妖怪の力で強制的に人間界の一部を妖界に引きずり込んでいる状態が今君たちが置かれている状況。これがどういうことかわかるかな?」
「……どういうこと、だよ」
 乙瓜は言う。火遠は天井に腹を向けながら美術部員たちを見下ろしている。
「結界は閉じるもの。しかし妖界は人間界と同じように広がるもの。結界が点なら、妖界は面。窓の向こうに広がるもやもやの海……俺たちは妖海と呼んでるけどね、そいつの向こうにはまだ世界が広がっている。結界と違って『終わり』じゃない。ついでいうと、妖界と人間界は普段平行に存在しているけど、たまに平行線が交差する特異点がある。つまりね」
 火遠は宙返りし、泣いている眞虚の前に降り立って涙を拭いながら言った。
「泣くのはお止め。出られるよ、お嬢ちゃん」
 眞虚は顔を上げて火遠の顔を見る。火遠は平時の道化的な笑みを浮かべてもう一度「大丈夫」と言った。

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