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ロクマルヨンゴー

黒蛇の呪、雪の垣根 乙

 巫女の子が持ってきたスイカを頬張る。一口ごとにさっぱりした甘味と水分が舌と喉から伝わってきて、お風呂入ったときのお爺ちゃんじゃないけど、なんだかとっても生き返る心地だ。

 件の巫女さんはスイカを持ってきたっきりまた引っ込んでしまったから、縁側にはあたしとガッキだけ。炎天下の境内には誰も見当たらない。神社をぐるりと囲む鎮守の森からは、ミンミン蝉の大合唱。空は青く高く、白いもくもくの入道雲が、木々の端から顔を出している。
「雪の壁みたい」
 空を見上げながら、あたしは呟いた。

「雲がかい?」
「うん」
 頷くあたしに、ガッキは不思議そうに首を傾げた。
「遊嬉ちゃんは変わってるね。大抵人は、あれを綿みたいだと評価すると聞いたけど」
「しってる。でも、曇ってスイジョーキの固まりなんでしょ。先生が言ってたよ。だったら、雪の親戚みたいなものじゃない」
「なるほど、そういう考え方もアリかもしれないね」

 ガッキは感心したような素振りだった。かしこいんだね、とも言っていたけど、べつに。ふつーだよ。
 その時気づいたんだけれど、ガッキはスイカに全く手を着けていなかった。遠かったかな? と思い、あたしはスイカの乗った皿をガッキの方にすっと近づける。
 ガッキはそれに気づくと、ふるふると首を振った。

「ありがとう、でもいいんだ。おれは人より大食いだから、一度食べたら全部食べてしまう」
「なら尚更食べなきゃだめだよ! こんな暑いんだから、熱中症になっちゃうよ! あたしもうヘーキだから、ガッキが食べて!」
 更にずいずいとスイカを近付けると、ガッキはプッと小さく吹き出し、顔をほころばせて笑った。
「えっ、何。あたし何か変なことした?」
「違う違う」
 口元に手を当てながらガッキは言った。
「女の子にこんなに優しくされるのは初めてだから、可笑しくてね」
「だぁれも優しくしてくれなかったの? こんなにカッコいいのにさ」
 あたしが首を傾げると、ガッキは堪えきれないといった感じで大笑いした。
 その様子を益々不可解に思っていたあたしだけれど、それがどうしてなのか、すぐに理由を知ることとなる。

「私は女だよ、遊嬉ちゃん」

 笑いすぎて目元に涙を滲ませながら、ガッキは告げた。
 ぽかんとする、ってきっとこういうことなんだなって思った。



 だいぶがらんとしたお皿の上。真っ昼間だというのにどこからか飛んできたカブトムシが、残った皮に付いた僅かな果肉と汁を啜っている。

 あれから本当に残り全部のスイカを平らげてしまったガッキはご満悦の表情。本当は最初から食べたかったけど、あたしの手前我慢して手を着けないようにしてたんだろうな。食べるスイカはなくなっちゃったけれど、あたしは本当にお腹いっぱいだし、ガッキが喜んでくれたなら嬉しい。

 そこまできて、あたしは大事なことを思い出す。

「そうだお参り! 雪団子!」
 そもそもの大事な用事。あたしは縁側を降りて靴を履き、軒先に移動してあった自転車のカゴを覗く。その中には――

「ない!」

   何も入っていなかった。もしかして倒れたときに落としたのかも? だとすると落としたお団子は果たして無事なのだろうか。それにこの炎天下、和菓子として耐えられるものなんだろうか……!? 何より、お爺ちゃんに貰った五百円分の大事なお団子。無駄にしちゃったってバレたらどうしよう! 次からお小遣いもらえなくなっちゃうかも知れないよ……!

 顔面蒼白で意味もなく自転車を揺すったり当たりを見回したりと、かなり動揺しているあたしを見かねたのか、ガッキが大きめの声で呼びかける。

「遊嬉ちゃん、大丈夫だよ」
「……えっ?」

「君の持ってた和菓子の包み、巫女の女の子が冷蔵庫に入れてくれてる」

 その言葉に、あたしは挙動不審な動きを止め、一瞬の後、大きな溜め息を吐いた。
「よかったぁ……」
 溜め息と一緒に飛び出す安堵の言葉。体から力が抜け、停めてある自転車に寄りかかる。肘がベルに当たり、チャリンチャリンという音が意味も無く鳴り響く。
「焦ったぁ……もう、知ってたなら教えてよねえ」
 むーっと睨むあたしにゴメンゴメンと言って、ガッキは巫女さんを読んだ。

 少しして、巫女の女の子がすすき屋の袋を持って現れる。
 中のお団子は無事だった。冷蔵庫で冷やされたビニールの箱はひやりと冷たく、腐ったりとろけたりはしていないみたいだ。
「雪団子、無事たったぁー!」
 改めて安心するあたしを見て、巫女の子が聞く。
「すすき屋のお団子、どうしたの……したんです?」
「いいよいいよ、敬語じゃなくて。……えっとね、これね、うーん……」
 あたしはやや考えた後ポンと手を叩き、今さっき受け取った袋にお団子を戻すと、巫女の子に差し出した。
「え、えっと?」
 わけがわからないと言う顔で目を白黒させる彼女に、あたしは言った。

「おみやげ! 神様に!」

 だから受け取って、と半ば強引に袋を返す。
 小さな巫女さんは、イマイチ合点がいかないような微妙な顔をしながらも、一応はお団子を受け取ってくれた。

「何だかわからないけど……とりあえず奉納しておくね」
「そうしてくれると助かる!」
 ひとまず一番大事な目標を達成したあたしは大きな延びをして、そしてまた思い出す。
「そうだ!」
 停めてあった自転車のスタンドを起こし、巫女の子に振り返る。
「色々とありがとう! もういっこ、あたしやらなきゃ!」
「えっ、えっ。今度は何っ……?」
「一緒に来て! あなたも、ガッキも!」
 ガッキの方にも視線をやると、一瞬キョトンとしたが、しかしすぐに立ち上がる。あたしは自転車に跨またがった。カゴには飲みかけのスポーツ飲料がごろんと転がる。

「お参り! ちゃんとしたやり方教えてよ!」

 ペダルに足をかける。すっかり元気に復活したあたしは、社殿正面までの短い距離を滑るように走った。



 行きが上りなら帰りは下り。自転車で簡単に走り抜けられる坂を、しかし徒歩で下っていく。手を離せば暴走してひとりでに下っていきそうな車体を抑えながら行く隣にはガッキ。彼女が口ずさむ歌は夕焼け小焼け。

 思いがけず長居してしまって、夏空はほんのり薄紫のぼやけ色。今朝うちで咲いた朝顔の色だけど、きっともう萎んじゃってる。

 大きな壁みたいに立ち上っていた雲は、いつの間にか遠くになってる。ここは晴れてるのに、雲に乗られてる方からは雷の音が聞こえる。
 あっちとこっちで違う世界。晴れと豪雨の境目の垣根。

「通り雨さ。すぐにどこかにいってしまうよ」
 ガッキは歌を中断して言う。あたしが見てるのと同じ雷雲を見て、目をすっと細めた。
「いつまでもつづきやしないよ。大丈夫だ」
 独り言のように呟くガッキは、あたしへ、というより、自分に何かを言い聞かせているみたいに見えた。少なくとも、あたしには。

 そういえば、あたしはガッキの事何も知らない。

 助けてくれた優しい人だってことはしってる。
 なんとなくふつーの人間とは違うんだってこともしってる。
 自分のこと「おれ」って言うし、ちょっぴり男の子みたいだけど、実は女の子で、大食いっていうヘンなところがあるのもしってる。

 ……だけど、彼女が何のためにここにいるのか、何であたしを助けてくれたのか、あたしは何にも知らない。

「ガッキはどうしてあたしを助けてくれたの?」
 何気なく、口から出た言葉。
 その言葉に、ガッキはほんの少しハッとしたような顔をして、ほんのちょっぴり帽子のつばを下げた。

「……笑わないで聞いてくれるかい?」

 そんな前置きの後、ガッキは語り出した。
「弟を探していたんだ。この町の、だけどこの町でないところに閉じこめられてしまった弟を救い出す為に。そう。あの日も、彼を探していたんだ」
「弟が、いたんだ」
 確かめるようなあたしの言葉に彼女は頷く。
「ああ。ひどくお人好しな子でね。……人間のことが大好きだった。だけれどそれが仇になって、他ならぬ人間に封印されてしまった。ここであってここでない場所、あの蛇の空間みたいに何もない、真っ暗で、冷たい場所に。直接封印された場所に行ったけど、封は固くてびくともしない。だからどこかに抜け道はないかと、あちこち探っていた時だった。遊嬉ちゃん、君の叫びが聞こえてきたのは」
「あたしの?」
 ガッキはまたこくりと頷いた。

「たすけて、って言ったろう?」

 あたしは数日前の出来事を鮮明に思い出した。
 何度も何度も、ひたすらに、無心に、祈るように叫び続けていたことを。
「君の声が届いたたとき、弟かとおもった。昔日にそんな風に泣いていたことを思い出したからね。助けなくては、と思った。だけど、引っ張り上げたのは人間の女の子だった。そりゃそうだ、弟がそんな風に泣き叫んでるのを見たのはもう遠い昔のことなんだから。あの子のわけない。……だけどね、遊嬉ちゃん。おれは、その……言い方は変かもしれないけれど。助けたのが君でよかったと思ってる」

 ガッキは改まってあたしの方を向いた。低くなった太陽を反射して、宝石のような瞳がキラキラと輝いている。

「おれも弟も、人間じゃあない。だからある程度の虚無には耐えられる。けれど遊嬉ちゃんは人間だ。人間は虚無に耐えられない。あのときおれが遊嬉ちゃんを引っ張り上げなかったら、きっと弟よりもひどい目にあっていた。そんなのは、おれは……嫌だ。だから、助けたのが遊嬉ちゃんで本当に良かったと。そして、……アハハ」
 誤魔化すように笑うと、ガッキは続けた。
「弟のことばかり考えていたからお人好し分が移ったのかな。怯える君を見て『この子を助けたい、守りたい』と。思ってしまったんだ」
 ――笑ってくれるかい?
 最初に笑わないでって自分で言ったくせに、なんだか矛盾してるんじゃないかな。ガッキ「面と向かって言ってみると恥ずかしいや」なんて言いながら帽子を脱いだ。

 新緑色の長い長い髪の毛がふわりと現れ、不意に吹いた風に浚われて靡なびいている。

 初めて会った時は気づかなかったけれど、彼女の毛髪は途中で植物に変異していて、まるでネット伝いの緑のカーテンをそのままくっつけてるみたいだった。
 ――ああ、なる程。ガッキがよく帽子の具合を気にしていたのは。勿論中には恥ずかしさや気まずさもあったのだろうけど、この髪を他人に見られまいとしていたからなのか。

「最初はもう会うまいと思っていたから」
 ガッキは言う。
「だけど遊嬉ちゃんがあんまりにも普通な様子だから、もしかしたら恐怖のせいで気づいてないのかもって、人間だと思われてるのかもって思った。だから、次からは隠すようにした。別のところが出ちゃったから、失敗したけれど」
 我ながら呆れたと溜め息をついて、ガッキは左腕をぎゅっと押さえた。あの時保健室で、変な形になってた左腕。そっか、頑なに見ないでって言ってたのはそういうことでもあったんだ。

「馬鹿だなあ、ガッキは」
 だからあたしは言ってやった。
「人間じゃないかもなんて、最初っからなんとなく気づいてたよ。そりゃあ驚きはしたけど、……でも拒んだり傷つけたりなんて、あたしにゃできないよ。だってさ、あたし思ったんだ」
 そう、それはあの日の帰り道に思ったこと。

「ちょっと変わった友達が出来た、って」


 面と向かって口に出してみたところで急に恥ずかしくなり、あたしは照れ隠しに俯いた。カラカラ回る自転車の前輪に全力で視線を注ぐ。きっと顔は真っ赤になっている。さっきのガッキじゃないけど、笑われたくないけど笑い飛ばして欲しいような、変な心境になってる。――だけど、いつまでたっても笑いは起きない。コメントもない。

「……?」

 ヘンに思って顔を上げると、想定外の景色が広がっていた。

 ガッキは、あたしと並列に歩きながら涙をポロポロとこぼしていた。
 宝石みたいな大きな瞳から、真珠の粒みたいな雫が溢れて止まらない。
 あたしはギョッとして足を止めた。

「ごっ、ごめん、何かおかしなこと言ったかなあたし……」
 ガッキはハッとして立ち止まり、ぶんぶんと頭を振った。
「……違うよ、違うよ遊嬉ちゃん」
 彼女は何度も何度も頭を横に振って、そして震える涙声で言った。

「嬉しかった。とてもとても嬉しかった。遊嬉ちゃんがこんな私を友達と言ってくれて、本当に」

 ――ありがとう。

 神社の時とは反対に、今度はあたしがぎゅってされる番。思わずハンドルを手放してしまった自転車は、しかしもうだいぶ平らになってきていた地面を少し進むと、ガシャンと倒れた。
 結構な大事だけど、今はそんなのあんまり気にならなかった。でも後になって思えば、人がいなくて本当によかった。

「友達でいようよ、ガッキ。あたし丁度人じゃない友達も、欲しかったとこだから。大丈夫」
 ガッキの背中に手を回す。暖かいし普通の人とそんなに変わらない。まだ個性派の範疇だと思う。大丈夫。
「ありがとう、ありがとう、遊嬉ちゃん。優しい子。だけど、今日で一旦お別れ」
 耳元で囁くように言われる言葉、だけど特に驚かなかった。
 なんとなく、そんな気がしてた。

「わかってる。弟を助けにいくんでしょ」
「……うん。不思議だな、遊嬉ちゃんはこっちの考えてることなんかお見通しみたいだ」
 ガッキは笑った。あたしは笑い返した。
「……もし、もしもだよ。もしガッキが弟を助け出せたら、そのときはまた会える?」

「そうだね、会えるよ。その時は弟も一緒に会おう。それが何年後になるか、何十年後になるか、わからないけれど。だけど必ず会いに行く。だから一旦お別れだ」

 ガッキの体がふわりと浮き上がる。
 抱きしめていた腕からするりと抜けるように、ガッキの体が離れていく。

「忘れないで。怪しい事を忘れないで。不思議なことを忘れないで。その優しい気持ちを忘れないで。そうすれば、何年たっても大人になっても、遊嬉ちゃんにはおれを視ることができる。何度だって会えるさ」

 宙に浮いた体が透明になっていく。夢幻のように消えていく。
 あたしは叫んだ。

「忘れないッ! 待ってる、だからガッキも待ってて、忘れちゃっても会いに行くから、絶対にっ!」
 そして、咄嗟にその時頭に着けていた緑色の髪留めクリップを外して差し出した。

「これっ、お礼、あたしこんなものしかあげられないけど、ガッキに!!」

 手から離れるプラスチックと金属の感触。もう消えそうなガッキは、驚きながらもそれを受け取って、きっとにっこり笑ったんだろう。そんな優しい声音で、しっかりとそれは聞こえてきたんだ。


「ありがとう。さよなら」


 薄紫の空に大きな一番星が浮かぶ頃。倒れた自転車とコンクリートの道の前。一人声を上げて泣いているあたし。
 遠くの空に、もう『垣根』はない。遠雷の音も消えてしまった。

 忘れないよ。なにをしてても、あたしは忘れない。
 不思議なことを忘れないよ、怪しいことを忘れないよ。忘れないように毎日綴ろう。忘れないように毎日語ろう。

 いつかもう一度会うために。


 自転車を立てて帰る道。
 暮れゆく町の、闇に沈む道を走るあたしの頭上には、次々と現れた星たちが、金に銀にきらきらと輝いていた。

(『黒蛇の呪、雪の垣根』・完)

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2013. 6.21 彼女の理由。
2018. 7.21 五年と一月経ってやっと本サイトに掲載。次は「白翼の鳥、虚の卵」を移植できたらと思います。