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ロクマルヨンゴー

黒蛇の呪、雪の垣根 中

 家に帰ってから気づいたことが二つある。

 一つめ。
 カラスがたくさん鳴いているということ。
 街に張り巡らされた電線に、あちこちに生い茂る木の枝に、住宅の屋根の上に。

 からす、からす、からす。

 帰り道には一羽も居なかったはずなのに、一体どこに隠れていたのだろうか。自宅の窓という窓から見渡す限りの高所に集まった鴉の大群がカーァ、カーァと喧しく鳴く声がやかましい。あまりの騒音に耳を塞いでしまうくらいに。

 そして気付いたことの二つめ。
 どうやらその鴉たちはあたしにしか見えていない上に、他の人には鳴き声も聞こえていないらしい、ということ。
 だって、近くで工事が始まるだけでぐちぐち言うお母さんが平然と夕食の準備をしているし、少し耳の遠いおじいちゃんおばあちゃんも何食わぬ顔で夕方の時代劇を見ているんだもん。きっとそう。
 試しにおじいちゃんに「うるさくないか」って聞いてみたら、ならテレビを止めようかとリモコンに手を伸ばすから慌てて引き止めた。
 上の階に行ってみたらお兄ちゃんも平然とテレビゲームをしていた。
 集中しているせいもあるだろうけど、その部屋の、窓まで伸びた庭木の枝にびっしりとたかる鴉なんてまったく気にした様子もない。
 ゲームの音量も鴉の声を掻き消すほどの爆音なんかじゃない、むしろちょっと低いくらいだ。いや、その時本当にそうだったかはあたしにはわからないけれど、部屋に入って来たあたしと普通に話してたからきっとそう。

「ねえお兄ちゃん、なんか窓の外に鴉いっぱいいるんだけど」
「知らん」

 お兄ちゃんは妹の指さす先なんて見ようともせず、あろうことかたった三文字の言葉で拒絶した。
 ……使えない兄貴め、ゲームの中の怪物にショットガンぶっ放すより、外の不気味なトリをなんとかしろよ!
 むしゃくしゃしたあたしはわざと窓の側に立って、ダンと一つ足踏みをした。
 だけど、やっと顔を上げて意味が分からないという視線を向けるお兄ちゃんには、やっぱり鴉なんて目に入っていないみたいだった。……もう、窓に張り付いているんじゃないのかってくらい真っ黒なのに。
 もういいよとあたしは窓を離れた。その途中で少し後ろを見てしまい、窓を埋め尽くす鴉たちと目が合う。

 そうしたら、その瞬間。丸い鴉の目が、まばたきじゃなくて、……にぃっと弧を描いて、笑ったように見えた。

 背筋に冷たいものがぞわっと走って、あたしは慌てて兄の部屋を飛び出した。自室に駆け込み急いで窓の鍵が閉まっていることを確認すると、カーテンを乱暴にぐいと掴んでシャッと閉めた。
 閉じたカーテンの向こうでは、まだ鴉の鳴き声がカァカァとやかましい。

 ……なんだ、なんなんだよあの鴉っ……!
 バクバクする心臓を抑えながら、あたしはその場にへたりこむ。
 糸が切れた人形のように崩れ落ちたあたしは、夕食までの短い時間を耳を塞いで過ごした。



 夕食を終えて辺りがすっかり真っ暗の闇に包まれる頃には、鴉の声はとんと聞こえなくなっていた。
 ……居なくなった、かどうかはわからない。確認する勇気もない。でも、何となく、もう居ないと思う。そう思いたい。
 自室で茫然自失としていると、お風呂に入って来なさいと呼ばる声がするので、ひとりお風呂場に向かった。

 そのお風呂上がりで、新しく気付いてしまったことがあった。

 あたしの目が、赤いんだ。
 泣き腫らした時になるみたいな充血じゃあ、ない。現に白目は何ともなかった。
 ――黒目が、瞳が。
 瞳が、それまで黒茶色だったあたしの瞳が、びっくりするくらいに真っ赤になっていた。

 なにこれ。病気?

 思ったら急に不安になって、頭を乾かすのもそこそこに脱衣所を飛び出した。
 仕事場から戻ってきていたお父さんがただいまを言うけれど、構うことなくお母さんに飛びつく。

「……おかぁさんっ、お母さんっ! 目、あたしの目変じゃないっ?」

 開口一番にそんなことを言うあたしをヘンな目で見ながら、お母さんは言った。

「何ともないよ? ゴミでも入ったんじゃないの。あんたはいつも大袈裟ねえ」

「えっ……」
 ――嘘?
 念のためお父さんにも聞く。
「お父さん、あたしの目、色が、色がっ……!」
「なに言ってるんだ、お前の目は父さん母さんと同じ黒だぞ。急に青い目の外人さんになったりなんて、あるわけないだろう?」
 ……一笑に付されてしまった。どうやら家族には何の変哲もない普通の目に見えているようだった。お兄ちゃんには漫画の読み過ぎだって馬鹿にされたけど、お兄ちゃんにだけは言われたくないって返す気力もなかった。

 赤い目はあたしにしか見えていない……。

 鴉のことといい、瞳のことといい。帰ってきてから変なことばかりだ。夢だって思おうとしたけれど、それはできなかった。……だって、つねった頬は相変わらず痛いんだもん。
 じゃあ、やっぱりこれが現実で、今まさにあたしは、チョージョー現象ってのに見舞われているわけで。

「どうして……」

 ベッドの上で体育座り。一人つぶやく言葉とは裏腹に、心当たりは十二分にあった。
 あの神社の変な神様に気に入られたこと、結婚式を挙げさせられそうになったこと。
 ガッキが言っていた、『印』のこと。

「くそぅ。なんであたしなんだよう……」

 やり場のない感情を抱えがっくりとうなだれる。生乾きの髪の毛が頬に当たって気持ち悪い。

 どうすれば、いいのさ。どうすれば。

 行き詰まりを感じていたその時、ケータイが鳴り始めた。
 唐突に鳴り響く着信の音楽とバイブレーションにちょっと苛つきながら開くと、画面に表示されていたのは知らない番号。
 無視、しようか。

 いつも通りなら、即座に『切』ボタンを押していたと思う。だけど、今日は妙な心細さがあったからかな。なぜか通話ボタンを押してしまった。

「……もしもし?」
 恐る恐る応答してみると、返事はすぐに返ってきた。

『もしもし、遊嬉ちゃん。大丈夫かい?』

 思いがけず、それはガッキの声だった。
 ……でもなんで? 連絡先なんて教えてないのに。だけど、今はそんな疑問よりもなによりも、安心感の方が大きかった。
 出会ったばかりでどうしてここまで思えるのか自分でも不思議だけど、何故だか、この人なら恐ろしい状況から救ってくれる、そんな確信がなんでかあった。

「たすけて、鴉が、たくさんの鴉が、窓の外で、鳴いて……あと、眼が、なんか、真っ赤で……」

 ああどうしよう。頭の中がごちゃごちゃして言いたいことがまとまらない。きっといろんなことがありすぎたせいで混乱してるんだ。
 自覚してるのにそれを直せないひどい有様、ごちゃごちゃの訴え。これじゃあ何がなんだか伝わらないよ……。
 だけどガッキは。

『大丈夫だよ、少しずつでいいから。何があったのか話してごらん』

 やさしいことば。その安心感からか思わず涙が滲む。
 あたしは殆どしゃくりあげるようになりながらも、帰ってから起こったことを伝えた。

 鴉のこと。
 瞳のこと。
 家族にはそれらは見えないし聞こえていないということ。

 ようやく伝え終わった後、電話の向こう側のガッキは何事が考えているのか少し黙ったあと、言った。

『わかった。どうやらあちらさんは思っていたより執念深いようだね。一応社殿の中の遊嬉ちゃんに通ずるようなものは処分したのだけれど、やれやれ』

 溜息のような音が聞こえる。そんなにヤバイんだろうか。再び不安になる。

「ねえガッキ、どうしたらいい? あたしどうしたらいい?」
『大丈夫、落ち着いて遊嬉ちゃん。……しかしあちらさんがその気ならば、こちらもそれなりに対応する必要があるね。……そうだね、今日のところは――遊嬉ちゃん。遊嬉ちゃんの家に神棚はあるかい?』

 唐突に神棚の有無を問われ、あたしは一瞬きょとんとしたが、すぐに思い当たる。

「おじいちゃんの部屋に神棚が……」
『そっか、ちょうどいい。じゃあ遊嬉ちゃん、寝る前に神棚のところに行ってオミキをお供えして。様のおでお神酒。わかる?』

 わかる。電話口なのに、あたしは声に出さずにコクコクと頷いていた。馬鹿だ。
 だけどガッキは『そう、それはいい』って、まるでこっちが見えてるみたいにそのまま話を進めた。

『お神酒をお供えしたら、「ヤマガミさま、あとできちんとお礼をします、だから助けてください」ってお祈りして。できるね?』
「うん、うんっ……!」
『よし。それなら大丈夫。絶対に忘れちゃだめだよ』
 電話の向こうのガッキも安心したようで、僅かに微笑んだような息の音が聞こえた。

 電話のあと、あたしは脚立を引っ張り出して来て早速お神酒をお供えした。やってる途中で「あんた今日変よ」ってお母さんに言われたけど、気にするもんか。
 そして、心の底から真剣に祈った。

 神棚のかみさま。ヤマガミさま。どうかどうか、助けてください。必ずお礼をします。だからどうか助けてください……。


 祈りが通じたのか、その夜はもう何も起こらなかった。次の日の朝恐る恐る開いたカーテンの外には、鴉なんて一羽もいなかった。
 あっさりと、平穏。

 だけどやっぱり、このまま何事もなく終わるなんてことはなかった。