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ロクマルヨンゴー

黒蛇の呪、雪の垣根 上

 小学生の頃、あたしはよく近所の神社に来ていた。特別な意味はない。氏子でもなければ信心深いわけでもない。
 ただ、鬱蒼とした森の中にあるそこを、幼心になにか特別な場所であるように感じていた。
 そこは、町で有名な神様の分社であるらしいのだが、ろくに手入れされておらずお世辞にも綺麗とは言い難かった。そんなこともあってか、時々神主さんを見かける以外は参拝客らしい参拝客も、あたし以外の子供も見かけない。

 大元の本社があんまりにも立派なもんだから、みんなこっちには見向きもしないらしい。まあそれはそれで好都合だ。
 誰もいない森の中。誰も来ないお社。それってなんだか、秘密基地みたいで素敵じゃん。
 そのことに気づいてから、あたしはこっそり社殿の中に私物を持ち込んで、少しずつ神社を侵食しはじめた。

 もう立派な本社持ってるんだから、こんなボロ屋とられたところで神様だって許してくれるよね。そうでしょ?
 だからバチなんて当たらないだろうと自分なりの理屈で納得して、じわじわと神社の殆どを乗っ取った頃。

 お約束といったらお約束だが、遂にバチが当たってしまった。

 いつものように隠れ家の中に一歩踏み入ると、突然世界が暗転した。
 意識は、あった。
 目を開けたままなのに、いきなり辺りが真っ暗になってしまったというか、視界が暗転したというか。
 上もしたも黒一色の不気味な檻の中に、突として放り込まれてしまい、あたしは混乱する。
 なにこれ、なにここ、どうして?
 焦るあたしの耳に聞こえてくるのは、どこか遠くで鳴っている何かの音。

 ――ラン……ジャラン。

 ああ、これは鈴の音だ。
 それは一定の間隔で鳴りながら、じわじわとあたしに近付いてきているようだった。
 気付いたと同時に、遥か彼方に小さな青白い灯りがポツポツとあるのが目に入る。
 ゆらゆらと揺れるそれは松明の炎のよう。しかし酸素を沢山吸って燃えるように真っ青な炎が、鈴の音をひっさげてこちらに来ようとしている。

 得体の知れない何かが、得体の知れない空間で、得体の知れない炎とともに向かってきている。

 それだけでもう全身に悪寒が走る。鳥肌がたち、あたしは腰抜けてその場にへたりこんでしまう。

 助けも呼べないような場所で、あの炎に取り囲まれたらどうなる? きっとあたしは死んでしまうんだ。逃げる? 逃げるったって、どこに?
 右も左まるでもわからないのに?

 ああ、ああ。もう駄目だ。
 足が竦む、全身ががくがくと震える。目の下に池のような涙が溜まり恐ろしく絶望的な気分に包まれる。
 神様、神様、ごめんなさい。
 もうしないから、全部持って帰るから許して。お賽銭入れます、神社のお掃除もします、だから助けて。
 助けて、助けて、お母さん助けて。お父さん、お爺ちゃん、お婆ちゃん、お兄ちゃん、助けて。もう我が儘言わないから、勉強ちゃんとするから、お家のお手伝いもするから、助けて。助けて誰か。だれでもいいからッ――、
「助けてぇッ!!!」

 あたしは叫んだ。沢山のことをたくさんの人に祈りながら、滅多にあげないような声で叫んだ。
 もう灯りも音もすぐそこまで来ている中、涙混じりの声で何度も何度も叫んだ。
 助けて、助けて、たすけて、たすけて、たすけて、たすけて!

 祈りが通じたのか、唐突にあたしの斜め前の空間が、小窓を開けるようにガラッと開いた。白い光が黒い空間に差し込む。

『手を!』

 開かれた僅かな空間から人の手が、少なくとも人の手に見えるものが差し込まれた。
 それは指先で手招きすると、再度声であたしを急かした。

『手を、どうか! 早く!』

 あたしは藁にもすがる勢いでその手を掴んだ。とても柔らかい手だった。
 誰かの手はそのままあたしの手をしっかりと握り返し、あたしの世界は再び景色を変えた。

 次の瞬間振り返ったあたしが見たのは、あたしを掴もうとして後ろから伸びる真っ黒いもの。それらは見えない硝子ガラスさえぎられるように、ある距離から先へはくることができないみたいで、しばらく悪あがきするようにうごめいていたけれど、やがて悔しそうに消えていった。

 あたしが正面にむきなおると、そこはいつもの神社の森の中。
 暗くないし、黒くもないし、木々の間から差す木漏れ日はまだ日が高いことを教えてくれている。

 ……もしかして、今までのは全部夢だったのかな?
 あまりにも普通の光景を前にあたしが呆然としていると、後ろから声がした。

「神様っていうのはねえ、必ずしも神聖なる存在じゃないんだ」

 振り返った先には、あたしよりは年上……中学生くらいだろうか。すらりと背が高くて細身の子供が立っていた。性別はわからない。ボーイッシュな女の子のようでもあれば、ごつくない男の子みたいにも見える。少なくともこの辺じゃ見ない顔だ。

 謎多きその人が被っていた帽子をおろすと、その内側に押し込んでいたと思われる長い長い髪の毛が現れる。
 ヘアカラーしたとしてこんなに綺麗に染まるのだろうか、若草のような緑色の髪は僅かな風を受けてふわりと揺れる。

「神様ってのは、必ずしも助けてくれる存在じゃないんだよ」
 彼ないし彼女は確かめるように口にすると、いいかい、と語り始めた。

「君は神と聞いて創造主ヤハウェ唯一神アッラーのような唯一無二の絶対的存在を想像していたのだろうけど、とんでもない。事この国に於いてはたっと天津神アマツカミや名のある国津神クニツカミだけが神に非ず。荒ぶる異形のモノ、怒り狂える怨霊・有象無象を封じ奉りしものもまた神なり。と。……そう、おまつり・・・・してしまえば何でも神になり得るんだよ、例えそれがどんなバケモノだったとしても。……はあ、まあ、そう云う理由で。かわいそうにね、可愛いきみばちでもあてられたほうがまだ幸せだったろうに」

 つらつらと芝居口上のように難しい事を喋るそいつの言っていることはまるで意味が分からない。
 その思いは顔に出ていたのだろうか、それは続けた。そして恐るべき事を言った。

「おめでとうと言うべきか、むしろご愁傷しゅうしょう様と言うべきか。君はここの神様に気に入られてしまったみたいだよ。もう少しで式をあげられてしまうところだった。そうしたら二度と現世には帰ってこれなかったろう」
「式……? 式って何の……」

 恐る恐るあたしが問えば、それはからからと笑う。

「何って、結婚式に決まっているじゃあないか。否、正確には夫婦のちぎりと云うべきだろうが、……小学生にはまだわからないかな?」

 その人の言う『チギリ』意味は、確かによくわからなかった。でも何かとんでもないことを言われたのは確かで、その上であたしにもわかる言葉はあった。
『ケッコン』? あたしが? それは一体何の冗談? まだ男子とまともに付き合ったこともないのに?
 そりゃあ、今まで一度もそのこと・・・・について考えたことなかったわけじゃあないけれど。そんなことはずっとずっと先のことだと思ってたし、さっきまで結婚させられる手前だったなんて聞かされても、どうしていいかわからなかった。
 全然まとまりつかない考えがぐるぐる回る中で、ふらりと眩暈めまいがあたしを襲う。
「そんな……冗談じゃな――」
「冗談じゃあない。だろうね。伝承を知り『その覚悟』を持って臨んだ昔の娘さんならまだしも、君はあんなもの・・・・・願い下げだろう? そうだろうと思ったからこそ引っ張り上げたのさ。――尤も、次また同じ事が起こったとしても、同じように連れ戻してあげられるとは限らないけど」
 さらりと怖いことを言われ、あたしは思わず社から後ずさる。

「でも、どうして……ありがたい神様の分社だってみんな言ってたのに……」
「あぁ、それはそれで祀られているよ。むしろ君を助けてくれたのはそっちのほうの神様だ、後で感謝しておきなよ。君を嫁にとろうとしたのはここに元々祀られてる神様だ。おっかない姿、見たろう?」

 あんなもの。その言葉にあたしはこくこくと首を縦に振った。確かに、みた。
 見えなかったけど、みえた。

 真っ黒よりさらに黒い、大きく長く、とぐろを巻いて赤い舌をチラチラと覗かせながら待っているそいつの存在を、確かに感じた。

 ――あれが、あんなものがここの神様だったの?
 確かに感じ取ったその姿を思い出し、あたしは思わず吐きそうになった。いや、もう咽元まで出かかっていたそれを無理矢理押し込んで堪えたと言った方が正しいかもしれない。
 喉の奥が焼けたようにヒリヒリする。不快感から涙が滲み出す。
 刹那、そんなあたしの背中に暖かいものが触れた。それがあの緑色の人の手の温もりだった。

「大丈夫かい。ともかく、君はもうここに来てはいけないよ。印を付けられてしまったからね。今はおれが抑えているから、今日はもうお家に帰りな。……そうそう、社殿の中のモノはもう諦めた方がいいね。持って帰れば家まで追ってくるかもしれない。それは、君だって嫌だろう?」

 あたしの背中をさすりながら、その人はゆっくりと優しい口調で言葉を紡いだ。それがなんだか学校の保険の先生か病院の看護婦さんみたいで、安心感からあたしはまた泣いてしまう。

 ――こんな情けないカッコ、学校のみんなに見られたら笑われちゃうよ。

 だけどその人はポロポロと涙を零すあたしを笑うことなく、よしよしと頭を撫でてくれた。とても、とっても優しい手だった。

「よしよし。ここのモノはおれが処分しておこう。何も心配することはない。君は気をつけて帰りなよ」
 安心させるようににこりと笑い、あたしの背中をそっと押すその人。けれど震える足はまだ動き出せそうにない。一刻も早くここから離れたいのに……!
 するとその人は少し困ったような顔を浮かべ、そっとあたしの手をとった。

「しかたない、一緒に帰ろう。君のおうちの前まで送ってあげるよ」

 しゃがみ込んで顔を覗き込む緑の瞳は、カラーコンタクトみたいな安っぽい色じゃなくて、磨き抜かれた宝石みたいに綺麗なみどり色をしていた。その瞳に、惹きこまれると同時に、なんとなく。なんとなくだけど。
 ……この人は、少なくとも普通の人間じゃないんだろうなあと。そう思った。
 思うと同時、あたしの唇は自ずと言葉を紡いでいた。
「ねえ、じゃあ……名前。名前教えてよ。……知らない人にはウチ教えちゃダメだって、先生が言ってた」
 知らない人云々は只の方便だ。ただ純粋に、その人の名前が知りたいと思った。
 突飛にも思えるあたしの発言を受けて、その人は何かおかしかったのかふふっと笑い。そして静かに、しかしはっきりとした声でこう答えた。

「ガッキ。ソウガクガッキだよ」

 言って、その人はニコリと微笑んだ。
 ――がっき。へんななまえだ。どんな字を書くんだろう。は音を鳴らす楽器とは違うんだろうか? なんて思っていると、今度はガッキの方から問われた。

「差し支えなかったら君もおれに名前を教えてくれないかな。いつまでも君じゃあやり辛いだろ」

 そっか、それもそうだね。
 あたしは納得し、この変な名前の、少なくともただの人間じゃない怪しい人に、けれど何の警戒もなく名前を教えてあげることにした。

遊嬉ゆき。あたしの名前。戮飢りくのうえ遊嬉」

「そっか、遊嬉ちゃんか。いい名前だ」
 ガッキは嬉しそうに言うと立ち上がった。

「さあ、お家へ帰ろう遊嬉ちゃん。怖いことみんな忘れてしまうように、帰りしなに面白い事でも話してあげよう」

 歌うように言葉を紬ぐガッキに手を牽かれ、振り返らずに引き返す神社の参道。
 帰り道で聞かされた、ガッキの見た面白いものや珍しいことの話はとってもワクワクさせられて、怖かった気持ちを少しの間だけ忘れることができた。

 そう、この時あたしは。
 初めて会ったけれど気の置けない間柄のような、少し変わった友人が一人増えた、と。確かに思っていたんだ。