怪事戯話
第十二怪・雪夜に行き世にこんこんと④

 ――乙瓜と魔鬼が廊下で盛大にスッ転んでから数分後。

「……じょ……ぶでござるか? 大丈夫でござるか?」
「…………っう……。ハッ、ここは誰、私は何処!?」
「何を寝ぼけた事を言ってるんでござるか、魔鬼殿!」
「えっ、えっえっ? ってたろさん? 久しぶりじゃんか」
「久しぶり、じゃないでござるよ……」  体を揺さぶられながら投げかけられる声に気が付いた魔鬼の目の前には、いつぞやの妖怪・トイレの太郎さんが居た。彼は、支離滅裂な返答をする魔鬼に額を抑えつつ、大きく溜息を吐いた。ちなみに、たろさんと言うのは「太郎さんていうのは普通すぎて逆に紛らわしい」という謎の理由により、先のマラソン大会の一件の後に遊嬉が考案した愛称である。
 魔鬼は何故彼がそんな様子なのか分からないまま起き上がるも、少し考えた後に自分がおかしなことを言ったのだと気付く。
(――いや、そんなことより。自分はどうして気を失っていたんだ?)
 疑問に思い、魔鬼はキョロキョロと辺りを見渡す。右手には膝立ちのたろさん、左手にはノビている乙瓜。場所は見慣れた一階廊下で昇降口の手前。今の視点から後方には職員室があり、前方の果てには相談室の角。そして、少なくともその前方の廊下は、見事なまでに凍り付いている。
「……そっか、そうだった。私乙瓜と一緒に滑って転んで、それで――」
「やっと思い出されたようでござりますな……」
 魔鬼の様子に、太郎さんはほっと胸を撫で下ろしたようだった。それとほぼ同時に、魔鬼の隣でずっと気を失っていた乙瓜がうーんと唸りつつ、のっそりと起き上った。
「うーん……バナナの皮、バナナの皮が……」
「乙瓜、私たちはバナナの皮で転んだんじゃないよ」
「ハッ!? ここは何処、私は誰!?」
「そのくだりもうやった」
「乙瓜殿は魔鬼殿と御一緒に廊下をスリップしたんでござるよ」
 太郎さんの言葉に乙瓜もまたはっとした表情になり、「そうだった」と一人納得した様子で呟いた。
(そっか、二人して滑って、そんで頭をぶつけて気を失ったのか……!)
 経緯を思い出した乙瓜は、拳をギリリと握りしめた。
「ちくしょう……元凶め、見てろよ、許さないからな……!」
 まだ見ぬ元凶に対する怨念をあらわにしながら立ち上がった直後、乙瓜の脳裏にふと疑問が浮かぶ。
「……ところでどうしてたろさんが居るんだ?」
 見下ろす視線の先には、未だ膝立ちを続けるトイレの太郎さん。突然名指しにされた彼は、自分を指差して両目をパチクリさせている。
「拙者でござるか?」
 確認するように呟く太郎さんに、魔鬼もまた「そういえば」と興味を示した。
「助けてくれたのは有難いけど、なんでたろさんが?」
「な、なんでとは失礼でござるな!? マジありえないでござるよ??」
 揃って首を傾げる二人組を見て、太郎さんは心外だとばかりに眉間にしわを寄せた。
「よいですか二人とも! 拙者の縄張りは男子トイレ、そして一階階段脇は男子トイレでござる! 大きな音が聞こえた故に心配して出てきたんでござるよっ? 少しは感謝してほしいでござる……全く」
 言って、彼はハムスターのように頬を膨らませた。決して狙ってやっているわけではないのだろうけれど、その様が何だか可笑しくて、二人は同時に噴き出してしまった。
 太郎さんは益々機嫌を悪くしたが、その姿がまた小動物然としていた為、二人は遂に堪えきれなくなり、口を押えながら廊下の床や柱をコンコンと叩きだした。
 ――何この可愛い生き物。二人の考えはピタリと一致していた。
「……な、何でござるかそのリアクションはっ!? お二方、今は遊んでいる場合ではありませんぞ! トイレの水まで凍ってしまって、お二方には早々に元凶をとっちめて貰わねば困るんでござるよ!!」
「わ、わかってるよ? わかってるしっ!」
「本当でござるか……?」
 目を泳がせつつ反論する魔鬼を、太郎さんは訝しげに見つめた。魔鬼は咳払いをして、もう一度「わかってる」と呟き、隣の乙瓜に同意を求めた。
「あ、あたっ、当たり前だろ……!? ……さぁて、俺らは行かなきゃならないから、なぁ? 魔鬼」
「お、おう。上階だな、今度は足元に気を付けてだな」
「…………本当に大丈夫でござろうか……」
 声を上擦らせてそそくさとその場を立ち去る二人を、太郎さんは釈然としない顔で見守った。
 そして、二人が階段の踊り場を曲がって見えなくなった時、彼はふと思い出した。

「そう言えば、二人に伝え忘れていたでござるな。遊嬉殿が先に行った事を……」



 危険なまでに滑りやすい階段を抜け、漸く二階に到達した二人を待ち構えていたのは、一階のような凍り付いた廊下ではなく。まるで外界と同じように白雪を被り、更に変わり果てた姿となった廊下だった。
「ひゃぁあ! 益々とんでもないことに……!」
 乙瓜が悲鳴のような声を挙げ、両腕をさする。一方の魔鬼は上履きで雪を踏みつけていた。
(この感触、音、雪嵩は数センチではあるけれど、この雪も一階の氷と同じく実体……。――あーあ、掃除とかどうすんだよこれ)
 魔鬼は一瞬面倒くさそうに顔を歪ませ、次に教室の方を確認した。
 まだ生徒が多数残る教室の廊下側の硝子窓には結晶状の霜が張り、固く閉ざされたまま氷結しているドアの向こう側からは、「寒い寒い」という生徒の呻きが聞こえてくる。
「これは本気でまずいぞ……」
 二階の一階をも上回る惨状を確認し、魔鬼はいよいよ危機感のようなものを覚え始める。かく思う自分の指先は既に真っ赤に染まり、モノに触れる感触はかなり曖昧になっている。彼女の傍らに立つ乙瓜もまた手を赤くし、先程から必死に吐息を吹き掛けているも、その吐息自体が殆ど真っ白なので、あまり意味はないだろう。
(なんてこった、さっさとしないと本当に凍死しちまう……)
 いよいよつい先刻まで美術室で交わしていた会話が冗談で済まされなくなってきたと感じ、魔鬼は震える手を一旦ポケットに引っ込め、そこからいつもの定規を取り出した。
 と、その時。

「まてぇぇい!」
「やーだよーー!」

 この深刻な状況に似合わない元気のいい声が廊下の彼方から響く。その数秒後、風を切る音と共に視界の隅から飛来する何かに、魔鬼は気付いた。気付いたはいいが、時既に遅し。
「へぶしっ!?」
 直後、衝撃。飛来した何かが勢いよく魔鬼の頭に衝突する。彼女は悲鳴とも奇声ともつかない珍妙な声を上げながら、頭部に刺すような冷たさを感じていた。
(何……これは……? 雪……? 雪玉……!?)
「おい魔鬼!? 大丈夫か!!?」
 よろけた魔鬼を乙瓜が支える。その瞬間、二人の目の前を二つの大きな影がドタドタと横切って行った。
「だっ、大丈夫、びっくりしただけ、平気。だけど今のは一体……!?」
 魔鬼は雪玉と思しき何かのぶつかった箇所を擦りながら、二つの影の消えた方に視線を移した。そこで目にしたのは、驚くべき光景だった。

「……へ? なんだありゃ?!」
 それを認識した瞬間、魔鬼は驚嘆の声を上げた。

 魔鬼の見たもの。それ雪積もる廊下をキャッキャとはしゃぎながら駆ける子供と、雪玉を大量に抱え持ちながらそれを追う遊嬉の姿だった。
 子供は、見たところ魔鬼たちよりずっと幼い容姿の女の子だった。北中の制服またはそれに類する服装は一切身に着けておらず、この異常な寒さの中、半纏はんてんを一枚羽織っただけの軽装で居る。
 彼女を追う遊嬉は、その手に持った雪玉で容赦なく攻撃を仕掛けるものの、少女ときたら風のように身軽で、遊嬉の連撃をいとも簡単そうに躱しているのだった。
 魔鬼達が、遊嬉に追われている彼女こそが異常寒波と大雪の原因だと察するのに、さほど時間はかからなかった。が、それならどうして、魔に属する者を一太刀で殲滅できる力を持つ"崩魔刀"を有する遊嬉が、こんなふざけた事をしているのか。その理由が分からなかった。
 訳が分からず呆然としている二人に気付いた遊嬉が、走りながら呼びかける。

「あんさーー、見てる暇あるんだったら二人も手伝ってよーーーー! 雪玉つくって早くーーーー!」
「はぁ!? ちょ、ちょっと待てよ遊嬉! 何でそんな面倒なことする必要が――」
「いいからーーー!」
 乙瓜の反論を全く無視し、「兎に角早く」と言いながら走り去って行く遊嬉。乙瓜と魔鬼は困ったように顔を見合わせた。
「……どうするよ?」
 乙瓜が言う。
「どうするもこうするも……。遊嬉の奴全く何考えてるんだ」
 魔鬼は溜息を吐きながら肩を竦めた。その目の前を、数発の雪玉が通過する。
「楽しそうだな……」
 ぽつりと呟いたのは乙瓜だった。確かに、とんでもない非常事態にも関わらず、恐らく元凶と思しき少女とそれを追う遊嬉の姿は、傍目にはとても楽しそうであり、それについては魔鬼も同意せざるを得ない。
「とりあえず乙瓜。何であいつらああなってるのか、さっぱりわからないけど――」
「案ずるより産むが易し、てか。まあ一丁やってみようぜ」
 互いに頷きあい、彼女らは同時に足元の雪を掬った。

「おっしゃぁ!! 私らも混ぜろおぉぉぉっ!!」

 そして雪玉を固めながら、不思議な追いかけっこに加わったのである。

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