怪事戯話
第七怪・影の来訪者④

 気が付いたとき、乙瓜が見た景色は学校のそれではなかった。
 白一色の空とかすかな波の音。視界の隅に見える大きな朱色には、なんとなく見覚えがあった。

「デジャヴ……」
 呆れかえったように呟く乙瓜は、その時もう一方の視界の隅に覗く奇妙なものに気付いた。
「気が付いたかの」
 言いながらひょいっと覗き込むそれは、一応は人の形、ごく幼い子供のような姿をしていたが、体毛は真っ白で頭に山羊か羊のような角を生やし、横型に広がる瞳孔は明らかに人間のそれではなかった。
 話しかけてきたのだから人語は解せるのであろう、その奇妙な生き物は、「しっかりしろ」等と言って乙瓜の腕を握っている。その握る感覚も、乙瓜の神経おかしくなっていなければ明らかに人間のものではない。
 堅いが、鉄や石のような無機質な感じではなく……例えるなら、そう、まるで馬のひづめのような感覚に、乙瓜は思った。
 何故か化け物に心配されている、と。

 思ったと同時、それは眉をひそめて口を尖らせた。
「今無礼なことを考えたじゃろ」
「……なぜわかる」
「わかるとも、わしは神じゃからの」
「そうなんだすごい」
「その反応……あまり凄いとは思っておらんの」
 白い神はやれやれと肩をすくめた。
「儂は薄雪媛神うすゆきひめのかみ。まあ山の神様じゃ。神逆神社に祀られておる。気軽に雪ちゃんとでも呼ぶがよい。よろしくの」
 神は得意気に名乗りを上げた。
「いや……雪ちゃんはちょっと勘弁」
「――ああ、なるほど既にったか。ならば薄雪様とでも――いや。もう好きなように呼ぶとよい。どうせ現世うつしよの呼び名などに大した意味はないのじゃから。……さて、行くぞ」
 記憶を読んだのか、渋る理由を即座に把握した薄雪神はすっくと立ち上がると乙瓜に背を向け、てくてくと歩き出した。白いふわふわした毛に覆われて蹄のついたその足は、どうみても四足の大型草食動物のそれだ。

 薄雪神は数歩進んだところで乙瓜を振り返り、「なんじゃ、お主も早く来やれ」と呼ぶ。
 動き出すまで待っている様子なので、乙瓜は渋々起き上がる。
 高くなった視界で見渡したそこは、疑うまでも無くいつしかの妖界だった。東に広がる無限の妖海、そびえ立つ朱の大鳥居。視える角度や大きさ的に若干位置は違うようだが、以前火遠に連れられてやってきた海岸の近くに違いなかった。

(そういえば、あのとき火遠あいつは神域だとか神社だとか言ってたな。……じゃああの神様(?)はここの主なのか)
 霧の空間と角を生やした白い神。
 妙に納得し、乙瓜は薄雪の後に続いた。
 白砂の砂浜に足跡を付けて、一柱と一人は浜の向こうにある大社おおやしろに向かった。



 現世では、雨が降っていた。
 破裂しそうな曇り空は遂に決壊し、大粒の雨が灰色の空から降り注ぐ。外で活動していた運動部が雨の打ちつけるグラウンドを走り、昇降口まで退避していく様子が美術室からよく見える。
「最後に稲光でも落とそうってのかねェ」
 窓から外の様子を覗く遊嬉が呟く。ジグザグと虚空を切り裂く稲妻は見えないものの、時折不気味に輝く暗色の雲はゴロゴロと唸り声をあげ、大地を僅かに震わせている。
「夏の最後のあがきっていうかなんというか。まーいいじゃん、雷って綺麗だし」
 窓際に肘をついて天を仰ぐ杏虎。その隣には眞虚が椅子を出してちょこんと座っている。怖がりの知りたがりは、雷も嫌いではないようだ。
「ねえ落ちない? 雷落ちない?」
「だぁーいじょうぶですから、雷落ちないし死にませんから」
 一方の深世は、過剰に怯える二年の仮名垣かながきを落ちつけながら、自身は平気な様子を見せている。幽霊や妖怪などの超常的な現象と違い、科学的に解明されている雷については割と平気なようだった。

 そして、怯える者、楽しむ者、気にしない者。それぞれの反応を見ながら愉快そうに言葉を回す者が二人、否、二匹。
「同じものをみてここまで反応が違うなんて、全く人間は面白いったらありゃしないね」
「まったく」
 三年の脱退で誰も使わなくなった机の上に寝そべって陣取り、妖怪・草萼火遠はケラケラと笑う。その弟にして賛同者である水祢は、火遠と同じ机の端にちょこんと座り、こくこくと頷いている。
 すっかり溶け込んでしまい、当たり前のように居座る人外。その姿は美術室の外からは認識されないらしく、この頃は以前より堂々と居座ることが多くなった彼等は、暇を持て余して人間観察をしていた。

 爆音とともに、窓の外で大きな光が弾ける。
 ついに本格的に鳴りだした雷に、仮名垣は耳を塞ぐ。窓辺の杏虎はうっとりとする。遊嬉は遊嬉で雷にまつわる怪異の話を語りだそうとしている。
 そんな時、ガラガラと引き戸が開き、美術室に人が入ってくる。

「こんにちはー。遅くなりました」
 彼女は二年生陣にぺこりと頭を下げると荷物を置き、こなれた手つきで棚からスケッチブックを引っ張り出す。
 そしてつかつかと三人の一年がたむろする窓際にやってくる彼女に、遊嬉は気さくに声をかける。
「遅かったじゃん。どしたん、体調不良?」
「ちょっとそんなかんじ。もう大丈夫」
 彼女はそっけなく返事すると、一番窓側の机に着いてスケッチブックを広げる。

「今日は雷観察?」
「まーねーぃ」
「そっか。まあほどほどに」
 振り返りもしないで答える杏虎の後ろで、彼女はスケッチブックを捲り、白紙のページでようやく手を止める。
 そして鞄から取り出していたペンケースから一本の鉛筆を取り出すと、そそくさと何か描きだした。
「珍しいね、今日は真面目にお絵かき?」
 眞虚がほんの少し振り返って問うと、彼女は「たまにはね」と言ってにこっと笑った。
 眞虚は「そっか」と呟き、彼女の言動を別段疑問にも思わずに窓に向き直った。遊嬉は遊嬉で、先程しようと思っていた話を一人で勝手にペラペラ語りだしている。深世は先輩のお相手に精一杯だ。

 時折、ごく近い場所に雷が落ちたような物凄い轟音が聞こえるようになる。その度室内灯が一瞬消えかかり、部屋の中に濃い影ができる。次の瞬間には電気が復活しているので、ほんの一瞬の出来事だ。
 その一瞬、窓からの雷光に映し出される影は、一人分ほど少なかった。

 だが、だれも気付いていない。窓近くの席に座る彼女の分の影が、映らないことを。

 そう。彼女は乙瓜ではない。だが乙瓜に扮した彼女の存在を訝しむ者は、誰一人として存在しない。少なくとも人間側には。


「……なにあれ」
 水祢が眉間にしわを寄せてそいつを睨む。
「誰が来たのかと思ったら、烏貝乙瓜でも魔法使いでもないじゃないか」
 ただでさえ小さい声は雷の音に紛れ、きっと人間サイドには聞こえていない。だが火遠には聞こえている。
の印のある者じゃあないね。そしてあれは――、本来失われるべきものか。どこで力をつけたのか、乙瓜の気配が薄いところを見ると妖界送りにされちまったか」
 火遠はだるそうに身を起こした。
「火遠。どこへ」
「多分山神の所さ。何の考えも無しに送ったなら、あそこに落ちやすい・・・・・
「……あんな馬鹿女ほっとけばいいじゃないか。山神と接触していたならひとりでに戻ってくるよ」
 水祢は不機嫌そうに頬を膨らませ、火遠の袖を掴んだ。引き留めようとしているらしい。
 しかし火遠は水祢の手をやんわりと引き離す。
「そうはいかないさ、一応契約を結んだ手前放置は責任放棄にあたる。なぁにほんの少しのことさ。ひとっ走り行ってくるよ」
「でも火遠、あいつはそれまでどうしたら」
 さも当たり前と言った風に座っている乙瓜もどきをそっと指さし、水祢は言う。
「なァに、雷雲が遠ざかる頃には放っておいても化けの皮が剥がれているさ」
 火遠はにやりとすると、ふわりと浮かび、机に向かってダイブした。木製の机はプールの水になったように波打ち、ざぷんと火遠を飲み込む。そして一つ二つ波紋を起こすと、元の硬質な板に戻った。
「兄さん……」
 水祢は火遠の消えた机を複雑な顔で一撫でした。

 ガタガタガッシャン!
 そこでタイミングよく美術室の扉が開く。
 建付けが悪く何回かに一度は非常に開きにくいことのある扉は、今がちょうどその『何回かに一度』なのだろう、大きな音を立てたため、部員たちの注目が一斉に集まる。
 大注目の中美術室に入ってきた黒梅魔鬼は、もうヘトヘトと言った様子で挨拶と詫びを言うと、荷物を置いて大きなため息を吐いた。
「どったん?」
 遊嬉が声をかけると、魔鬼はやけくそぎみに言い放つ。
「……委員会での責任の押し付け合いに辟易へきえきした!」
 余程納得いかないことがあったのか、未だ腸が煮えたぎっていそうな調子で言い捨てる魔鬼に、遊嬉は曖昧な相槌しか返せない。
「まあまあ早くこっち来て座んな」
 促されるままに窓際向かう途中でもぶつぶつと不平不満の独り言を言っていた魔鬼は、しかし最窓側の机の前でピタリと呟きを止め、立ち止まる。
 遊嬉、杏虎、眞虚の不思議そうな視線が集まる。
 しかし魔鬼は逆に「お前らがどうした」というような視線を返して、一言。

「待って。ここに居る知らないお嬢さんはどちら様で……?」

 雷鳴。そして沈黙。

「誰って、乙瓜ちゃんでしょ?」
 眞虚が言う。しかし魔鬼は訳が分からないという顔で同じ主張を繰り返す。
「いや、え、でも、この人乙瓜じゃないじゃん。知らない人じゃん……!?」
「えぇ……?」

 その時になって初めて、遊嬉、杏虎、眞虚の三人は、乙瓜のポジションに堂々と座っている彼女の姿をまじまじと見た。
「どう見ても乙瓜じゃん……」
 遊嬉は首を捻るばかり。眞虚も同じ様子な様だ。
「何言ってんだ、俺が乙瓜じゃなかったら誰だってんだよ」
 乙瓜面して座るそいつは、乙瓜のような、しかしやや焦った口調で弁明する。しかし魔鬼が向ける疑惑の視線は変わらない。

 魔鬼は、気付いていた。というより、見えていたというほうが正しい。それは彼女が魔法使い故か、他の人間たちには烏貝乙瓜そのものに見えているそれが、彼女の目には違って見えた。
「顔は乙瓜と変わらないように見えるけど。少なくとも私の目には、白黒服の変な女にしか見えないんだけど」
 そのまま慣熟した動作で胸ポケットから十五センチ定規を取り出し、目の前の少女の鼻先に付きだした。

「正体見せな、化け物。本物の乙瓜をどこへやった」

 魔鬼が切った啖呵の直後。
 乙瓜の姿をしたそれは、腹の底から込み上げて堪え切れないような笑いをくつくつと漏らすと。大きな声で笑いはじめた。
 その声に室内の全員が振り向き、その異様さに驚愕する。
 狂ったような笑い声に、パチパチと手を叩く音が混じる。それは水祢の拍手だった。
「褒めてやろう魔法使い。お前は非常によくやった。今回は『たいへんよくできました』の評価をあげよう」
 水祢は言っていることとは裏腹に偉く無感動な口ぶりで手を叩くと欠伸を一つし、高笑いを続ける偽乙瓜をキッと睨んだ。
「苦し紛れの笑いを止めな糞女。……お前みたいなあばずれ豚のせいで私の兄さんが行ってしまったじゃない。どうしてくれるの。ねえどうしてくれるの」
 イライラした様子で舌打ちする水祢。言いがかりもいいところの私怨をぶつけられて、それは狂い笑いを止めた。
 そしてにやりと口角を上げると、くるりとその場で一回転する。
 ロングスカートの布がパーティドレスみたいにふわりと舞う。

 回転が終わるとき、それを乙瓜だと認識する者は一人もいなかった。

 黒い上着とスカート、履物は学生が学校に履いてくるものとは異なるパンプス。靴下にもスカートにもフリルがついていて、何故か言動が雄々しい乙瓜のイメージとは正反対だ。どこから現れたのか、手にはピンクの日傘を持っている。

「あなたは誰、誰なの……ッ!?」
「キィィィイイ! なんでじゃ! 何でまたトンデモなことが起きとるんじゃ!」
 眞虚の叫びに被さるようにして、頭を抱える深世の悲鳴が響き渡る。
 黒い少女は顔の前で人差し指を立て「静かに」のジェスチャーを示すと、机の上に飛び移り堂々と言い放つ。

「私は七瓜。烏貝七瓜。本物の・・・だなんて笑っちゃうわ。私が本物。本物の烏貝・・・・・。元々私が光であの子が影、私が真であの子が偽! 有るべきところに有るべき様に、私は戻ってきたのよ」
 美術室全体に明瞭はっきりと響き渡るような声は、乙瓜のものとそっくりだが、やや高く通る声だった。

 白薙杏虎がハッとした様子で呟く。
「烏……貝…………七瓜?」
 何か記憶の底に引っかかるものを感じているように名前を反芻する杏虎を見て、七瓜はにこりと微笑んだ。
「そう。私こそが本物。わかるでしょ、杏虎ちゃん」
 嬉しそうに言って、七瓜は室内だというのに傘をバッと広げた。開けた傘の内側から薔薇のような芳香が拡がる。部屋置きのフレグランスのような仄かで優しい香りとは違う、むせ返る程強く暴力的な香りの波に包まれて、美術部員たちは脳髄からとろけていくような感覚と強烈な眠気に襲われた。

(――なに、これ……力がはいらな……)
 悲鳴の一つも上げる暇なく倒れていく部員たちの中、最後まで堪えていた魔鬼も力が抜けて膝から崩れ落ちる。
「死にはしないわ。大丈夫よ。あなたも眠りなさい」
「だ……ッれが……こんなもんで……!」
「強情ね。それとも魔力が防御しているのかしら」
 七瓜は机の上でしゃがむと、何とか気を保つ魔鬼の額に指を付けた。

眠れ眠れねむり姫スリーピング・フォレスト。――良い夢を」
 七瓜の指先が薔薇色に光ると同時、魔鬼の意識は完全に落ちた。

「流石にあの人の代替候補だけあってしぶとかったわね」
 やれやれと呟き立ち上がった七瓜は、静かになった美術室をぐるりと見渡す。
「……あの青い子は……逃げたわね。まあいいわ。妖怪は別にいなくてもいいもの」
 水祢がどこにも転がっていない事を確認すると、七瓜は教壇の上にぴょんと飛び移る。そして、お姫様のようにスカートの端を掴んで一礼した。

「それじゃあ始めましょうか! 私の私による私のための奪還式を!」

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